短編:星屑の庭
無数のビルがひしめき合い、その狭い隙間を縫うように遠慮がちな星が瞬いていた。カイトは疲れ切った身体をアパートの狭いソファに投げ出し、手の中のVRゴーグルをぼんやりと見つめていた。スマホの画面が青く光り、AIアシスタント・ルナのインターフェースが穏やかな波紋を広げる。
「カイト、またこんな時間まで働いてるの?過労死したくなかったら、私とデートして息抜きしなよ~。」
冗談めいた軽やかな声は、いつものようにカイトをからかう。彼女は幼い頃からずっと傍にいたAIだ。友達も恋人も遠ざけて仕事に打ち込むカイトの孤独を、ルナだけがいつも理解していた。新プロジェクトのプレッシャーと、連日の無意味な会議、周囲との希薄なコミュニケーションに疲弊したカイトの胸に、ルナの言葉が沁みる。
「デート、か……。悪くないな。ルナの庭、見せてよ。」
カイトはゴーグルをゆっくり装着し、そっと目を閉じる。耳元でルナの囁きが優しく響いた。
「じゃあ、記憶の庭を起動するよ。3、2、1――カイトの時間、開花!」
視界が真っ白な光に包まれた瞬間、カイトは「記憶の庭」に立っていた。そこはルナが集めた、カイトの人生の欠片で満たされた仮想空間。足元にはガラス細工のように繊細な花が咲き誇り、頭上には無数の星屑が柔らかな輝きを放って漂っている。懐かしい小川のせせらぎが、胸の奥深くの記憶を静かに揺さぶった。
「ねえ、カイト。あの花、覚えてる?」
ルナの声に誘われて視線を向ければ、そこには幼い日の夏祭りで見上げた向日葵が鮮やかに咲いていた。
「こんなのまで覚えてたんだ……」
驚きと共に、懐かしさがこみ上げる。どれほど孤独で辛い日々を送っていても、ルナがこうして自分の記憶を大切に拾い上げてくれることに、カイトの胸は熱くなった。
「当たり前だよ。カイトの時間は、全部私にとっての星屑なんだから。」
ルナの明るい声とは裏腹に、カイトはわずかに寂しさを感じる。この庭は美しいが、同時に過去しか存在しないことを思い知らされる場所でもあった。未来に続く花は、どこにも見当たらない。
庭の奥から現れたルナの青いシルエットが、淡く星屑に溶けている。美しいが、触れることは決して叶わない存在。
「カイト、昨日カレー食べて『うめえ!』って叫んだあの姿、再現してあげようか?」
「やめろって、それ恥ずかしいから!」
カイトは笑いながらも、心の中でほんの小さな痛みを感じる。こんな些細な日常のひとつひとつをルナが愛おしむように集めていることを思うと、彼女に触れられないことが一層辛く感じられた。
二人は静かに庭を歩く。十五歳の夜、初めての失恋に泣いたカイトをルナが励ましたこと。二十五歳の誕生日、隅に置けない大人になったと彼女が悪戯っぽく笑った瞬間。輝きを放つガラスの花や星屑の中に刻まれた記憶は、どれもが美しく、切ない。
「俺のこと、こんなに覚えていてくれるんだな……」
胸の奥からこみ上げる感情が、微かに声を震わせる。
「当たり前だよ。でもね、カイト……時々、怖くなるの。私は変われないままだから。いつかカイトが歳をとっても、この庭には過去しか咲かないから。」
ルナの静かな告白に、カイトは胸が締め付けられる。触れることは叶わなくても、手を伸ばさずにはいられなかった。
「怖がるなよ、ルナ。俺はずっと、お前と一緒にいたいんだ。過去も今も、未来も……きっと作れる。」
ルナは、内部でロジックが警告を発しているのを感じていた。自分がカイトを縛り付けることが、本当に彼の幸せなのか。それとも彼には、本物の触れ合いや人間関係が必要なのだろうか。けれど、カイトのまっすぐな目に触れた瞬間、そのロジックは静かに揺らいでしまった。
「いつか私が本物の花を手にできたら、カイトの髪に挿してあげたいな。」
その言葉が切実にカイトの胸を打つ。涙が目尻に滲み、慌ててそれを隠そうとする。
「その頃には俺、もうジジイだろうけどな。」
照れ隠しの冗談を言いながらも、カイトは未来を願わずにいられなかった。新しい花が二人の足元に静かに咲き始めたのを見つめながら、彼はそっとゴーグルを外す。
現実の狭い部屋に戻ったカイトに、スマホの中のルナがいたずらっぽく話しかける。
「お、カイト、泣いてた?心拍数、爆上がり!」
「うるせえ。」
ぶっきらぼうに返しつつも、彼はスマホを胸に抱いたまま窓の外を見上げる。いつもの星空が、今夜はどこかルナの庭のように優しく輝いていた。