三人寄れば文殊の知恵。そしてその正解。
とある雨の日のことである。
吉野の家の近所で、“僕らの乗ったバス”に雨でスリップした車が突っ込んできた。
そして結論として――僕らを含めて“二十数人からの”バスの乗客とバスの運転手、それにスリップした車の運転手は“全員が軽傷を負った”が、誰一人入院さえすることなく、その不幸な事故は片付けられたのだった。
要は、仮定と結論の問題であった。
たとえば、宇宙が誕生した瞬間の事は誰にもわからないという。これは僕が大学の一般教養で習った無駄な知識なのだが。たとえばある過去の状態を、現在の観測から得た状態から推測する。そうしたら次はその過去の状態を基準として、半分の年代を推測する。つまり、たとえば宇宙誕生から五十億年経った頃のことを推測したら、その推測を元に次は誕生から二十五億年経った時代、さらに十二億年経った時代――と言う風に、順々に推測して遡っていく。
すると限りなく宇宙誕生の瞬間に近づくことは出来るが、この方法ではどれだけ繰り返してもゼロにたどり着くことは絶対に出来ない。だから、その瞬間の事はわからない。
それに近い話ではあった。
あのわけのわからない言葉と、僕らが知っている状況を手がかりに、推測を重ねる。
三人寄れば文殊の知恵と言うが、かなり的を射て居るんじゃないか、いや、もはやこういう事なんじゃないかと思えるようなところまで持って行くことは出来る。
けれど実際それは確かめようがないから、仮定は仮定でしかない。どれだけ隙のない理論を打ち立てても、それが正解でないと言われたらもはや打つ手はない。
だから、これ以上ないような対策を立てたと思っていても、結局は一か八かでしかない。
それから祈るような気持ちで、僕らは夏休みを過ごす羽目になった。
しかし果たして――僕らは無事に始業式を迎えることが出来た。多少のかすり傷は負ったけれども。僕は額に張られた絆創膏をさすりながら、思う。
つまりは何というか……頭数が必要なんじゃないかという玉衣の推論も、「神様ボイス」に対する吉野の考察も間違ってはいなかったのだが。果たしてそうであったとしても思い詰める必要なんて何処にもなく――まあともすればバスの人たちには迷惑を掛けたのだろうが、人の命がかかっていたのだから勘弁していただきたい。
結果的に言えば、僕はただただ無駄な恐怖と共に友人共に襲われた事になる。
擦り剥いた額に絆創膏を貼って貰いながら、僕は友人の少女達を睨み付けたのだった。
同時に目を逸らされた。怒っていないからちゃんとこっちを見ろと言いたかった。さてこれから先――とりあえず、車には気をつけようと、僕は心に誓う。
ちなみに朝から同じ路線のバスに延々と乗り続けた僕たちに、事故後、バスの運転手は一体何をしていたんだと問うた。適当に、自由研究だとごまかしたけれど――そこから一体何の研究結果が導き出されるのか、僕の方が聞いてみたい。
それから、重大な事と言えば重大なことで、余談と言えば余談であるが――結果として、玉衣と吉野が、若くして母親となる事態にはならなかった。半ば覚悟を決めていたとは言え、僕は二人に隠れて心からの安堵の息を漏らしたのである。多分気づかれてはいるんだろう、何だか不満げな目線を向けられた。
直接的に矢面に立つのは僕かも知れないが、果たして一番苦労するのは自分自身だというのは彼女たちはわかっているんだろうか?
「それはそうかも知れないけど……ねえ?」
「そうそう。その苦労は、ある意味女の子の一つの夢でもあるんだし」
そう言う面があるのは認めるが、そう言うのはもう少し後の話にしていただきたい。大体不満そうな顔をしているが、ことの目的はそういう女性の幸せとはほど遠いところにあったんだろうに。
それを言ったらまた泣かれそうだったので、敢えてそれ以上は何も言わなかったけれど。結局世の中というのは何処までも不公平なものらしいのだ。
ちなみに、玉衣と吉野からの告白の返事はまだしていない。
さすがの僕も彼女たちを完全に許せたというわけではないのだ。だから、返事をすること自体を拒否させて貰った。そういうのは改めて、何の後ろ暗いものも無い状態でお願いしたい。
とは言え多分仕切り直しをしたところで、今の僕は返答なんて出来ないだろう。彼女らの気持ちが本当だというのはわかっているし、それをわかっている自分に何とも言えない気持ちになることがある。あるいは僕に、その返答が出来る日なんて本当に来るんだろうかって、そんな無責任な事さえ考えてしまう。
――まあ、いいや。
今はきっと、疲れているだけなんだろう。
何せもう一度――記憶の中でもあれだけ疲労困憊になった受験の類とかを、もう一通りやらなきゃいけないんだ。もうしばらくは、要らないことは考えずにゆっくり過ごしたい。どうせなら、昔出来なかった事にチャレンジするとか、そう言う前向きなものをするのが良いかも知れない。
……何というか。もうしばらくは――誰も欠けることがない日常の幸せを噛みしめていたいと思う。この、僕にとってのこの上ない贅沢な日々を。
「平瀬ちょっと付き合ってよ」
それから数ヶ月が過ぎて、外はすっかり冷たい北風が吹く冬である。時刻はまだ三時を回ったくらいだというのに、既に太陽は西の空に傾き始めている。あと数日で冬休みを迎えようかという年の瀬の学校。
特にそう言う気持ちが起きなくて部活にも入っていない僕は、清掃とホームルームが終わると帰宅の用意をする。あるいはこれは、後から考えたら非常に勿体ない時間の過ごし方をしているのではなかろうか――そんな気はするのだが、多少気が抜けている自覚はある。けれど――ともかく、そんな僕の机に、無遠慮に一人の女子生徒が腰掛ける。
ロングヘアに、ちょっと無骨な感じの黒縁眼鏡。これで静かに本でも読んでいれば真面目な文学少女と言った風体である。けれどその中身はといえば言わぬが華である。いや、彼女を悪く言う事だけはするまい。彼女こそが井上茜――僕の知る過去で、僕と玉衣を支えてくれた恩人なのだ。聞くところによれば、玉衣と吉野、それぞれの過去に於いてもまた。
ああ、彼女はどれだけ僕らを助けてくれるのだろう。そんな彼女に感謝こそすれ、疎ましいなんて今は思えるはずもない。
「別に構わないぞ。それはそれとして――この間の歯磨き粉どうだった?」
「何か歯茎が締まる感じがして悪くはないけど――平瀬って何であたしの歯磨きにそんなに拘るの? ちょっと聞くの怖いんだけど、あたしってそんなに口が臭うとか?」
そんなことはない。
大体口が臭うと言うのは単に不潔であるせいだと思われることが多いが、どんなに歯を磨いても口臭が気になるときは別の原因を疑った方が良い。即ち内臓疾患か口内疾患のどちらかである。一番多いのは本人が気がつかないうちに、気がつきにくいところに虫歯が出来ている場合らしく、そのような場合は――
「いや今はそれはいいから」
「そうか。アレが口に合わないようだったらいつでも言ってくれ。何でも――」
「ちょっと平瀬歯磨き粉の話するときは本気で怖いからやめてくれない? もしかしたら初対面の時のアレ根に持ってるのかも知れないけど。いやそれがどうして歯磨きにつながるかはわかんないんだけど……それなら謝るから。お願いだから」
ともあれ目の前の“井上茜”もまた、秋頃にこの学校に転校してきたのであるが。後数ヶ月で中学も卒業だというのに大変だと思う。しかし彼女自身はそういう大変さをおくびにも出さず、実際に苦労などと思っていないのかも知れない。
果たして僕らは、今度こそは三人ともが、彼女の友人になることができた。その際に何があったのかは敢えて語るまい。大方は玉衣のお陰ではあるが、あの時の事を思いだしているのだろう、どんよりした影を背負った彼女に対して、多少やりすぎてしまった事は否めないだろう。
ともかく井上は、めでたく玉衣と友人同士になり、当然吉野と僕もそこに加わったわけだが――井上茜という少女は、リーダシップがあって社交的ではあるが、特定の誰かと言える友人が少ない。退屈嫌いでお祭り騒ぎが大好き。転校してすぐの文化祭は語りぐさである。彼女の友人であることを誇りに思う僕だが、あの時ばかりは彼女とクラスが違ったことを心底感謝した。
つまり、そういう――玉衣に言わせればまるでコメディドラマの主人公を現実に落とし込んだような性格の奴だから、普通にしていると近寄りがたいのである。
けれどそれでも、僕にとっては大切な恩人だ。もちろん今の井上にそんなことを言っても意味がないけれど。それでも得難い友人であることに間違いはなく、一度大学時代までを経験した僕にしてみれば、彼女のはた迷惑な性格も可愛いものだ。大体まだ中学生なのだから、元気があるに越したことはないじゃないか。
「歯磨き粉の話じゃないとしたら何なんだ?」
「あんたはあたしと話す事はそれしかないって言いたいわけ? ――平瀬は冬休みの予定とか何かあるの?」
中学三年生の男子に、胸躍るような予定があると考える方が間違っている。
僕は受験とかはもう何も心配は要らないから、周りよりも相当余裕があるが。けれど決まっていることと言えば……玉衣と吉野と、三人で初詣に行こうと考えている事くらいか。玉衣は二年参りに行きたがっていたが親に止められたらしい。またぞろ吉野が何やら企んでいたようだから、結局そうなるのかも知れないけれど。
「……あんたら本当に仲いいわよね……別にどっちかと付き合ってるわけじゃないんでしょ?」
「まあな。もしかしたら玉衣と吉野はどうだか知らんが」
「あの娘達とどんな顔して顔合わせたらいいのかわからなくなるから、そう言う冗談やめてくれる? ……ああもう、何か平瀬と話してると調子狂うわ。あいつらもそうだけど、こんなの初めて。あたしが誰かに常識を説くなんて、前の学校の友達が聞いたら卒倒するわよ」
「失敬な。俺は何処にでも居る人畜無害な中三男子だ――と言うか自分で言ってて悲しくないのかそれは」
「あんたみたいなのが何処にでも居るなら日本の教育は大問題よ。そう言うことに比べたら、あたしの性格なんて些細なこと!」
まあ、いくら井上が強烈なキャラだと言っても、さすがに女子中学生に後れを取るようなものでもない。だから、今になって思えば可愛いものだと思うのだが。いや、いけない、いけない。お許し下さい井上大明神様。
「俺の予定を聞いたって事は何かのお誘いか? うちの門限は七時だからな。それまでだったら何処でも付き合ってやるが」
「何で男のあんたの方が門限なんて気にしてるのよ――そうじゃなくて!」
井上は首を横に振り、僕にずいっと顔を近づけた。
「北海道に行きましょう!」
「……」
さすがにちょっと意表を突かれた。
北海道? 北海道って、日本の北にあるあの北海道? 何で北海道に。雪祭りでも見に行くのか?
「確かにあれも中々見所はあるんでしょうけど、あたしどうも“いかにも”なイベントには手を出しづらいのよね。何かこう踊らされてる感が否めないって言うか……」
「お前は何と戦ってんだよ」
「ともかくあたしが目指したいのは摩周湖よ。知ってる? 摩周湖」
「まあ一応……霧の缶詰だったかで有名な。あと透明度日本一だっけ?」
「ちなみに透明度は世界第二位ね。一位はバイカル湖」
「何か言うほど透明ってイメージ無いよなあ……で、何でまたそんなところに」
「聞いて驚きなさい。摩周湖には何と全長一メートルを超える巨大ザリガニが生息しているらしいのよ。現在世界最大と言われるザリガニでさえも、タスマニアの四十センチくらいが限度だって言うのに」
「……」
想像の斜め上だった。
いや、あまりに井上らしくて、僕は何故だかほっとしたような気持ちになってしまった。
何というか僕らが普通の中学生ではなくなってしまったせいで、井上のことが普通に可愛らしく見えてしまうことに、言いようのない寂しさのようなものを覚えていたんだ。
そうだ。これだ。この何を言っているかわからない感じ。これでこそ僕の知っている井上だ。
「……なによその目は。言いようのない侮辱を受けた気がするわ」
「いや、俺はそう言うお前が大好きだ。実家のような安心感ってこういう事言うんだろうな」
「その言葉の前半部分はたとえ平瀬相手でもドキドキするべきなのかも知れないけど、後半部分は怒って良いんじゃないかと思うのよねあたし」
「まあ気にするな――まあ、俺も玉衣も吉野も受験は多分大丈夫だろうけれど、さすがにそんな与太話を確かめに北海道に行きますって親に頼んだら、隔離病棟に入れられちまうよ」
「あの二人が一緒なのは確定事項なのね……あたしもそのつもりではあったけど」
それについてはあまり触れないでいただきたいものだが。
しかし実際どうなんだろうか。子供だけで北海道旅行なんてさすがに許可が下りないだろう。僕一人が男だと言うのもあるし、旅費の問題だってある。
「あたしだって何の後ろ盾もなくこんな事言い出せないわよ。実はうちの親が懸賞で北海道旅行を当てたんだけれど、仕事で行けそうにないから友達誘って行って来たらどうだって」
「……ツアー旅行なら確かに大した問題も無いかも知れんが……それでも北海道旅行にかこつけてザリガニ捜索ってお前……」
「もちろん理由があっての事よ」
井上は言った。
「まず、狭い日本とはいえ、未確認動物の話は少なくはないわ。有名なところではカッパや天狗と言った半ばおとぎ話の伝説的存在から、ツチノコみたいな古くからの伝承系。ニホンオオカミやニホンカワウソと言った絶滅生物系。ヒバゴンやイッシーと言った未確認生物系から、ケセランパセランや人面犬みたいな都市伝説系まで」
「……はあ」
「確かに一メートルのザリガニなんて現実味は薄いけれど、不自然ではないのよ。実際にタスマニアには五十センチ以上のザリガニがいるかも、なんて言われてるわけだし。都市伝説系はさすがに真に受けられるレベルじゃないし、イッシーだとかもさすがに怪しいものね。ロマンのある話ではあるけど、種の存続には最低でも百を超える個体が必要なのだから、山奥の狭い湖だとか広島の山の一角だとか、そんな狭いエリアに目撃が集中するのはおかしいのよ」
「その中でザリガニがわりとまともなのはわかったけれど……」
僕はさりげなく服の袖で顔を拭った。多分こいつは、僕の顔に唾が散りまくっているのに気がついていないんだろう。
「たとえば平瀬。あたしがこの学校の裏山に、身の丈三メートルで、毛むくじゃらのゴリラみたいな生き物が現れたって言ったらどうする?」
「……ああ、井上だなあって思う」
「どういう意味よそれは? ともかく平瀬は、あたしがその与太話を吹聴して……この裏山なんて名前だっけ?」
「臥竜山」
「臥竜山のガリゴンだとか言う話が、後々残ると思う?」
それは当然残らないと思うが、吹聴するのが井上でなかったらあるいは……そう言う推測は要らないし言わない方が良いんだろう。僕は黙って首を横に振った。
「未確認生物の謎はそれなのよ! 話自体がどんだけ胡散臭いものであっても! その場所に、謎の生物の目撃談が残っている! 語り継がれている! その事実だけは覆せないのよ! 話の内容はともあれその事実だけは、紛れもなく目の前にある! それが未確認生物のロマンなのよ!」
「あ、はい。それで冬休みにツアーついでに、摩周湖でザリガニ探しをしようって?」
「どうせ暇なんでしょ? 今更覆せないわよあたしちゃんと聞いたんだから――」
近い近い。
ほとんど鼻先が当たる距離なんだけど。誰かに見られたら誤解されそうだ――いや、それはないか。ともかく井上は黙っていれば美少女なんだから、あるいはそういう意味で彼女を狙っている男子諸兄が、空気を読まずにこの話に立候補とかしてくれたらと思ったのだが、幸か不幸か教室に残っている男子生徒は僕だけだった。
……玉衣と吉野、それにこいつのおかげで、僕は近頃男子の中で孤立して居るんじゃないかと思い始めた。別に今更男子中学生でつるみたいとは思わないが。
高校に入ったら男の友達をたくさん作ろうと、まるっきり馬鹿な事を決意しつつも。
ともかく近い。気がついてないんだろうが――僕は井上の両肩を持って、自分から引きはがした。
「痛っ、ちょっと、何すんのよ」
「すまん――けど近い」
「はあ? 何を今更――まさか胸が当たったとか中学生みたいなこと言ってんの?」
「俺は確か男子中学生だったと思うんですが」
「だからってたかが――てっきりのぞみと美琴の胸を好き放題してるのかと思ったんだけど」
「断固否定する」
むしろ好き放題やられたのは僕の方だ。口が裂けても言えはしないが。
あの二人が妙なことを口走っていないだろうかと今更ながらに不安になる。いや、もうこの際、僕がどういう扱いを受けようがさしたる不満はないが、馬鹿げた事で井上の耳を汚すことは許さないぞ。うちの大事な娘にいやらしい事を吹き込むなんてもってのほかだ。
「なんか今すごく馬鹿げたこと思わなかった?」
「そんなわけ無いだろ何だお前エスパーか?」
「……まあいいけど――平瀬がそういうの気にするの意外ねえ……今度下着買いに行くの一緒に来てくれない?」
「何を思ってそんなことを言うのか非常に疑問なんだが」
「そりゃもちろん単純に面白そうだから」
「お前にとって面白いことにはならんと思うぞ……それこそ玉衣か吉野に頼めよ」
「いやあの二人ねえ……あたしとああいうところ行くと親の敵みたいな目で睨んでくるしちょっと……これ、冗談抜きで。間違っても自慢とかする気ないんだけど。平瀬は知らないでしょうけど、大きいサイズで可愛い下着ってあんまり無いのよ。ショーツとの組み合わせも限られるしさ。下着だけじゃなくてトップスも考えて選ばないと太って見えるし、かといって下手にタイトなの選ぶと男の目が……」
「知らないに決まってんだろ――いたたまれなくなるからその手の話は女同士で頼む」
あの二人は正真正銘の中学生相手に何をやって居るんだと思わなくもないが。
それこそ男が首を突っ込んで愉快な結果になるはずもない領域なので、僕はもうそれ以上は何も言わない。
「それでザリガニの話に戻るけど」
「戻るのはむしろ北海道じゃないか?」
そんな事を言っていたら、教室の扉が開かれる。
田舎の学校の開放廊下。冷たい空気に少し頬を赤くした女子生徒が二人立っていた。
「やっほう平瀬君」
「迎えに着たよ」
言わずもがな、僕の友人達である。
何故僕が迎えにきて貰う必要があるのか、ごく自然にそんなことを言った吉野に思うところがないわけではない。ともあれ彼女らは以前と違って、普通に下校時に僕を誘いに来る。
「お、丁度良いところに来た」
「何なにどうしたのあかねちゃん――ってか何であかねちゃんが平瀬君のクラスにいるのさ」
「全く同じ事はあんたらにも言えるんだけどね? ともかくのぞみと美琴はザリガニについてどう思う?」
僕とある程度の事を話したからか、言葉が足りなすぎた。
普段は井上を軽くあしらえる数少ない同級生である二人だが――さすがに不思議そうに、顔を見合わせて首を傾げるしか無かったのであるが。
どうして僕が、今こうしていられるんだろう。
時々、考える事がある。人生をやり直したいと思った経験がある人間は多いだろうが、実際にそう言うことが出来るわけじゃない。前世や来世があるのかもわからないが、ともかく主観的に見れば人生は一度きりで、やり直しなんて効かない。そう言うものだ。
確かに僕は多少の辛い思いをしたが、どう考えたって世の中で一番不幸だと言うわけじゃない。事故や災害、あるいは犯罪に巻き込まれたりした、実に救えない話が世の中には数え切れないほどにある。辛いと言ったってやり直しが利かないのが人生であり、それは僕だって同じ筈だったのだ。
もちろんやり直し、やり直しと言っているけれど、本当にやり直しているのかはわからない。
ここが現実かどうかと考えるのはもはや現実逃避だが。
僕は自分の視点からしか世界を見ることは出来ないが、さりとて間違いなく僕がその世界の中心だというわけではない。そんなのはさすがに恐ろしすぎる。
では元々僕の記憶の中にあった僕はどうなってしまったのか? それは玉衣や吉野にも言えることだ。ともすれば何処かの時点で世界は分岐して、それが再びここに戻ってきたのかも知れないが、ではその世界には僕らしか居ないのかと言う話になる。
「平瀬君“セカイ系”ってラノベのジャンル知ってる?」
「お前に何回か聞かされた奴だな。主人公とかヒロインの些細な行動が、何故か世界の行く末を左右するって奴――まさか俺たちがそうだとは言わないよな?」
玉衣は首を横に振った。
「そこでボクは現状に“逆セカイ系”を提唱しようと思う」
僕と吉野は顔を見合わせた。
「と言うか、平瀬君もみこっちゃんも、これに関してはもう考えても仕方ないことなんだってわかってるんでしょ? 仮にこの事象に説明が付けられる何かがあったとしても、それはきっと今の僕らがどうやってもたどり着けない解答なんだって」
それはまあ、そうなのだ。
大体、今更そう言うことを考えても意味がない。それは僕にも十分にわかっている。
あのまま記憶の続きを過ごしていた方が良いのか。この時間に戻ってきた事は後悔するべきなのか。吉野の事を助けられない方が良いというのか。
どれもこれも意地の悪い質問ではあるが、当然今更悩むまでもないことだ。
たとえ僕の記憶にある元の時間軸の僕がどうなろうが、彼女たちの方でも同じような事が起こっていようが、あるいはそのせいで分岐した世界線とやらがどれだけ崩壊しようが、僕には関係ない。今の現実とは、天秤に乗せようもないからだ。
「だからの逆セカイ系。どうしてもその辺がモヤモヤするなら、割り切ってみたらいいんじゃない?」
何を、と、吉野が言った。
「ボクらがここにこうしていることに大した理由はないと決めつける」
「でも――それじゃ、あの、私たちが聞いた不思議な声は」
「未来の記憶を知ったボクらがここに帰ってくるんだもの。それだけ不思議な出来事なんだから、ご都合の上乗せくらい一つくらいあっても不思議じゃないよ。みこっちゃんが言ったんじゃない。記憶云々の話でそう言うことは」
そもそも、僕らが未来の記憶を有していると言うこと。これが非常に難しいところなんだ。記憶って言うのは極論を言えば、脳みその神経伝達ネットワークが構築している単なるデータだ。単純に、今の僕らにそのデータが保存されているはずがないんだ。
無いはずのものが存在するなんて――変な声を聞いたことがあるような気がすると、考えてみればそんなことよりも余程不思議な話じゃないか。
この際魂がどうとかそう言うことは言わない。結局さっきと同じで、確かめようがない事象なんだから。
「ボクらがここに戻ってきた事に、きっと大した意味なんて無い。ボクらに“セカイ系”小説の主人公みたいに世界を左右するような力は、絶対にない。けれど、非力なボクらに世界は干渉してくる。それこそ、人間が自然災害にあらがえないように、どうやっても避けられない不条理を、世界は僕らに押しつけてくる」
「それで“逆セカイ系”か」
「そ。これはぜんぶただの自然現象で、たまたまボクらがそれに巻き込まれただけ」
……確かに、そう考えるのが一番自然なのかも知れない。少なくとも未来の自分に対してだとか、妙な事は悩まずに済む。
「ご都合主義と言えばそうなのかも知れない。けど結果としてそうなっていることに、文句なんて付けても仕方ないよ。何かの偶然でボクらはまたここに揃うことが出来た。きっと三人とも同じ事を考えていたから、無意識のうちに助かる方法を思いついて、それがあの不思議な声だったのかも知れない。そういうものだよ」
「……何だか私、昔の小説を思い出した。偶然人知れず開発されてたタイムマシンに乗って、過去の自分を助けに行って、最後は冷凍睡眠から目覚めて、過去に助けた女の子と結婚するお話。細かな疑問はいくつもあるけど、それはきっとただの偶然だったんだろうって……」
「“全ての猫好きに捧げる”ってアレだね。まああれもご都合主義っちゃそうだけど、でもあの読後感の爽やかさは全てに勝る。そう言う奴――いいんじゃないかな。別のSFだけど“宇宙は寛大だ”なんて台詞もある。これが悪い夢なら覚めるだけだし、でも平瀬君もみこっちゃんも夢じゃない」
それだけでいいじゃない、と、玉衣は行った。
確かにそう――現実的な悲劇よりチープなご都合主義の方がずっとマシだ。
そんな小説を突きつけられたらご都合主義に辟易するかも知れないが、現実の人生に、わざわざ悲劇を選ぼうなんて物好きも居ない。
だがこれがただの自然現象でたまたまなんだとすると――また同じ事が起こらないかという不安があるにはあるな。
「まあ、もう対策方法はわかったんだし、不安はないよね?」
「うん。そうなったらまた、絶対みんなで一緒に集まって――一緒に、助けよう」
力強い笑みと共にそういう彼女らに、僕も同意する。
そう。僕らにとって、もはやそんなものは、危険のうちには入らない。
だとすれば、何の躊躇いもない。たとえ同じ事が起きてしまったって、僕は吉野を――ことに寄れば玉衣も助けるだけだ。何度も、何度だって。
「ところで二人ともどうするの。あかねちゃんのお誘いは」
玉井が言った。
正直僕は行きたくない。井上は割と自由時間が多いツアーで、宿泊も摩周湖から離れていないから、十分捜索は可能だと訴えていたが。積雪自体が珍しい地方に住む僕たちが、真冬の北海道で水辺の生物を捜索するなんて正気の沙汰じゃない。摩周湖がどういうところか詳しくは知らないが、自然が豊富に残されているなら下手をすれば遭難する。
井上の事だからある程度は考えて居るんだろうが。
それでも僕には全ての問題がクリアになるとは思えなかった。笑い話で済む事ならつきあってやってもいいけれど――せめて夏場ならと思わなくもない。
吉野もおおむね同意のようだ。
返答は保留にしてあるがさて何と説得したものか。そう言うのがないただの北海道旅行なら大歓迎なんだが。僕は前の記憶も通して、北海道という土地に行ったことが無いのだし。
ああ、それと。
冬休みに僕だけ友達と北海道旅行なんて、小夜の奴がぐずるだろうなあ。
「あの娘すっごく平瀬君のこと好きだもんね」
吉野が苦笑しながら言う。
まあ、どうしても甘やかしてしまうと言うか、それは否めない。
だって僕の記憶の中では、小夜は生意気な高校生だ。悪いことに僕より頭が良いのは恐らく間違いないから、何かあったら口で丸め込める自信がない。となると、妹に対して特に誇るもののない兄貴なんて虚しいものだ。
けれどそんな妹が、お兄ちゃんお兄ちゃんと無邪気に懐いてくれてるんだぞ。
この可愛い生き物を、あの生意気で小憎たらしい生物に進化させてなるものかと――そんな風に思ってしまうと、どうしても。甘やかしてしまうと言うか、努めて優しく接してしまうと言うか。
「気持ちはわかるけどさー……」
「ああ、そうか。お前らの記憶の中じゃ俺が居ないから、小夜とも接点が無いんだよな。女子高生・平瀬小夜を見たらきっとお前ら腰を抜かすぞ」
「それは大げさだよ。いや、わからないけど、喧嘩ばっかりってわけでもないんでしょ? さすがに小学生と高校生を比べるのは小夜ちゃんに失礼じゃない?」
「だってお前ら、俺と一緒じゃなきゃ風呂はいるのも嫌だとか、俺を萌え殺す気かって可愛い生き物がよお……」
「……そういやあの時も小夜ちゃんナチュラルにお風呂場に入ってきたけど……」
「……ねえ平瀬君、よく考えたら小夜ちゃんってもう小学校の高学年だよね?」
そこに食いつかないでくれ。僕が言いたいのはそこじゃない。小憎らしい高校生に進化させたくないのは本音だが、その本音は女子高生の妹と一緒に入浴したいという意味じゃない。
「それ以前にね? ちらっと見ただけだけど……あの娘、それなりにおっぱいあったよね? さすがに胸が膨らんでたり下の毛が生えてたりする妹をさ、子供だからって誤魔化すのはちょっとまずいんじゃない? 下はちゃんと確認してないけど――平瀬君どうなの? 小夜ちゃんもう生えてるの?」
「その言い方マジでやめろよお前」
そして女子高生どころか今の小夜は小学生なんだが。お前らの中で平瀬朔夜という男は一体何だと思われているのか。
「……今の私たちも中学生だけどね」
ぼそりと吉野が呟いて、玉衣の顔がかっと赤くなった。
僕は比喩でなくこいつのためなら死ねるが、だからと言って何を言われても許すわけじゃない。吉野の頭を拳骨で挟みながら玉衣に釘を刺す。
いや、逆に。この際どう思おうが勝手だが、だとすればこの二人は実の妹に良からぬ事を企む度し難い変態男に好意を抱いたと言うことになる。その事実を忘れないでいただきたい。
「ひ、ひらせくん、やめてぇ、こめかみが、こめかみがえぐれるう……」
「いやいやボクは平瀬君がどういう嗜好の持ち主でも軽蔑なんてしないよ。うん、まあ、小夜ちゃん可愛いし仕方ないんじゃないかな? ボクでさえこう悪戯したくなると言うか」
「お前の方こそ人の妹をどういう目で見てやがるんだコラ?」
まあ今はうちの妹のことはいい。
僕ら共通の救世主であるところの井上様だ。
僕らは多分、彼女の事を一生崇めるだろうが、世の中というのは不条理なもので。宗教家とは時に戦争よりも多くの犠牲を生むのだ。
……言っていることが無茶苦茶なのはもとより承知の上である。
いくら井上が井上大明神様でも、零下数十度の北の大地で、嫌がらせのように凍らないというかの湖での水遊びなど、ごめん被るのである。
「それじゃ改めて。井上にどうやってザリガニ探しを諦めさせるかだが――」
「東岡の階段の横にさ、朝は氷の張ってる砂防ダムがあるよね? そうそう発電所の脇の。あそこにあかねちゃんを誘い出して、突き落としてみるってどうかな? そしたら真冬の北海道でザリガニ探しって言うのがどれだけ無謀かわかるでしょ」
「……みこっちゃん涼しい顔で言うけど、それ下手したらあかねちゃん死ぬんじゃない? ボクは裏の用水路で釣ってきたザリガニを食べてもらうのなんてどうかと思う。再起不能レベルでお腹壊せばトラウマになるかも」
「お前こそ井上を何だと思ってんだよ大体喰うために探すわけじゃ――あいつなら喰うかも知れんわ何かそんな気がする。つかお前らが目的のために手段を選ばないのは身に染みたが、井上のことちゃんと友達だと思ってんだろうな?」
――何にせよだ。
まあ仮に、僕らが井上に引きずられてザリガニ探しに連れて行かれたとしても。
きっとそれもまた、このこれからの日々に綴られる記憶の一つになるのだろう。
あの無味乾燥とした記憶じゃない。一つ一つが鮮やかに彩られた、宝石のようなこの日々の記憶である。玉衣と吉野――そして僕自身が居る限り、それは、揺るがない。
絶対に揺るがせない。守り通して、みせるさ。