Pro.『故郷へと帰る道で』
太陽が西の山にその姿を隠し、世界が全て赤く染まる僅かな時、一人の男が伸びる影法師を連れ去いながら歩いていた。
若さが漸く抜け、これから徐々に鋭くなっていく事を思わせる顔付きの男だが、どうにも浮かない表情。足取りも重く、何処か草臥れた印象を受ける。
歩いているのは鬱蒼と生い茂る緑で覆われた森の中。申し訳程度に舗装された道は、人々の往来の跡で硬く踏みしめられ、しかし今その道を歩くのは男だけ。
その道が通じる先は、数年振りに帰る故郷だ。
男は冒険者だ。いや、だった、が正しい。幼い頃に旅人から聞かされた冒険談に夢を膨らませ、手足が伸び切って大きくなるとその夢を叶える為に、十年以上暮らしていた村を飛び出したのだ。
それを止める者は居なかった、何故なら男は孤児だったからだ。父親の顔は知らない。育ててくれた母は男が十歳を迎える前に病気が元で亡くなり、それからは村の大人達が面倒を見ていてくれていた。
決して邪険にされていた訳ではない。隣に住んでいた、歳の離れた幼馴染がいる夫婦は世話好きで、早くに両親を亡くした男に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた。村に住む他の大人達も、決して彼を憐れまず、一人の人間として扱っていてくれた。
しかし男はいつも自分が周りに迷惑を掛けているのではないかと思っていた。村を出たのもその為だ。食に困る程、貧困に喘ぐ村では無かったが、食い扶持一つも稼げない自分には過ぎた場所だと思っていた。
そんな思惑と夢に後押しされてある時、村に訪れていた行商人に秘密で頼み込み、朝早く誰も起きてくる事の無い時間に村を去ったのだ。見送る人など勿論居ない。馬鹿な事だと止めてくれる家族ももう居ないのだ。
そんな旅立ちの日から、色々な事があった。楽しい事や嬉しい事もあれば、辛く苦しい事も。いや、楽しかったからこそそれが辛く思う事もある。しかしそれももう取り返しの付かない事だ。
何故なら男は、もう冒険者では無いのだから。
ふと喉の渇きを覚えた。水筒は常備しているが、残りは少ない。このまま故郷まで我慢して進む事が一瞬頭を過るが、何が起こるか分からないのが冒険というものだ。備えておくに越した事はない。
何か、水代わりになるような果実など生えてないかと辺りを見渡して、そういえばこの辺りに川が流れていたな、というのをふと思い出す。遠い子供の時の記憶だ、思い出すと途端に懐かしさが香る。
見上げなくても目に付く、遥か高く天まで届くのでは無いかと思わせる山。神々が住まうと噂されたその山から、溜め込まれた豊富な水源がいくつかの川となり流れている。
あの山の名はなんだったか、と思いを巡らせて、いやいやそんな事よりも、と歩いてきた道から外れて木々の間へと足を運ばせる。
冒険者として覚えた中の一つに、前方に明かりを灯す魔法というものがある。派手さは無いが松明のように歩いている時に片手が塞がらないのが良い。
辺りが完全に暗くなってからそう短くない時間、照らした明かりの魔法に連れられるように歩いて、男はすぐに川を見付けた。大人の身長を優に超える程の川幅は淀みなく、所々深みはあるものの男が溺れて死ぬような深さでもない。
昔はこういう川で溺れてしまいそうな事もあったような。そんな昔の記憶が取り留めなく溢れてくるのは、自分が故郷に近付いているからなのか。
首を振って考えを追い出すと、その透き通った透明の水で顔を洗い、口を濯ぎ、それから冷たい雪解け水を口に含んで嚥下する。何処となく、甘い気がする。あまりの美味さに身体に蓄積された疲労が感嘆の息と共に外に出てしまうように感じた。
真夜中の行軍には慣れてはいるが、慌てる旅でもない。今夜はこの川辺で一晩過ごし、明日の朝にまた動き始めるのも良いだろう。
それは数年振りに帰る事への気まずさも後押ししたかもしれない。勝手に居なくなって数年、また勝手に戻ってきた自分を、村の人は受け入れてくれるか。こんな今の自分を。
溜め息が出そうになるのを雪解け水と共に飲み込む。今日はもうここで寝てしまおう。そうと決まれば、とまた森へ引き返す。手頃な落ち枝を拾っては半分に折り、乾いた木を集めて組み、焚き火にする。火を付けるのは勿論魔法でだ。魔法を使えるとこういうところで何かと重宝する。
適当な石を見繕っては並べて平らな面を作り出し、他に外套を掛けて簡易的な寝床にする。これで準備は万端だ。
見上げると、空には満天の星。遮るものは一つも無い。とある冒険者の仲間が、星にも一つ一つ名前が付いている、と言って教えてくれたのを思い出す。星の名前はもう朧げではっきりと思い出せないが、知らずともこの星の美しさは何一つ変わらない。それで良いと思った、その記憶さえあれば。
ふと視界の端で、夜空の星が一つ動いたような気がした。慌てて見遣るが、落ちる速度は瞬き一つ、捉える事は出来ない。丁度そのまま目線を下ろした先に川が見え、夜空と水面の合わせ鏡はさぞかし綺麗なのではと思い立ち、焚き火から離れてゆっくりと近付く。
すぐに気が付いた。川辺に何かが、浮かんでる。たまたま流木が岩に引っかかって出来た、ちょっとした溜まりに浮かんでいたそれはなんと卵であった。それも二つも。
大きさは人の頭くらいあり、これで卵焼きでも作ったらどうなるだろうか、とちょっとした期待を持って、男は二つの卵を川辺から拾い上げる。
男の腕の中で卵が、とくん、とくん、と動いた気がした。
流石に食べる事は出来ないだろう。男は少し残念に思ったが、この卵達がどうして川に流されていたのか、そして一体何の卵なのか気になった。
焚き火の近くの外套で出来た簡易ベッドの所に腰を掛け、乾いた布で軽く拭いてやる。どの位で羽化するのかは分からないが、寒くしない方が良いのだろう。
男は石を積んで背もたれを作り、そこに背中を預けて胡座をかき、卵二つを潰さないように足の上に乗せて抱き締めた。焚き火からは程良く離れており、暑過ぎるということも無いだろう。
はてさて、小鬼が出るか、小王蛇が出るか。
男は存外に硬い卵の殻に少しの安堵を覚えつつ、時々近くに置いておいた小枝を焚き火に放り込む。生木の爆ぜる音、木の燃える香り、川のせせらぎ、苔生しった匂い、瞬く星々とそびえ立つ神々の住む山。
圧倒的な自然の揺りかごに包まれて、気付けば男は微睡んでしまう。
ああ、寒くないように。
意識が落ち掛けた頭で、もう一度ぎゅっと卵を引き寄せる。そのまま、男の意識は夢の中に落ちた。
焚き火が消え、仄かに煙が燻る。何処かで鳥の声が聞こえる。ああ、なんだか昔よく聞いた気がする、とふと覚醒した意識で取り留めのない事を思う。そうだ、帰る為にここまできたのだ。それで喉が渇き、川に行き、と昨日の行動を思い返して、卵はどうなった、と寝ぼけ眼を開ける。
男の目に飛び込んできたのはーー