第2章・兄弟
壱
天文12年(1543年)1月お虎は元服し、めでたく長尾平蔵影虎となった。あれから数ヵ月の時はながれ、越後では雪もすっかりとけて、いまでは陽光が眩しい初夏となっていた。
さて春日山の中腹には、為景公のあずち(矢場)があった。その道すがら、二人の男が談義しつつ登ってきます。彼らは柿崎景家と弟の弥三郎でありました。
「のう兄者、あの若様はそんな凄い方なのか?わしには、軽薄で京かぶれな軟弱者にしか見えんぞい」
「そうじゃのう幼き頃は、武人としての凛々しさがあったが、寺に入ったせいで、あのような軟弱者になったのか?我らが手元で、若様をお育て申せば良かったんじゃ」
「あの兄にして、あの軽薄な弟と良くできた兄弟だ。揃いも揃って暗愚とは、長尾もおちたものよ」
景虎が春日山城に帰ってからの行状は、毎晩のことに琵琶をかなで、唄いを歌ったりと夜遅くまで遊び、時には侍女と鬼ごっこ、派手な京風の風雅な狩衣をまとい、二の丸を賑わせていたのです。今では、青岩院もさじを投げ、国人衆の落胆はかくすまでもなく明らかで、景虎は侮りの視線に晒されていました。
「弥三郎や、実はわしも直江殿に噛みついたのじゃ。ところがあやつめ、若様は些かも変わっておられぬと抜かしおった。しからば証拠をみせいと問うたら、明日の朝早くにあずちに来いと抜かしおった」
「ああ、だから兄者は朝も早よからあずちに出向いているんじゃな。しかし、あんな所に何があると言うんじゃ」
「さあの、わしにもサッパリ分からん」
かつて為景公は、立派なあづちを作り、日課のように毎朝弓を引きに来ていたのです。先代がお亡くなり、主を失ったあずちも荒れ放題にされ、もちろん今の当主晴景は武芸をたしなむ事もなく、いままで一度たりとも使った事はない、あずちは取り壊すこともなく、朽ちるままに忘れさられていたのです。
「わしものう、若い頃は為景様とよくあづちに通ったものよ」
「そうか兄者は、先代に可愛がられていたものなあ」
「先代は可愛がって下された。ならばこそ、恩に報いるためにも長尾をなんとかせねばなるまいと思っておったにな」
景家の脳裏に浮かぶのは為景公のこと、懐かしい場所に向かう道すがら、忘れていた為景公の思い出を噛みしめていた。いつもお供に選ばれるのは直江と柿崎の二人だったのだ。
―――直江殿が言いたかったのは、我らの主を思い出せと言うことか?
「兄者!!おかしい誰ぞあずちに居る」
弐
「……あれは、為景様」
かつて柿崎らとあずちに来ていた、勇壮な主の後ろ姿が目にうつり、柿崎は駆け出したのです。かって見たことのある主の後ろ姿は、矢をつがえ遠くの的に狙いを定め、いっぱいに弓を引き絞っっている。今の越後を憂いている、柿崎の目には涙が滲んできた。
「ああ、実城様じゃ。我らの主が甦りなさった。弥三郎こっちに来てみてみよ」
「……ほんとか兄者、こんな遠くからじゃわからんぞ。あずちに入って確かめよう」
弟の弥三郎は、驚いて兄にかけより、二人して確かめようと足早にあずちへと入り込んだ。そこには二人の男が控えていて、片方の男があずちに乱入した柿崎兄弟を見とがめると、近づいて静かに控えるように申し渡す。
「ご貴殿は柿崎殿とお見受けいたす。我が主は、稽古中ゆえしばし待たれよ」
「主とは誰だ?」
「景虎様にございます」
「……か、景虎様」
柿崎らは、あっけにとられ腰をぬかしそうになりながら、景虎の方を見つめている。あいた口が塞がらないとは、まさしくこの柿崎兄弟の姿でありました。あの景虎様は直江殿の申すとおり、変わってはおられなかったと得心したのです。そしてあずちには、シーンとした静寂と次々と放たれる矢羽の小気味よい音が響いてた。
「兄者、景虎様とは凄い方でありますな」
「ああ、凄い方じゃ。景虎様は我らを謀ってござったか、見抜けぬわしはうつけじゃ」
呆けている柿崎兄弟の後ろの方から誰かが来て、ポンポンと肩をたたく、柿崎が振り返ってみれば、勝ち誇ったような顔付きの直江実綱がいた。
「お二人とも早かったですな。さぞ驚かれたでしょう、わしも最初は引っ掛かった口ですわい」
「……直江殿もか」
「さよう。矢場に立つ景虎様の後ろ姿は、為景様にそっくりでしょう」
「ああ、甦ってこられたかと肝をつぶしたわい」
柿崎らがなんで早く言わないと咎める目で睨むが、直江は知らん顔を決め込んだ。彼もまた、景虎の後ろ姿に為景公を重ねて涙した口で、いわゆるおなじ穴のむじなのである。柿崎が直江につっかかっていくと若き頃を思いだし、ふざけたような二人の重臣の取っ組み合いが始まる。
「おい、あれはなんだとおもう。やはり止めたほうがよいのかな?」
「さあな、弥太郎の好きにしろ」
「おおい、お前若様だろ」
参・景虎side
大きな体に似合わす弥太郎は気遣いがあるのだろう、慌てて重臣の間に割って入り、まあまあと二人を宥めにまわる。
あまりに見たこともない重臣の様子に、不謹慎だがこらえきれずにクスクスと笑いだした。弥太郎が睨むが、なかなか笑いの発作は治まらない。だがあの重臣たちは何とかしなきゃ止まらないのだろ。ちょとした悪戯心で、声に威厳を持たせ昔父が呼んでたように、二人の重臣を呼んでみたのです。
「直江、柿崎。もうそのへんにいたせ」
すると、どうだろう重臣二人は妙ちくりんな顔をして、お互い顔を見合せたと思うと、嬉しそうに揃って膝をついた。悪戯をした私こそ、そんな態度を示されると恐縮してすぐに詫びを言う。
「すいません直江殿、柿崎殿お立ち下さい」
「何も謝ることはありません、これで良いのです。のう柿崎殿」
「おお、間違ってやせんぞ、おい弥三郎も膝をつかんか」
「おおともさ」
何とも言えず弥太郎をみたが、さっきの仕返しか知らんぷりされ、仕方なく重臣逹をながめたが、みな私を注目するように見ているだけだ。何とか話しを変えようと件の討伐に向かう人数を聞いた。
「おそらく、晴景様は1000は出さぬお積もりでしょう、悪くすると500ばかりになるやもしれませんぞ」
「なんといわれた直江殿。実城は世間知らずか、討伐にはせめて2000は出さぬと、体裁が悪かろう」
「柿崎殿、よいのです。そんな事だろうと、こちらも林泉寺に兵を集めております。直江殿、こちらがお願いする命令書の内容です。お確かめ下さい」
「承知しました、なるほどこれならば兵を募る事も容易に出来ますな。あと何かお入り用は御座いませんか?」
おそらく蔵田が、入り用の品は、林泉寺に回してくれている。孤立しているなら米やみそなど不足してるだろうと思い直し、米の調達をたのんだのです。
「よし決めた、わしらが戦目付けに名乗りでよう。若様、われら柿崎はお味方致しますぞ」
「柿崎殿それは心強い、しかし実城がなんと言われるか」
「お二方の気持ちは嬉しいのですが、直江殿柿崎殿は春日山をお願いしたいのです。私が撃って出れば、いままでの均衡が崩れ、おもわぬ敵が迫って来るかもしれません。それに兄上が、何と仰せ付けられるか分かりません」
思わず兄上の郭を見つめため息を吐いた。私は義経のように名誉を欲して、兄上に疎まれたくはない。ただ越後を守りたいだけなのです。
四・景虎side
そして直江や柿崎と別れてあずちをでた私達は、井戸端で身体の汗を拭き取ると、段蔵の手引きで、こっそり隠れるように部屋に戻ったのです。そして何時ものように派手な京風の直垂を着こんで支度をする。最後に、頂き物の練り香を少しとり懐中にしのばせる。
「ああそれ、絶姫さんに頂いた練り香じゃないか。……さては坊主も色気づいてきたな」
「い、色気づいてないよ……絶姫は大切な友達だ」
段蔵の下品なからかいに、少しだけ赤くなり、そっと胸元を抑えた。絶姫とは、京で仲良く買い物をした友達で、彼女はひろく教養があり色々話しが会って意気投合しただけ、けして疚しい気持ちは持ち合わせたりしていない。
―――だって私は心は女だったままで、まだ男の身体には慣れていない。成長期にみられる変化にも、ドキマギとしているのだ。
本当に慣れない、男共といるより女の子といたほうが安心するのです。こんなこと、誰にも言えやしないし困ってる。私も子供二人も産んだのだからあれこれと知ってはいるのですが……まさか私が嫁を貰ってあんな事やこんな事出来る勇気はまったくない。
「おうおう照れちゃって、若いねえ。……絶姫さんが気に入ったらサッサと押し倒したら良かったのにな、惜しいな」
「し、知らぬわ。もう行くぞ」
囃し立てる段蔵をしりめに部屋をでると、話しを聞いていたのか弥太郎までニヤニヤとする。なんだろうドッと疲れが押し寄せる。確かに、睡眠は足りていない、最近は無理をして真夜中まで情報収集や、戦術を検討したり、長尾にとって負けられない戦になるのだから、下準備にも手が抜けずストレスはピークに達している。
―――まして、段蔵のもたらした武田晴信の話しを聞いて、あれが信玄じゃないかと確信を深くした。
なんだか嫌な予感がしたので、軒猿の警戒を頼んである。もしあれが信玄であるならば、容赦なく信濃を侵略する。いや、越後までその視野に入ってるだろう。はやく国内をまとめ、抵抗できる力をつけなくては……座して待つつもりもない。しかし、まだ誰もその事に気がつかないのが悩ましいことだ。
こたびの評定に全てが掛かっている。何としても、上手くあの命令書を周知させ、権威を借りる。勝つためには必要な手、なぜなら私が負ければ一気に反乱が加速し、長尾家が滅びる……この戦、負けるわけにはいかないのです。
第2章・兄弟[完]