第1話 プロローグ
「突きは最短の礼」――凡庸だった剣士の一突きが、双月の世界で運命を貫く。
刃が一分も揺れない男と、影を自在に操る女。俺は、そのあいだに立つ、ごくふつうの剣士だった。
京の壬生。町の治安を預かる新選組の屯所は、木と油のにおいでいっぱいだ。
土間で素振りを続ける俺、望月 廉。汗で手拭いはびしょ濡れ。手のひらは豆だらけで、木刀の節がときどき痛い。
「廉、力入りすぎだよ」 影がすっと近づく。
幼なじみの、朧谷 霞だ。 床に落ちた彼女の影が二つに割れて見える。半歩ずらす癖のせいで、目が一瞬だまされる。
「でも力を抜いたら、刀って振れないだろ?」 「抜くっていうか、“余計な力”を捨てるの。わかる?」
霞はくすっと笑って、袖から小さな札を見せる。
「それは?」
「これ?半月の守り札。赤い縁取りで、右半分がないの」
「……右だけ?」
受け取って指でなぞる。爪が空を引っかいたみたいに止まった。
「もう半分は誰が持ってるんだ?」
「いつか会う人が持ってるってさ。母さんの言い伝えなの」
「戦場におとぎ話は向かないよ」
「お守りって、そういうものでしょ」
霞は大事そうに札を胸元へ戻した。(右半分と赤い縁……なんだか変な感覚が残る)
「――お二人とも」 廊の奥から、一番隊隊長の沖田 総司が来る。背すじはまっすぐ。足音は静か。
「突きは最短の礼です。迷いは、進む足で払いましょう」 「はい!」俺は背筋を伸ばす。
沖田さんは小さく咳をした。袖口に、米粒みたいな“紫がかった朱”がにじむ。
「隊長、無理は……」
「大丈夫です。稽古を続けてください」 (……見なかったことにするのが、いまは一番の礼儀だ)
昼。局長の近藤 勇が座敷で筆を運ぶ。
掛けられた「誠」は、青墨と朱を薄く重ねた二色の筆致で、真ん中の一画だけが、ほんの少し長い。
「まことは、長く、まっすぐであれ」
副長土方 歳三が続ける。
「感情は鞘にしまえ。俺たちは壬生の狼だ。噛むと決めたら、ためらうな」 (“狼”って、こわい言い方だけど――迷わず突き進め、ってことなんだろう)
夜。提灯が揺れる。池田屋。 空気が、歴史の歯車がきしむ音を立てているようだ。背中に冷たいものが走る。
階段の下で、沖田さんが短く告げる。
「息を合わせてください。霞さんは右、廉さんは左です」
「了解!」霞が顎で合図する。 「しっかりね、廉」 「そっちこそ」
「行きましょう」 畳が鳴り、怒号がはね、抜き身の刃が夜気を冷やす。
廊の角で、音が変わった。 沖田さんが壁に手をつく。肩が一度だけ震える。顔色は悪い。でも、眼だけは強い。
「お気になさらず、前へ進んでください」 「最短ですよ、廉さん。」 その言葉を背中で受け、俺と霞は分かれて駆けた。喉元の一点に線を引く――最短最速。
踏み出した刹那、天井が“虹色”に裂けた。 紙を刃で切ったみたいな多色の断面が、夜の景色をひっくり返す。青と赤が中心に滲み、他の色が縁に踊る。
いちばん先に変わったのはにおい。線香の香りがすっと消え、潮と焼いた麦の匂いが胸に入ってきた。 次は足音。畳の軋みが、石の足音へ。 そして空。見上げると――二つの月。
後に知ることになる、冷たい青の蒼月、熱をふくむ赤の緋月。
この二つの月が周囲を明るく照らしていた。
高い塔が月を抱くみたいに立っている。塔の胴には丸い輪の紋。一本だけ少し長い線が混じって見え、座敷の「誠」を思い出して、背筋が冷えた。
蒼と緋の光が輪郭に青と赤のふちを作り、世界の色が少しだけ現実からずれる。
通りの向こうを、人が横切った。
「……!?」
聞いたことのない言葉が飛び交う。耳には呪文みたいな音。でも頭の中では、まるで母国語のように日本語になる。
『塔の鐘が鳴ってる!』『影だ、走れ!』
(どういうことだ。耳と頭、別々に動いてるのか……?)
足もとで石が鳴り、黒い影が地面からめくれ上がる。
霧みたいに薄いのに、牙だけは本物のようだ。
反射で鞘をはじく。
正眼。
半歩詰める。
息を一つ、落とす。
影は二重にブレて見える。
どっちが本物か――腰の動きで見切る。肩ではない。腰が先に回る方に重みが乗る。
右足を小さく踏み替え、狙いを喉の一点へ。
最短――突き!
刃先で青い光がはじけ、耳の奥で細い鈴みたいな音が鳴った。
影は破れた布みたいにほどけ、霧の破片が石に散る。
その瞬間、背の羽織の「誠」が、日向みたいにほんのり温かくなった。(今のは何だったんだ……刃を何かが通り抜けていく感覚があったぞ)
「今の見たか! すげえ!」 淡い蒼の肩章をつけた丸い盾の男が走り寄る。
俺を上から下まで見て、息を整えながら何か言った。
耳には滑るような異国の音。
頭の中でははっきりと――『君は異国の戦士か?なんだその刃は?見たことがない。怪我はないか?』
「はい。怪我はありません。これは刀といいます。私は新選組一番隊の望月 廉と申します」
男は目を丸くし、それから胸に手を当てて一礼した。
『月満ち引きと共に。刀?新選組?一番隊?聞いたことがない言葉ばかりだな…とにかくアルセイドへようこそ。ここは城下の東区だ。詳しい話は後にしよう。今は危ない、こっちへ!』
「アルセイド?ですか……」口にすると、喉が慣れない形で少し痛い。 (これが言の加護というものだと、後で知ることになる)
「歩けるか?」
「はい。先ほどの黒い影は、何でしょうか」
『あれは喰い影――この世界ではシャドウビーストと呼ばれる魔獣だ。塔の影に寄ってくる。二つの月がずれる夜は特に出やすいんだ』
そう言うと男は名を名乗った。ファルコ。市衛兵の隊長だという。
「あの…『月満ち引きと共に』というのは、挨拶ですか」
『ああ。ここの挨拶だよ。昔は蒼が“月満ちて”、緋が“引きと共に”って返す作法だったが、街じゃ一息で済ませる』
ファルコは笑って、同じ所作をして見せる。胸に手を当て、軽く礼。(言葉だけじゃなくて、作法も大事、ってことか)
小走りに動き出す前、俺は刀身をのぞき込む。髪の毛みたいに細い青い光が、刃先にまだ残っていた。 (二つの月の下で息を吸うと、胸の奥が冷たく澄むような感覚がある。……嫌じゃない。むしろ落ち着く)
――後に知る。これが蒼月の夜の潮。この世界で言う魔素の流れだ。
路地の奥から、子どもが顔を出して俺の背中の字を指さす。
「何て書いてあるの?」
「誠ですよ」ゆっくりと言うと、子どもは胸に手を当てて小さく礼をした。
(通じた。言葉も所作も、少しずつ覚えていけるのかもしれない)
「君、行くぞ」ファルコが促す。
「はい。ファルコさん、一つよろしいですか。霞という同じ格好をしている女を見かけませんでしたか。薄い着物で、半歩で消えるくらい速いんです」
ファルコは短く考えて、うなずいた。
『その女かは分からないが、運河の向こうで、“薄衣の剣士”を見たという噂がある。明日、ギルドで確認しよう。 ギルドってのはな、仕事を仲介する場所だ。あそこに行けば大抵のことは分かるさ』
「助かります。――ありがとうございます」
『なに、礼は不要だ。月満ち引きと共に』
「月満ち引きと共に」とまねて返すと、ファルコは少し安心した顔になった。
塔の鐘が遠くで鳴る。俺は刀の位置を直し、鞘をしっかり腰に固定する。 突きは最短の礼。迷いは、進む足で払え。 師の教えは、知らない空でもまっすぐだ。
――しかし俺は、まだ知らなかった。 蒼と緋が重なる色が、この世界にもう一つの夜を連れてくることを。 (つづく)
ミニ用語メモ
新選組/壬生:京の治安を預かった武士集団/その屯所があった地名。
誠:新選組の理念を表す一字。羽織の背に染め抜かれている。
池田屋:歴史の転機となる夜襲の場。ここで“裂け目”が開く。
最短の礼:沖田の教え。「突きは最短で届かせるのが礼儀」という技と心構え。
半月の守り札:霞が持つ札。右半分が欠け、赤い縁取りがある。
虹色の断面:世界を切り替えた“裂け目”の見え方。蒼(青)と緋(赤)が干渉して生じた色。
アルセイド:異世界の都市。塔の輪紋が象徴。
蒼月/緋月:空に浮かぶ二つの月。世界の力(導素)と文化を左右する。
喰い影:影に潜む魔獣。双月のズレる夜に活発。
言の加護:耳では異国語でも、頭では母語に変換して理解・発音を助ける現象(会話限定)。
挨拶「月満ち引きと共に」:本来は掛け合い(蒼=「月満ちて」/緋=「引きと共に」)。街では一息で使う中立形。
色の目印:蒼側は蒼の肩章、緋側は緋の帯などで所属を示す。