これが、僕の知る「過去」である。そのはずだった。
僕は、二人に語った。
言いにくい事だが――この夏休みの終わりに、吉野は事故で死んでしまう。それから暫くの事は、記憶が曖昧だ。それくらい、酷い状態だったんだと思う。断片的な記憶はあるけど、多分秋口には学校にも行っていなかったんじゃないだろうか。
他ならぬこの場所、僕の記憶ではがらんどうになったこの部屋と、吉野の最後の顔が、頭から離れなくて。
それを現実に引き戻してくれたのは、井上茜という友人だった。
井上は秋の終わりくらいに転校してきた女子生徒なのだが、これがまあ強烈な奴だった。何と形容したら良いんだろうか。とにかくぐいぐいと人を引っ張っていくタイプだ。
面白きことも無き世を――などと幕末の偉人は言ったらしいが、僕はあいつのことを、その某長州藩の維新志士の生まれ変わりじゃないかと思っている。と言っても、別に今の世の中でクーデターを考えているとかそう言うんじゃないが。
「お前らも井上は知ってるのか?」
「あかねちゃんでしょ? 知ってるよ」
玉衣と吉野は、揃って頷いた。
その後、口を揃えて言う。
「お祭り好きで、お節介焼きで」
「自分勝手で、でも曲がったことは大嫌い」
「男勝りで好きなものはラーメンとカツ丼とお祭り、嫌いなものは椎茸と退屈」
「あといわゆる未確認生物が大好き――まあそれはついでとして何より」
『すっごい巨乳』
「……」
一番最後が綺麗に揃ってたうえにもの凄い力が入っていたんだが、そこには触れないほうが良いんだろう。最後のそれはともかく、彼女たちが井上の事を知っているのはわかった。
……井上を知ることが出来ない筈の吉野まで。
ともかく井上茜というのはそう言う人物なのだが――僕はそいつと大喧嘩をやらかした。
理由なんてあってないようなものだ。要するに吉野を亡くして、それを引きずって亡霊のように生きている僕が、彼女には我慢がならないと。そう言う非常に勝手な理由で、彼女は僕に因縁を付けてきた。
僕は相手が女だと言うことも忘れて、取っ組み合いの喧嘩になった。取っ組み合いというのはオブラートに包んだ言い方だ。井上は鼻の骨が折れて前歯が二本なくなった。僕はと言えば右肩の肉をいくらかああいつに食いちぎられた。
「それはさすがに……想定外だった」
「でもあかねちゃんならヒートアップしたらそれくらいはするかも……何処の全身火傷の元維新志士?」
「いくら何でもお互いにやりすぎたと思ってるから、そう言うことがあったという事だけ受け止めてくれ」
今、この場で意味があるような事でもなし。間違ってもこの世界の井上と同じことはしたくないし。
しかし……考えてみれば、あの時の頭に血が上ったあの感覚から、僕の記憶は鮮明になる。
僕が単純で影響されやすい人間だったのか、あるいは井上がそれだけ強烈な人間だったのか。多分両方で、後者の方が大きい感じなんだろうけれど。
ともかく、そう言うことをやらかして――止めてくれたのは玉衣だった。あの事故からずっと、感情を忘れていたようになっていた玉衣が、泣きながら僕と井上に割って入ってくれたから、今となれば笑い話――とは言えないまでも、黒歴史くらいでは済ませられるんだ。あの時は本当、下手をすればどっちか死んでたかもな。
あまりにもやりすぎたせいで警察沙汰にもなったが、お互いに相手のことを許せるワケじゃないが――自分も悪かった。そう言った事でその一件は一応の解決を見た。
それからおかしな話ではあるんだが。
僕と井上は、それから後は親しい友人になった。
雨降って地固まるなんていう言葉があるが、あれはそんなに生やさしいものじゃない。そういう事にさえ目をつぶれば、それからしばらくは、それなりに楽しい時間だったと思う。
井上はお祭り騒ぎが好きな奴だから、好き勝手いろんな事を企画して、それに僕らを、下手をすればクラス全体を巻き込んで突っ走っていく。
何というかつまりは――落ち込んでいる時間も与えてはくれないわけだ。
「その辺はさすがに、あかねちゃんだよね……」
「でもさすがに平瀬君を物理的に食べようとしたのはドン引きだよ――ボクたちでさえ別の意味で」
「お前本当に反省してるのか?」
玉衣を睨み付けて、僕は続けた。
とはいえ――いくらか雰囲気が軽くなった話ではあるが、結局結末としては楽しいものでも無いのである。
井上のお陰で何とか持ち直していた僕と――多分玉衣もそうなんだろうが。高校を卒業してからは、あいつに対して胸を張れない時間だった。
井上はさすがというか、高校を卒業すると同時に狭い日本を飛び出して海外に留学してしまった。あいつのことだから、意識高い系の頭の悪そうな学生がするような、自分探し云々ではなく、本当に自分を高めるための留学だったんだろう。
見送りに行った空港で、あいつは前歯の欠けたあの笑顔で言ってくれた。私のお守りが無くてもしっかりしなさいよ、と。僕はおざなりに手を振って別れを告げたのだが。
それで、まあ。何というか情けない話なんだが。僕はあいつが危惧する通りの――だらしがない男だったようなのである。
井上が居なくなって急に生活にメリハリが無くなった。
高校を卒業して僕は少し離れた大学に入学し、下宿生活を送るようになった。
ともすれば二流以下の大学生、それも良く分からない文系科目の学生など酷いものだ。僕の知り合いにも、講義にも行かずに朝からパチンコに熱中している奴がいた。
僕はそう言う方面にだらしなくはなかった。一応講義には出るし、単位も卒業が見込める程度には取得していた。下宿宿に引きこもったりすることも無かったし、それなりに大学に入ってから出来た友人達も居て、大学生の生活としては平凡――悪く言えば地味な感じである。
けどその実、僕が何を考えて居たのかと言えば――何も考えていなかった。
就職活動に向けて準備はしていたがやりたいことがあるわけじゃない。かといって大学で何かを勉強しようと言うのでもない。文系学科のハイエンドと言えば学者か弁護士か政治家か――そのどれになろうにも、僕には才能も努力も足りないのだ。
別に昨今の大学生が、皆が皆将来のことを考えて生きているわけじゃない。さっきのパチンコ野郎なんて、僕以上にきっと世の中の事なんて何も考えて無いんだろうし。けれど――世の中の事を考える必要が無くても、自分のことは考えなきゃならないだろう。
自分の事を考えるというのは大げさな意味じゃない。
たとえば毎日パチンコをしているそいつだって、講義がつまらないと感じて、でも働くのは面倒臭くて、結局適度に興奮できて上手く行けばお金が手に入るかも知れないから、ギャンブルに手を出している。それが人として褒められた事でないにしても、自分の事は考えなきゃならなくて、考えた結果にそうしていると言うことだ。あるいは考えることを放棄していたとしても、それもまた考えた結果には変わらないわけだ。
でも、僕はそう言うのがない。
目の前に必要な講義があるからそれに行って、人間生きている限り腹が減るから食事をする。部屋が汚かったら病気になるかも知れないから掃除をする――目の前に何かがあるから、なかば反射的にそれをこなす。その繰り返しだ。
だから、だろう。
それこそ、高校ではいつも一緒に居た玉衣とは、年賀状でやりとりをするかどうか。それでも全く寂しいとは思わなかった。井上は海外に行っていたから連絡を取る術さえなかったし、あったとしても多分していなかったと思う。
実家からは盆と正月くらいは帰ってこいと連絡があったが、僕にはそうする必要が感じられなかった。実家に帰ったところで――僕のことを考えてくれているのはわかっているが、それでも口うるさい両親と小生意気な妹と顔を会わせる為だけに帰宅する意味を見いだせなかった。帰宅して昔の友人と会ってみようとか、そう言うことは思いもしなかった。
僕がそうなった原因を、全部吉野のせいにするわけではないし、しちゃいけない。もともと僕はそう言う駄目な奴だったということなんだろう。玉衣のことを偉そうに言えないくらいには。
自分がもしもこんな事にならずにあれから先生きていたらどうなったんだろう。つつがなく、けれど無感動に生きていたかも知れない。社会に馴染めずにその日暮らしをしていたかも知れない。恐らく井上に再会することがあったら、今度は一方的にボロボロになるまでやられるだろう。そんな気がする。
よく死んでしまった人間の事をずっと悔やんで生きていても何にもならないと、そんな意見を聞くことがある。それは多分、身も蓋もない言い方をすれば、日々をただ嘆いて無為に過ごす――そうするのは勝手だが、それを死者のせいにするな、そう言うことを言いたいんだろうと思う。僕が一人勝手に駄目人間になっていくのは勝手かも知れないが、それが吉野のせいだなんて、そんな恥知らずな言いぐさはあり得ないだろう?
けれど結果から見れば、僕はそういう最悪なことをしていたんだろう。
けれどどう取り繕ったって、自分に嘘は付けないから。どうやったらそこから抜け出せるかもわからないし、僕という人間を変える術もわからない。
だからあの日――玉衣に言われて一言は、心に刺さった。
――平瀬君は別にやりたいこともないんでしょ? と。
もしかしたら僕と同じような気持ちを抱えていた玉衣だからかも知れない。いや、きっとそうだ。あの時、僕はあいつの表情に、僕と同じがらんどうを見た気がした。けれど、その一言に、僕は心の奥底を全て見透かされたような気分だったんだ。
「……平瀬君」
目の前にいる玉衣が言った。
「何だよ。」
「その時のボクに、その宝くじ何処でいつ買ったんだとか聞かなかったの!?」
「……即物的すぎんだろお前……こんな事になるのなんてあり得ないし、聞く意味ないだろそんなの」
「くっそお、こうなったらボクその年のその宝くじ必死で買うぞ! 一生遊んで暮らせるチャンスを逃がしてなるものか!」
それは勝手にしてくれたらいいが――ともかく、それが僕がここに至る経緯だ。
そこで一度言葉を切り、僕は思い出した。
もちろん、あれはこういうハッキリとした記憶じゃない。科学では説明の付かないような事が起こっているなかで、僕が見た夢のようなものだったのかも知れない。けれど不思議と思い出せる、あの変な声――
「神様ボイスのこと?」
「神様ボイスって……」
玉衣命名の微妙なネーミングである。少なくともあれが何だかわからないにしても、神様だとかそういうのだとは思いたくない。いや、この状況で、この世界に神様とかいう超越的なものがいるとは思いたくない。
いや、待てよ?
「もしかして、お前らも?」
「そうだよ――あれがあったからね?」
「ちょっと無茶だとは思ったんだけど、私もたまちゃんが言うことが的はずれとは……いたたたた」
「みこっちゃん大丈夫? 平瀬君、あとでいくらでも謝るから、ちょっとこの正座だけは許して貰っていい?」
「あ、ああ……楽にして良いぞ。と言うかいい加減服も着ようぜ」
「えー、服着るの……汗とかいろんなのでベタベタになってるから、服着るならボク先にシャワー浴びたいんだけど」
「お前開き直りが半端じゃないな。許すって言った途端これか。言っておくが行為自体は許したわけじゃないからな――逆に俺が捕まる可能性だって」
「その辺りはちゃんと準備してるから大丈夫。うちの親が家にいないのもそうだし、平瀬君のところから連絡もないでしょ? そう言うわけで今から、みんなでお風呂に入らない?」
準備って一体……何をどうしたらうちの親とか疑問も抱かず抱き込めるんだ? 吉野の笑顔が恐ろしすぎる。こいつこんな奴だったっけ? いじめられて僕と玉衣の背中に隠れていた儚い少女は何処へ行ってしまったんだ?
もちろん僕だって、それが勝手な妄想だと言うことくらいはわかっているが――昔は彼女のナイト気取りだったという痛々しい過去があるのだ。その守るはずだった相手が知らない間に犯罪者になっていたと言うのはあまりに切なすぎる。
僕はもう、ある程度は諦めた。
ともかく、こいつらの言い分を聞こう。なにをするにもそれからだ――僕に過去の話をさせて、自分たちが“未来”から来たんだという以上、そこには何かがあるんだろう。玉衣と吉野は口を尖らせていたが、やがて顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。
本当に愉快な話ではないよ、と、吉野が言った。
「だって――私の知る過去じゃ、死んじゃったのは私じゃなく――平瀬君なんだもん」