第3章・出立
壱・晴景side
まったく弟の景虎と言えば、そんなに元服させてやったのが嬉しいのか、毎日遊び呆けている。これじゃ武勇のほうも大した事はないな、今まで景虎を意識していたわしが馬鹿みたいじゃ。
―――景虎に武勇を期待していただけに、討伐へ差し向ける兵さえ惜しくなる。
勇将より暗愚な方が使いよい……景虎が討伐に失敗すれば、必然的にわしが注目されよう、そこで私が多くの将兵をつれ討伐に向かえば、あの生意気な青岩院の里である栖吉にも恩が売れるしな。春日山に参勤しない不届きな国人衆も、きっとわしを恐れるに違いない。
「むふむふふ……なかなか良い考えじゃ」
「お実城様、如何なされましたか?筆頭家老の直江実綱殿が、さきほどより評定前に、お会いしたいとお待ちです」
「ふん、家来ごとき、待たせておけばよいのだ……いや待てよ直江にも言っておくか」
よっこらしょ。最近あまり動かぬから身体が重いのう。小姓に命じて身体を支えさせ、やっと立ち上がる。今度から寝所を評定の間近くに移すかの、なんども往き来するのが億劫になってきた。
しかし直江は、何の用事で来たのだろ。最近は何でも直江に尋ねなければ、城や国人衆のことは分からなくなった。便利な家来がいるから、わしは楽を出来ると言うものじゃ。
やっと評定の間の控え部屋につくと、直江がいつものように畏まって頭を下げている。相変わらず律儀な男よと、気分も浮上した。
「面をあげい、早くから呼びたて何の用事だ」
「これは実城様には、ご機嫌麗しゅう何よりでございまする。誠にお呼びだて致して申し訳ありません。早速ですが、この命令書に署名をお願い申し上げます。内容は先代にならい同じように書いております。読み上げましょうか?」
「面倒じゃのう。わしは、景虎に期待などしておらぬし、命令書など形だけのもの、直江のよきにはからえ」
本当は命令書など紙切れ一枚どうとでもなる。要は景虎があっさり負けて、わしの華々しい出陣が出来ればよいのだ。もちろん春日山の味方からは、武将を出さない、景虎に兵をやるのは勿体無いし、侍大将でも充分じゃ。
「人数は500と侍大将を1人付けてやれ、選んで反抗的な者をつけよ。厄介払いも出来るし、景虎が負ければわしに利となろう」
「まさか、お実城様におかれては討伐が失敗するとお考えか?まして利があるとは思えませぬ」
「利はある。わしには、そなたら凡人には分からぬ策がある、そちは黙って従っておればよい」
弐・直江side
実城様に何か策があるらしい、どうせろくでもない策だろう、それに兵もろくに出さないとはあまりに酷い仕打ちだ。実城様の狭い了見を見越して、景虎様は兵も工面なされている。
さらに国内事情もお詳しく、討伐が失敗すれば長尾は滅びると危惧しておられる。わしですら、春日山の穏健な雰囲気になれ想像すらしなかったが、最悪それはあり得る。いや、それすら視野に入れておかねば、長尾が立ち行かぬ。
―――命令書の内容が実城様の視野に入っておらぬとは好都合。あとはこれをいかに公然と周知させるかじゃ。
じっと渋い顔で腕を組んで考えこんでいると、斜め前に座った景虎様が、わしに向かって少し困った顔で、笑いかけて下すった。その笑顔だけで、どんな難事も乗り越えられる気になる不思議な方じゃ。
「お実城様のおなりで御座います」
景虎様は、水が高きより低きに流れるように深く頭を下げられた。みなは、釣られたように低く頭を下げる。景虎様が評定にいらしてからは、なぜか評定の場は、自然なうちに厳かな緊張感がはしるのだ。恐らく自覚はないと思うが、あの実城様だとて、時間に遅れずやってくる。
―――はたして、どれだけの者が、景虎様の真価に気が付いていようか?
「みな大義である。直江、今日の議事はなんじゃ」
「はい、しからば申し上げまする。また栖吉城より火急のしらせが参りました。本来ならば長尾の本領である所へ、反抗的な地侍逹が侵蝕し栃尾城が孤立したそうにございます。三条城の山吉殿よりも同じ内容の火急を訴える書状がまいりました。討伐隊を速やかに送るよう書かれております。つきましては景虎様と共にまいる討伐隊の諸般を決めたいと存じます」
「さようか、なに心配はいらん守護代旗さえもって赴けば、賊徒はしずまろう。のう景虎」
「さように存じまする」
その場に居る者はそろって異論を差し挟んだ。旗を持って行くだけで、反乱軍が静まるだなんて誰も思わない、それ相応の討伐隊を出してこそ静まるのだ。
「皆なにを言う、総大将の景虎も了承しているのだ、旗を持って行くだけなら兵は500で良い。武将も要らぬ侍大将程度をつけてやれは充分じゃ」
国人衆が呆れている。実城はお分かりにならないのか、それともこれが策か、わしにはただの嫌がらせとしか思えぬ。
参・宇佐美side
ほう、あれが長尾の末の子か、皆が騒ぐほど暗愚には見えん。なぜかと言うとわしは春日山の評定に何度も足を運んだが、景虎が居ると居ないでは大違い、みな自然と厳かな雰囲気になっておる。居るだけで皆に厳かな緊張感を与える景虎とは不思議な男よ。
―――やはり、あれが六年前の立役者か?なにをばかな景虎は七歳ばかり、子供になにが出来る。
それに旗を持って行くだけじゃと、簡単に納得しているところがまた面白い、あやつは賢人か凡人かサッパリ見当がつかん。難問をまえにし、おのずと解きたくなるのがわしの悪いクセじゃ。
―――人生は賢人にとっては常に喜劇であり、凡人にとっては常に悲劇であるといわれている。賢人と凡人は紙一重、表裏の差であろう。
わしは、煩くわめく皆とは一歩引いて、景虎の人品を見定めようとしていた。しかしあやつは、わしをチラリと眺めて意味深に笑いおった、まるでお前の事などお見通しと言わんばかりの態度だ。
評定は紛糾した。あの実城のやり方は露骨すぎて、景虎を暗愚とかげで罵っている者でさえ、申し渡す兵数の少なさに憤っている。こりゃ景虎擁護の風がふいているの。
「お実城様はじめご重臣の皆様方、少しよろしいか」
「なんじゃ?景虎言うてみよ」
ほう、あやつ何を言うのか楽しみじゃ、それに言葉を挟んでもよい時を、見計らっておる。さて賢人か凡人か?
「では。この景虎、若輩ゆえ命令内容をうかと失念致しました。いま一度お聞かせ願えませぬか?」
「なんじゃ、お前うつけか?直江こやつに分かるように言うてやれ」
実城や重臣は落胆したような呆れた顔をするが、わしからすれば、命令の内容を念のため周知し、押さえることに一理ある。
あの直江は優秀な男だ、すでに命令書を持ち出し読み上げる。いやまて、これは余りに手回しが良すぎて怪しい、あやつ景虎と謀っているな。余人には分かるまいが、わしには良く分かる。
「景虎義、守護代に成り代わり中郡.下郡の凶徒制圧、ならびに中郡長尾領をよく統治せよ。しかるべき代々の者これに参勤合力、もって凶徒を討つべし。長尾弾正左衛門尉晴景 花押」
「畏まり長尾平蔵景虎受け承ります。この上は代々の軍刀をもって凶徒を成敗つかまりまする」
近隣諸公の参勤.徴兵権まで与え、これでは景虎が有利すぎる。皆々異論する者もない凡人どもめ。景虎とはよほどの賢人と見た、この上はお手並み拝見と致そう。
四
評定は紛糾したが、景虎が晴景の命令をすべて呑むと伝え、列席の皆々も不承不承うなずいたが、誰1人としてこの討伐が上手くゆくとは、考えていないようだ。皆の表情はなお暗い、晴景だけは満足そうにしている。
評定で決まった内容は、すぐさま周知されるようになり、とんでもない憶測が人々の口にのぼる。お実城様には討伐する気がないやら、討伐隊は厄介払いと変わらない等とアレコレ噂となる。尾ひれがついて晴景様の景虎暗殺説まで蔓延する。
「おい総左衛門、あの噂聞いたかお前ら死ぬぞ、なんとか仮病でも使うて討伐に行くのは辞めたほうがええぞ」
「ああ、お前もそうおもうか……ヤバいかなとは思っていたが、侍大将は俺しかいないらしい。それとも孫太郎が代わり行ってくれるか?」
「そりゃ無理だ。わしも命は惜しい。まあ気張れや」
このたびの侍大将を命じられたのは、庄田総左衛門定賢である。討伐隊とは名ばかり、500程度で何が出来ると憤っていた。まして総大将があれだからなお面白くないに決まってる。
この男、正義感がつよく度々晴景に楯突き、花形の馬周りから外された。いわゆる左遷人事である。与えられた兵は、農民の次男三男で構成される兵たちで、武士の習いも知らず命令さえろくに聞かない者たちの面倒をみていた。もちろん500人の兵はこれらの者逹のことだ。
庄田も不承不承だが、真面目な男ゆえ命令とあらば、何処へでも行くつもりだった、なんとかそれまでには兵逹を訓練して、まともに戦いたいと前向きに励んでいた。
いよいよ景虎様8月ご出立との沙汰があり、庄田も覚悟を決めてその日に望む。討伐隊の出陣の義は、粛々と儀式ばって進められ三種の肴が振る舞われ、水杯をかわす。
庄田は、その時になって初めて総大将の武者姿をみることになった。しかしかの人は噂とまるで違い、凛々しく威厳がありました。景虎は桜おどしの鎧、長尾の九曜紋を美々しく縫い取った陣羽織をまとい、その威風堂々とした態度は、神々しいばかり、庄田や兵逹は唖然と見惚れて、なかには盃を取り落とす者まであった。
「者共、出陣じゃ。エイエイ」
うおおお――――
景虎の力強く良く通る声に呼応して、討伐隊も自然と意気揚々とかえし、皆の心はひとつに纏まった。隊の士気は驚くほど高く、農民あがりの兵士さえ武士らしい顔付きになり、討伐隊は進発する。さてさて、如何あいなりますか、運命は誰に微笑むのだろ。
第3章・出立[完]