第5章・三条
壱
討伐隊の軍勢は、長尾に反旗を翻した地侍たちが、密かに伏陣しはじめた栖吉方面へは行かず、景虎の指示でひとまず中郡の三条城を目指し、整然と隊列を組んで行軍をはじめた。
平時であれば栖吉城に立ち寄る方が栃尾城へは最短距離なのだが、景虎はあえて遠回りな三条城へ向かったのです。三条城は、府中から五十里先にある長尾守護代家の自領、信濃川や五十嵐川がとりかこむ中の島に築かれた城で、城代は長尾氏の被官である山吉行盛が務めていた。
三条、蔵王、栃尾は中郡の中枢にあたり、交通や流通の要所であり軍事的にみても、下郡の揚北周辺を抑止する重要拠点です。そして今回の討伐隊の目的は、中郡の治安回復と下郡の制圧あるいは抑止にある。
「……これは酷い」
「長尾が支配する頸城平野を出ると、どこも似たり寄ったりでございますよ」
いかに長尾守護代家の威信が地に落ちているのか、頸城平野を出た景虎は痛感していた。かって豊富な雪解け水で潤っていた田園地帯は、無惨に踏み荒らされたまま農作をした様子もない。ようするに野盗に襲われることもしばしばあり、安心して農作業が出来る状態ではないのだ。
通りかかった村の民は家々にかくれ、恐々と軍勢を伺っている。その家だとて満足なものでなく、大風ならば飛ばされそうな掘っ立て小屋なのです。
景虎が何かをこらえたように俯いた、悔しかったのか下唇を噛んでいる。しかしどうする事も出来ない現実に、嘆くでもなく通りすぎる間、ずっと能面のような凍りついた表情をしていたのです。
かくて景虎の思惑通り三条城までの間、これといって行軍を阻む者はいなかった。そして討伐隊は無事に信濃川を渡りきり、三条城に入城する。迎えに現れたのは、城代の山吉で討伐隊の陣容の多さに驚きをかくせなかった。
「景虎様ようこそお越し下さいました。いやはや春日山から知らされていた討伐隊の陣容とは違い、驚きましたぞ」
「山吉殿、しばらく逗留することになるが、宜しく頼む」
山吉に形通りの挨拶を済ますと、景虎は通された客間に早々にこもってしまうのです。山吉はその事態に呆然とするものの、弥三郎や庄田たちが取りなしにまわり、あれこれと山吉に話しかけていた。
弥太郎はといえば心配して景虎の後をおい、そして何も問いかけず客間の前でどっかりと腰をすえて控える事にした。
弐・景虎side
あんな光景が普通なのか?私にはわからない、何のための政だ。弱き者を守るためじゃないのか?なぜ民はああも虐げられる。虚しい、虚しいすぎる……誰も何も感じないのだろうか?
―――あんな事許せない、普通であってたまるか。なぜもっと民を守ってやらないのだろう。
己の感情を抑えきれずにただ何も出来ない事に苛立っていた。甲斐も領主の横暴で、ひどいありさまだった。あれよりも越後の状況はもっと悪い。甲斐では、まだ農作業をしていたではないか、越後では農作業すら出来ないでいる。
―――最低だ。
持って来ていた刀八毘沙門の仏像を前に、禅を組もうと思ったが、次から次へとあの光景を思いだし、集中出来ないでいる。苛々は高まり治まることなく続いている。諦めて、大の字で寝転がると、天井を睨み付けた。
―――何もかもが不条理すぎて嫌になる。私だけが過剰反応し過ぎなのだろうか?
ふと雨垂れの音が聞こえた。外は夕立なのか、屋根を叩く滴の音がきこえる。私が以前生きた時代と雨音は変わらない。しかしなぜこうも倫理感が違う……。
―――胸の焔は、私の感情の揺れにあわせて、青白くゆらめいて私を苛む。暴れだす感情は抑えがたく、衝動に突き動かされそうになる。
冷静に己の感情を静めようと長く息を吐き、ゆっくりと息を吸う。宗九様に習った呼吸方を思いだし、息を吸うこと吐くことに集中する。
『禅は只今に生きる教え。動中の静こそ難しい、動けば自ずと道は開かれよう』
ダンと床を叩いて跳ね起きて、今やるべき事柄を思い出す。とりあえず今は、孤立する栃尾城に入ることが優先事項だと決めて、この感情は一時据え置くことにした。
正常に頭が回転しはじめると、次々とやるべきこと、打つべき手立てが整理されてゆく。そして私が立ち上がる気配を見せた時、控えていた弥太郎が声をかける。
「お虎さま、俺は何をすれば良い?」
思わず唇の端をつり上げた。待っていてくれた事に嬉しくなり、ついに部屋の外へと歩みを進めた。真摯に問いかけるような弥太郎の目を見て答えた。
「弥太郎、軍義のしたくをせい!!」
「はっ、承知!!」
ニンマリと弥太郎が笑って応えた。そうだ、私には大切な仲間がいる。価値観の違い、倫理観の違いはあれど一緒に戦ってくれる仲間がいる。それで十分だ。
参
軍勢は一旦、軍装をといて休息をとっていた。城代の山吉からは、心ばかりの膳や酒も振る舞われ、あれこれと陽気に談義を交わしていたのです。
「庄田殿少しお聞きしたいのだが、本来なら栖吉で軍勢を整える手筈でしたのに、なぜ三条にいらっしゃいましたか?」
「さあ、それは我らにも考えの及ばぬ事。山吉殿、それは景虎様に聞かれるが宜しかろう。我らはお指図通り動いたまで」
「そうじゃ景虎様に聞かれるがよい。景虎様はのう、あの先公の秘蔵っ子であられると兄者に聞いた。その知謀は計り知れないと直江殿が手放しで絶賛されていたぞ」
「ほう、景虎様が……いやはや聞いていた噂と違い、なかなかのお方でござるな弥三郎殿」
談義は主に、景虎の事に終止した。庄田にしても、山吉にしても景虎に瞠目させられることばかり、訳知り顔で弥三郎が、色々と語りだすと皆熱心に聞きいっていた。
「皆様方、景虎様が軍義をなさるそうです。お支度願います」
「軍義か、よし参ろう」
「わしも、やっと景虎様から話しが聞けそうじゃ」
弥太郎は方々に伝令を走らせ、軍義の準備をあれこれ支度する。一方の景虎は、未だ着込んでいた鎧を、お扇たちの手で解いて貰っていた。
「若様、皆様が心配されてましたよ。……ご気性は存じ上げておりましたが、相変わらずですこと」
「そうか、皆に心配をかけたのだな」
そうかじゃありませんよとお扇にたしなめられて、反射的に眉をしかめた。だいたいお扇には、今までの行状を色々と知られているから反論の余地がない。
「なんでも、真面目に考え込んでしまわれるから駄目なのですよ。たまには息抜きすることも覚えられたら如何ですか?」
「……息抜き?」
「そう息抜きです。侍女も選りすぐっておりますゆえ……いつなりと仰せ付け下さいな」
艶かしい視線に、景虎が絶句して目を泳がせると、その態度をみて、お扇がクスクスと忍び笑いを漏らした。
「……わ、私をからかうな」
「さようで、それはそれは申し訳ありませなんだ」
お扇はしれっとした態度をすると、つられて侍女逹もさざめくように笑いだし、景虎は、耳のふちを赤くして膨れっ面をする。
「もう、良い。後は私がするから下がれ」
「はい、では何時なりとお呼び下さいませ」
事実、景虎は困ってた。なんだか面映ゆく、いてもたっても居られなくなり、着替え終わると足音荒く客間を後にした。
四
さきのやり取りに憤然とした顔をするものの、景虎の頭のなかは冷静に計略を張り巡らせていた。やがて城内の者がかけつけ、案内されるままに広間へと足を踏み入れる。そして、迷う様子もみせず上座へと座り、低頭する一同を見渡し威厳を持たせた声を発した。
「皆の者、大義である。面を上げられよ」
一同を見渡す景虎の顔は生気にあふれ不敵に唇の端がつりあがっていた。その顔付きに皆は魅いられたように瞠目し、膝を乗り出す者もあらわれた。
「さて、山吉殿こたびは急な申し出だが聞き届けてもらいたい義がある。ここに来るまでの民の暮らしぶりが哀れゆえ、さすがに私も身につまされた。ならばこそ寺社に寄進して、民の安寧と五穀豊穣、戦勝祈願を願いたいがどうだろう」
「それは何よりでございます。早速取り計らいましょう」
いままでの長尾家のやり方では、一揆のこともあり寺社を弾圧する政策が取られていたが、景虎は寺社と迎合することを良しとした。なぜなら、このまま戦況が拡大すると一揆が起こされる可能性があったので、寺社勢力を取り込み牽制するための考えでした。山吉がすぐさま応じると、大きく頷き次にと話し始める。
その内容は、寺社勢力の取り込みと民への喧伝から始まって、しばし三条城に留まり軍勢の訓練をすると告げたのです。
「しかしながら、いま留まっていては敵の思うツボにハマりましょう。ここはすぐさま栃尾を目指した方が戦もせずに良いのではありませんか?」
もともと長尾では独立心の強い越後の国人衆が、軍義の場で議論することに躊躇いはないのです。庄田も色濃く馴染んだ風習のまま、異論を挟んだ。そんな次第は慣れっこの景虎は、しずかに一同の異論を順次聞き取り、やおら持論を話しだす。
「よし、皆の意見はわかった。さすれば私の思う所を話そう。よいか、私は敵の虚をつき勝ちをあげる。皆の申すことは敵もやすく考える事、いずれ栖吉に伏せて居たものも謀られたと気が付き、怒り心頭でろくに物を考えず当たってこよう、そこで一当たりして栃尾城に入る事にする」
「しいて、一戦される訳ですな。しかしそれで何の益がありましょうや」
「決戦を雪解け後にするためよ。きっと揚北も用心して出てこよう、奴等が来年早々には動きだす。それまでに地侍共の力をある程度削ると、こちらも楽が出来よう。どうかな、皆の思う所を聞こう」
五
その場にいる一同は、景虎の計略に驚いた。たった十四歳の若者が語った内容は、戦なれた者にも想像がつかないほど、先々の事を考えた計略だった。景虎はまるで囲碁をするように何手も先読みをして、勝機を見い出す手練れの碁打ちのように、すべてが己が手の平にあるよう話す。
「では、どのような訓練をなさります」
「まずは、陣形の練習だな。すぐに戦では、指揮にかなう陣形を速やかに作ることは覚束ない。私が東と言えば、すぐに東を向ける練習をしたい」
「なんと仰る。我らを侮っておられるか?」
己が実力を侮られたと思い、怒りだす者もいたが、景虎は挑戦的な目で、一同を見回すと、それはどうかなと言い出し、明日それを試して見れば分かると棚上げにし、さっさと客間へ引き取った。
翌朝、一同は三条城の広い馬場に兵を揃えて待っていた。景虎は軍配片手にゆうゆうとした態度で望む。しかし、庄田や弥三郎がやって見れば、どうだろう景虎の申す通り、なかなか揃えることが難しい事だと理解出来た。
「弥太郎、与八郎、源蔵やってみせよ」
「承知」
そして景虎の指示で予てより練習していた弥太郎逹林泉寺組が、馬場に兵を引き入れ行ってみせると、見事なほど綺麗な陣形が次々と速やかに作られる。一同は、感嘆して景虎の言い分をのんだ。
「いや、お恥ずかしき次第。成る程、ああも綺麗な陣形を作る事が出来るのですな」
「いや、コツさえ掴めば誰にも出来るのです。あれは農兵や野盗、それに野武士もおりますゆえ、精鋭の兵なれば直ぐにも出来るようになりましょう。お願い出来ますか弥三郎殿、庄田殿」
弥三郎も庄田も頷くと、弥太郎逹にコツを聞きにいった。皆は目を幼子のようにして、一心に練習を始めたのでした。やがて山吉の兵逹も混じりあい、毎日練習に励むようになり、すぐにコツを掴んで、陣形を速やかに展開出来るようになっていった。
そして景虎はと言えば、源流を呼び寄せて、ひそかに作戦の打ち合わせを始めていた。多くの忍びを放ち、地侍逹の動向を探ると共に、三条城に偵察に入ろうとする相手方の間者を、始末するよう手配する。
その一方本成寺の住職を招き、祈願を頼む代わりに寺領安堵を申し出た。そして景虎は本成寺に寄進し、大戦を前に一揆の自粛を約束させる事に成功したのです。
ついに機は熟した。景虎は九月に入り、三条城を後にし栃尾城を目指すことにした。
―――いざ、一戦つかまつる!!
第5章・三条[完]