第2章・綾姫
壱・虎千代side
突きつけられた現実は、余りにも厳しくて……私の目は、驚愕の事実におおきくみひらかれ、表面張力で水面がふくれあがり、たまってた涙があふれ落ちそうになった。
「うっ――…ぐえっ―…えぇ――…」
そうすると母と名乗る人も困っている様子で、泣きはじめた私を抱いて、オロオロ歩き回っているようだった。そんな時、遠くで廊下をパタパタと走る音がして、それはだんだんと近づいてくる様子だった。
「荻野や、外が騒がしい。虎千代が泣き止まぬではないか。静かにするよう言うてまいれ」
「はい、ただいま」
この母と名乗る人は、私の機嫌をそこね、これ以上泣かれやしないかと、苛々と外の騒ぎを気にしているようだ。そして泣いている私を宥めようと、軽い振動を私の身体に与え、優しく揺すった。
「あぁ……泣くでない虎千代。男の子であろう」
―――男の子って?私が男ってこと?ありえない、赤ん坊になったどころか、男になってたなんて……。
皮肉にも母と名乗る人のなぐさめがあだとなる。私は、受けとった情報にますます混乱し、高く神経質に泣き声をあげる。そして抱き上げられて動きずらい体を、突きつけられた現実から逃れようと懸命にもがいた。
「綾姫さま―――お待ちくだされ。なりませぬ」
「いやじゃ――ははさまにあう――」
「姫さま、いまは若さまがお休みになっておりますゆえ―――しばしお待ちくだされ……」
私が混乱のただなかにいるときに、その騒がしい足音が間近にせまり、だれかが言い争う甲高い声が、いつもの静かな空間をざわめかせ、不安が一気に押し寄せる。
―――いったい何が始まるというの、私は近づいてくる騒音に恐怖心を煽られ、火がついたように泣くしかなかった。
弐
さても不思議な事が、この世には有るものです。産まれた子供に前世の記憶が有りました。それだけでなく、記憶のなかでは女だったのに、男の身体に産まれついたのです。
彼女は木下登美子だった前世を終えて、虎千代と名付けられた赤ん坊になりました。彼女……ああ彼と言い直しましょう。彼は、いま現実を受け止められなくて、葛藤は深まり大泣きしている様です。
さて、そんな虎千代の気も知らないで、運命の女神は新たな出会いを運んできたようです。どうやら虎千代と二歳ちがいの姉である綾姫が、この騒動の素らしく。侍女がとめるのも聞かず、虎千代の寝所に駆け込んできたようです。
「ははさまぁ――…」
大泣きしている虎千代を抱き上げ、困った顔をしてあやす虎御前をめざし、寝所に駆け込んだ勢いで、思いっきり抱きつく綾姫に、みな驚いた。
虎御前は生来の運動神経の良さで、虎千代を片手に抱きかえて、なんとか綾姫を片手でいなす。虎千代は加えられた衝撃で、驚いたように泣きやんだ。
「虎千代は、直ぐに泣く過敏な子だから、ここに来ては駄目だと、そなたに言っておいた筈ではなかったか?」
「あやは、ははさまに、あいたかったでしゅの」
母親から、ギロリと切れ長の鋭い視線を向ける向けられて。綾姫は舌足らずに言い訳すると肩をおとした。どうやら、まだ甘えたいさかりの綾姫は、出産後に会いにきてくれない母君に会いたかったらしい。
―――わたしの孫と同じくらいかしら。たどたどしい言葉が、可愛いわ。
前世の孫と同じくらいの女の子の声をきいて一瞬の混乱もおさまったのか、虎千代は口元をホロリとほころばせた。泣きやんだ子の笑顔をみつけた虎御前が、綾姫に赤子をみせた。
「まあ……虎千代がこんなに笑っていやる。綾姫こなたが弟の虎千代ですよ」
赤ん坊を始めて見る綾姫は、興味津々と真っ黒な目をくりくりとして虎千代を見つめた。
参
「トラチヨかあ……かわいらしいでしゅ。わたしはトラチヨのあねさまでしゅか……ははさま?」
「そうですよ綾、あなたはもう姉になるのですから、確りとしなくてはのう」
「うん、がんばゆ。トラチヨをまもりゅ」
可愛いらしい綾姫の『守る』という頼もしい発言に、侍女たちも明るい顔をして笑っていた。
久々に訪れた虎千代の笑顔に、みなは安堵のため息をついた。やがて虎千代は、泣き疲れたのか、口元がほころんだまま眠りにつきました。
「若君の笑顔がこんな愛くるしいなんて、始めて知りましたね御前様」
「ほんにのう、やはり子供は子供同士ということか、のう荻野」
以来、姉としての自覚を持った綾姫は虎千代のそばに居着くようになり。周囲は、それを公然と認めたのでした。
しかし、一方の虎千代の身になって考えると、かなり迷惑なことだったと思われます。まあ、そんなこんなの騒動の後に、為景がやって来てきました。
「おお、虎千代が笑ったと聞いたぞ!!」
ぞろぞろとお供をつれての登場です。大きな地声を張り上げた為景が、虎千代の部屋へと入ってくると、すかさず綾姫が為景の前にでる。
「とうさま!!ちぃ――でしゅ。トラチヨがおきるでしゅの」
「す、すまん」
人差し指を口元にあてがい、可愛い顔をしかめて為景をたしなめる。乱世の奸雄と呼ばれる男も、綾姫の前では形無しのようだ。
「これ綾、父上に対して礼儀をかいておる。申し訳ありません我が殿、妾がいたりませなんだ」
虎御前は、言うとすぐ綾姫の尻をペシッと叩き、一緒に座らせて、為景に頭を下げさせた。為景も、綾の勢いに一瞬謝ってしまったのの、気まずい顔を一つ空咳をして元にもどし、進められた上座に腰を落ち着けた。
「いや、なにかまわぬ頭をあげよ!綾の姉ぷりも板についてきたようじゃ。実はな、また戦に出ることになってのう。虎千代の顔を見ておこうと思ったまでじゃ」
「またぞろ、一揆が起こったのですか我が殿?」
―――越後は一向宗に煽られた一揆が頻発し、まだ定まらず混沌として、戦の火種はあちこちに燻っておりました。
第2章・綾姫[完]