第6部・栃尾編☆第1章・諏訪
○―――第6部・栃尾編――――○
第1章・諏訪
壱
甲斐の武田晴信は、父信虎を追放し天文十年(1541年)6月家督を相続す。御年21歳にして甲斐守護職に任ぜられる。その追放の裏舞台には今川義元の協力があった。
義元は天文5年の花倉の乱を制して今川氏の家督相続をした男である。駿河と遠江の二ヶ国を版図におさめ、三河に勢力をのばし、勢力の衰えた幕府を継承するために、上洛する機会を虎視眈々とねらっていた。しかし、相模の北条家との伊豆における覇権をめぐり、長年の対立関係にあったので、信虎より御しやすく見えた晴信の家督相続は、なによりの優先事項でありました。
―――お互いの利害の一致、それが現れた結果でありましょう。
今川家と対立関係にあった相模の北条家は、もとを辿れば今川の被官でもあった伊勢新九郎盛時が、その始まりで早雲と名乗り、駿河今川氏の内紛にじょうじ勢力を整え、ついに伊豆をおさえ下克上をなしとげた。
早雲は後に小田原城を奪いとり本拠地を移すと、三浦氏を滅ぼし相模全域を支配下においた。この時北条氏(後北条ともいう)と称し、今は天文10年(1541年)7月に北条家三代目を継いだ北条氏康が、当主を努め関東一帯にその版図を伸ばしつつある。
―――にらみ合う三国、その利害はいまだ一致せず。お互いを牽制しあっていました。
そのような情勢のさなか武田晴信は、今川氏との同盟のもと諏訪に進撃を開始する。諏訪の諏訪頼重には妹のねねが嫁ぎ縁戚関係にあったのだが、諏訪氏の内紛にじょうじ兵を進め、天文11年(1542年)6月上原城に迫った。
諏訪頼重は、以前より対立する高遠頼継に乱入されると、武田との板挟みになる考え上田城に火を放ち、桑原城にひき移り余儀なく後退するはめになった。そして晴信は桑原城を取り巻いて、板垣信方を和睦交渉に向かわせました。
「我らの主には、縁戚でもある諏訪家を滅ぼす存念はなく、高遠殿の要請を受け入れ諏訪に進行しただけでござる。城を明け渡してさえ下されば、異存なく和睦いたし甲斐に引き上げまする」
板垣は頼重にこう説いたのです。その言葉を信じた頼重は、和睦に応じて城を明け渡すと、敵は高遠だと思い定め再起を図るために、甲府へと妻子を伴い向かったのです。
弐
ところが頼重は小山田の案内で甲斐に行くと、妻子と離されあげく東光寺において幽閉され、その後切腹させられたのです。乱世とはいえ余りにも哀れな頼重の最後でありました。それ以降、諏訪郡は宮川より西を高遠頼継が治め、東は武田の直轄領となり上原城に代官として秋山を置きました。
武田に同調して兵を起こした高遠頼継は、自分逹をダシにまんまと諏訪郡の大半を得た武田に対し、疑念をだいて警戒を強める。これは武田の計略だと、利用された彼らは、いまさらながらに気がついた。
ついに高遠は諏訪上社の矢島満清とはかり、2ヶ月後に挙兵し上原城を襲うのです。事態をさっした秋山は、城兵をまとめて夜陰にまぎれ城を捨て退却し、甲斐に注進におよんだ。これを既に待っていた晴信は、板垣信方に2000の兵を与え、先手として出撃させる。ついで晴信も諏訪頼重と妹ねねの実子である虎王丸を擁し、父の復讐を遂げさせる名目のもと、本隊3000余りを率いて出陣する。やがて高遠に恨みのある諏訪勢力は、虎王丸に合力するべく集まり高遠らを打ち破り、ここに諏訪郡は完全に武田に取り込まれることになるのです。
―――晴信は、諏訪頼重を滅ぼした元凶でありながら、平然と高遠らに弔い合戦をしかける。なんとも矛盾する戦でありました。
その謀略は、諏訪を武田に帰属させるべく、最初から仕組まれたものであり、これを立案したのは、最近武田に士官した山本勘助という、隻眼の軍師である。かの者は、長きにわたりり各々の国を経巡り独自の軍学を極めておりました。それが晴信の目にとまったのです。
―――戦わずして勝つ
これが山本勘助の持論であり、孫子を学び家臣思いの晴信の考えに合致していたので、彼を軍師として迎え入れたのです。勘助にとっても初めて主に値する者に巡り合い、晴信に対する忠誠心はひとかたならぬ物がありました。
天文12年(1543年)1月晴信の妹が亡くなった。一説には兄の冷酷なしうちに、耐えきれなくなり自殺したとも言われている。晴信は頼重を自刃させたのち、頼重の先妻の娘である諏訪御料人を側室とした。それも自殺の動機付けだとされ、真相はさだかではない。
―――晴信は上原城に郡代として板垣信方を入れ、諏訪を守らせ、信濃進行を睨み確固たる体制を整えつつあった。
参
「板垣、これで念願の諏訪が、我らの手におちたか……あとは高遠じゃな」
「誠に祝着。先代信虎公もついに為し得なかった事にございます。お館様、あとは信濃攻略でございますな」
諏訪を手中にした晴信の顔色は冴えない、いまだ妹の死に後悔する気持ちがあったからだ。板垣もその気持ちは既に察して、明るく振る舞っている。
「わしはのう板垣、長年に渡る凶作つづきで疲弊する民のため、諏訪や信濃の肥えた大地が欲しかったのじゃ」
「お館様は、頼重のことを後悔なされておいでか?ならばこそ、諏訪の民も甲斐の民どうように大切になされませ」
「民を大切にか……あの若き僧のような口を聞きよるの」
主従の脳裏には、かって晴信に臆することなく諫言した僧の姿が、あったのです。あの言葉に、発奮して晴信は甲斐の国主として立つことになった。不思議な巡り合わせに、昔を懐かしむ主従。板垣は歌を教わるなど会う機会があり、若き僧の才能の深さを見抜いていたのです。
「さようでごさいますな……あれは潔きよい男でござった。才気も驚くほど持ち合わせ、若いのに立派な僧でありました」
「ああ、たしかに潔き良かった。あれは今ごろ京の都で、修行でもしておるのだろう……いつかまた会って見たいものよな板垣」
「はっ、仰せの通りさぞ立派な高僧になっておるやも知れませぬなぁ。行方を探させ呼び寄せては如何ですか?」
「いや、辞めておけ。あれは醜き衆生には馴染めぬ者よ。縁があればまたいずれ会うこともあろう、ほっておけばよい」
さようと板垣が思い出したように笑いだす。晴信においても、あの時は痛い所を突かれて腹をたてたものの、けして悪くは思っていない。今では、もう一度会ってみたいとも思っていたのです。しかしまた、あの清廉な目を持つ僧に、己のなした所業を咎められるのではないかと、危惧する気持ちがあったので会う勇気がなかったのです。
「次は高遠か。板垣、勘助をよべ」
「はっ」
武田にも事情は各々あったのです。大国である今川と北条に領土を境にして、凌ぎを削りあい武田が伸びる余地は、まだ大国に纏まっていない信濃の小国群にしかないのだ。信濃といえば、土地が豊かに肥え田畑の生産性の高い国柄、甲斐は痩せた大地に毎年のごとく洪水に襲われ、まともな生産性がないのです。
―――大規模な治水事業も致したが、あまり芳しくない。甲斐の生きる道は、信濃侵略しかないのだ。
四
晴信と板垣が、今後の諏訪経営のことで打ち合わせをしている時に、廊下を片足引きずる音がして、それは部屋の前で立ち止まり、地を這うような低い声をかけた。
「山本勘助にございます。お館様がお呼びと伺い、まかりこしてございます」
「勘助待っておったぞ入るがよい」
応じて入って来た男の片方の目には異様な眼帯があり、開いた目は貪欲に輝いていた。肌は浅黒く幼少の病のせいで、足を引きずっている。異彩をはなつ風貌のこの男は、武田の軍師を勤めるまでになっていた。
「わしはの勘助、先年小県を落としたものの、未だ信濃侵攻の機運は熟しておらぬと思うのじゃ。高遠のこともケリを付けねばならんと思うておる、何か存念あらば申せ」
「ははぁ、それがしの考えでは、高遠は小笠原長時と結び、きっとその援軍を頼みとし再び挙兵に及ぶかと思われまする。ついてはこちらも伊那に出兵し、ひと当たりして様子を伺い、兵を一旦引き時を待ちまする。あの高遠が図に乗って意気揚々出てきた所を、全軍で叩きますれば、おそらく弱腰になった小笠原は、すぐには出てこれますまい」
こうして、天文13年(1544年)晴信は、伊那に出兵したのでした。この際、諏訪道案内に諏訪衆(むかで組)をたて先陣を頼む。そして、伊那まで侵攻してきた小笠原の重臣を撃破し、かねての打ち合わせどおり兵を引いた。
好機と思った高遠が打って出ると、むかで組の案内のもと待ち構えていた武田軍に、気勢を制され追い散らされ、城に逃げ帰り籠城することになる。そして数日うちに武田方の素破により、内部から火をかけられ、高遠城はあっけなく落城した。
「ようした勘助、そちの知謀にはおそれいる」
「はっ、有りがたき幸せ。それがしもお館様に仕える事が出来き嬉しゅうござる」
勘助は、その半生を不遇のうちにありました。見た目の事もあり、思うような主君にも仕官出来ず、その知謀も、誰もふりむくでもなし諸国を流浪していたのです。そして、板垣の縁で晴信に出会いその人生は一変したのです。
―――お館様にこそ、日の本を取らせてやりたい。まずは、信濃をひと飲みにして、内乱が絶えない弱体化した越後に攻め入り港を抑え、そして天下にお館様を押し上げるのじゃ。
第1章・諏訪