渇 ーかわきー
これは少し未来の恋人同士の話です。
結婚を控えた恋人同士でも、本当に相手のことを全て理解していると言える人はどのくらいいるのでしょうか?
ピンチの時にこそ、その人の本性が垣間見えてしまい、失望してしまうこともあると思います。
長い人生で危機的な状況に陥った時、自分より相手のことを考えてあげることがお互いに出来ないと、危機を乗り越えることは難しいものだと思います。
「こんなはずじゃなかったのにな」
哉太が何百回目かのため息と共に弱気なグチを言う。実に鬱陶しい。グチったって状況が変わるわけじゃああるまいし。
私達は今、火星にいる。
月面リゾート開発が進み、月面には100棟以上のリゾートコテージが立ち並ぶこの時代に、大手民間宇宙開発会社のR社が満を持して火星開発に乗り出すため実証実験用のコテージを建て、そこで半年間を過ごす被験者を募集し、私達は婚約者同士でそれに応募したのだ。
実際にリゾートとして営業を始める時には医療スタッフも含め大勢の現地スタッフも置くようだが、R社でのリゾートに於けるコンセプトとして“家族、恋人、友達同士だけの宇宙冒険旅行”というものを掲げていて、危険が及ぶ様な特別な場合を除いてはスタッフが利用者には関与しないという方針を貫いている。
今回の火星開発ではさらに進めて往復の宇宙船も無人運行をし、利用者だけで無人のコテージで過ごせるか、という確認のための実証実験である。
もちろん大きな危険も伴うためR社の社員による実験が何度も行われていて、改善も何度も行われた後の最終確認としての一般人による被験者に私達が選ばれたのだ。
男女2人での応募が条件とされていて、宇宙旅行は今だに一般人ではとても手の届かないような高額の旅費がかかるのだが無料で行くことができ、しかも地球に帰れば多額の報奨金が得られるということで応募者は数千組に及んだらしい。
その中で私達が選ばれたのは、やはり2人共が医師であるという事が大きかったのだろう。
応募者の中には私達の他にも医師はいたようだが、2人共というのは私達だけだったと聞いている。
やはり、リスクを伴う宇宙では、病気を発症した時にお互いを診る事ができるというのはリスクヘッジ的にかなりの強みとなるのであろう。
私達は有頂天になっていた。帰った時の報奨金で2人で医院を開業し、いよいよ新婚生活を始める事が出来るのだ。火星居住に不安がない訳ではないが、月面開発で実績のある会社が何度もの改良を重ねて行う実証実験だ。本番さながらの実験であるためR社の社員も同行せず、現地駐在員もいない中での火星生活となるが、敢えて考え過ぎず、前倒しでの新婚旅行を楽しもうと思うことにした。
しばらくの訓練期間を経て、火星の気候環境や火星コテージの構造、機器の運用方法、応急的な修理方法など火星生活に必要となるあらゆることを学び、私達はあこがれの宇宙へと飛び立った。
宇宙船も私達だけの無人運行であったが、宇宙船運行に於いてもR社が自社開発した機体を使用していて、月へ何度も無人運行されている機体であるので、あまり不安に感じることもなかった。
離陸時のみこれもR社が開発した、スキューバダイビングに使うウェットスーツによく似た宇宙服とバイクに乗るときに使う様なヘルメットを着用する必要があったが、巡行航行に入った後は私服で過ごすことができ、まるで高級ホテルのスイートルームで過ごしているように快適であった。
私達は今までに体験したことのないセレブ気分を味わいながら、備え付けのジム器具で体を動かしたり、一流シェフが監修した食事パックの食事を楽しんだり、R社が開発したスペースネットを見て過ごしたりして、まるで退屈や不安を感じることも無く宇宙旅行を楽しんだ。
R社の最新の機体による火星への旅は、それまで片道250日程度掛かっていた道程を100日程度まで短縮することに成功しており、途中になんの障害も無く航行できたため、98日目に火星に到着することが出来た。
着陸と火星コテージへの接続も問題なく成功し、宇宙船は私達と入れ替わりに地球へ帰るR社の社員達を乗せて地球に帰っていった。
こうして半年間の火星コテージでの生活は何の問題もなく始まった。
コテージの外での火星環境は過酷な状況であるため、どうしても必要があるとき以外はコテージ外部に出ることも出来ないが、私達に課せられている義務はテレビ通話による朝9時と夕方5時の定時連絡と月1回の生活レポートの提出のみであり、緊急連絡が必要な時以外は実験効果を高めるためになるべく地球との交信はしないように求められていた。
生活時間として日本時間に合わせた生活を行っているため定時連絡もほとんど煩わしく感じることもなく、逆に哉太以外の人と話せることが楽しみでもあった。
地球でのサポート担当の有田さんは
「特に監視などはしていませんので、その………、なんというか………、カップルとしての生活をしていただいても何も問題はありませんからね」
などと、顔を赤らめながら言ってくるような可愛らしい女性で、毎回の交信でもだんだんと友達とのテレビ通話を楽しむ様に待ちどうしさも感じる様になっていった。
火星コテージはセレブが利用する宿泊施設に相応しくジムや退屈しないための工夫が凝らされていて、地球の情報や映画などの娯楽もスペースネットを通じて提供されており、食事も一流シェフ達の監修による様々な物がパックとして用意されていて、私達は毎日のセレブ新婚旅行を飽きることなく過ごしていた。
生存に必要な物として、空気は私たちの呼気や火星での薄い大気の主成分である二酸化炭素から酸素を作り出し、窒素と混合して地球の大気と同じ様な環境を自動で作り出す空気循環装置が備えられている。
水は地球から持ち込んだものを利用して、生活排水や空気中の水分を浄化して循環利用する水循環装置が備えられている。
これにはトイレの排水を使うことはもちろん、汗をかいた後のシャツや食べ残しの残飯、使い捨て食器類に残る水分までも全て脱水し循環水に利用する脱水装置が付けられていて、最初はそんな水まで使わなくてはいけないのかというところで抵抗感はあったが、宇宙での水分の重要さを考えれば仕方のないことだと思い、特に水に臭いなどの問題も無いのでだんだんと慣れて全く気にはならなくなった。
私達の火星生活に暗雲が立ち込め始めたのは、火星コテージ生活の日程が1か月位過ぎた頃だった。
朝の定時連絡で有田さんがやや暗い表情をしているのは、昨日の夜にスペースネットで見たニュースのせいだろう。
「もうニュースを見てご存じかもしれませんが、弊社の月コテージにおいて事故が発生いたしまして。その内容が水循環装置の循環経路の破断による故障というものであったため、現在、弊社技術者による調査が行われております。そちらで使われております装置と同型のものでありますのでご心配をおかけすることとなってしまい申し訳ございませんが、調査が終わり次第ご報告をさせていただきますので暫くお待ちください」
少し気持ちはチリっとする思いがしたが、この時点ではまだ哉太も私も楽観視していた。今まで長期に亘って使われていた水循環装置にそう簡単にトラブルが起こるとは思えないし、たまたま事故を起こした装置だけに不良があったに決まっている。そう思い込もうとしていた。
次の朝の定時連絡の時、有田さんは昨日よりも更に暗い表情になっていた。
「実は悪い知らせがございまして………。水循環装置は外部のメーカーに委託して作成して貰っていたものなんですが、そちらでの構造計算にミスがありまして、循環パイプに一定期間、水圧がかかると破断する恐れがある事が確認されました。補修交換が必要となりますが、そちらのコテージに用意されている部品で補強することが可能であるということが確認できておりますので、上司と相談いたしまして、お二人での補強作業をお願いしたいという事になりましたのでお願い出来ますでしょうか。コテージ外部での作業が必要になってしまいますが、お二人のご安全のためにも是非お願いいたします」
こうして、追加で送られてきた作業マニュアルに従って、私達二人で水循環装置の補強作業を行うこととなった。
地球での訓練期間に水循環装置の補修については何度も実習していたので手順は大体把握していたが、初めてのコテージ外部作業に二人共緊張をしていた。一人がコテージ外部に出て、一人は室内で操作パネルを操作することになるのだが、私に良いところを見せたいと思ったのか、危険の伴うコテージ外部作業は哉太が担当してくれることとなった。
今となって思えば、この選択を死ぬほど後悔する事になるのだが、最早、後の祭りだ。
実は哉太が外部作業をすると言った時に一抹の不安を感じていた。地球での訓練中に気が付いたのだが哉太は機械操作が全く駄目で、機器の操作や補修の実習でも何度も失敗をし、やり直しを繰り返していたのだ。
医師として医療機器の操作はしているだろうに、今までよく医療事故を起こしていなかったと思うくらいに失敗を繰り返していた。
しかし、私を危険に晒さないために言ってくれたことだという思いから、自分がやると言い出す事が出来なかった。
宇宙服に身を包みポータブル空気循環装置を装着してコテージ外部に出て行く哉太を見送り、私は室内の操作パネルから水循環装置の電源を切った。
30分ほどして哉太から
「作業が終わったから、電源を入れて」
と連絡があった時、
「ホントに全部確認も終わったの?」
と聞いてしまったが、
「マニュアル通りにやったんだから、大丈夫に決まってるだろう」
とやや不機嫌そうな哉太の声が通信機から聞こえてきた。
「それじゃ、動かすわよ」
と言って私が電源を入れて間もなく、
「ちょ、ちょっと待って。おかしい。すぐに止めて!」
と哉太が焦った声で言ってきた。
何が起きたのか分からなかったが、焦って装置の電源を切ったその時には取り返しのつかない事が起きてしまった後だった。
哉太が排水パイプのバルブを誤って開けてしまい、閉めることなく電源を入れてしまったため、圧力のかかった排水パイプから水が一気に排出されてしまったのだ。
操作パネルにはアラーム表示が点滅し、水の残量メーターは10リットルと表示されている。
すっかり憔悴し切った様子で室内に戻ってきた哉太を見て怒鳴り付けたい衝動に駆られたが、わざとやった訳では無いし、怒鳴り付けたところで状況が変わる訳ではないと思い、辛うじて感情を抑え込んだ。
緊急連絡として有田さんに状況説明をした時、彼女は明らかに動揺している事が見て取れたが冷静を装って、
「上司と相談いたしますのでご連絡をお待ち下さい」
とやや引き攣った笑顔で言った。
コテージに残された水は非常用タンクにある100リットルと、水循環装置内の10リットル余りだけになってしまった。
その後の有田さんからの連絡では、残った水は生命の維持のためのみに使う様に指示があり、実験は中止することが決定された、と告げられた。
水循環装置では自然減少分があるためにシャワーや洗濯は禁じられ、トイレも極力流さないようにすること、洗顔や歯磨きも最小限に止める様に求められた。
有田さんの憔悴した様子は、私達のためだけでは無い様だった。
月のコテージ群や居住地で使われている水循環装置がほとんど同じ型式のものであったため、事を重視した政府の宇宙開発局から月にいる全住民に退避命令が出され、R社はその対応に追われていた。
それでもさすがに私達を見捨てるようなことはしないと言ってくれて、今、迎え用の宇宙船の離陸を準備しているところだ、ということだ。
だが、離陸準備のためには10日程度を必要とし、片道が100日かかるので、私達のところに到着するのは110日後ということになる。
私達は110日を生き延びるために、残った水を1日一人300mlずつ、計600mlの消費で抑えることを話し合って決めた。残量から逆算すると1日一人500mlは使える計算となるが、不測の事態に備えてなるべく節約しようということになったのだ。
それでも、300mlは小さめのペットボトル1本分位はあるし、食事から取れる水分もあるため、1日分の水分量としては充分であると思っていた。
しかし、自由に好きな量の水を飲むことが出来ないストレスは、段々と私たちの中に淀みを作り始めていた。
シャワーや洗顔を行えないことで髪や体からは自分でも気が付くくらいに臭いが立ち始めていて、なるべく汗をかかないようにするため極力体を動かさないようにしていることもストレスに拍車をかけた。
新婚旅行気分はすっかりと萎んでしまい、私達はちょっとしたことでも小競り合いをするようになってきていた。
さらに、今まで恋愛フィルターがかかった目で見ていて気が付かなかったのかもしれないが、医者の家で生まれ育ち小さいころから何不自由なく育ってきた哉太は、逆境に全く弱かった。水300ml生活を始めて2日目でもう音を上げ始め、グチグチと言ってもしょうがないことを呟くようになり、そのたびに溜息で締めくくる。こちらのストレスメーターは少しずつ上がってくる。
更に悪い知らせが有田さんから届く。
「申し訳ございませんが、お二人にとっては悪いお知らせとなります……。」
多分、私達への対応と月への対応で、碌に家にも帰れていないのだろう。髪は乱れ、目の下にはうっすらとクマが出来ていた。
「お二人の宇宙船なんですが、整備スタッフが月への対応に忙殺されていることもあり、人員不足での機体整備を行ったことの影響か出発直前に推進エンジンのトラブルがございまして、出発までに更に20日かかることになってしまいまして……」
彼女の言葉に私達二人は落胆の表情を隠すことが出来なかったが、こんなにもボロボロになりながらも対応をしてくれている彼女に対しては、
「引き続きよろしくお願いします」
としか言えなかった。
通信を切った後、哉太はひとしきりグチを言って、最後に一際大きなため息をついた。
現実問題として更に使える水の残量が厳しくなってきた。水を失ってから既に10日が経過しているが、また20日延長されたことで、現状ではギリギリだろう。
哉太に、
「今のままだと水の残りが本当にギリギリになっちゃうから、もう50ml減らして一日250mlにしない?」
と提案してみたが、
「もう無理だよ…。人間の体は60パーセントが水分なんだぞ。これ以上減らしたら乾いて死んじゃうよ」
と全く取り合ってくれなかった。
確かに私もこれから120日もの間、制限された水量で暮らしていくことにはストレスを感じるが、この先また何かトラブルが起こらないとも限らない。もし水が全くなくなってしまえば、それこそ”乾いて死んじゃう”のだ。哉太だって計算は出来ない訳じゃないから分かっているはずだ。
もう少し水の残量が減ったところで、哉太が冷静になっているところを見計らって再度提案をしようと思い、その時は交渉を諦めた。
段々と残りの水が減ってきてしまう焦燥感と、実際の喉の渇きで夜も良く寝られない時が多くなってきたある日の夜中に、寝苦しさで目をさますと隣で寝ているはずの哉太の姿が無い。トイレに行ったのかと思ったが、リビングに使っている部屋の方でガサゴソと何かをしているようだ。嫌な予感がして、起きだして薄暗闇の中そっと近づいてみる。
「アンタ、何してるのよ!」
思わず大声で怒鳴ってしまった。
そこには並々と水を入れたコップを抱えた哉太がいた。
しばらく沈黙した後、
「喉が渇いて死にそうで、どうしても我慢が出来なかったんだ。ボクが死んだらお前だって悲しいだろ」
と上目遣いに言ってきた。
「ふざけるんじゃ無いわよ。誰のおかげでこんなことになっていると思っているのよ!」
今までため込んでいたストレスが爆発し、私は今まで言わずに来た一言を大声で哉太にぶつけた。
初めて見せる私のあまりの剣幕に哉太は目を丸くしてこちらを見ていたが、やがて肩を落とすと、
「ごめん……。もう二度としないよ。ボクがわがままだった」
と目を赤くしながら言ってきた。
哉太のあまりの落胆ぶりに何だかかわいそうになってきてしまった私は、
「もういいよ……。私も言い過ぎた。でも、もう二度としないでね」
とその日は興奮が収まらぬまま、二人でベッドに戻って眠れない夜を明かした。
次の日の朝、哉太が、
「昨日はごめんね。前に言っていた一日に使える水の量を50ml減らす提案なんだけど、そうしていこう。あるものでなんとかするしかないもんな」
と言ってきた。私の機嫌を取るためであろうが、提案してくれたことには素直に返事をした。
その日の夜、またそっとベッドを抜け出そうとしている哉太の様子に気が付いた。もうしないと言っていた舌の根も乾かぬうちに、同じことを繰り返そうとしているのだ。怒りに肩が震えるが、私は気が付かないふりをしていた。
次の日の夜、また同じようにベッドを抜け出した哉太に気が付かれないよう、ベッドの横に用意した機械を取り出す。病院用の電気除細動器だ。昼間のうちに気が付かれないようにベッドの下に隠しておいた。マニュアルモードに切り替え、電圧をマックスにし、消音モードにもしてある。
薄闇の中、気付かれない様にそっと哉太の後ろに近づき、電極を哉太の首に当てるとマニュアルのスタートボタンを押した。
哉太は”グッ”とくぐもった声を上げ大きく痙攣したが、幾度となくスパークさせるとやがてぐったりと動かなくなった。辺りにすこし焦げ臭いにおいが漂っている。
”もの”となってしまった哉太を引きずり、水循環装置の脱水装置に放り込むと、脱水のスタートスイッチを押した。
自然と笑みが零れる。
「あるものでなんとかするしかないもんね。人間の体は60パーセントが水分なんだし」
人間観察をする事が好きで、街のあちらこちらで色々な会話を聞いたりしていると、一番愛おしいのも人間であるのと同時に、幽霊なんかよりも一番怖いのが人間であると思ってしまう事があります。
ちょっとエグい話になってしまいましたが、今回のお話はいかがでしたでしょうか?
お読みいただきましてありがとうございました。ご感想をいただけましたら反省と今後の励みになりますので、よろしくお願いいたします。