どうにも妙な幼馴染の行動と神様の声を考察してみる
吉野美琴は、その見た目の割には何処までも普通の少女だった。
見た目の割に、と言っても、見た目が極端に普通からかけ離れているというわけではない。
ただ生まれつき色素の少ない体質のようで、頭髪は淡い茶色で、似たような色合いの目にはうっすら赤みがかかっていた。色素欠乏症は酷ければ重篤な視力低下や聴力不全を併発することがあると言うが、幸いそういうことはなく――ただ体質と関係があるのか無いのか近眼だけはわりと酷くて、幼い頃からいつも分厚い眼鏡を掛けているのが印象的だった。
自分で言うのも何だが、子供の頃の僕はそこらへんの悪ガキよりは割と分別が付いたガキだったようで、他人の身体的特徴をあげつらってそれを馬鹿にする事は悪いことだという認識があった。あるいはそういう風に教育をしてくれたうちの親に感謝するべきかも知れないが。
けれど逆にそこらへんの悪ガキの中には、そういう分別の付かない奴らもいた。
まあ、大人になってさえもそういう学習をしてないんじゃないかと思う連中さえもいるのだ。正真正銘、ただの悪ガキに今更腹を立てても仕方がない。
けれどそういうのはやはり大人になっているから言えることで、子供社会の中にあって当事者にとっては笑い話では済まされない。つまりそれなりに目立つ容姿の吉野は、そういう連中からいじめの標的にされたことがある。
――今から考えると、社会問題と言われる“いじめ”と言うには生ぬるい、本当に子供同士のたわいもない悪戯だったりするのだけれど。
しかし何故か幼い頃の僕はと言えば、そういう奴らに対して何故か義憤に燃えていた。
そして何故か同じように義憤にかられたのが幼い日の玉衣であったりした。
それが確か小学校に上がるかどうかくらいの時の話である。僕と玉衣の扇動が最終的な引き金となり、結果として僕の所属していたクラスは「やあい吉野の変わり者」一派対「美琴ちゃんをいじめるな」一派で真っ二つに割れて、盛大な大喧嘩をやらかした。
実際子供という奴は加減がきかないし常識がないから何をやらかすかわからない、後から考えると割と危険な状態だったのかも知れない。けれど幸いにも双方に盛大な軽傷者を出し学校中に響き渡るほどの子供達の泣き声が轟いたものの、無事に事件は沈静化した。そして吉野擁護派の僕らでさえも、脳みそがとろけるくらいに叱られた。
多少派手だがまあ、誰にでもありそうな子供の頃の思い出話である。
成長するにつれて知り合う相手も増えていくわけだが、最初に巻き込んだ人数が非常に多かったので、それから後に敢えて吉野にちょっかいを出そうと言う連中は現れなかった。
そして結局それから、僕と玉衣と吉野は友達になり、三人でよく遊ぶようになった。
僕一人が男で、とかくこのころの子供にとって性別の違いは大きいのだけれど、くだんの大戦争のせいでそのあたりの事はあまり気にならなかったように思う。
そして僕らは小学校を卒業して中学生になり――そう“今”に至っているわけだけれど。
おかしい。
それでもおかしい――と、僕は思った。
「それで平瀬君ホントに大丈夫なの? みこっちゃんの顔見るなりえづいたりして――時にみこっちゃんさ、朝のご飯何だったの?」
「昨日のあまりの餃子と――ちょっ、い、いくら何でも失礼じゃないかなあたまちゃんは!? ちゃんと歯は磨いてるし、私にんにく苦手だから控えめにしてもらってるし!」
「いやいやそーゆーの気にする女子中学生が朝から餃子って……そもそも重すぎない朝から餃子って。太らない?」
「せ、成長期ですから? ウェストとか変わってませんから? ……それに年頃の云々みたいなの、たまちゃんだけには言われたくないかなあ」
「何でボクが? あとたまちゃん言うな。どーもそれどっかのアザラシみたいで嫌なんだけど。どっかの誰かが――具体的には目の前の二人が広めたせいで」
「私は猫さんみたいで可愛いと思うよ? ……でもその可愛いたまちゃんが、事もあろうに……その、男同士がやらしいことする漫画を。それも教室で」
「ホモが嫌いな女子なんて居ません!! ――いやみこっちゃんあれBLってのよ。それも割とライトな奴。いくらボクでも18禁を学校に持ってく度胸はないから。第一みこっちゃんだってこの間アレ見てたじゃん。昔の列強各国を擬人化したBL……」
「あれは一部の女性ファンが騒いでるだけで内容は普通のギャグ漫画なの!」
「……少なくとも一般人向けではないと思うんですがそれは。んでそういう返しが出来る時点で同じ穴の貉だよね」
「……そう言うのを私に教えたのはそもそもたまちゃんなんだけどね? ……そ、それで私はともかく平瀬君! たまちゃんも言ってたけど本当に平気なの? ……あの、私、別に臭くないよね?」
ずいっと顔をこちらに近づけて言う吉野だが――当然彼女が臭くてたまらないと言うわけではない。
ただ、どうして――この状況は何なんだ。
保健室で吉野の顔を見て、あまりの衝撃に消化器系を逆流させかけた僕である。体調不良にかこつけて早退させていただいた。
別に嘘は付いていない。コンディション的には間違っても“いい”とは言えないし。あのまま教室に戻って、残りの授業を受けられるかと言えば答は否だ。仮に体調そのものが悪くなかったとしても、到底今は――あの教室に戻る事が出来るとは思えなかった。
果たして今の僕には、気持ちを落ち着かせるだけの時間が必要だと思った。例えそれが、ひとときの逃避でしかなかったとしても。
それで僕は早退する運びとなったのだけれど。
――それじゃボク、平瀬君の荷物持つから一緒に帰るね。
それはなにもおかしな事ではないと――全くいつも通りの調子で、玉衣がそんなことを言った。
僕は何を言い出すんだこいつはと、玉衣の方を見た。
立場が逆だったとしても僕なら、例え相手が心配だったとしても同じ事は言わない。友人の調子が悪いから自分も帰るなんて、普通ならどんな親友でも言い出さないだろう――荷物持ちをするとか言う名目があったとしても、そこまでする奴は普通はいないんだ。
僕がおかしい、というわけでもないのだろう、その言葉に、僕が早退の許可を取り付けた担任――こちらは確か田原という名前の数学教師だったが――の女性教師は、明らかに驚いたような表情を浮かべた。
――私も一緒に帰ります。何かあったら病院にも付き添いますから。
そこに畳みかけるように、吉野がそんなことを言った。
いや、何が「だったら」なんだ?
こいつらは確かに――記憶の上でも、恐らく事実としても僕の親しい友人ではある。けれど保護者でなければ僕の家来というわけでもないだろうに。何を当然のようにそんなことを?
しかし僕は結局その必要はないと言い出せなかった。
僕がちゃんと言えていたらまた結果は違ったのかも知れないが、結局――多分僕と同じ理由で何も言えなかった教師も、なし崩し的に二人の早退を認めてしまった。
授業の始まりを報せるチャイムが鳴ってから少しして、僕らはそのまま学校を出た。大学と違って、皆が皆授業を受けているときに自分だけ先に帰るというのは居心地の悪いものだ。けれどあまつさえ、玉衣は教室から持ってきた僕の鞄を頭に引っかけて言った。
――そんじゃま、あんまり目立つのもアレだし、あと五分したら出ようか。幸い体育やってるクラス、今は無いみたいだし。
この場にいることに奇妙な焦りのようなものを感じていた僕でさえ、そう言うことには気が回らなかった。なのに玉衣のこの余裕は何なんだろうか?
確かにこいつは僕よりはよっぽど図太い。けれど何というか――こいつは、こんな奴だったか? 結局前言通りに玉衣が自分の鞄と僕の鞄を両肩に掛けて先頭を歩き、その後を僕と吉野が付いていく。
校門を出て、暫く。
夏の日差しは容赦なくアスファルトを灼き、僕らの歩く足音さえ聞こえないような蝉の声。この辺りはお世辞にも都会とは言えない片田舎の街である。田んぼと用水路に区切られた古い通学路を、僕らは歩く。
夏というのはこうでなきゃならない――こういう風景に、言葉に出来ないノスタルジーのようなものを感じる人間は多いだろう。日本語で言えば郷愁感だ。かつて自分が体感した、自分の中の原風景――“あの頃のような”と、そんな感傷に僕らは浸ることがある。
けれど、僕は今“あの頃”の風景の中を歩きながら、“あの頃のような”記憶を思い返している。正直意味がわからない。
「今更だけど良かったのか二人とも」
僕が言うと、僕の顔を覗き込むようにしていた吉野と、数歩前を歩きながら死ぬほどくだらない持論を述べていた玉衣は、足を止めた。
僕は思わず――彼女らの姿に、周囲の蝉時雨さえも忘れてしまったような気がした。
「い、いや……ほら、俺、熱とかも無かったし、今だって普通に歩けてるし――なのに学校サボらせるような事になって悪かったなって」
「心配するよ」
何でもないことのように、玉衣は言った。
「友達のことを心配するのはおかしいの?」
「普通ここまでしてくれるか?」
「普通ならね。でもボクらは何というか……うーん、“みこっちゃんを見守る会”のリーダーとサブリーダーじゃない? 平瀬君がリーダーで、ボクがサブリーダー」
「暗に私がたまちゃんの事アザラシみたく言ったのを根に持ってるのかしら?」
「その辺の事はともかくとしても……悪いけど俺は多分お前らが体調崩して早退するって言ってもそれに付き添うかはわからないぞ? それに――どっちか一人でも良いんじゃないか?」
「およ、平瀬君はこの両手に華の状況が嫌なの? ……もしかして平瀬君って」
「だめ、たまちゃん、平瀬君がそっちの人とか……正直ちょっと思うところはあるけど、これから先どうやって付き合っていったら良いかわからなくなるからやめて」
冗談めかして言う二人だけれど。
その距離が、凄く近い。
確かに僕と玉衣は、そして、この頃は――吉野も。幼馴染みで、仲の良い友人であることまでを否定することはしない。多分異性で言うなら、二人にとっては一番の、僕からすれば同率首位くらいで、迷うことなく最も親しい間柄だと言えたと思う。
けれどこの年頃を経験した諸兄ならおわかりだろうが、この年頃の男女の壁というのはやっぱり大きい。この時分なんて誰それが誰それの事を好きだとか何だとか、そう言うことだけで大盛り上がり出来る年頃だけれど、逆に言えばそれだけ性別が交友関係に溝を作っている年頃だとも言える。
中学生の頃に女の子との間接キスに胸をときめかせた少年も、数年後には飲み会で出会った女子大生とビールを回し飲みしていることだろう。夢のない話だけれど。
そしてそう言うことは――当然、ごく普通の少年少女だった僕たちにも言えた話である。僕らは確かに仲の良い友人だったけれど、それまでほどに四六時中一緒にいられたわけではない。大体いつもは仲の良い同性の友人達と過ごしていて、何かきっかけがあったときに話をしたり遊びに行ったり。そういうものだった。
そう言えば中学時分の頃なんて、こうして一緒に通学路を歩くことも希だったと思う。
……そう思うのは、僕の記憶違いか?
もちろん、“記憶の中でしかない場所に立っている”ことを考えれば、そんなことは些細な事でしかないのだけれど。
「あの平瀬君……ちゃんと否定しとかないとたまちゃんの目が」
「明確に否定しとかないとダメなくらいお前らは俺を信用出来ねえのかよ……」
「そういうわけじゃないけど偉い人は言いました。ホモが嫌いな女子なんていません」
「それが本当かどうだか知らないけど、俺の中で女を見る目が変わりそうだからそう言うことは黙っててくれ――いや、真面目な話だ。心配してくれるのはありがたいけど――」
「でもみこっちゃんの顔見て吐きそうになるくらいだよ? 真面目な話って言うなら、ボクたちだってそう。風邪引いたとかお腹が痛いくらいなら“鬼の霍乱”とかって笑うかも知れないけど」
「そう言われるほど俺、体が頑丈ではないけどな」
「大丈夫なら大丈夫で、後から笑い話にすればいい。けど」
僕の横を歩いていた吉野が――息が掛かりそうな距離で、言う。
「私は、私たちは――平瀬君の事が心配だったの。心配なのに平気な顔をしていられなかったの。後で後悔、したくないから」
「――」
そんな大げさな、と、僕は言いたかった。
これから戦場に行くのだというのでもあるまいし、不治の病に罹ってしまったのだと言うのでもない。
僕が今どういう状況にあるのかは横に置いておくとしても、客観的には友人が一人、授業中に気持ちが悪くなって早退した――ただ、それだけの話である。ただそれだけの事に対しては、明らかに大げさすぎる物言いじゃないか?
けれど僕はそれを言えなかった。
そう言った吉野も――こちらを振り返って見つめてくる玉衣も、その表情があまりにも真剣だったから。
そして何より――僕は、知っているから。
心配をしていたのにそれを気にしない振りをして、後で後悔をしたくない。
まさにそんな状況を、僕は知っていたから。
他ならぬ吉野美琴――彼女の言葉通りの悲劇を、記憶の中の僕はこの後経験する事になる。
僕は、僕の知る未来では、彼女とはもう、どうやっても会うことは出来ない。
彼女はこれから程なくして――突然の事故により、その命を絶たれてしまったのだから。
あれは“これから訪れる”夏休み――その終わりのことだった。お盆も過ぎて、その休みもあと僅か。僕らは珍しく、かつてのように集まって勉強をすることにした。勉強というか、宿題の残りである。割と優等生だった吉野と、平均値くらいには収まっていた僕に、玉衣が泣きついた格好である。夏休みの間趣味に没頭して――その辺りの事はともかく。
僕の家に玉衣がやってきたのは午前中だったけれど、いくら待っても吉野が来ない。
朝から降っていた雨の中――携帯もつながらず、何となく不安を感じていた。玉衣も当然同じような状況で、ワークブックに走らせる手が頻繁に止まり、ぼんやりと、雨粒がしたたり落ちる我が家の軒先を二人で眺めていた。
時間も夕方が近くなり――もういっそ吉野の自宅の方に連絡を入れた方が良いのかと僕らが相談を始めたときに、その連絡は入ってきた。
こちらに来る途中――吉野が車にはねられて、病院に搬送された。その連絡は彼女の両親からだった。非常に危険な状態で、今すぐ病院に来てくれないか。そういう連絡だった。すぐさま僕の母親に車を出して貰い、僕らは病院に駆けつけた。
けれどその時――もう、吉野は息を引き取っていた。
……その後のことは、よく覚えていない。病院から帰ってきた後、どうやって過ごしたのか。玉衣はいつ帰っていったのか。どうやってその日眠りについて、どうやって吉野の葬儀に行ったのか。まるで細切れのように頭の中から抜け落ちている。
覚えているのは、葬儀の時に見た吉野の顔だけ。額に少しあざが出来ている他には――綺麗なままの、眠っているような顔だった。
それから暫く――僕の記憶は曖昧だ。その年の冬くらいにある出来事があって、それからようやく記憶が鮮明になる。そう、今――“今の僕”が、こうやって思い出している出発点である。
僕と玉衣は誰からも責められなかったし、後悔する必要もないと言われた。
実際、その通りだ。事故は不運な偶然であって、あの日僕らが勉強会をすると決めたことと、直接関係はない。
連絡が取れなくて心配はしていた。けれど何もしようとしなかった――それにしたって同じ事だ。僕と玉衣が何かしていたら、結果が変わったわけではない。僕らが少し早く動いていたって何が出来たわけじゃない。もしかしたら――吉野の死に目に会えたかも知れない、その程度。
けれど、後悔する必要はないと言われても。
そんな後悔、それ自体が無駄なんだと言われても――それでも悔やまずに居られると言うのか?
だから僕は――
そこで、思い出した。
僕が教室で目を覚ます前――“僕の記憶”が途切れて、今この記憶の中の世界に、戻ってくる前。
僕は何処とも知れない空間で、誰とも知れない誰かの声を聞いた気がする。
それは確か――一
“一つの命があったとする。人間はそれを一人で支えている。しかしそれを二人で支えることは出来るのだろうか?”
“二人で一つの命を支えることが出来たとする。では三人では? しかし、果たして命は一つでしかない。三人で支えられたとして、支えられている命は一なのだろうか? 一の何かを、三で分けたと言うことなのだろうか? しかし、しかし。その一が一でしかなく、また一で支えるしかないとするなら、その一を変えることは出来ない。即ち願いは叶わず、運命は変えることが出来ない”
“一は一でしかなく、その命の総体は変わらない。しかし総体は変わらずとも、それを二で、三で、あるいはそれ以上で分けることは出来る。その総体が一であり、それ以上でなくそれ以下でもない、ただの一、もとからあったものと変わらないものであるが故に”
こんな、言葉だった。
実際のところ、あれが誰かに言われた言葉だったのかどうかもわからない。今僕が見ているこの世界が、夢なのか現実なのか――はたまた別の何かなのか、それさえもわからないのだから。
けれど僕がこうして意識を持って生きている以上、ここが何処だとか、どうしてここにいるのかだとかは関係なく生きて行かなきゃならない。あるいは現状を誰かに相談するのもいいのかも。信じてくれる相手だって選べばきっと居るはずだ――だが、僕自身にそれを説明するだけの自信がない。
ネットの掲示板にだってよく「異世界から来たんだけれど質問ある?」だとか馬鹿馬鹿しい書き込みがされる世の中だ。いまならそのうちのいくらかを信じてやっても良い気分だが、結局そう言うことなんだ。捨て鉢になっているわけではないが“誰かに伝えて何かが変わるわけではない”し、“何をするべきかなんて事があるわけでもない”。
……そんな状態だから。
その言葉を思い出せた――覚えていられた事は、幸運だったのかも知れない。
もちろん、それはただの夢だった、気のせいだったという可能性もあるけれど。
僕は――記憶と同じような、けれど記憶とは違う気もする友人達に送られ、無事に帰宅した。早く帰ってきた息子に何があったんだと聞く母に、具合が悪くなって早退したとおざなりに応えると、自室に入ってから、ノートを開いた。
そして、覚えているような気がする言葉を考察してみたんだ。
まず――一つめの言葉だ。
“一つの命があったとする。人間はそれを一人で支えている。しかしそれを二人で支えることは出来るのだろうか?”
命は誰でも一人に一つ――命とは何ぞやという哲学じみた事まで考え出したらきりがないから、生きているこの状態だということにする。ならば、単純に考える。人間は一人で生きている。一人じゃなきゃ生きられないとかそう言う意味じゃない。たとえば僕という人間を形作っているのは、平瀬朔夜という人間、一つの生命体だ。
それを“二人で支える”とはそもそもどういう意味だ? 僕がたとえば大けがをしたり大病を患って、臓器移植なんかを受けたとしたら、それは“二人で命を支えている”状態と言えるのか?
……これだけでは、よく意味がわからない。
出来ないとも言える。しかし言葉尻を捉えれば出来ると解釈する事も出来る。
では、二つめ。
“二人で一つの命を支えることが出来たとする。では三人では? しかし、果たして命は一つでしかない。三人で支えられたとして、支えられている命は一なのだろうか? 一の何かを、三で分けたと言うことなのだろうか? しかし、しかし。その一が一でしかなく、また一で支えるしかないとするなら、その一を変えることは出来ない。即ち願いは叶わず、運命は変えることが出来ない”
では、出来たと仮定する――と、来た。
しかし、この言葉では、言葉の意味は僕がさっき考えていたようなものとは異なる事になる。僕は臓器移植とか、“他人の命を貰って生きながらえている”状態を「複数で一つの命を支える」という状態だと解釈した。
けれどそれは逆に、「一つの命を二人で分けている」状態とはならない。
移植を受けた人に突然知らない記憶が芽生えたとかそういう超常現象的な話は聞かないでもないが、けれど心臓移植を受けたら心臓の元の持ち主に人格がのっとられると言うわけじゃない。僕がそう言うことをされたとしても、僕は僕だ。なら当然「僕を誰かと分け合っている」という状態ではない。
つまりそれが「一が一でしか無く、また一で支えるしかない」状態だというのだろうか?
ではこの言葉で、最初の言葉は否定されたと言うことなのか?
そしてその状態がある故に、「願いは叶わず、運命は変えることが出来ない」という。これはどういう事だ? 臓器移植なんてやるだけ無駄と言いたいのか――いや、もちろん言わんとしていることはそう言う事じゃない。それは何となくわかるんだが。
ならばどうだ。
医学的や生物学的――そういう単純な話でない、一つの命を二人で分けている状態――そう言うものは確かに存在するが、命は一つでしかない。そうであるがゆえに出来ないことがある。
……人間の出来ることには限界があると、そういう話でも無さそうだな。
そして、最後の言葉である。
“一は一でしかなく、その命の総体は変わらない。しかし総体は変わらずとも、それを二で、三で、あるいはそれ以上で分けることは出来る。その総体が一であり、それ以上でなくそれ以下でもない、ただの一、もとからあったものと変わらないものであるが故に”
結局、命を分ける――その良く分からない行動は“出来る”のだという。
しかしどれだけ分けたところで、元からあったものが一だから、それを全て集めても一以上にはならない――簡単な算数じゃないか。
つまりこの言葉を、ざっくりと簡単な、ほんとうに平易なものに置き換えてみると。
「命というのは一つだが、それを複数で分ける事は出来るのか? 分ける事は出来るんだが、分けても命は命だから、結局出来ないことは出来ないんだよ。 何故なら命というのはどれだけ分けたって元は一なんだから」
……こんなものか。
改めて考えてみたら、当たり前の事だった。
いや、命を分けると言うことの意味はいまいちわからないんだが、言葉の意味をそのまま受け取ったら、当たり前の事を言っているだけだ。
一つのものをいくつかに分けたって結局は元の一つだから、元の一つで出来なかったことはそれを分割したってできるものじゃない。
もの凄く特殊な例を挙げたらその限りじゃないかも知れないが――けれどやっぱり、当たり前のことのように思う。
ではどうして、僕のこの超常現象体験は、そんな“当たり前の言葉”から始まったんだろうか?
その結果、どうして僕はここに居るんだろうか?
その事実に意味なんて無いと言われたらまあそれはそれで仕方ない。僕はただ夢を見ていて、あるいは、ただの自然現象に巻き込まれてしまっただけだとか。前に玉衣のところで国民的な青いたぬき――猫型ロボットの漫画を見たことがある。その映画版の話で、時間の流れについての説明がある。「時間は過去から未来へ流れている。皆が同じ川の流れに乗って進んでいるのと同じだ。けれどその流れが乱れることがあり、渦を巻いて人を飲み込んだりする」その結果が神隠し――この説明のシーンがトラウマだという人は存外多いらしい。挙げられている事例はほとんど都市伝説だと言うけれど。
つまり僕はその神隠しに遭ったのかも知れない。
……僕が“過去の僕”としてここにいると言うことには説明が付かないが。
そういえば――今の僕からすれば過去であり、そしてここから考えれば未来の世界でもある“元の僕”はどうなったんだろうな?
何事もなかったように別の世界として存在しているのか、あるいは消滅してしまったか。はたまたあの未来自体がなかったことになったのか。
魂が抜けたから死んでしまった、なんて事だけは勘弁して欲しい。そんなことになったら、一緒にいた“もとの世界の玉衣”は発狂ものだ。
まあ、僕は――どうだっていいけれど。
ふと、そう考えて――何かに、思い当たった様な気がした。
「あら朔夜――あなた、寝て無くて大丈夫なの?」
声を掛けられて、振り返ったら部屋のドアを開けた格好の母親が立っていた。これだから母親という奴は。ノックくらいしたらどうなんだ?
「ああ、何か――時間が経ったら楽になった。熱もないみたいだし、今から寝たら夜に眠れなくなりそうだから、普通に過ごしてみる」
「そう、無理はしないでね」
もちろん、子供にとって母親というのが、基本的には善意の塊だというのも否定はしない。もうすぐ夕食だが食べられるかと言われたので、大丈夫だと応えておく。
「それじゃごはんの前にお風呂に入っておきなさい――本調子じゃないなら、小夜には今日は一人で入るように言っておくけれど、どうする?」
「えっ?」
どうする、じゃないだろう。
“平瀬小夜”は僕の妹だが、その妹と一緒に風呂に入れとそう言う主旨の事を言わなかったかこの母親は。
気でも違ったのか――と思って、気がついた。今の僕は大学生ではなく中学生で、ここは僕の認識からすれば過去の世界だった。
内心変な汗をかいたのを感じながら、ほっと胸をなで下ろす。
あの生意気な奴が、この時はまだ僕と一緒に風呂にはいることに抵抗がなかったのか。そう思うと時の流れという奴の残酷さを実感させられる。いや、間違っても今のあいつと一緒に風呂に入りたいとかそういうわけじゃないが。
……とりあえず、続きは腹が膨れてからだ。あるいは眠くなってしまうかも知れないが、それはそれでいい。実家の自分の部屋なんて久しぶりだけれど、しかし皮肉にもこの状況が状況だから、酷く安堵を感じてしまう自分が居る。
あの心臓を握りつぶされるような焦燥感は――出来れば感じたくない。さっきまでは、友人達のお陰でそれを忘れることが出来たけれど。僕は、考えたことを、そしてあの謎の言葉を忘れないために、メモでごちゃごちゃになったノートを閉じた。
最後に――“では、どうする”――その一言を、付け足して。