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第7章・軒猿


 母は強し、いつの世にもお腹を痛めて産んだ子を、無下にしないのが母親です。虎千代の母である虎御前は、母と思ったことなどないと言いきった虎千代のことを、やはり諦めきれなかったようです。


 あの事件以来、虎千代はすでに五歳となり、真面目に英才教育をうけていた。ただ、少しだけ教える方が、詰め込み方を配慮するようになり、ゆとりをもって教育するようになっていました。


 虎御前は、子から母と認めてもらえなくとも、心配して周囲に気を配っていたのです。今日とて密かに、虎御前の影をつとめていたお扇を部屋に呼んでいた。


「お扇、折り入ってそなたに頼みがある」


 灯火に浮かぶ、円熟した虎御前の横顔を、呼ばれたお(せん)は真剣な眼差しでみていた。彼女にとっての虎御前は、いまだ勇猛果敢な女武者であり、苛烈な生きざまが刻まれていた。


「まあ、怖いですね。いったい何の仕事かしら……もう私も年ですから刺激的な仕事は無理ですよ御前様」


 虎御前は、困った顔をしてお扇に頼みをつたえた。


「頼みと言うのは外でもない、我が子の虎千代の子守りを頼みたいのですよ」


「えぇ……こ、子守り」


 予想外な虎御前の頼みに目を何度も瞬くお扇だった。そんな依頼など軒猿としても受けたことがない、いや虎御前の口から、真っ正直に子守り頼まれるなんて、女武者も只の人に落ちたのかと肩を落としていた。


「そうじゃ子守りを頼みたい。軒猿の腕利きに過ぎた頼み事でもあるまいて」


 気軽そうに頼む虎御前にますます混乱するお扇。


「御前様のお頼みを引き受けないでもありませんよ。もしかすると若君がお命など狙われているのですか?」


 虎御前は、何故かおかしそうに笑って口元を袖で隠した。


「暗殺について心配はない。ただの我が子可愛さゆえの頼みじゃ、聞き届けて貰えぬか?」


「うふふ……御前様も人がお悪い。若君には、たいそうな難題があるのでしょう?引き受けるか否かは、若君を見てからで良いでしょうか?」


 よほど若君の素行に問題があると思ったお扇は、即答をさけて若君を見定めて答ようと考えた。


「しばらく、虎千代を観察するが良い。お扇ならば私の本意が直ぐに分かると思うゆえな」


 楽しそうに話す虎御前をみて、なぜか嵌められような気がするお扇だった。


弐・お扇side


 さっそく翌朝から、あたしは若君の素行調査に取りかかった。はっきり言って乗り気ではない、たった5歳の子供の素行なんて面白味がないに決まってるわ。


―――御前様も、若君可愛さに目が曇ったとか、あの勇猛果敢な女武者も落ちたものね!


 若君の朝は早い、荒川兄弟と新しく近習衆に加わった吉江景資(よしえかげすけ)と共に武芸の訓練に余念がない。


―――さすがは御前様の子、太刀筋がよく似て、これだけの才だもの、傅役の金津様もさぞ鼻が高いでしょうね。


「ずるいぞ若さん、そんなにチョロチョロ動いたら打ち込めないだろ」


 荒川安実が、練習用の剣をふりまわし虎千代に向かっていく。


「小さい私が安実とまともに当たれるわけがないだろ」


 若君は、大振りな安実の剣を身軽さを使ってさばくと懐に潜り手数の多さで勝負にでた。兄びいきの長実は、大きな声で声援を送る。


「兄者……年下の若さんに負けたら恥じぞ」


「こら長実、われらは若君の近習ぞ。若君――この景資は応援してますから頑張って下さい」


 長実と同い年の景資は、律儀な性格なんだろう長実を睨むと、若君の応援にまわる。この二人は同い年のせいか良く衝突してるのかしら。


 若君は、幼いながら安実と互角にわたりあう剣さばきを身につけていた。やはり虎御前が手づから教えてるせいもあろうが勇猛な栖吉の血が伺えた。


 これと言って何も問題がないように思われ、あたしは虎御前の意図に気がつかず困っている。確かに普通の子供にくらべて利発そうに見える。


 昼に寝るからと言って部屋に籠った若君が、傅役と共に密かに抜け出し、守護の上杉定実の屋敷へ上がりこみ、茶菓子を貰って話し込んでいたり、城内の倉や勘定方の詰所、御台所、工部方の詰所、番所を回っているのを、あたしは発見した。


 下々の者逹に何か話しかけて回ってるらしい。訪問を受けた方も慣れたもので若君を歓迎してるふしがある。工部方では絵図の書き方を教えて貰ってた。


 かなり変わり者の若君だわね。下々の者とも頓着なく話すとは、好ましい性格だとは思うけど……。果たしてこれが素行の悪さと言えるのか?あの御前様は、何のために子守りを頼まれたのか、理解にくるしんだ。


参・お扇side


 ああ、もう何だというの、もうかれこれ5日も若君を見張っているのよ、このお扇姐さんが!!……若君には、これといった素行の悪さもないし、良い加減じれてもくるわ、まったく!!


 たしかに若君は子供にしては、変に大人びた子供だったが、この世には大人びた子供くらい何人も見かけることがある。それほど世の中がせちがらいのだ。


 そっとため息を吐いて側の木立にもたれた。若君たちは、姉の綾姫と庭先で野点を楽しんでいる。先ほどから野点のわりには、わーわ―きゃあきゃあ煩く騒いでいるようだが……まったく何だか平和だね、あたしはこの依頼を断ろうかと思いはじめていた。


「姉上、知ってるでしょ私は濃い茶は好きではありません」


 綾姫が若君と近習衆を客に見立て、茶道の練習をしていた。虎千代は濃い茶の茶碗を片手に、渋い顔して飲みあぐねている。


「若君、濃い茶こそ茶道の基本です。この旨味がわかるのが風流というものですよ」


 半東(はんとう)についている老女の芳野が、目は笑っているが若君を厳しくたしなめる。茶頭(さとう)を努める綾姫も(なつめ)を戻しながら姉ぶって口を出した。


「濃い茶が飲めないなんて、虎千代はこどもねえ」


「うっ……飲めば良いのでしょ!姉上は意地悪です」


 荒川兄弟がニヒヒと笑うと若君は、しかたなしに濃い茶を一口すすって隣に座る景資にまわした。


「偉いわ、さすが私の自慢の弟よ。さあ貴方たちも虎千代に負けないように濃い茶を飲むのですよ」


 綾姫は、芳野と共に顔を見合せ笑いあい、近習衆を睨み付けた。近習衆があわあわと抵抗を見せると虎千代がギッと切れ長の涼しい目元で睨んだ。


―――うふふ……若君は綾姫には弱いのねえ。そのわりには近習衆をいじめて喜こぶ位には人は悪そう。残念ながら、あたしの守備範囲ではないけれど、良い男になりそうだわ!!


 あたしは面白い物を見つけたように唇をなめ、相変わらず退屈そうに、若君逹のやり取りを横目に見守っていた。


「へぇ――珍しいとこで会うじゃないか、蜉蝣(かげろう)のお扇姐さん」


 唐突に背後から忍びよった影に、厄介な奴に、みられたと内心の動揺を隠して、あたしは色っぽい流し目で、奴をさっさと追い払おうとした。


「うふふ……相変わらず凄腕だこと、ねえ段蔵」




 この男は、加藤段蔵(かとうだんぞう)、腕ききの軒猿で又の名を飛びの段蔵といった。軒猿の里では頭領に一目おかれ、特に幻術に秀でる。里では諜報活動で彼の右に出る者はなく、男の一匹狼な性格もあってか里の者には嫌われているらしいのです。


「こりゃお褒めにあずかり光栄至極、お扇さんの美貌も変わっちゃいねえな」


 くっと喉元で笑うと男は慇懃無礼(いんぎんぶれい)な口調で言い、手はしっかりとお扇の腰に回ってるようだ。この男かなり女慣れしてるのか、お扇にとってはやりにくい存在に見受けられた。


「うふふ……そっちこそ水も滴る良い男におなりだね段蔵。何人、女を泣かせたんだろう」


 お扇も妖艶な笑みをうかべ、段蔵に流し目を送っちゃいるが警戒心を露にしているようだ。


「さあな、いちいち数えちゃないなあ。で、お扇さん程の女が、こんな所で何の野暮用だい?」


 段蔵は、お扇の警戒心を読んだのか、さらりと受け流し本題を切り出した。


「あぁ……ちょと御前様から頼まれちまってね。若君の子守りさね」


 肩をすくめ自嘲ぎみに言うお扇に、段蔵が目を剥いて驚いた。そりゃそうだろう、お扇だって軒猿では古株の忍びだ。古株といえど、いまだ容姿に衰えはみせず、小股の切れ上がった良い女の範疇には数えられる名うての女忍びだ。こんなやらせ仕事をするほど、落ちぶれてはいないのだ。


「ひゅー―豪気なこったなあ。あの坊主の子守りかい、御前も我が子可愛いさに良くやる」


「……たしかに。そんな事はいいからお前さんこそ、こんな所で油売ってないで、さっさと直江の旦那っ所へ行っておしまい!」


 どさくさ紛れに胸元へ入って来た段蔵の手を、つねって向こう押しやって。お扇は、しっしと追い払う真似をする。


「冷たいねえ。怒った顔も別嬪だぜ」


 お扇に追い払われても懲りない男は、お扇の耳に唇をよせて艶を含んだ低い声を響かせる。が、お扇もお扇だ侮れない、襟元の毒針を抜いて段蔵に投げつけた。


「ちっ、またなお扇姐さん。せいぜい頑張な」


 段蔵は気配を察して、すでに後方に飛びのきニヒルに笑って、呆れた顔をするお扇に手をふった。


「嫌な男だねえ、まったくこっちの身にもなって欲しいわ」


 お扇は、ひとつため息をつくと、段蔵の消えた地点に腰を屈めて毒針を回収するのだった。




 宵の口のこと、お扇は為景によび出しをうけ、軒猿の頭領に繋ぎをつける役目をひきうけた。


 不穏な動きをみせる上条定憲が、跡取りがない守護に養子をと捩じ込んできた。幽閉中の守護に養子など為景にとっては大層な事でもないが、養子元によっては長尾家存亡の危機になると危ぶんだ。なにせ次代の守護代は凡庸な晴景だったので、為景は禍根を残すつもりはなく、ここで上条を徹底的に叩く腹積もりなのだろう。


―――ひと波乱くるわねえ。若君の子守りよりずっと面白いじゃない。御前には悪いけど、やはりこの話はなかった事にして断ろう。


 一度里に戻ることにした彼女は、これで子守りも最後にするつもりで、若君の寝所の屋根裏へ忍んで入った。ちょうど部屋では、灯火のあかりのもと書見(しょけん)に勤しんでいる若君がみえた。そして側では荒川兄弟が二人揃って口をあけて寝ていたので、お扇は頭をかかえた。


 虎千代は、ふと顔をあげると大の字で寝ている乳兄弟を見て、えもいわれぬ綺麗な微笑を浮かべた。ほうと一瞬のうちに目を奪われお扇はひとりごちた。


―――なんだって、御前ともあろうお人が、こんなに若君を気になさるのだろう。あの近習はさておき、良い若君ぷりだと、あたしは思うのだけど……。


 彼女は静かに成り行きを見守っていた。立ち上った虎千代が、行李から肌掛け物を出して母親がするようにかいがいしく乳兄弟に掛けてやっている。


―――嫌いじゃないね、よく気がつく若君じゃないかい。


 そうこうするうち、若君は寝所をぬけ出し縁先に出た。彼女が後を追い縁先にでると、雲がわずかにかかった三日月の空を、若君は見えない何かを見つめるように遥か遠くを見据えていた。


 だが何の前触れもなく若君が、発作的に縁先を飛びだし履き物をつっかけ走りだした。彼女は呆気にとられ、凍りついたように若君の後姿を目でおった。足元のふたしかな宵闇を、なんの迷いもなく突っ走る姿に寒気が這い上がる、お扇は体をブルリと震わせた。


―――げに恐ろしい!!まるで鬼神がついたよな変貌ぶり、これが御前様の頼み事なのか!!


 彼女はキッと唇をかみしめて、若君の後を追い始める。突然の若君の変貌に、腕ききの忍びであっても、考える暇もなく目をこらし、ただ必死に駆けるしかなかった。



第7章・軒猿[完]

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