第10章・龍旗
壱
晩秋の冷気をはらんだ木枯らしが栃尾平野を駆け抜けた。城下は静まりかえり風が旗指物を靡かせている。今まで盛んに唸り声をあげていた犬は姿を消し、眼前に見える栃尾城は、攻め寄せる軍勢を前にして、静かに悠然と佇んでいた。
「いまいましいクソ餓鬼め!!」
地侍逹のなかでも最大兵力をもつ池ノ一党を率いる池ノ内定成は、苛立ちを隠せないでいた。景虎たちが栃尾城に移動するさい、一戦を挑んだ地侍逹を指揮したのが彼の叔父である。
景虎に対する憎しみは、骨髄にまで達している。剛腕でならす叔父を倒したのは、若干十四歳の長尾の小倅だ。それにもまして一瞬で蹴散らせると侮っていた相手から、軽くあしらわれ散々に翻弄されている。
そんな体たらくを目にして、地侍逹の中にも連合を躊躇う者が出て来ていた。このままでは池ノ一党の沽券にも関わる。この乱世、強き者が正義。ならばこそ、是が非でも汚名返上する必要があった。
「池ノ内殿、こちらの手配りは終わった」
「鮎川殿か、こたびは援軍を感謝する」
鮎川は揚北衆に属する領主であり、池ノ一党とは縁戚にあたる。池ノ一党にとって今度こそ負けられない戦ゆえ、再三頼み込んで後詰めに来て貰っていた。
「それにしても、豪勇でしられた池ノ一党を手こずらせるとはのう。あの守護代の弟は中々やり手とみえる」
「戯れ事を申されるな、たまたま油断してただけの事よ。今度こそ捻り潰してやる」
「そうじゃ、その息よ。こたびは揚北からも兵力をつのって増援に来たのだから、勝って貰わぬとな」
地侍逹は、およそ4000の兵力で来ていた。後詰めを合わせたら7000にもなる。地侍逹は最大兵力でもって押し掛けたのだ。
揚北衆の間でも、景虎の器量が取り沙汰されている。たった500だと侮っていた討伐隊が、蓋をあけたら3000にも膨らんでいたのだから、彼らは狐に摘ままれような気分だった。
1000程しか居なかった栃尾城は、いまや4000もの兵が詰めている。侮れない勢力にまで成長した討伐隊を、揚北衆は無視出来なくなっていた。まして景虎は、数に於いて上回る地侍逹を翻弄し、その悉くを勝利している。
―――いまや揚北にとって侮れない脅威となった男。長尾景虎、その手並み、嘘か真か確かめさせて頂こう。
弐・景虎side
城の表が敵兵に取り巻かれている頃、私はいまだ刀八毘沙門と向かい会っていた。城外は喧騒に包まれていたが、山頂に程近い部屋は静けさに包まれている。
身動ぎすらせず対座していると、突然胸の青白き焔がグワッと一気に身体を圧し包みはじめた。己の精神とは別に、暴れはじめる焔をいなしていると声がした。
「そろそろ、戦の先端が開かれておりましょう」
突然、部屋のなかにのんびりした口調が聞こえて来たので、景虎は声のする方向へ顔を向けると、源流が好好爺のような顔で控えていた。
「……源流さん?」
「どうですか若様、踏ん切りは付きましたかな?彼らには段蔵もついておるし、イザとなれば何とでもするじゃろ。彼らを信じておやりなされ」
源流の言葉が胸に滲みた。私は己に完璧を求めすぎたと気がついた。総大将の重責に知らずと肩肘を張っていたのだ。己の矮小さに笑ってしまう、己の策におぼれ、窮地に陥れたかもしれないことを悔やんだ。助けられない己を嘆き、仲間を信じ待つことを忘れていた。
―――彼らの最善を信じよう。そして私は私なりの最善を尽くせば良い。結果は天に委ねよう
「……行こうか」
景虎は刀八毘沙門に一礼すると、戦場に出る決意を秘めて部屋を出る。するとどうだろう、向かって右方向の山あいから、細く白い煙が上がっていた。
私は一瞬動きを留め、その後腹の底から笑いが込み上げ自然と頬まで緩んでいた。悩みの雲も晴れ、待ちかねたように青白い闘牙が私を圧し包み、知らずと唇は笑みの形を作りあげ高く笑い声をあげていた。
「ふはは……天は我に味方した」
「……お虎様?」
部屋の前にずっと控えて居た弥太郎が、眩しいものを見るように目をすがめる。
「弥太郎、搦め手から兵を割いて二の丸に詰めよ」
「承知!!」
動くとなったら景虎の行動は早い。景虎の姿に実乃は安堵のため息を漏らした。そして暑くもないのに流れる汗を拭く、実乃が尋ねてきた。
「軍義は如何なさいますか?」
「軍義は無用じゃ。私が前にでよう、乃は二の丸郭に詰めよ」
私は明るい声で実乃に返して、大股に外郭へ駆け出した。駆ける足は羽が生えたように軽かった。栖吉の兵には謝ろう、信じて居なかったことを謝ろう。
―――何より生きていてくれた事に感謝した。これですべての条件は揃った。あとは敵を罠に誘い込むだけだ。
参
かたや城の表では、勝ち気にはやる地侍逹が布陣を完成させるやいなや、兵を動かし始めていた。今度こそ一揉みにしてくれんと、数を頼みに力攻めで城を落とすつもりだった。
いまだ軍義さえしない景虎を不審に思いつつも、山吉らは数を頼りに力まかせに歓声をあげて押し寄せる敵に対し、矢狭間から矢を容赦なく浴びせかけていた。
「放て――!!」
押し寄せる蟻の群れは途切れることなく、山肌を押し登ってくる。敵は盾を前面に押しだし、倒されたても次々と兵を繰り出してくる。外郭にいる者逹の奮闘虚しく、次第に形勢は敵に有利に働いてきていた。
「者共、あのような柵押し倒してしまえ!!」
「おおお――!!やれ押せ!!」
前面につらねた強固な柵を、敵は数を頼みとして力まかせに押し倒しに掛かってきた。柵はいまにも倒れそうになりながら、ギシギシと揺り動かされ危なげない様子になっていた。
守る方にしてみれば、これはかなり精神を圧迫させられる事態だった。いつ敵が柵を倒し乗り込んでくるか分からないのだ。戦慣れた者は必死の形相をして弓を放つが、農兵の多くは恐怖に足がすくみ動けなくなる者もいた。
こんな有り様に山吉以下誰もが一様に、この場は引かざるおえないと覚悟した矢先、景虎が外郭に姿を見せた。彼は落ち着いた様子で柵を眺めている。景虎が現れた事で、萎えかけた将兵逹の士気が一気にに盛り上がった。信仰めいた思いまで湧いてくる。
―――景虎様が居られる限り、我らは負けはせぬ!!
勢い込んで山吉が景虎に尋ねた。彼の顔が緩んでくいるのが端目に良くわかった。
「景虎様、如何なさいますか?」
「うむ一旦、繰り退いて二の丸郭へ誘い込む」
「わかり申した。皆の者合図がありしだい繰り退きに掛かれ。先の一手は庄田にまかせた陣を構えろ。後の一手は柿崎にまかせる持ちこたえるのじゃ」
オオオ――――
繰り退きとは、二手に別れて、互い違いに援護しながら退いていく戦術である。これは兵の練度が高くなければ成功しない高度な退き方である。一方が崩れてしまえば終いなのだ。
敵兵はじれて柵に取り付き、身体を乗り出そうとするが、すべて討ち取られる。そんな攻防が続いた後、柵は砂煙を立て倒される。勝ち気に逸った地侍の群れは、一気に外郭へとなだれ込んできた。
「いまだ、退け!!」
四
「ほう上手いもんじゃ、あの若造なかなかやりおる」
「鮎川殿!!何を言うか、あんなのは見掛け倒しだ。みなボヤッとするな押せ!!」
みごとな繰り退きに、一瞬躊躇いをみせた池ノ内だが、考えなしにひたすら力まかせに兵を押しだす。しかし景虎逹に上手くあしらわれて、怒り狂っていた。
それは敵が二の丸郭まで押して行った時に起こった。二の丸に逃げ込む敵を、深くまで追い縋った先頭の者逹が、斜め上からの矢嵐に次々と討ち取られゆく。そう二の丸郭は高所にあり門は固く口を閉じ、山から射ち下ろされる弓に寄せて行くわけにもいかず。池ノ内は歯噛みをして悔しがった。
「うぬっ……若造めこしゃくな」
「池ノ内殿、ここは一旦退いて装備を整えて出直そう。どうせ奴らはとじ込もって出てくるまいて」
敵は矢嵐に一旦退き、外郭まで退いてゆく。しかし、それを見ていた景虎は動いた。
「我らは追い討ちをかける」
「お待ち下さい。景虎様いくらなんでも無謀すぎる」
景虎をいくら戦上手と認めていても、実乃は堅実な男だけあって、さすがに無謀だと止めに入った。
「実乃、栖吉が来たのだ」
「なんと……」
実乃にとって栖吉からの援軍は、すでに栃尾が孤立した時点で諦めていた。しかし今、援軍が来ている事を知って、思わず涙ぐんだ。
景虎は実乃の肩をポンと叩くと二の丸郭うちに集まった将兵の前に立つ。景虎はひとわたり兵を見渡し皆の注目が集まったとき、よく通る声で叫んだ。
「みな聞けい、運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり、何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば死するものなり。運は一定にあらず、時の次第と思うは間違いなり。武士なれば、われ進む道はこれほかなしと、自らに運を定めるべし!!城兵、龍旗を振れ、懸かり乱れ龍の旗を!!」
景虎は、片手を高々と振り上げた。すると龍旗が高々と掲げられ、風を巻き上げ大きくたわみ左右に振られると、将兵は腹の底にずっしりとした覚悟が定まり、皆の顔付きが変わる。
「よいか者共、運は我らに味方した。我が軍勢に刃向かうは凶徒なり、悪きものに天誅をあたえん!!いざ、参る」
景虎の腕が振り下ろされると、貝のように固く閉じた門が解き放たれ、兵は気勢を吐き一斉に雪崩をうって山を駆け下りた。
第10章・龍旗[完]