悪役令嬢は、病弱な幼馴染に先手を打ちますわ!
朝の光が、庭園の薔薇を透かしていた。
噴水の水が跳ねるたび、ちいさな虹が生まれては消える。石畳はまだ夜露を含んでいて、ひんやりとした湿り気が空気に混じっていた。
白い東屋の長椅子に、リゼットは背筋を伸ばして座っている。淡い金色の髪が肩から流れ、朝の風にふわりと持ち上がった。足はまだ地面に届かず、つま先が宙で小さく揺れている。悪役令嬢は足をぶらぶらさせないものですわ、と心の中で自分を叱って、慌てて止めた。
向かいには、婚約者のアレクシスが座っている。
銀金色の髪が光を含んで、薄く透けて見える。七歳の彼は、五歳のリゼットより頭ひとつ分ほど大きい。膝の上には、庭師にもらったのだという焼き菓子の包みが載っていた。
「それでね、リゼット。今日は午後から、エミリアのお見舞いに行こうと思っているんだ」
カップに伸ばしかけていたリゼットの指が、ぴたりと止まった。
「……エミリアさま、の?」
「うん。僕の幼馴染なんだ。少し前から熱を出していて、ずっと寝込んでいるんだって。父上が、行っていいって言ってくれたから」
アレクシスは眉尻を下げて、本当に心配そうに言った。緑色の瞳が、庭の緑を映して揺れる。
幼馴染。
その一言が、リゼットの頭の中で、かちりと音を立てた。
昨夜、寝台の上で読みふけった恋愛小説の一場面が、鮮やかによみがえる。蝋燭の火が揺れる中、頁をめくる紙の乾いた音。指先に伝わる、ざらりとした感触。
『婚約者には、病弱な幼馴染がいた。彼は彼女のお見舞いを理由に、悪役令嬢との約束を何度も破るのだった』
薔薇の香りが、急に遠のいた。噴水の音だけが、やけに大きく聞こえる。
(き、来ましたわ……)
リゼットは、カップをそっと受け皿に戻した。かちゃ、と陶器が鳴る。その音がわずかに震えていることを、本人だけは気づかないふりをした。
(あくやくれいじょうイベント、ですわ!)
「リゼット? どうしたの、顔が赤いよ」
「な、なんでもありませんわ。ええ、なんでも、なんでもですわ」
リゼットは膝の上の、姉から貰った宝物の五歳児には大きな扇を掴むと、ばさっ、と広げた。大きな扇の陰に、淡い金色の頭と青紫色の目だけが、ちょこんとのぞく。
「おほほ」
少し声が裏返った。扇の向こうで、頬がじわりと赤くなったのは、誰にも見えなかったはずだった。
「エミリアさまのお見舞い、いってらっしゃいませ。婚約者として、こころよく送り出して差し上げますわ」
「本当? ありがとう、リゼット。君はいつも優しいなあ」
「やさしくなんてないですわ! これは……よゆう、というやつですのよ!」
「今日も頑張ってるなあ」
アレクシスはにこにこと笑って、焼き菓子の包みを開いた。甘い匂いが、ふわりと広がる。
その笑顔を横目に見ながら、リゼットは膝の上で小さな拳を握った。
「わたくしも、あとで行きますわ。てみやげのしたくがありますの」
「一緒に行こうよ?」
「だめですわ! したくが、ありますのっ」
本の中の悪役令嬢は、いつも一歩遅れて負けていた。自分は違う。せんてひっしょう。恋敵が動くより先に、わたくしが圧倒的なお見舞いを届けて差し上げますわ。
ちなみに、圧倒的なお見舞いとは何なのかは、まだ分かっていなかった。
昼食もそこそこに、リゼットは自室へ駆け戻った。
扉を閉めると、部屋の空気が変わる。革表紙の古い紙とインクの匂い。窓辺に置いた乾燥花の、かすかな甘さ。壁一面の棚には、色とりどりの背表紙が並んでいる。どれもリゼットの宝物で、そして、参考書だった。
「えっと……あくやくれいじょうが、おみまいにいくばめんは……」
床に膝をついて、背表紙を指でなぞる。ざらついた布の感触。金の箔押しの凹凸。三冊目で、指が止まった。
『悪役令嬢は、宝石を山ほど積んだ贈り物で、病弱な少女を圧倒した』
「これですわ!」
リゼットは勢いよく立ち上がり、侍女を呼んだ。
「いますぐ、宝石箱をよういしてくださいませ。いちばん大きいのを! それから金糸のししゅうがある絹の布と、お砂糖のおおきなお菓子と……お庭のバラを、百本ですわ!」
「百本、でございますか」
侍女は目を丸くしてから、いつものように穏やかに微笑んだ。
「かしこまりました。ただ、お嬢様。お相手はご病気とのことですが……」
「びょうき」
リゼットの手が止まった。
病気。
そういえば、病気なのだった。
ふと、去年の冬を思い出す。熱を出して寝込んだ日のこと。額に載せられた濡れ布の冷たさ。閉じたまぶたの裏で、ぐるぐる回る天井。頭の奥が、ずきずきと鳴る痛み。窓の外で誰かが笑う声が、遠くて、うるさくて、少しだけ悲しかった。
あのとき、食卓に並んだ豪華な料理は、ひとつも喉を通らなかった。
「……かたいお砂糖のお菓子は、たべられないかもしれませんわ」
「そうでございますね」
「バラも、百本はおおすぎますわね。あのにおい、ぐあいがわるいときは、あたまがいたくなりますもの」
侍女は何も言わず、ただ嬉しそうに頷いた。
リゼットは腕を組み、うむむ、と唸る。悪役令嬢の贈り物は、圧倒的でなければならない。けれど、圧倒するには、まず相手が受け取れるものでなければ意味がない。……たぶん。
「まず、くだものですわ。かわをむいて、ちいさくきって、たねはとって。ええ、たべやすくなければ圧倒できませんもの」
「はい」
「おはなは、においのよわいのを。白いデイジーと、かすみ草がいいですわ。まどべにおいても、まぶしくないように」
「はい」
「あと、はちみつ。のどがいたいときは、はちみつが……いえ、これは圧倒するためにひつようなのですわ!」
「はい、お嬢様」
台所へ向かうと、料理長が瓶をひとつ、布に包んで持たせてくれた。琥珀色の蜂蜜は、瓶越しに光を受けて、小さな太陽のように揺れている。蓋を開けると、野の花の甘い匂いが、ふわりと立ちのぼった。
姉のエレオノーラの部屋からは、薄い毛織の膝掛けを拝借した。肌に触れるとやわらかく、頬を寄せると、日なたの匂いがした。最後に、リゼットが何度も読み返してすり切れかけた絵本を、一度ぎゅっと胸に抱いてから、そっと籠の底に入れた。
「これは……かしてさしあげるだけですわ。よみおわったら、かえしていただきますもの」
籠に並んだのは、皮をむいた桃と、小さく切った梨、白い花、蜂蜜の瓶、膝掛け、絵本。
リゼットは籠を眺め、満足そうに胸を張った。
「かんぺきですわ。これこそ、あくやくれいじょうのおみまいですわ!」
最後に、リゼットは腰紐に扇を挟んだ。悪役令嬢たるもの、外出には欠かせない必需品ですもの、と一人頷く。
侍女は袖で口元を隠して、こくこくと頷いた。肩がふるふると揺れていた。
公爵家の馬車は、王都の石畳をがたごとと進んでいく。
窓の向こうを、街の景色が流れた。パン屋の焼きたての香りが隙間から入り込み、リゼットは思わず鼻をひくつかせる。人々のざわめき、荷車の車輪の音、遠くの鐘。それらは、建物の間隔が広がるにつれて薄れ、あたりは次第に静かになっていった。
侯爵家の門をくぐると、蹄の音が急にやわらかくなる。敷地には緑が多く、木々の枝が窓に触れそうなほど近い。風が葉を撫でるさらさらという音が、馬車の中まで届いた。
玄関で出迎えたのは、年配の侍女だった。
「ようこそおいでくださいました、リゼット様。エミリア様がお待ちでございます」
「アレクシスさまは?」
「先ほど侯爵様に呼ばれて、席を外していらっしゃいます。すぐにお戻りになるかと」
リゼットは、小さく頷いた。
(つまり、いまのうち、ということですわね)
屋敷の中に入った途端、空気が変わった。
ひんやりとして、静かで、どこか薬草のような苦い匂いがする。リゼットの屋敷の華やかな香りとは、まるで違った。廊下の絨毯は足音を吸い込み、自分の靴の音さえ遠慮がちに響く。窓辺で、小さな風鈴が、ちりん、と鳴った。誰かが呼んでいるように聞こえて、リゼットは思わず立ち止まった。
その音のあとに、静けさがいっそう深くなる。
そして、その静けさの向こうから、小さな咳が聞こえた。
こほ、こほ、と、乾いた音。
こらえきれずに漏れてしまったような、途切れ途切れの咳だった。
リゼットの足が、止まった。
籠を持つ指に、力がこもる。胸の奥が、きゅっと縮んだ。さっきまで確かにあったはずの闘志が、廊下の静けさに吸い込まれて、どこかへ消えてしまう。
(……いまのは、こいがたきの咳では、ありませんわ)
自分でも、なぜそう思ったのか分からなかった。けれど、ほかに言い表しようがなかった。
「リゼット様?」
「なんでもありませんわ。まいりましょう」
案内された部屋の扉は、少しだけ開いていた。
カーテンは半分だけ引かれ、やわらかな光が床に細く伸びている。寝台の上で、ひとりの少女が上半身を起こそうとして、けれど途中で諦めたように、枕へ背を預けた。
淡い茶色の髪が、枕の上に広がっている。灰青色の瞳が、こちらを見て、ゆっくりと瞬いた。
エミリアだった。
リゼットは扉の前で、用意してきた台詞を心の中で唱える。
『あら、おかげんはいかが? わたくしのほうが、ずっとげんきですけれど』
これが一番の嫌味だと、昨夜三十分かけて練り上げたのだ。完璧なはずだった。
けれど、足を踏み入れた瞬間、その言葉がするりと逃げていった。
頬が、青白かった。白い、というより、光の当たり方で透けてしまいそうな青さだった。布団の上に置かれた指は、ほんの少し震えている。枕元の小卓には、薬湯の杯が置かれていた。湯気はとうに消えて、表面に薄い膜が張っている。ほとんど減っていない。
その隣の水差しには、底に、わずかな水しか残っていなかった。
(……のめてない)
リゼットは、籠を床に置いた。
「……だいじょうぶ、ですの?」
言葉が、口から落ちていた。
エミリアの目が、丸くなる。
リゼットは、はっとして口元を押さえた。今のは違う。今のは悪役令嬢の台詞ではない。けれど、一度出てしまった言葉は戻らない。
「あ、あの、その、かんちがいしないでくださいませ。わたくしは、ただ……」
言い訳を探しているあいだに、身体が勝手に動いていた。
小卓に近寄り、水差しを覗き込む。それから、後ろに控えていた侍女を振り返った。
「あたらしいおみずを、おねがいしますわ。つめたすぎないの」
「はい、ただいま」
侍女が出ていく。残されたリゼットは、寝台の脇の椅子によじ登った。足が浮く。座面は思ったより高く、革の冷たさが膝の裏に伝わった。
部屋には、二人きりになった。
風鈴が、ちりん、と遠くで鳴る。エミリアの呼吸が、小さく、浅く、聞こえる。
「リゼット様……ご無理をなさって、来てくださったのですか」
かすれた声だった。細い糸のような声。
「む、むりなんて、してませんわ。わたくし、ただ、あくや……その、ようすをみにきただけですの」
「様子を……」
「ええ。ようすをみに、ですわ」
やがて侍女が、新しい水を運んできた。ガラスの杯が、リゼットの両手にそっと渡される。冷たさが、掌にしみた。
リゼットは両手で杯を抱え、エミリアの唇へ近づける。
「すこしずつ、ですわ。むせたらだめですもの」
エミリアは目を伏せてから、ひと口、ふた口と水を飲んだ。細い喉が、こくり、と動く。飲み終えると、ほう、と息をついた。頬にほんの少し、色が戻ったように見えた。
「……ありがとうございます」
「べつに。おれいをいわれるようなことでは、ありませんわ」
リゼットは杯を小卓に戻す。手が少し震えているのは、重かったからで、それ以外の理由ではない。
沈黙が降りた。
エミリアはしばらく、布団の端を指で握ったり離したりしていた。それから、思い切ったように、顔を上げた。
「リゼット様は……私のこと、嫌いではないのですか?」
リゼットの心臓が、どきりと跳ねた。
エミリアの灰青色の瞳が、不安そうに揺れている。叱られる前の子犬のようで、逃げ場を探しているようで、けれど、まっすぐこちらを見ていた。
「私、リゼット様に嫌われているかもしれないと、思っていて。アレクシス様はいつも、リゼット様のお話をなさるのに、私は、お会いしたこともなくて。きっと、ご不快に思われているのだろうと」
言葉のひとつひとつが、細い息に混ざって、消えそうになる。
リゼットは、口を開いた。
ここが、まさに山場だった。悪役令嬢としての、決め台詞の場面。
『ええ、きらいですわ』
その一言を言えば、すべてが完璧に決まる。
なのに。
目の前の少女は、青白い頬で、震える指で、それでも一生懸命こちらを見ている。その顔に、その言葉を落とすところを想像しただけで、喉の奥が固く閉じてしまった。
「…………」
声が出ない。
リゼットはとっさに、扇をばさっと広げ、顔を隠した。けれど扇の陰に隠れても、エミリアの不安げな顔は、目の端からずっと見えている。
十秒ほど、リゼットは黙っていた。窓の外で、風が枝を揺らす。葉の擦れる音が、やけに長く感じられた。
やがて、絞り出すように言った。
「……きらいじゃ、ないですわ」
エミリアの瞳が、大きく見開かれた。
「本当、ですか?」
「ほんとですわ。わたくし、うそは……その、あくやくれいじょうはうそをつくこともありますけど、いまのは、うそじゃないですもの」
ややこしい言い方だった。けれど、エミリアには十分だったらしい。彼女の唇が、ゆっくりと、ふわりとほころんでいく。
その笑顔は、咲きかけの花のようだった。
「よかった……」
その一言を聞いた瞬間、リゼットの胸が、ぽっと温かくなった。
いけない。これは、よくない。悪役令嬢の胸は、こんなふうに温かくなってはいけない。
リゼットは慌てて、籠の中身を取り出した。
「こ、これは手みやげですわ。かわをむいた桃と、なし。のどをとおりやすいはずですの。おはなは、においがよわいのをえらびましたわ。あたまがいたくならないように。それから、はちみつと、ひざかけと、えほんですわ」
桃の甘い匂いが、部屋にやさしく広がった。白いデイジーを窓辺の小さな花瓶に挿すと、光を受けて、花びらが半透明に透けた。膝掛けをエミリアの足元にかけると、彼女はそっと、指で毛足を撫でた。
「……あたたかい」
「わたくしのおねえさまのひざかけですの。かえしてくださいませね」
「まあ…エレオノーラ様の…」
エミリアは、くすりと笑った。それから、少しためらってから、言った。
「ええ、必ず元気になってお返しいたします…」
「とうぜんですわ。はやくげんきになってくださいませ」
言ってから、リゼットは自分の口を押さえた。
いえ、違う。これでは優しすぎる。もっと、こう……。
「そ、そうしたら、その……いっしょに、おちゃをのんでさしあげても、よろしくてよ」
「本当に?」
エミリアの目が、ぱっと明るくなった。
「あの……リゼット様。もしよろしければ……お友達に、なってくださいませんか?」
リゼットは、そこで深く考え込んだ。
悪役令嬢は、恋敵と友達になるものだろうか。
小説の中では、ならなかった。けれど、この場面で「ならない」と言えるだろうか。
むむむ、と眉間にしわを寄せる。窓辺のデイジーが、風にゆらゆらと揺れた。
「……しかたありませんわね」
リゼットは、つんと顎を上げた。
「とくべつに、おともだちになってさしあげますわ!」
エミリアは、嬉しそうに笑った。今度は、さっきよりずっとはっきりと。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「エミリア、入るよ。……あれ、リゼット?」
銀金色の髪が、扉の隙間から覗いた。アレクシスは、小さな木の盆を手に持っていた。盆の上には、蜂蜜色の焼き菓子と、湯気の立つ杯。
彼は、リゼットと寝台のエミリアを見比べて、ぱっと表情を輝かせた。
「来てくれたんだね! それに、二人とも仲良く……」
「な、なかよくなんてないですわ! いまのは、その、ゆうこうてきなとりひき、ですわ!」
「お友達になったのです」
エミリアが、静かに、けれど誇らしげに言った。
アレクシスの顔が、朝の光みたいに明るくなった。
「そうなんだ! よかった。僕の大切な人たちが仲良くしてくれるの、すごく嬉しいな」
盆を小卓に置き、彼は何のためらいもなく笑った。その屈託のなさに、部屋の空気まで軽くなる。
そのとき、リゼットの中で、ふと小さな疑問が芽を出した。
胸のあたりが、もやもやする。さっきから消えずに残っていた、小さな棘のようなもの。
「……アレクシスさま」
「なあに?」
「わたくしと、エミリアさま。どっちがだいじですの?」
言ってしまってから、リゼットは唇を噛んだ。これは、悪役令嬢の台詞のはずだった。けれど、口にした声は、思ったよりずっと小さかった。
アレクシスは、きょとんとして、首を傾げた。
「どっち?」
「そ、そうですわ」
「比べるものなの?」
あまりにも不思議そうな顔だった。緑色の瞳が、疑いようもなく、まっすぐだった。
「リゼットは僕の婚約者で、エミリアは友達だよ?」
当たり前のことを言うような声。
それだけだった。
リゼットは、口を半分開けたまま、固まった。
頭の中で、何かが、ぱああっと光った。
(き、決まりましたわ……!)
迷うことなく「婚約者」と言い切ったアレクシスの声が、頭の中で何度も響く。恋敵になるはずだったエミリアは、今やお友達。つまり、これは。
(かんぜんしょうりですわ! わたくしのせんてひっしょうが、みごとにきまりましたの!)
椅子の上で、リゼットはぐっと拳を握った。頬がかっと熱くなる。悪役令嬢はこういうとき、優雅に微笑むものだと本には書いてあったけれど、今はどうしても口の端が持ち上がってしまう。
「リゼット、顔が赤いよ? 熱でもあるの?」
「な、ないですわ! これは、その、しょうりのよろこび――ではなく、ゆうひですわ!」
「まだお昼だよ」
エミリアが、くすくすと笑った。その笑い声は、細く、けれど、たしかに楽しそうだった。
リゼットは、二人には見えないよう、こっそり胸の中でガッツポーズをした。
その夜、公爵家の姉妹の部屋には、燭台のやわらかな灯りが揺れていた。
エレオノーラは寝台の縁に腰かけて、妹の髪を櫛でとかしていた。金糸のようなリゼットの髪が、梳かれるたびに、さらさらと流れる。櫛の歯が頭皮をなぞるくすぐったさに、リゼットは目を細めた。
「それで、今日はどうだったの?」
「きいてくださいませ、おねえさま! わたくし、びょうじゃくなおさななじみに、せんてをうちましたの!」
リゼットは勢いよく振り返り、姉の膝に手をついた。エレオノーラは、櫛を持つ手を止めて、優しく笑う。
「まあ。それで?」
「おみまいをして、お水もよういして、はやくげんきになるようにって、いって……そ、それで、さいごにはおともだちになりましたのっ」
誇らしげな声が、部屋に弾んだ。
エレオノーラは、しばらく妹の顔を見つめてから、ゆっくりと、考えるように口を開く。
「……それは、とても優しい女の子がすることではないかしら?」
「ちがいますわ! わたくしはあくやくれいじょうですのっ」
「そうね」
「そうですわ」
「そうだったわね」
姉の唇の端が、ひくひくと動いた。笑いをこらえているのだと、リゼットは気づかない。
エレオノーラは、妹の頭をそっと撫でた。
「でも、リゼット。エミリア様は、あなたが来て、嬉しかったのでしょう?」
「……ええ。うれしそうでしたわ」
「それなら、いい日だったのね」
その言葉に、リゼットはふと、動きを止めた。
いい日。
そう言われると、たしかに、そうだったような気がした。
灯りが消えたあとの寝台は、しんと静まりかえっていた。
シーツの冷たさが、少しずつ体温でぬるんでいく。窓の外では、夜の風が庭の薔薇を揺らしていた。かすかな葉擦れの音と、遠くで鳴く虫の声。
リゼットは、天井を見上げていた。
目を閉じると、今日のことが、順番に浮かぶ。
こほ、こほ、と、乾いた咳。
青白い頬。
小さく震えていた指。
ほとんど減っていなかった薬湯の杯と、水差しの底に残っていた、わずかな水。
それでも、「よかった」と言って、ほころんだ、あの笑顔。
小説の中で、病弱な幼馴染は、ただの「役割」だった。婚約者を奪う存在。悪役令嬢の敵。頁をめくれば、すぐに次の場面へ進んでしまう、名前のない影のようなもの。
そして、今日のエミリアも、まさにそういう相手だった――と、リゼットは思っている。
こほ、こほ、という咳。青白い頬。震える指。
あれはきっと、恋敵らしい、はかなげな演出だったのですわ。それを見抜いて、先手を打ち、お見舞いの品でしっかり懐柔してみせた。だから、あんなにあっさり「お友達になってください」と言わせることができたのだ。
(わたくし、ものの見事に、こいがたきをてなずけてみせましたわ)
水を飲ませたのも、膝掛けをかけたのも、優しい言葉をかけたのも、すべて、圧倒するための作戦のうち。少なくとも、リゼットの中ではそういうことになっていた。
リゼットは、布団の端をぎゅっと握り、満足げに小さく笑った。
「……かんぺきな、あくやくれいじょうの、しょうりですわ」
小さな声が、暗い部屋に、誇らしげに響く。
「あしたは、もっとかんぺきに高笑いできるよう、れんしゅうしますわ! こいがたきなんて、こわくありませんもの!」
布団の中で、えへん、と胸を張る。
本当に、疑うということを知らない五歳だった。
翌朝の庭園は、昨日より空が高かった。
薔薇の葉に残った朝露が、光を受けて、細かな宝石のようにきらめいている。噴水の水音は軽やかで、空気はほんのり甘い。
東屋の前で、リゼットは仁王立ちしていた。
その視線の先には、侍女に支えられて、ゆっくりと歩いてくる少女がいた。
「リゼット様、おはようございます」
淡い茶色の髪を、肩の上で軽く結んだエミリア。頬にはまだ白さが残るけれど、昨日よりずっと、人の色をしていた。
「エミリアさま、もうおきてだいじょうぶですの?」
「はい。お医者様が、今日は少しなら外に出てもいいと」
「すこし、ですわよ。むりしちゃだめですわ。つかれたら、すぐすわるのですわよ。それから、かぜがつめたくなったら、これをはおってくださいませ」
リゼットは、腕に抱えていた薄手のショールを、エミリアの肩にかけた。やわらかな布地が、風を受けてふわりと膨らむ。
「ありがとうございます。リゼット様、とてもお優しいですね」
「や、やさしくなんてないですわ! これは……そう、あくやくれいじょうのたしなみですのっ」
「ひざしがつよいですから、こちらのおいすに。あしもとがひえるといけませんから、じじょにひざかけをもたせますわ。あ、おちゃがさめないうちに、おすわりなさいませ」
次々と世話を焼くリゼットを見て、後ろから歩いてきたアレクシスが、くすりと笑った。
「リゼット、お姉さんみたいだね」
「ちがいますわ! わたくしはあくやくれいじょうですものっ」
「うん。今日も頑張ってるなあ」
アレクシスは、いつものように、にこにこと見守っている。
そのやりとりを聞いて、エミリアが、小さく笑った。笑い声は風に乗って、薔薇の間を抜けていった。
やがて、東屋のテーブルに、三人分のお茶の席が整えられた。
リゼットは、椅子の上に立ち上がる。
「ほんじつは、わたくしがしゅさいする、ゆうがなおちゃかいですわ!」
高らかな宣言。それから、扇をばさっと広げ、顔の前にかざして、「おーっほっほっほ!」と、必死に高笑いを――
途中で、むせた。
「けほっ、けほっ」
扇の陰で咳き込む音に、アレクシスが慌てて水の杯を差し出す。
「リゼット、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶですわ。れんしゅうが、たりなかっただけですの」
エミリアが差し出してくれた水をひと口飲んで、リゼットは何事もなかったかのように椅子に座り直した。
テーブルの上には、色とりどりの果物が並んでいる。小さく切った桃と梨に、蜂蜜がうっすらと垂らされていた。蜂蜜入りの温かいお茶は、湯気とともに、やさしい甘い香りを立ちのぼらせている。甘さを控えた焼き菓子は、口に入れると、ほろりと崩れた。
テーブルの中央には、白いデイジーとかすみ草が、小さな花瓶で揺れている。
「わあ……素敵です」
「とうぜんですわ。わたくしがえらびましたもの」
「このお茶、飲みやすいです。蜂蜜が入っているのですね」
「そ、それはぐうぜんですわ!」
「このお菓子、ちょうどいい甘さだね。リゼットが選んだの?」
「これも、ぐうぜんですわ!」
偶然が、あまりにも重なりすぎていた。
けれど、リゼットは気づかない。ただ、胸を張って、満足そうにお茶を飲んだ。
(かんぺきですわ。これこそ、あくやくれいじょうのゆうがなおちゃかいですわ)
その隣で、エミリアがカップを両手で包み、ほう、と息をつく。アレクシスが、菓子をもうひとつ手に取る。
噴水の水が、きらきらと光を散らした。




