表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

渇望の針(prayer's thin)

作者: qmmkruz
掲載日:2026/05/26

短編です。

限界の中での“あと半歩”を題材にしています。

呪物シリーズの一編ですが、単独で読めます。


<序章>


アスリートがいた。

陸上の男子個人競技--短距離を走る方--の選手だった。


常にあと半歩及ばず、シルバーコレクターなどと揶揄されていた、かつては。


アスリートと呼ばれる生き物、その筋力動員は80%から90%と言われている。

地道で過酷なトレーニングと節制、フォームの最適化と調整、そしてそれらを継続していく精神力が、身体をその域に押し上げ留まらせている。


彼も、もちろんその例外ではなかった。


筋力動員値を検査してくれた馴染みのスポーツドクターも、今のトレーニングこそが勝利を掴む唯一のすべだと告げてくれていた。

ドクターの言いたいことはわかっていた。彼は暗にこう言ったのだ。

焦るな、ドーピングなどはクズのやることだぞ、と。


そうして努力は、いずれ花を咲かせ、実を結んだのだ。

彼はついに主人公となったのだ、美談の。



<1章>


スポンサーからの祝辞アリ。

今大会の2位獲得、おめでとう。今シーズンも好調な様で何よりだ。

この調子で頑張ってくれたまえ。


連中、腹ん中ではこう言っているのさ、「で、優勝するのはいつだ」ってな。


トレーニングマシンのウエイトを引き上げる。

頂点で静止維持、そしてゆっくりと戻していく。


まあ、それはそれだ。

トレーニングと節制に支払うものは誠実さ、ただそれだけだ。

たとえ俺の腹の中がどんなに黒かろうと、な。


だから欲しい。だからこそ欲しい。あと半歩が。

そのためになら、悪魔に魂を売ってもいいかもしれん。

そいつがドーピングなんぞを勧めてこないのなら、な。



<2章>


医師を名乗る者から説明を受けている。

情報統制は厳重の域にあるだろう。この会合への参加にあたって、一切の他言を禁止する契約書にサインした。

違反時には、今後の人生に甚大な被害を及ぼすペナルティが漏れなくついてくる契約書だ。


迷わなかったよ。サインした理由はただひとつだ。言うまでも無いな。


「薬物を使用しない、新機軸の肉体改造メソッドを開発しました。

 このメソッドでは、筋力動員値を3%程度上昇させることができます。

 ただし、今まで通りの食事制限やトレーニングは続けなければなりません。

 地道で過酷なトレーニングと節制、フォームの最適化と調整、

 そしてそれらを継続していく精神力。

 その上で…」


咳払い。


「その上で、そのたかだか3%のためには代償を厭わない。

 それ程に渇望している。

 そんな方と手を取り合っていきたい、そんな方の一助となりたい。

 そんな方の渇望を癒したい。

 我々が探し求め、適格という名の白羽の矢を立てさせていただいた。

 それがあなたです」


まあ、落ち着けよ。


「続けてくれ」


「ありがとうございます。

 ではメソッドについて具体的なハナシをさせていただきます。

 ナノマシンはご存知でしょうか、SF小説やコミックなどに出てくる。

 …そうですか、本はお読みにならない。競技一筋ですか。

 ナノマシンとは微細な機械、目に見えない程の微細な機械を体内に投入し、

 健康管理に用いたり、病気やケガの治療、いずれは失くした器官の代替など

 をも行わせよう、そんな技術です。

 現在いまの段階では夢物語、できることなどたかが知れていたのですが、

 このメソッドは応用力としては、その先陣を切るに値する仕上がりとなって

 おります」


なるほど、わからん。続きをはよ。


「このメソッドの施術について説明をいたします。

 初めに申し上げましたとおり、一切の薬物は使用せず、

 外科内科の施術も行いません。

 耳から直径1mm程度の球体を入れます。

 素材は金属ではなく、生体プラスチックでできています。金属製だとMRI等が

 使えなくなりますから。

 球体は長さ7mm、直径0.1mmほどの棒状に展開、耳孔を通って運動中枢の要点

 に達します、血流に乗って。

 その要点に与えるわずかな刺激によって、筋力動員値を上昇させます。

 一時的な不快感はありますが、長くは続きません。長くても10分程です。

 血管みちに迷ってヘンなところに、ということはありません。

 機械ですから」


刺さりっぱなしか?


「寿命は5日間。自壊して血流に乗って体外へ排出されます。

 常態的な適用はお薦めしません。

 3%と言えど、身体にかかる負担が増えるわけですからね。

 直截的に大会直前に適用する、これも身体のバランスを崩すことに

 なりかねませんから。

 わずかだけ性能の上がった身体、その作動を成功イメージとして体に

 覚え込ませる、そのために使うことをお薦めします」


なるほどね。

神に祈らぬ俺にとって、成功イメージは最後の、本当に最後の拠り所だ。


「これから実物や実際の施術、運動中枢の要点状態のMRI等をお見せしましょう。

 効果の程をお見せできないのが残念です。

 被験者は日頃から鍛えているわけではないものですから。

 では、こちらへどうぞ」


医師に連れられて見学。被験者は5人。

「さくら」という言葉を念頭に置く。

念のために言っておくが、こいつは花の名前なんかじゃないからな。


再び会議室へ。

ペットボトルの水が用意されている。未開封だが手は付けない。

何が入れられているかわかったもんじゃない。こういうところでは、な。


最後に補償、万が一のハナシだ。

施術後には、


 1)身体に一切の瑕疵を生じないことを確認する


 2)公式に則ったドーピング検査を、第三者機関とこちらの希望の機関で行う


等、競技者たるに何らの問題も無い亊の確認と証明、問題発生時には相応の補償を--俺のスポンサーに対しても--行うといった、今後の契約上のハナシを最後に解散した。

契約の締結は別途。当たり前だ。


会議室のドアを開けた俺の背中に声がかかる。顔だけを向ける。


「ああ、これの名前を言い忘れておりました。

 『prayer's thin』、『渇望の針』といいます」


…それで?


「筋力動員値をたかだか3%、上昇するだけのモノです。

 あと一歩には及びませんが、あと半歩だけなら、あなたなら届きます。

 よいお返事をお待ちしております」


夕方、逆光。

一礼する医師の表情は見えなかった。眼鏡の縁だけが鈍く光っていた。



<3章>


それからの俺は連戦連勝だったよ。

世界大会を制し、タイミングよく開催されたオリンピックも制した。

世界で一番高いところに立った。

もう誰にも、シルバーコレクターなどとは呼ばせない。


しかし、ここ数戦は勝てていない。

重ねていった勝利と、それに比例して増えていくスポンサー。

それらに奢ることもなく、トレーニングと節制には変わらぬ誠実さを、勝利に対しても変わらぬ渇望を以てあたってきた。

落ちていないタイムがそれを証明している。


ああ、わかっている。大丈夫だ、子供じゃない。

理由なんてわかっているさ。


seek to the next.


俺も、そしてヤツらもな。



<終章>


都内某区にある目立たない雑居ビルの5階。

ありきたりな事務所の、ありきたりな応接セットに夜見塚よみつかは座っている。


黒色のスーツ。タイトなスカートがメリハリのある曲線を描く。

整った顔立ちは美貌と言っていいだろうが、メタリックな眼鏡のフレームがそれを覆い隠している。


「物知りな貴方に伺いたいことがございまして参りました。

 お約束通りにケーキまで出していただいて、ありがとうございます。

 でもわたくし、公務員ですので…。

 そういえば、今日は利害、関係なかったですのでいただきますね。

 …ふふっ、いいお味と思いますよ」


夜見塚の向かいには、ここの主人。

この事務所のしつらえと同様に、特徴の薄い顔と体格。

ちょっとした人混みなら、数歩離れれば見失ってしまうのではないか。


「それは重畳です。ご本名でご予約いただく、その際のお約束でしたから。

 ご用件は何でしょうか」


「失礼いたしました。

 とある製薬メーカーの製品にある疑いがありましてね。

 加齢などで弱っていく筋力への補助として、ナノマシン的な…。

 ナノマシン、ご存知ですか?

 端的に言えば、針を脳に刺して筋力アップを図るという製品なのですが。

 一般人からアスリートまで、特に何人ものトップアスリートを

 モルモッ…被験者としてデータの採取も行ってきたとか」


夜見塚のハナシに、ピンと来ていない表情の主人。


夜見塚の唇、その端がゆっくりと釣り上がる。笑みの形に。

眼の奥からは一切の光が消え、何も映していない、正面に居る主人の姿さえも。


「ところで、『prayer's thin』、『渇望の針』この言葉はご存知?

 そう、では『player's sin』は?」


10秒ほどの沈黙。主人の表情は堅いまま。


「寡聞にして存じ上げません」


「そうですか。ありがとうございました。

 私もその様に申し上げたんですよ、でもうちの上司セクハラ

 確認してこいとしつこくて。

 …上司の陰口はご内密にお願いしますわ。私、公務員ですので…」


無事、世間話モードへと移行した。

安堵を浮かべかけた表情を笑顔で誤魔化す主人。心の中で胸を撫で降ろす。

ワールドレコードからギネスまで、近年の記録更新は凄まじいとか、そんな話題に主人はなんとか追いていく。


「あ、あと絶対に他言無用でお願いしますね、特にさっきの言葉。

 守秘義務ですよ。

 ネットなんかに漏れていたら、真っ先にやられちゃいます。イチコロですよ。

 くれぐれも、よろしくお願いしますね。

 さて、美味しいケーキをありがとうございました。

 これで失礼いたします。それでは、ごきげんよう」


夜見塚がエレベータに乗る。


「お次は製薬メーカーね」


ドアが完全に閉じるまで、主人の礼は続いた。


逢魔が刻。

エレベータホールの窓から差し込む西日の中、主人はぼんやりと考えていた。

夜見塚は国家公務員なのか、それとも地方公務員なのかを。

今日もそれを訊き忘れていたことを。


お読みいただき、ありがとうございました。

たった3%、たった半歩。

それでも、人はそこに手を伸ばしてしまうのかもしれません。


呪物シリーズは、日常の隙間にある“ちょっとした異物”を扱っています。

また別の一編でお会いできれば幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ