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第3部・分岐

※注※

 歴史的資料には、いまから語る内容はありません。これは架空のお話しです。


※脚注※

 京都雑掌とは、長尾家の京都における外交窓口を司る長尾家の官僚の事です。

 綸旨とは、天皇家より発布される指示書のようなもの。内外の戦の仲裁や大義名分を得る内容でした。おもに戦国大名は内乱を静める役割に使っていたと云われています。



壱・お虎side


 さやさやと木々のこすれる音がする。禅堂に神聖なくうきが充ちピーンと張った静寂が私をつつみこむ。ただ教導師が静かにゆかを歩く音と、たまに警策の音が鋭い音を響かせる。


 長尾家の暮らしと比べてずいぶんと質素な暮らしだが、心は遥かに高く澄みきって気狂いの私には、丁度いいところだ。俗世のしがらみを捨て素直な私自身となれる。


―――気狂い、私は胸の青白き焔のおもむくままに、気が狂ったようになる。だから気狂いの病と呼んでいる。もうこれとも長い付き合いになり、精神修行と身体的な成長により、ある程度抑える工夫がついた。


 精神修行を始めた頃はまだ甘い小坊主だった。私を徹底的に厳しく教え導いたのは、峨山禅師。いや本当は大徳寺の徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)禅師でした。次代の大徳寺を担う方であるのに、私の為に越後まで来て下されていたのだ。いまでは感謝しています。そして正体を教えて頂いたのは、京の都へ帰られる少し前のこと。


―――そして、峨山禅師と共に近隣の各国を巡礼しつつ、京の都に登りました。心には密かに出家を決意して……いまから三年も前の話しになります。


 私と峨山禅師、お供には段蔵を伴って林泉寺を後にした。当初、光育様は私が京に行く事を、なかなか賛成しては下さらなかった。それは、私の本心をすでに見極めておられたのだろう。ただ、暗殺者が多くなった事を考慮して許されたのです。


 最終目的地は京の都、私たちは巡礼の目的もあり、まずは信濃の善光寺へ向かったのです。善光寺には、生きている仏像と評判をよぶ一光三尊阿弥陀如来さまがいると聞いて、出家の発願をしようと強く考えていました。もう長尾の軛から解放されたいと願ってたのです。


 善光寺は山号を定額山(じょうがくさん)。いにしえより四門四額(しもんしがく)としょうして、東門を定額山善光寺と、南門を南命山無量寿寺(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を北空山雲上寺(ほっくうざんうんじょうじ)、西門を不捨山浄土寺(ふしゃさんじょうどじ)と申します。


 そしてなにより宗派を越えて、宿願を叶えてくれる霊験あらたかなお寺として、古来より敬われ。また公家方から女人をおつれし、お上人様とする尼寺でもありました。


―――この時、私は京で出家を遂げて、二度と越後に帰るつもりはありませんでした。しかし、旅を続けるうちに気持ちに変化が現れて来たのです。


弐・お虎side


 私の決心を根底から覆す出会いがあった。それは、甲斐の名刹ときこえのたかい、臨済宗の恵林寺に参禅した時のことでした。


 そこは、荒れ果てた名刹とは名ばかりのボロ寺であったのです。国の民も暗い顔付きで、見て回った近隣の国々とは、雲泥の差があったので、おおよそ何が国の民を、虐げているのか私にはすぐに理解出来ました。


―――仏道を軽んじる行為と民の嘆きに、堪らない苛立ちと、慚愧の念が湧いて来たのです。


 為す統べさえなく、毎日出来る限りの禅寺の掃除と修復にあけくれ、救うべき力のない事に落胆し、容赦ない現実を前に、見えない神仏に何故救わないと糾弾し、虚しさに囚われた。


―――人の世に、神仏の救いの手は差しのべられないのです。人を助けるのは又人でしかないと思い知りました。


 そんなある日、寺にやって来たのは板垣信方(いたがきのぶかた)という武士だった。彼は、切迫つまった様子で、寺までかように願いにこられた。


「甲斐の未来のために、今すぐどうしても、歌が習いたいのでござる」


 板垣さまと言う方は、仏道の寂れた甲斐にあって、恵林寺を影からお支え下さっている奇特なお人と、和尚から伺って、私は拙いながら昔習い覚えた歌の手解きを、見て差し上げたのです。


―――少しでも、嘆く民のために為るのならと……甲斐の未来の為に、その言葉に力を尽くそうと思いました。


 現代を生きた私には、越後も甲斐も区別する気持ちは少しも無かった。だって皆同じ日本人だもの、もしかして遠い未来で、縁者となる人が苦しんでるのではと思うと、けして他人事とは思えなかったのです。


 そして板垣さまに歌の基本を教え終わり、長居した甲斐を出立しよう考えていた頃、恵林寺に板垣さまと主の晴信さまが、私に会って見たいとお越しになりました。


 晴信さまは、中肉中背ガッシリとした体躯に、武将とは思えない、文学を愛され聡明さを兼ね備えた立派な方に見えました。しかし、この方が甲斐武田の跡取りだと伺って、急に世俗の噂話を思いだし、なお憤る気持ちが高まって、キツい言葉を吐いてしまったのです。


「嘆く甲斐の民のため、力を振るえるお立場なのに、わざとウツケのふりをして、何故国政に関わらないのです!!民を哀れに思し召した事はあるのですか?」


「おことには、ワシの気持ちなど判らぬ!!その顔みとうない、命まではとらぬゆえ甲斐を去るが良い」


参・お虎side


 言葉どおり命ばかりは助けられ、甲斐を後にした。しかし、道中の私はずっと黙りこくり、己に問いかけて居たのです。あれは、私自身にも言えるのではないかと……長尾の家に末子とはいえ生まれついたのに、私は越後の民を省みた事があるのか?


 越後では、父為景の治世とは遥かに異なって、あちこちで戦禍に見舞われ、どれほど民は難儀しているのだろう。それは、出家へと逃げ出す己の真実を写しだし、長尾家に生まれた因縁を感じさせ、罪の意識に苛まれたのです。


―――私はまだ何も為してはいない。このままでは、父上の末期の約束にも背いてしまう。


『越後の民と、家族と家臣、城に働く者たちを守ってくれ。よく晴景を支え、越後を頼のむ』


 そのように固く約束した事を鮮明に思い返した。バカだ今の今まで、記憶の端にも思い返さなかったのに……目の前の出来事に嫌悪し、簡単に約束を忘れた己に怒りを感じる。


―――出家は今で無くとも出来る。今は越後の民を救うのが先決。それが、亡き父上の信頼に答える道なのだ。


 そう、私は決心を覆したのです。『越後の民を守りたい』、私が心おきなく出家出来るまで、越後の民を守り父の信頼に答えたいと思ったのです。


―――しかし、春日山を追い出された今の私に出来るのは何だ。どうすれば兄上を支える事になる、答えはまったく出なかった。


 京への旅の間、心に懸かる事はその事だけ、いくら禅を組んだとしても、集中出来なかった。そしてついに京に到着し、元師匠の芳野を頼り近衛家に居候し、二月ばかり、あちこちの名刹を巡っても、同じことで答えは見つからない。


 自棄になって、都人と詩歌に興じたり、近衛家の娘の絶姫とストレス発散とばかり、装身具や衣装の買い物にあけくれて、およそ褒められた態度ではなかったのです。浮わついた気持ちは、宗九禅師にも伝わったのか、ある言葉を頂いた。


『禅は只今に生きる教え。静中の静より静中の動、静中の動より動中の静こそ難しい。頭で考えずとも動けば自ずと道は開かれよう』


―――答えはまさしく、簡単な事だった。越後の民の側近くで見守り、己の出来る事から助けとなれば良いんだ。


 丁度その頃、越後で乱が起こり府中春日山城が危ないと、軒猿の手の者から密使があった。私は直ぐに長尾家の京の都における、雑掌(ざっしょう)の要職にある、金余昌綱(かなまりまさつな)を訪れ、密かに綸旨(りんじ)の発布をたのみ、一足早く海路で越後へ帰ったのでした。




 お虎と晴信は、僅かな出会いを切っ掛けとして、互いの正道を歩き始めた。武田晴信は、父である信虎を、クーデターにより駿河へと追放し、家臣団を強固にまとめ歴史の表舞台へと躍り出ました。そして長尾家の末子は、越後の民を救うため、出家の道を今は諦め、二年ぶりに越後に舞い戻ったのでした。


―――さてさて、縁とは奇妙なるもの、この二人はどの様に生きて行くのでしょう、それは神仏のみが知り得る事なのかもしれませんね。


 おや、禅堂の鐘の音が聞こえます。お虎の座禅が終わる頃合いでしょうか、早々と弥太郎が待ち受けているようです。彼はじっと静かに禅堂の前に佇んでおりました。


 お虎は合図のリンが鳴ると、深く一礼し禅堂を退出し、ゆっくり空を見上げ緑がふかく目にしみたように目をすがめた。そして弥太郎の存在に気がつくと、少しだけ口元を引き上げて笑んだ。


―――へえ、誰にも言わず禅堂に隠っていたのに、いつも犬のように私の居場所を嗅ぎ付ける。やはり仇討ちを考えてるせいか……。


「お虎、光育様がお呼びだ。それと、あの偏屈ジイさんが来てるぞ」


「ああ、わかった。まずは光育様に会ってこよう。源三郎には、待っていてくれるように伝えてくれるか?」


「わかった、伝えよう」


 そして、お虎は光育様の部屋へ向かい、弥太郎は腕を組んだまま林泉寺の離れに向かう。お互い背を向けあって別方向に数歩あゆむと、お虎は立ち止まり、弥太郎に背を向けたまま声を掛けた。そして弥太郎も歩みを止める。


「すでに、知れてるのだろう、私が為景の子なんだと……父母の敵が討ちたいのなら答えよう」


「俺はお虎に着いていくと決めている。今更だ……阿呆め」


「……しかり。私は大阿呆だな」


 お虎はくつくつと笑いだし、弥太郎は照れを隠すように頬を掻いた。そして、二人は無言のまま互いに歩むべき方向に歩きだした。別たれる運命もあり、また添う運命もあった。


 その待ち受ける先には、一体何があるのだろう。また大きく運命の歯車が回りだした。それは、新たな出会いを引き寄せて、お虎を過酷な運命へと誘うのでした。


―――林泉寺のお虎13歳、歴史の表舞台へと上がる、一年ほど前の話しです。


第3章・分岐[完]


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