逆立ち譚
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
とうとう、組体操まで来ちゃったわね。実際にやる側だった時はえらく緊張したものだけど、こうして見る側に回ったら回ったで、はらはらしちゃうわね。
あなた、組体操は土台係だった? それとものぼる係だった? あれって崩れるタイミングとかもしっかり合っていないと、ケガする危険があるのよね。
私は組体操が好きじゃなかった。自分がどうしても苦手にしている技が存在したから。おかげでおかしな目に遭うことになったし。
まだ体操が始まるまで時間があるでしょ? その時の私の話を聞いてみない?
私が苦手とするもの。それは倒立。逆立ちよ、逆立ち。
本番では誰かに足を支えてもらうことができるけど、練習の時はひとりでできるように指示され、壁倒立をしていたわ。
私の最大のネックは、逆立ちした時の視点を安定できないこと。
一番初めにやった時、前転と同じ要領で手をついた私は、そのままころりん……だったら、まだいい。
中途半端に曲がった背骨が、もろに壁へ激突。しばらく痛みにもだえちゃったわ。
しかも他のちゃんとできている連中に笑われて、めちゃくちゃ悔しい。練習しまくったけれど、ヒョイ、クルッ、ゴチンのローテーションから、なかなか抜け出せない。
自称、組体操が得意なお母さんいわく、勢いをつけすぎたり、前転する時のように頭を入れすぎたりしないようにして、手と手の間を見ろとのこと。
料理の最中に尋ねたから、お母さんは私に背を向けたまま、鍋のお世話をしている。
その脇には、時間を測る砂時計。友達からのプレゼントで、ずっと使い続けているとのことだった。
いうことは分かる。でも私は、なかなか次のステップへ進めなかった。
先生が、私の補助につくことを申し出てくれたけど、断ったわ。
承諾すれば、もう壁を相手に痛い思いをしなくて済むでしょう。だけど、自分の力でできないことを他人の前で認めるのは、私にとって我慢ならないことだったから。
体育館の壁にひびが入るんじゃないかと思うくらい、私は背中を何度も打ちつけた。
先生のアドバイスは理解している。私自身についた、頭を下にすると、ぐるりと回転してしまう癖。これを直さなくてはいけなかった。
倒立以外の練習もする必要があり、時間はさほど取れない。その間、先生との二人三脚で進めたけど、ふと思いついたことがあったの。
――いつも背中がつくように壁倒立の練習をしている。でも逆に、お腹を壁に見せるようにして、練習したらどうかしら?
昔、逆上がりの練習のために、補助板を使ったことがあった。あれと同じようなものをこしらえられないか、と考えたのね。
先生にも提案してみて、私は壁の近くにマットを敷き、その上に手をつく。足で壁を登っていき、高さが増していくのに合わせて、手を壁側へと近づけていく。勢いをつけていないから、頭を丸め込んでしまう癖を、心配しなくていい。
「邪道だ」と、他愛なく逆立ちできる一部のクラスメートがほざいたけど、知ったことじゃなかった。
勝手にできるあんたたちに、背中を壁にぶつけ続けた、私の辛さが分かるもんか。みんなと同じスタイルで練習しなきゃいけないと、誰が決めたのよ。
本来の倒立姿勢に近づくにつれて、怒った時のように顔全体が熱くなってくる。ちょっと力を込めたら、鼻から血が出てしまいそうな気さえする、パンパンの詰まり具合だ。
いよいよ、実際の倒立とほぼ同じ姿勢になり、この感覚を掴もうと動きを止めたところで。
私はお腹を撫でられた。くぎのように細いもので、逆立ちしている私のお腹から胸のあたりにかけて、「つうぅ」っと音が出そうなくらい、はっきりと。
みんながする壁倒立と違い、今の私は、お腹を壁に向かってしか晒していない。当然、誰かが入り込むことなんて、許していなかった。
また「つうぅ」っとくる。先ほどのラインからわずかに外れたけれど、またお腹から胸にかけて。痛いというよりくすぐったかった。私の体重を引き受けている両腕が、ぷるぷると震える。
私は大のくすぐったがり屋。以前、後ろからわきをくすぐられた時には、反射的に暴れて、相手にひじ鉄をかましてしまったくらい。
だから、今回のこの仕打ちはほとんど拷問。もう一度やられたら耐えられないと思った。かといって、頭を丸め込んで相手を見ようとしたら、今までと同じ結果になってしまう。
相手は待ってくれない。三度、私の身体はなぞられる。またラインがずらされたけど、今回のくすぐったさは前二回の比じゃない。完全に私の弱い箇所を通っていく。
限界だった。私は半ば笑い声をあげながら、崩れ落ちてしまう。
もろに頭から落ちたせいで、すぐに先生たちが駆け寄ってくる気配がしたけど、その間に私は一瞬だけ、相手を見た。
床と同じ、フローリング加工をしてあった壁。その先ほどまで私のへそが見えていた辺りに、長い釘らしきものが生えていたわ。ひとりでに先っちょが上下に動いていたそれは、しゅっと壁の中へ引っ込んでしまう。穴や傷の類を、一切残さずにね。
私はこのことを、家に帰って真っ先にお母さんへ話した。クラスのみんなに話しても、「邪道」を使いながら倒立できなかった、言い訳に取られかねない。
お母さんは肉じゃが鍋のお世話中。相変わらず私に対して背中を向けながら、相づちを打っている。
ちょうど砂時計の砂が落ち終わり、お母さんは煮込んでいた肉じゃがの具を、一度混ぜ合わせ出す。
お母さんは茶化したりせずに聞いてくれたけど、対策については分からずじまい。壁に近づかないようにするくらいしか、思いつかなかった。
あのなぞられたところ。体育の後にそっと服をめくって確かめたけど、細くて赤い線が三つ、うっすらと残っていた。服にも何ヶ所か紅が差していたところを見ると、血も出ていたのだと思う。
もしも今までのように背中を壁に向けた倒立をして、いつものように転がって壁にぶつかっていたらと思うと、ぞっとする。
お風呂でいつもより入念に、こすられた跡を洗った私は、早めにベッドの中へ潜り込んだ。
目を閉じても、なかなか眠ることができない私。寝返りを打っていたけれど、次第に顔がどんどん熱くなってくる。
動きすぎたせいとは思えない。じっと止まっても、ひとりでに熱が内側から湧いてくるの。身体全体もぼーっとし始めて、なんだかしびれた感覚が広がってきたの。たまらず、私はまなこを開いたわ。
そこは私の部屋じゃなかった。かといって、見慣れない場所でもなかった。
真夜中の体育館。そこで私は、逆さづりになっていたの。
私の頭の下、わずか数センチのところに床がある。先ほどまで自由に動かすことができていたはずの手は、腰の後ろに回されて動かせない。口にも、さるぐつわらしきものをかまされて、声が出せなかった。
足も固められている。しかも、関節が外れるかと思うくらい、大股開き。屈辱だった。
私の身体は、体育館の中央へ向いていたみたい。
ひっくりかえった視界の先には、盛んに湯気を吐き出す、大きな鍋が置かれていた。心なしか、鶏ガラの匂いが漂っている。ぐらぐらと煮だっている音がするのに、その底をあぶっているはずの火元は全然見えない。
その鍋の前で、じっとたたずむ「つらら」のような細長い影があった。さかさまに伸びているせいで、私とどれくらい身長差があるのか分からない。
その影が振り返る気配。左右へかすかにふらつきながら、こちらへ近づいてきた。
私は必死に身をよじり、逃げようとする
煮立った鍋。鶏ガラのスープ。そばに控える者。そして、吊るされた私。これから何が起こるかなんて、簡単に予想できたから。
暴れようとして、それが全然かなわない私の目の前で、歩みを止めた影。
その身体から分かれた、二本の細く新しい影が私に伸びてくる。それは昼間に見たあの釘らしきものと同じく、先っぽをうねらせていた。
それが私の両耳に触れたとたん、チクリと痛みが走る。
細い影はすぐに離れたけど、ほどなく私の頭近くで、「ポタ、ポタ」としずくの垂れる音が。上目遣いで見ると二ヶ所、どんどん水が垂らされて大きくなる溜まりがある。そして、私の耳たぶあたりから、じんじんと痛みが広がっていくの。
聞いたことがある。昔、逆さ吊りの拷問に処す時、血が頭の方に溜まって死んでしまうのを防ぐため、耳やこめかみの一部を傷つけて血を流させる、と。
――このままじゃ、死ぬまで吊るされちゃう!
私は拘束に対し、むなしい抵抗を続ける。首をいやいやと横に振ろうとして、また目の前の影から伸び始めるものをみて、動きを止めざるを得なかったわ。
私が固まると、影も固まる。ただ一定の間隔で「ぴちょん……ぴちょん」と、温かいものが耳から垂れ続ける音が響き続けていた。
急がず、けれど止まることない音。聞いているうちに、私の頭はそれを不快に思って、少しずつ考えることをやめていく。喉の奥、鼻の奥につんとした刺激が上り始めているのも、感じていた。
影は相変わらず、私の目の前でじっとしている。
――もう、好きにしなさいよ。
私は半ばやけっぱちに、まぶたを閉じて待ち受けたわ。
次に目を開いた時、私は自分の部屋で朝を迎えていた。
身体は動く。口も聞ける。けれど手で耳に触れてみると、耳たぶにかさぶたができている。枕にも耳たぶがあった部分に、少し血の斑点がついていたの。
その日の学校。私は体育の時間、準備体操前に、逆さ吊りされた辺りをうろついてみる
想像していたような血痕は見当たらなかったけど、やけに上履きのすべりが良かったのを覚えているわ。誰かが念を入れて、拭ったんでしょうね。
家から帰った私が一連のことをお母さんに話すと、「あなた、時計にされたかも知れないね」と言われたの。
私はあの鍋で料理される具じゃなかった。その煮込み具合を測るための時計だったんだ。
お母さんが逆さにした砂時計を料理に使うように、あの影は逆さにした私の「血時計」を料理に使ったんでしょうね。