第9章・籠城
壱
景虎逹の朝駆けはみごとに栃尾勢に勝利をもたらした。しかし早朝の攻撃で機先を制された地侍逹は、後続する部隊を再結集して形勢を挽回するべく、大挙しておしよせると思われた。
やはり、それはちょうど太陽が中点をすぎ傾きかけた時におこった。昼前に再び放っておいた犬逹が、城下のあちこちで唸り声をあげていた。
「……い、犬が……唸ったら」
「何?奴ら以外と早いお出ましだったな。太郎、犬の回収をいそげ!それに城の者へ伝令をたのむ!」
「……わ、わかったろ」
太郎は慌ただしく城の表門に向かって走っていったおそらく途中で、伝言を伝えるのだろう。景虎はといえば、朝駆けから帰り太郎と共に風呂へ入ってから、ついさっきまで仮眠を取っていた。睡眠不足なのか、顔を荒っぽく洗うと呼吸を調え、刀八毘沙門の像の前に対座する。
普通ならば、景虎は太郎のように城門に向かって行くのだが、どういう訳かいきなり座禅を組み出した。変におもうかも知れないが、彼なりに理由がある。それは心にかかる事柄があるからだった。
―――戦術はかえることが出来る。しかし、気がかりなのは栖吉の援軍のこと。大丈夫だろうか?
最初に立てた戦術に、イレギュラーな天候の変動が加わって、栖吉軍を難渋させているのは明白だった。景虎は天候のことまで考えが至らなかったといまさらながら後悔している。そして今、気にかかるのは彼らの安否だった。
―――刀八毘沙門、こい願わくば彼らをお守りあれ。
「金津さま――、少しだけ休憩しましょ。皆も辛そうです」
「申し訳ない金津様。こら長実、男が弱音を吐くなと何時も言ってるだろ!!」
「かまわぬ安実、みな少し休め、栃尾までは後少しだぞ」
景虎の策を為すために栖吉勢が選んだのは、山超えから栃尾に侵入する道だった。しかし、行軍を開始した栖吉勢に予期せぬ冷たい雨の洗礼が降り注いだ。
その雨は、雪の降るまえの冷たさにいろどられた氷雨と呼ばれている。厄介な事に氷雨は細い雨が長く降り続くのだ。
長雨は山の地盤を緩め、山道は泥濘になり、勾配の強いところには地滑りする箇所まで出てくる始末。そして雨は止んだら濃い霧が涌いてくる。
こんな時節の山越えは、余程山になれている者でも敬遠する。まして彼らは甲冑を着こんだ戦装束だ。もし崖下に滑り落ちたらなら確実に助からない。
弐
普通でさえ武装した軍勢を率いて山を越えるのは勇気がいる。それなのに悪天候まで重なって、行軍は困難を極めた。事実ゆるんだ崖から滑り落ちたものや、霧で前が見えず危うく道を踏み外し怪我をした者もいる。
栖吉の男逹は道中良く堪えていたが、いまや皆憔悴した顔をかくせないでいる。戦に行くどころか、自然の脅威を目の前に士気は落ち、出来るなら帰りたいと思っている。
この栖吉勢の中には幼きころの景虎を知る者もいる。皆は景虎の為に力を貸そうと自ら志願した者が多い。そんな彼らでも、この有り様なのだ。そんな状態の彼らをまえに金津が、落ち着いた声で話しかける。
「聞け――栖吉の者逹よ、この長雨で残念なことに数名の死傷者をだした。しかし、この様な事態では後に退くのも前に進むも同じだと思わんか?どうせなら我らは前に進もう、そして若に栖吉衆の底意地みせてくれよう。金津新兵衛、この通り頼む」
金津新兵衛とは誇り高き栖吉の男、その彼が皆に頭を深く下げた。それは皆の心を雷雲にうたれように痺れさせ、腹を潔く決めさせた。
「よおし、もうひと踏ん張り頑張るか」
「オオオ……どうせなら栖吉の底意地をみせようぜ」
開き直った彼らの目は、明るく澄みきっていた。新たな勇気が湧いて、力が全身にみなぎって来る思いだろう。それぞれが、決意を新たにして山越えを開始する。
「ヒユ――、さすがは大将の傅役だけある。やるな金津の旦那」
今まで黙って、一人飄々と行軍を見守っていた段蔵が、ポツリと呟いた。段蔵にとって山越えは、それほど過酷なことでもないと思っていた。彼らはもっと精神的に追い詰められる修行を重ねて来ている。
こんなどうしようもない状況の時こそ、逃げた方が危険だと本能に染み付いているのだ。だから、あの言葉は的を射てると関心していた。指揮官の優劣は、最悪の事態をまえにした時に決まると感じ入ったようだ。
金津にしてみれば雨が降ろうが槍が降ろうが、元からやり遂げる気概がある。それは、夢にまで見た景虎の勇姿を見んがための苦労だった。幼い頃よりその将の将たる器を見極め、苦労して育てあげた若君。
別たれて一時は、やりきれない想いに身を引き裂かれたような気持ちを味わった。だが、今は盟約通り一生側に仕えることが出来るのだ。
―――必ずやこの金津、若の策を成らしてみせる。待っていろ、我が主。
参
一方の景虎といえば、敵はもう目前に終結してきているというのに、軍義さえしようとしない。あれからずっと刀八毘沙門の前に対座していたのだ。
そして弥太郎は、まるで寺の門前にある仁王像のように、太い眉を寄せて主の部屋の前で待機している。その弥太郎に、実乃や表郭に詰めている山吉がら、使い番が何度も様子を訪ねに来るのだが、彼は何と答えて良いか分からずに沈黙を通している。
事実、弥太郎は困っていた。何度もこの様なことはあったが、今回は籠る時間が長すぎて何だか様子が変だと感じとっていた。
そんな時、タレ目の好好爺らしい顔つきをした源流がやって来た。その爺さんは無言のうちに弥太郎へ頭をさげると、ためらいなく景虎の籠る部屋へと入っていった。
止める間もなかった。いや自然な態度に止める必要性を感じなかったと言ったほうがしっくりくる。弥太郎はまえに軒猿の頭領だと聞かされて、顔はよく見知っていた。
あの飄々とした爺さんは掴み処のない笑みをいつも張り付けている。見るものが見れば眼光の奥には冷たい光りがみえるのだが、普通の者からすればただの好好爺としか見えないようだ。
―――これでお虎は、動くのだろうか?なんだか、俺にはまだ動くような気がしない。
弥太郎が部屋の前で、悶々としている頃、部屋の中では一心に座禅を組む景虎に、声さえ掛けず影のように気配を絶った源流が部屋の端で待っていた。源流が入ってからも景虎には一切の変化は見られなかった。
こんな景虎は、今まで誰も見たことがなかった。だから皆は心配をして、ひっきりなしに使い番が往復する。籠城を決意されているのだろうが、景虎から一切の下知がないことに、宿老たちは燻かしんだ。
―――景虎様はまだ若い、だから迷っておられるのだろうか?それとも臆されたのであろうか?
実乃は居ても立っても居られない、吹き出す汗を拭いながらまるで出産をまつ父親のように、ウロウロと軍義する広間で歩き回っていた。
彼の元へは次々と敵の近況が伝えられてくるのに、景虎は一向に動く気配をみせない。あれ程、強烈な総大将ぶりを見せつけられて、信じて待ちたい気持ち八割に、疑う気持ちが二割。錯綜する思いに悩みはつきなかった。
四
外郭で対陣している山吉にとっても、平気な顔付きではいたが内心は実乃と同じような気持ちだった。しかし長尾守護代家の宿老だけあって、弥三郎や庄田を手足のように使い、兵を交代で休ませつつ布陣を整えている。
さすがは一手の城を預かる者、その手腕は見事なものであった。弥三郎や庄田も山吉の落ち着いた指揮にしたがって、それぞれの持ち場で布陣を敷いて、いまや遅しと待ち構えている。
そして搦め手は、弥太郎の部隊が預かっている。今は戸倉や秋山が中心になって布陣を初めていた。そこに合力しているのは彼らと縁のある庄ノ内勢だった。前から頼まれていた武器とする石や大木を配置している。
「石を城壁にならべろ。大木は一番前だ。おまえら、しっかり運べ!!手抜きは一切なしだ!!わかったな!!」
「へい、頭!!」
御台所ではお扇を頭に侍女をはじめ近隣の女房衆が、炊き出しを始めていた。城内には近隣の者もいる。女子供合わせても4000以上いる。握り飯ひとつ作るにしても膨大な数がいる。ここは、すでに女逹の戦場なのだ。
「女将さん逹、しっかり頼んだよ」
「あいよ、まかしとくれ!アンタも何ボヤッとしてんだい。搦め手は人手不足らしいから早く行っておやり」
「かー―ちゃん」
この時代いざとなったら女は強い、尻をぶったたかれて旦那は搦め手の手伝いに追い払われていた。
―――敵の大軍を前に、少しづつ活気が城内にみちて来る。それぞれがが持ち場を固め大軍を前にしても、士気は下がったりしない。
皆の心の中には、総大将の景虎の勇姿があった。総ての戦において、ことごとく勝利を導きだす軍神。神のごとくピタリと戦の流れを読むその知謀。憧憬するほどの大将ぶりに、怖じける気持ちさえ浮かばない。
―――不思議な高揚感に、栃尾の城は包まれて行くのだが、刻一刻とせまる軍勢をまえに、戦端はいつ開かれてもおかしくなかった。
相変わらず籠っている景虎は、何を考え何を為そうと言うのだろうか?栖吉衆は無事に山越えを果たしたのだろうか?それぞれの胸に去来する思いはなにか?既に敵の地侍は、城と対峙して陣場をつくりつつあった。
―――地の理は城方に傾いた、人の輪は上手く回っている。はたして景虎は、天の時を待っているのだろうか?
第9章・籠城[完]