神様の声を聞いた。目が覚めたら僕は過去に戻っていた。
真っ暗で、何も見えない場所に、僕は一人で立っていた。
いや、立っているのかどうかさえわからない。どっちが上か下なのか、落ちているのか浮かんでいるのか、それさえもわからない。停電した宇宙船の中はこんな感じじゃないかと、僕は少し間の抜けたことを考えた。
これは、夢?
それにしては、妙に意識はハッキリしている。
これは夢だと――そう考えた時点で、普通の夢なら大抵は目が覚める。
けれど意識は覚醒したまま、体の感覚も、ぼやけているけれど明確に存在する。
これが夢なら、随分と奇妙な――明晰無という奴だろうか。
そんな風にして暗闇に漂っていた僕に、声が聞こえた。
“一つの命があったとする。人間はそれを一人で支えている。しかしそれを二人で支えることは出来るのだろうか?”
謎かけのような言葉だった。
その声は高いのか低いのか――声の主は男か女か、若いのか年を取っているのか、それが全くわからない。
言うなれば、自分の頭の中で文章を言葉にして読むことがある――それに近い。
その言葉が、音として頭の中にはある。けれど、耳には届いていない。そんな不思議な感覚だった。
“二人で一つの命を支えることが出来たとする。では三人では? しかし、果たして命は一つでしかない。三人で支えられたとして、支えられている命は一なのだろうか? 一の何かを、三で分けたと言うことなのだろうか? しかし、しかし。その一が一でしかなく、また一で支えるしかないとするなら、その一を変えることは出来ない。即ち願いは叶わず、運命は変えることが出来ない”
果たしてその言葉はどういう意味なんだろうか? そもそも、意味があるんだろうか?
一つの命は一つでしかない。当たり前のことだ。僕が二人や三人も居るはずがない。しかし、そんな命を三人で分けるというのはどういう事だ?
“一は一でしかなく、その命の総体は変わらない。しかし総体は変わらずとも、それを二で、三で、あるいはそれ以上で分けることは出来る。その総体が一であり、それ以上でなくそれ以下でもない、ただの一、もとからあったものと変わらないものであるが故に”
ああ、だめだ。意識はハッキリしているのに考えが纏まらない。
いや、言っている意味がそもそもわからない。さっき一のものは一でしかないと言ったばかりじゃないか? しかしそれが分けられる? それってどういう事なんだ?
色々と言葉の意味を考えようとしてみたけれど、いつの間にか僕の意識は、その暗闇よりも更に深いところに沈んでいった。
「――らせ、平瀬」
何処かから、僕を呼ぶ声がする。
同時に背中を何か固いもので突かれる不快な感触に、僕の意識は暗闇から浮上をする。
……とは言え、寝ているのだろう僕にこんな事をするのは――
「ああもううるせえなあ……誰かのせいで考え事してなかなか寝付けなかったんだ。それに変に夢見が悪くて――」
「……ほう、そうか。何か悩み事があるなら相談には乗ってやるがそれより先にちゃんと目を覚ました方が良いんじゃないか?」
「――? ――えっ!?」
思い切り、顔を上げた。
そこは、見慣れた僕の学生マンションじゃなかった。
かといって、全く知らない場所というわけじゃなく見覚えがある――けれど、目覚めたばかりの僕の意識が、その現状を正しく理解してくれない。いや、この場に於いて正しい理解って、それは一体どういう事なんだ?
果たして僕は自分のベッドに寝ていたのではなく、椅子に座っていた。椅子に座って、机に突っ伏すようにして眠っていたらしい。
そしてその場所は、同じような椅子と机がずらりと並べられた部屋で、数十人からの少年少女が居て――その視線が全て、僕に注がれている。つまりここは“教室”だった。それに気づいた次の瞬間、笑い声が爆発した。
当然、そうなるだろう。
教室というこの場所で、馬鹿な生徒が一人、人目も憚らずに爆睡した挙げ句、教師に対して寝ぼけて良く分からないことを言っている――当然間抜けな行動である。笑われたって、仕方ない。
そんなことをしでかしてしまった生徒はと言えば、普通は真っ赤になってどうにかその場を取り繕うか教師に向かって頭を下げるか――それくらいだろうか。
けれど今、この状況で。
この僕が、“真っ赤に”なんてなれるはずがない。
「――……」
だって、そうだろう。
ここは何処の学校だろう。周りを見る。この制服の群れには見覚えがある。見覚えがあるというのも妙な話だが当然のことで、何となればそれは僕が通っていた中学校の制服だからである。
けれど既に、僕は何年も前にそこを卒業しているのだ。
僕は既にこの街から離れた大学に通っているはずで、間違ってもこの学校の教室で居眠りなんてするはずがない。出来るはずがない。
では何故僕はここにいるのか? どうして、ここにいるのか?
それが思い出せない。どれだけ記憶を辿っても、ゆうべまで僕は下宿先のマンションで怠惰な生活を送っていたのだ。それが夕べ玉衣が訪ねてきてそれで――あれは夢だったのか? いや、仮にあれが夢だったとしても、僕がここにいる理由が見つからない。
あるいは、今こうしていることこそが夢――その方が自然な話であるのだけれど。
起きているときに“これは悪い夢だ”なんて現実逃避をすることがある。
けれどその時、果たして僕らは本気でそう思っているか? これは夢に違いないというのは現実逃避である――そう、それが現実だと知っているからだ。
僕はどうしたらいいのかわからず――両手で、顔を覆った。
その仕草は滑稽だったのだろう、少し小さくなっていた笑い声が、また大きくなったような気がする。けれど――
「良いか平瀬、お前もうこの際授業中に――……? おい、大丈夫か。どうした、顔色が真っ青だぞ?」
「あ、はい――すみません、ちょっと、気分が悪くて――保健室? へ、行ってきます」
突き刺さる視線も、“教師”の返答も今は聞いている場合じゃない。まるで自分のものではない――比喩ではなくそんな風に感じられる体を引きずって、僕は教室の外に出た。
まだこれは夢を見ているんじゃないか――往生際が悪いことにそんなことを考えていたけれど。田舎の学校の開放廊下。その廊下に籠もった夏の熱気と、そこを吹き抜けていく生ぬるい風がとても気持ち悪くて、吐きそうになった。
その不快な感覚から逃げられないことが、やはりこれが夢ではない――そのことを僕に訴えていた。扉を閉める前に聞こえた、その“教室”の無遠慮なざわめきと共に。
さて――とりあえずは、教師に告げたとおり保健室に向かうことにする。
そう言えばあの教師は何という名前だったんだっけ。割と冗談が通じる、けれど怒らせると怖いタイプ。そう言えば彼が授業をしていたと言うことはさっきのは古文の授業か――そこまで思い出せるのに。そう言えばそんな彼の渾名さえ思い出せるのに、やはり彼の名前は思い出せなかった。
心臓がバクバクと早鐘を打って、何かを考えようとするけれど、わけもわからず叫び出したくなるような焦燥感にも似た感覚が、冷静な思考を押し流していく。
そういう感覚に襲われるのも――また、夢の中ではあり得ないことだった。少なくとも、僕の中では。
とにかく、これじゃダメだ。
気持ちを落ち着けて、誰にも邪魔をされずに考えを纏めたい。纏めて何がどうなるわけでなかったとしても。もしかしたら保健室で一眠りしたら、やはりこれは夢だった――そう言う展開があるかも知れない。
やはり保健室は記憶通りの場所にあって、記憶通り鍵なんかは掛かっていない。中に置いてある薬品とかも、たかが知れているせいだろうか。常駐の保険医も居ない。何かあったときの応急処置なんかは、確か体育の担当教師がやっていたように思う。子供というのは何をしでかすかわからないからな。何だかんだと、年に一度や二度は救急車で運ばれる奴が居たように思う。
そう――思い出す。
それは記憶の中の出来事であるはずなのに。
あまり使われることのない、少しほこりっぽいベッドに身を投げ出して、カーテンを閉める。
さあ、まず。
ここは一体、何処なんだ? 何故僕は、ここに居るんだ?
その辺りから、始めよう。
最初は現実逃避じみた手段として、一度寝てやろうと思った。普通に考えたら――“こんなこと”は夢に決まっている。どうやったら目が覚めるか、そんなことを考えてしまうほどハッキリした、そして気味の悪い明晰夢なんて僕は見たことがない。けれど長い人生そう言うこともあるだろう――
結論から言えば無駄だった。
心臓を握りしめられたような強烈な焦燥感が邪魔をして、とてもじゃないが眠る事なんて出来やしない。
……大学の健康診断じゃ特に異常はないが、今血圧とか計ったらもの凄い事になっていると思う。計るつもりもないが。確か外に血圧計があったけれど。
しかたなく、天井の蛍光灯を見上げながら考える。
ここは、何処だ?
現実逃避をせずに言うなら保健室だ。何の保健室かと言えばこの学校――僕がかつて通っていた筈の中学校。つまり、今僕はかつての母校にいる。しかし、何故?
そう、何故だ。
僕が学校を卒業したからと行って、その学校が消えて無くなるわけじゃない。僕という個人なんてそこを卒業した数多の生徒のうちの一人でしかない。その後だってこの街に子供がいる限りは、新入生は入ってくるし、学校は存続し続ける。少なくとも、物理的にはこの校舎が耐用年数を迎えるまでは。
だから、僕が中学校に行こうと思えばいつだって行ける。
もしかすると僕はいつの間にか夢遊病者になっていて、気がついたら教室の咳に座っている可能性だって無くはない。
けれど――今更僕が、“中学生として授業を受ける”事は不可能だ。
……そう、そこ、なんだよ。
まったく自分の中の常識とか、そう言うのを無視したとして。さっきあの場所で目が覚めてから大した時間は経っていない。それでもどういう事が起こっているかと言うことくらいは、わかる。
僕は気がついたら中学生の頃の自分になっていて、当時の教室で授業を受けていたんだ。
――それが、事実だ。
少なくとも僕の中の常識では時間という奴は一方通行だし、タイムスリップなんていうのは空想の中の話でしかない。
しかし、だとすると今起こっていることは一体何なんだ?
半袖のカッターシャツから伸びる腕を見る。昨日までの記憶の中にあるより幾分華奢で体毛も薄いように思う。未だ大人と言うには少々足りない少年の腕だ。しかし、それを見てそういう風に思っている僕の意識は、そうじゃない。
それじゃ逆に、今まで僕が過ごしてきた時間が夢の中の世界だったんだろうか?
壁に掛けられたカレンダーを見る。初めて「客観的な指標」として使えるものであることに気がつく。数年前――僕がここに通っていたはずの時間。
だったらやっぱり、今までの僕が――いやいや、そんなはずはない。
大学入試からこちら受験向けの知識は大分退化してしまったんだろうが、それでも僕は現役の大学生だ。中学生には知り得ない知識をこれでもかと持っている。“この間”受けたドイツ語のテストを何となく思い出す――間違いない。中学生の僕は当然そんな言語は全く知らなかった。数字を数えるだけだって無理だ。再帰代名詞とか何処の世界の言葉だと言う話だ。いや、ドイツ語だけど。
今までの僕の記憶の方が実は夢で、僕はまだ中学二年生の少年だったんだ――記憶の方は超常現象的な何かで捏造されたものだと、そう強引に片付けたって、それじゃ知識の方はどうなる? 中学二年の、ドイツ語どころか英語の絵本でさえ読めないようなガキが、たった一晩、いや一瞬のうたた寝で大学生レベルの知識を身につけたというのか?
もしそうなら、そのやり方がわかれば僕は億万長者になれるだろうな。
……それじゃ、その超自然的な方で説明するなら。
僕は実際に中学生から大学生までの時間を過ごし――超自然的な何かで、精神とか記憶だけが、こうして中学生の頃に戻ってきてしまったというのか?
だとしたら――もとの時間にいた僕はどうなってしまったんだろう? まさかと思うが、死んでしまったんだろうか? それとも、あの時間はなかったものとして何処かに消えてしまうんだろうか?
――どれだけ考えたって、答なんて出るはずはないけど。
そういえば億万長者と言えば――僕は、記憶の中では一番最後に会った彼女の事を思い出す。そうだ、そう言えば――
「平瀬君だいじょうぶ?」
「――っ!?」
本気で、心臓が止まったかと思った。
心拍数が極限まで上がって、冷たい汗が全身から吹き出したのがわかる。
答のでない問いかけに行き詰まっていた僕は、唐突にかけられた声に現実に引き戻される――例えるなら、首根っこに縄を掛けられていきなり引っ張られたようなやり方で。
胸の辺りを押さえながら顔を上げたら、カーテンの間から一人の少女が顔を出していた。
見覚えのある顔――いや、この言い方はおかしいのかもしれない。
僕の記憶では、僕は彼女と、昨日再会を果たしていた。そう――その時も、記憶の中の彼女を思い出していた。それが――だめだ、頭が混乱してきた。
ともかく“昨日見たよりも”そして、“その時に思い返した姿”よりもまだ随分と幼い、まだ子供の面影を色濃く残した少女の顔。半袖のセーラー服と野暮ったいプリーツスカートが、しかし不自然ではない。
「……たま、い」
「ど、どうしたの? うわっ、平瀬君凄い汗だよ? 顔色だって何だか悪いし――風邪? 熱、あるの?」
そう言って、玉衣は僕の額に手を伸ばす。
不思議とひんやりとした少女の手のひらが、僕の額に触れる。同時に、ふわりと――彼女の匂いがする。香水などつけていない、石鹸のようなにおいと、少し感じる汗の――
「――!」
頭の中に、“昨日のこと”がフラッシュバックする。白く柔らかな汗ばんだ肌、紅潮した頬、潤んだ瞳――耳元で僕の名前を呼ぶ声。
どういう流れでそうなったかは割愛するけど、結局“昨晩”――僕らは玉衣が冗談めかして言っていた通りになってしまったんだ。いや、まんまと“あいつ”に乗せられたというか、結局断り切れない自分は心底見下げ果てた奴なんだろうと思う。この際そう言われたって仕方ない。けれど言い訳をするなら僕だって若くて健康な“男子大学生”なのである。相手に乗せられているのがわかっていてもあそこまで露骨に誘われたら我慢しろと言うのが無理な話で――いやだからその記憶が!
近い! 玉衣、近い!
さっきとは違う類の汗が噴き出して、頬が一気に熱くなる。
やっぱりあれはただの夢なんかじゃなく――それは理解できた。理解の仕方が何というか非常に恥ずかしいものである事実に悶えそうになる。
現実に目の前にいる“玉衣”は、まだまだ子供っぽい少女で、僕にそういう趣味は無いはずだが、それでも、意識するなと言う方が無理な話じゃないか?
「んー……ちょっと熱いような。これ夏風邪?」
手のひらを引っ込めたと思ったら、目の前一杯に少女の顔が広がった。こいつ額を――僕ははっとして体を引いた。
「おっと逃げんなよう。ちゃんと熱が計れないだろ?」
「熱を、測るなら……体温計、使えよ」
「何だよ照れてんの? 今更――いや、実際心配してやってんだよ?」
ちゃんと平静に言葉が言えていたのか。そんなことは言うまでもない。多分僕の顔は汗だくになっていて、しかも真っ赤だっただろう。自分でなけりゃ指さして笑ってるかも知れない。
……いや、そのお陰で、心臓を握りつぶされたような焦燥感はいつの間にか消えていた。
――ああ俺ってなんて単純な奴なんだ――そんな風に思わなくもないけれど、自分でどうしようもないと思っていたので、今は自分の馬鹿さ加減を呪っても仕方がない。問題は――冷静に考えたところで答が出るとは思えない、その事実なんだがな。
玉衣は保健室の机に無造作にストックしてある体温計を一つ引き抜き、こちらに振り返る。
「えっと……これはお口と脇とどっちだろう? それともお尻?」
「お前は俺がここでおもむろにズボンを下ろしたら逃げずにそいつを差し出す度胸があってか?」
「女は度胸! 何でも試してみるものさ……」
何だか妙に低い声でそう言って、玉衣は僕に体温計を手渡す。僕はそれを服の下に入れる。いや、もちろん脇だけれど。全くこいつの……?
こういうところは変わらないんだよな、と僕は内心で呟き、ふと、何か小さな違和感を感じたような気がした。もう一度玉衣の方を見る。玉衣は脚で椅子を引っかけて近くに寄せると、僕の横たわるベッドの脇でそれに座った。
「ん? どったの?」
「いや……」
そう、玉衣は昔からこういう奴だった。子供の頃からオタクっぽいけど、そう言う人種にありがちな陰気さとかそういうのは一切無く、誰が相手でも隔たりなく声を掛けることが出来る。そういうところが、玉衣のぞみという女の魅力なんだ――本人にはさすがに言わないけど。
ともかくそれ自体には何も不自然なことはない。
ちょっと変わった、けれど明るく元気な少女。それが玉衣だ。少なくともそれは記憶の中でも変わらない。
……じゃあ、何なんだろうこの違和感。
玉衣自身に? それとも、この状況に? 玉衣と僕は子供の頃のからの付き合いで、だからこういうじゃれあいのような事も無くはない。今までそんなことを感じたことを、僕はあっただろうか?
僕は玉衣に何かを言いかけた。
その時、保健室のドアが開いた音がした。僕からはカーテンの影になって見えなかったが、玉衣は何かに気がついたように椅子から立ち上がった。そして――
「あっ、たまちゃん、もう来てたんだ」
「ボクのクラス前の授業移動教室だったんだよ。んで平瀬君のクラスの友達から聞いてさ――あとたまちゃん言うな」
保健室の床を歩いてくる足音が近づいて――そして、目隠しのカーテンから、ひょいとその足音の主が顔を覗かせる。
――一瞬、呼吸が止まった。
そうだ――僕が、中学生だと言うことは。
ここが、過ぎ去ったはずの時の流れの中だと言うのならば。
焦燥感も違和感も、そんな些細なことは全て吹き飛んでしまった。僕の目の前に立つその少女の姿を目にして、僕は――
「……平瀬、くん?」
「――吉野――」
呆然と僕は、彼女の名前を呟いた。
“昨日までの僕の記憶”――その中で、その時間の流れの中で――もはや二度と会うことが出来ないはずの、その少女の名前を。