後編
中編までのあらすじ
思いがけず早く帰れることになったある日、一平は帰りの途上でひとりの女性に出会った。
罠にかけられて拉致された一平は、身ぐるみ剥がれて海藻に吊るされてしまう。
黒づくめの女は一平の見知らぬ術を駆使して自分の分身を作り、彼から種なるものを取り出そうと画策する。
自分と僕だけの帝国を作るのだと、女は宣うのだった。
「あなた不感症?」
言いにくいことをはっきりと言う。
「薬を使わな使わなきゃだめかしら」
女は壁際に寄り、何やら手にして戻ってきた。
「媚薬はいかが?せっかくですもの。楽しみなさいな…。一度だけでもいいわ、この際。一回だけでも何万匹といるはずだもの。それを分けるわ。済んだらすぐ自由にしてあげてよ」
女の言葉を聞いているのかいないのか、一平は無言でじっとしている。
薬を口に含み、女は再び一平の唇を捉えた。口移しで薬を差し入れ、鼻をつまんで口から息と薬を吹き入れる。
この匂いには覚えがある。ニーナに飲まされたものに似ている。
(ダメだ…)
あれを飲まされて一平はニーナのことをパールだと思い込んだ。すんでのところで気がついたが、そういう薬効があるのだ。
龍涎香というクジラの脳内で生成される琥珀色の物体が、否応なく喉を通って行った。
だが一平は諦めなかった。
(だめだと思ったらだめだ。排除してやる。…あの時だって、オレは薬の力に負けなかった…)
―意思を強く持ちさえすれば、超えられない障害はない―
ミカエラが講義の時に語った言葉が思い浮かんだ。
(オレは負けない…)
表面には現れぬ一平の葛藤に、女は気づいていたのだろうか。分身を向かわせても一向に変わった様子を見せないので、大きなため息を吐いた。
「そういえば、利かないんだったわ、薬…」
あの晩のことも、女は水晶玉で盗み見ていたのだ。
「…意志を強く持ちさえすれば…」
その時黙っていた一平がもぞもぞと何か言った。
「何⁉︎」
思わず女は訊き返す。
「…意志を強く持ちさえすれば、超えられない障害はない…」
一平の言葉を聞き取って女は顔色を変えた。
「なんと、言った⁉︎」
一平は繰り返した。呪文のように。
それはミカエラが座右の銘にしていた言葉だ。盟友であった一平の父が、博学の鯨より教わった格言だ。
「誰に…聞いた?」
女の声は僅かに震えている。
「わが師、トリトニアのミカエラから」
女の態度の急変に、一平は一条の光を見出した。まっすぐに答えた。
「そんなはずはない…。それは彼の…ラサールの口癖だ…」
「!!!」
まさか、こんなところで父の名を聞くことになろうとは思わなかった。
この女は父のことを知っている?だが、なぜ、それほどまでに動揺するのだ⁉︎
「師のミカエラは父ラサールの友人だ。かつて鯨より教わった格言を伝え聞いたのだと、聞き及んでいる」
女は信じられないと言うように目を瞠いた。
「…父…だと?…父⁉︎ラサールが…おまえの⁉︎⁉︎」
「トリトニアの槍将ラサールはオレの父だ」
一平は断言する。知る限りのことを告げ、人違いではないかどうかを確認する。
いきなり戒めが解けた。
ジャイアントケルプが気力を失ったように緩み、八方へ引き戻されて行った。
次の瞬間には、一平はいつもの姿でいた。胴衣もマントも小手当ても脚絆も元通り身に付けていた。背には幅広の剣帯に収まった大剣があり、腰には細い剣帯が巻き付けられている。
が、腰の剣帯に短剣はなかった。
それは女の手元にあった。
思いがけないものを懐かしく見つめる恋する女がそこにいた。
「なぜ、気がつかなかったの?この短剣はあなたのもの…。ということは、あなたはもういないの?あなたの短剣を、息子のこの男が持っているということは…」
女の目には涙が滲み出ていた。
「父は死にました。四年以上前に」
「死んだ……⁉︎なぜ?どこで⁉︎」
女の目が泳ぐ。疑問の光が迸る。
「風邪をこじらせたからですが、天命だったのかもしれません。セトールは、地上での暮らしが寿命を縮めたのだろうと…」
「地上?地上ですって?なぜ、そんなところにあの人がいるのよ!?」
「父は漂流者でした。海人としての記憶を失って、地上人として暮らしたのです。十五年の間」
「十五年…記憶を…」
女は言葉を詰まらせて、短剣を胸に掻き抱いた。
「ラサール…」
今度は一平が訊く番だった。あなたは父とどういう関係なのかと。
だが、尋ねずとも女は自ら口にした。あたかも短剣がラサールその人であるかのように、潤んだ瞳で見つめながら囁いた。
「…そうだったの…。だから、戻ってきてくれなかったの…。あたくしは…あなたに捨てられたとばかり…」
聞かなくても明白だった。父とこの女は恋人同士だったのだ。十八年前、父が漂流しなかったら自分は生まれていなかった。代わりに、この女との子どもが生まれていたかもしれなかったのだ。
女は顔をあげて一平を見た。
「そう…。あなたが…ラサールの息子…。そう言われれば、よく似ているわ。馬鹿ね、あたくしも。今の今まで気がつかなかったなんて…」
女は、自嘲するかのように、ふと目線を逸らした。
「今にして思えば、あなたに狙い定めたのはあの人に似ていたからなのかもしれないわ…。 知らず知らずのうちに気になる一人になっていた…。もっと早く…あなたを見つければよかった。そうすれば…ラサールの消息も知ることができたのに…」
一平は思った。ひょっとして、この人は父に捨てられたと思い込み、自棄になってこのようなことを考えるに至ったのか?と。
「あなたは…」
言いかけた一平を遮って女は話し出した。
「あたくしはね…ご覧の通り、ポセイドニアの生まれではないの」
浅黒い肌はトリトニアはおろか、ポセイドニア全体でもついぞ見かけない。どこか遠方の地の一族である証であった。
「かといって、どこで生まれたのかもわからない。父も母もわからない。拾われっ子だったのよ…。こんな見かけのせいで、みんなに疎まれて育ったわ。でもあなたの父親だけは違った。こんなあたくしでも綺麗だ、愛してると言ってくれたわ。あの南氷洋への遠征から帰ったら結婚しようと…。でも彼は帰ってこなかった。同行した人からは、旧友を訪ねてから帰るとだけ言付けられて…。
捨てられたのだと思った。遠征を口実にして、あたくしからうまく逃げたのだと」
「ラサールを恨んだわ。絶対にあの人より幸せになってやろうと思った。
誰にも爪弾きにされることのない帝国を作ってやろうと、皆に疎まれ続けてきた能力をフルに使ったわ。
あたくしにはね、他人の生活を見透かす才があったの。この水晶玉を得てからは、自由自在にどんなところでも見ることができたわ。そうなったら、不思議と創造の力も発生したの。でも、自分の中にあるものを使用したものしか作れなかった。男は作れなかったの。
それなら交わらせて作ればいいとわかった。どうせなら一番素晴らしい因子を使おうと隈なく人材を探したわ。
そして見つけたあなたが、あの人の子どもだったなんて…」
女が黙ると一平は尋ねた。
「オレを自由にしてくれたということは…あなたはもう…」
「あなたを使ったら復讐でも何でもなくなってしまう。誤解だとわかったからにはもういいのよ。あたくしももう、いい加減に歳だしね」
若く見えるが、四十近いのに違いない。分身を使ったのも、この女自身に既に受胎能力が失われていたからだろうと思われた。
「あなたは綺麗ですよ。少なくともさっきまでよりはずっと…」
お世辞ではなく、一平はそう言った。
女は意外そうに一平を見、泣きそうな顔で言った。
「…ネフェルティアって…呼んでちょうだい。…あの人の代わりに…」
ネフェルティア―それはこの女の名前なのだ。かつて父の愛した女の。
「…ネフェルティア…幸せになってください…」
心から一平はそう思った。
一平の種の代わりに、ネフェルティアは短剣を所望した。
一平は諾った。短剣はなくとも、父の形見はある。この自分そのものが形見なのだと、彼は誇らしく思っていた。
女に案内されて王宮に帰ると、膨れっ面のパールが待っていた。
「一平ちゃん、遅おい‼︎」
「悪い…。ごめんよ。連絡しそびれて…」
せっかく早く帰れると思っていたのに、いつもより遅いくらいな時刻になっていた。
いつもなら遅くなると伝令を飛ばすのだが、それどころではなかった。逆に、早く帰れると連絡を入れていなかったのは不幸中の幸いだ。パールが角を出すのは尤もだ。
「姫さまは今日はお料理の特訓をされましてね。やっと少しはまともなものが出来上がったので、一平さまに召し上がっていただこうとずっと待っておられましたのですよ。陛下との晩餐をキャンセルされて」
侍女のフィシスにまで遠回しに責められてしまった。
どうやら今日は一家揃っての晩餐ではないらしい。
「それは…申し訳ない…。腹はペコペコなんだ。…で、飯はどこ?」
平謝りに謝るしかない。まさか女攻めにあって、遅くなったとは言えないし、言う気もなかった。
「どこ行ってたのっ⁉︎いつもよりすごく遅いじゃんっ⁉︎」
パールはよほどお冠らしい。話を食べ物の方へ逸らしたというのに、追及してくるパールは珍しい。
「パール、一平ちゃんのために一生懸命頑張ったのに…」
見ればパールは指のあちこちに切り傷を作っている。
「本当に。それはそれは大変でございました。私もさすがにくたくたです」
水晶玉の中に見た騒動を考えれば、フィシスには同情を禁じ得ない。
「あなたにはいつも感謝しています。あなたというよきお手本がいるので、パールはずいぶん嗜みを身につけてきていますからね」
労いの気持ちを込めて言うと、パールが嬉しそうに瞬きした。
「ほんと?一平ちゃん、本当にパールお行儀よくなった?」
真顔で尋ねてくる仕草は、目に入れても痛くないほど可愛らしい。
耳にしたことは、目下パールの一番の関心事なのだ。一平の行動を問い詰めることなど、どうでもよくなってしまった。
「外ではな。黙って座っていれば、最高に気品のある王女様だ」
一平はいいところだけを言う。身内にわがままなところは直した方がいいと思うが、パールらしさが失われるような気がするので、無理には奨励していない。
王女であるのにコンプレックスの塊のようなパールに必要なのは、悪いところを指摘して直させることではなく、良いところを褒めて自信をつけさせることだと、近頃の一平は思うようになっていた。身近な人間がよくも悪くもパールを受け入れて慈しみ、信じてやることだ。
その点一平はパールに対してずっと以前からごく自然にそう接してきていた。限りない愛情を持って。
ネフェルティアと言うあの女性は一見して異端とわかる肌の色をしていた。ただそれだけで、きっとかなりの辛酸を舐めてきたのだろう。自分が他人と違うことを悩み、苦しみ、悲観して、ひとり孤独に耐えて生きてきたのに違いない。
自分が異端であることの辛さは、一平には痛いほど理解できる。
そんな中で、ネフェルティアは最大のコンプレックスをものともしない男に出会ったのだ。父のラサールは、外見など度外視して、その人の内面の美しさを見抜ける、真の審美眼と心の広さを持った男だったのだ。一平は改めて父の偉大さを知る思いがした。
ネフェルティアにとってのラサールがそうであったように、一平にとって、パールは自分の存在を丸ごと受け入れて肯定してくれるかけがえのない存在だった。パールに出会えたことを人生で最高の幸運だったと思えた時、一平は初めて神に感謝したい気持ちを覚えたのだ。
この出会いを、そして彼女を愛しいと思う気持ちを、これからもずっと大切に抱き締めていこうと一平は思った。誰がなんと言おうと、パールは一平にとって最高の女性であった。
一平の褒め言葉にルンルン気分でご馳走の元へ招く少女に、彼は昼間買った鉢巻きを手渡した。
「くれるの?一平ちゃん⁉︎」
「遅くなった、お詫びだ」
少女は最高の笑みを浮かべて、鉢巻きを胸に抱き締めた。
(あれで…よかったんだろう⁉︎父ちゃん…。オレは父ちゃんじゃない。オレではあの人を幸せにすることはできない。オレは…オレの大事な人を幸せにする。してみせる。だから…見ていてくれ。あなたの息子の、生き様を…)
ネフェルティアの元に残してきた短剣を思い、一平は心の中で呼び掛けた。この果てしない海の彼方で眠っている父の魂に向かって…。
(トリトニアの伝説 外伝5 亡き戦士のためのパヴァーヌ 完)
世間からは勇猛果敢で猛々しいと思われている一平くんですが、本当は優しくて初心な男なのです。
パールとのことで培った忍耐力はこんなことでは崩されません。
ラサールがあんなことにならなければ、一平くんは生まれていなかったわけですから、彼にとってこの出会いは複雑で、さぞや衝撃的なものだったことでしょう。
次回もショートストーリーをお届けします。




