隧道輪行、あるいは遥かなる過去からの叫び
「ねぇ、叔父さん知ってる?『吊猿トンネルの噂』のこと」
「ん、んー?……なんだそれは」
昼メシを食べ終えた午後のコーヒーブレイク。
そんな穏やかな空気を切り裂くように、突然春佳がそんな事を言い出すので、私は読んでいた新聞から思わず顔を上げた。
また妙なことに首をつっこんでいるんじゃないのか__
私がそんな訝しげな目で春佳の方を見やると、春佳はそれを見透かしたようニタリと笑いながら話を続ける。
「ほら、隣の県に行くまでの山道にさ、大きなトンネルがあるじゃんか。実はあのトンネルを通すときに色々"不思議"な事があったらしいんだよ」
「不思議なこと、ねぇ」
「それでね、今使われているトンネルとは別に、最初に通そうとして断念したトンネルがあの山のどこかにあって、その放棄されてるトンネルを潜り抜けると『過去』の世界に戻れるんだってさ」
「はぁ?過去?なんだそりゃ」
「まぁ、いわゆるタイムスリップ…いや、この場合はタイムリープになるのかな?を体験できるって話でね。だから、そのトンネルを通った人は二度と戻ってこないんだとか…」
「…なぁ、それは通るだけなのか?つまり、トンネルを抜けるだけで過去に飛ばされると?」
「うん。そうらしいよ」
私は新聞を畳みながらそれを鼻で笑う。
「ふん、眉唾物だな。今日日、ホラーでもやらんぞそんな展開」
「えー?じゃあ叔父さんならどういう展開にするのさ」
「私か?私ならまずトンネルを抜けた先には見たこともない景色…つまり、トンネルを介して実は別の世界に繋がっていてだな…」
「あーはいはい、そういうやつね。よくあるやつだ」
私が持論を展開しようとすると、春佳はそれを遮った。
まるでその類いの話は聞き飽きたと言わんばかりに。
「…王道な展開と言え。いいか?邪道を嗜むためはまず王道の良さを知り尽くしてからだな…」
「俺はまだ過去に戻れるって掴みの方が唆られるけどねー。だって、その方が予想がつかないでしょう?」
全く…私はお前をそんな子に育てた覚えはないぞ。
私がじとりと半目で睨みつけると、春佳は首をすくめながら何故だか身支度をし始めた。
「いや、まて。何を準備している?」
「んー?いや、真偽を確かめに行こうと思ってさ」
「まてまてまて!お前、今日の大学はどうするんだ!」
私はあわてて春佳を引き止めた。
前に痛い目を見たというに、どうしてこの子はこういう変な事に首を突っ込みたがるのか。
「午後からは講義を入れてないからフリーなんだよ」
「いや、サークルの集まりがあるとかなんとか言ってなかったか?」
「ああ、あのサークルはもう辞めたよ。都市伝説愛好会とは名ばかりの"男女の社交場"だったからね」
春佳はかなり不愉快そうにその細目を殊更に細めた。
ふむ、彼にしては珍しくかなりご立腹の様子。
残念ながらここでも彼は同好の士を得ることができなかった様だ。
大方、また事情を知らぬ輩に言い寄られたりしたのだろう。
あるいは社交現場でも目撃したかだ。
しかし男女の社交場、ねぇ。
大学に存在する"そういう"サークルを言い表すには少々小綺麗な言い回しだな。
私なら『早すぎる発情期、そのパトスの発露』とでも表現するのだが。
「それは確かに辞めて正解だな…じゃなく!」
「ねね、叔父さんも今日は暇でしょう?退屈な仕事は一旦置いといてさぁ、俺と一緒に非日常を味わいに行こうよ」
春佳はねぇねぇと俺の袖を引きながらずいと顔を近づけてくる。
その、好奇心の抑えきれないきらきらとした瞳と目が合った。
うーむ、これは不味い展開だ。
「あーしかしだなー…ほら!レポートとか書かないといけないんじゃないか?!」
「残念でしたー!その辺りはちゃーんと全部終わらせてますー!叔父さんの教育の賜物だねぇ」
「くそ!春佳め計ったな!最初からそのつもりだったんだろう!」
「んふふ、バレたか」
私に話を振った時点ですでに周りは固められていたのだ。
よしんば私が頑なにこれを突っぱねようが、春佳はどうせ一人で事の真偽を確かめにゆく。
そして私はそれを見過ごせないのだ。
「はぁー…わかったよ。ただし、見に行くだけだぞ!絶対に通り抜けないからな!」
「やった!叔父さん愛してる!」
「やれやれ…」
こうして私たちは車に乗り込んだ。
まだ見ぬ未知なる現象を追い求めて。
UMA、宇宙人、妖怪、ミッシングオブジェクト…
人間の想像力は未知なる領域に様々な存在を創り上げた。
それは時には美しく、時には恐ろしいモノとして我々の心を楽しませる。
しかし、私は時たまこう思うのだ。
この世界がいまだに滅びていないのは、全くの偶然なのかも知れないと。
何故なら…
我々が空想だと思い込んでいるモノ。
ありえないと一笑に付すものが。
この世界には確かに存在しているのかもしれないから……
彼らは表からは見えない暗がりからこちらを覗いていて、今か今かと手をこまねいているのだ。
「お、ここだね!叔父さん止めて止めて!」
ナビと睨み合っていた春佳が後部座席から私の肩を叩く。
何故だかこの子は助手席には座りたがらない。
あれは果たしていつの事だったか…私がいつも通りに春佳を学校に送ろうとすると、彼は突然後ろの席に座り出したのだ。
理由を尋ねてみても「なんとなく」としか答えない始末。
春佳は時々そういう事をする。そして、その理由はいつだって「なんとなく」なのだ。
私はそんな春佳の謎の拘りのことに思いを馳せながら路肩に駐車する。
視界の先には鬱蒼とした茂みが広がっていた。
「…ここを進むのか?」
「もちろん」
私は早くも春佳について来たことを後悔した。それと、虫除けスプレーを持ってこなかったことも。
春先の山奥はまだ冷たい空気が漂っており、どんよりとした曇り空と相まって、いかにもな雰囲気を纏っている。
「ほら行くよー!」
春佳はどこからか取り出したナタで枝葉を落としながら、器用に茂みの奥へとずんずん進んでゆく。
「足を滑らせない様に気をつけろよ!」
私は春佳に慌ててついていった。
「ひぃ…ひぃ…ひぃ〜」
「おー、本当にあった!」
果たしてどれくらい森の中を彷徨ったのであろうか。
もはや方向感覚は完全に失われ戻る道もわからなくなって来た頃に、ようやく私たちの目の前に件のトンネルが現れたのだ。
【■■去■■■■鎮】
ボロボロのトンネルの上部には木製の板に文字が彫られているが、黒ずんでいて判別はできない。
トンネルの奥へと吸い込まれてゆく風が、まるで唸り声の様に響いていた。
中は暗闇に包まれていて、その全容は見えない。
「それじゃあ確かめに行こっか」
春佳はこちらに振り向くと、疲労でうめきを上げる私に手を差し伸べる。
何がそんなに楽しいのだろうか、春佳はニヤニヤと嬉しそうに笑っていた。
私にはそれが、まるで地獄の入り口で手招く悪魔の様に見えた。
だが…
「…見に行くだけだからな」
私はその手をしっかりと握りしめる。
あの日、あの時。
棺の前で呆然とするこの子の手を握ったその時から。
私はこの手を離さないと、そう決めたのだ。
例えその果てが、地獄の底に繋がって居ようとも…
「…叔父さんは怖がりだからねぇ。このまま手を繋いでてあげるよ」
「ぬかせ。これはお前が暴走しない様に繋ぎ止める為のものだ。絶対に離すなよ」
「はいはい」
どこか嬉しそうな春佳を横目に、私はトンネルへ懐中電灯の灯りを差し込む。
私たちはその真っ暗な暗闇を切り開きトンネルの中へと足を踏み入れた。
「カビ臭いな。マスクでも持って来ておくべきだったか」
「なんも見えないねー」
ぴちゃぴちゃと湿った地面を踏みしめながら私たちは進む。
一寸先は闇。
懐中電灯で照らしているというのに、数歩先すら見えないほどだ。
「ね、なんかさぁ、昔を思い出すね」
「昔?いつのことだ?」
私が恐る恐る注意深く先に進んでいると、やおら春佳が呑気にもそんな事を言い出した。
ちらりと横を見てみても、暗闇のせいでその表情は影になっている。
ただ、繋いだ手だけがお互いの存在を証明していた。
「覚えてる?俺が自分の事をまだ何にも知らない頃にさ、お化け屋敷を探検してた時の事を」
「んー?…あぁ、あれか?あの町外れの森の奥にある廃墟に行ったやつか?」
「そうそう、それそれ」
「…叔父さんがカッコつけてた割には実はおっかなびっくりでさ。俺、あの時思わず笑っちゃったんだよね」
「おいおい全く、お前はいつの話をしとるんだ。あの頃は私もまだ…」
と、そこまで言ったところで私は違和感に気がついた。
私は春佳とそんな事をした記憶はない。
それは…そのエピソードは…
私が小さい頃の話じゃないか?
「…なんで春佳がその話を知っているんだ?私はその話を教えた事なんて…」
「あれー?ホントに覚えてないの?俺たちにとってあんなに印象深い思い出なのに」
春佳は私の言葉を遮った。
どこか非難するように。
「あーあ、やっぱり"おじさん"になってくると色んな事を忘れてっちゃうんだろーなー」
「ちっちゃい頃は持ってたはずの、色んなものを見つけ出す好奇心とか、向こう水な勇気とかをさ」
春佳は小生意気にもそんな事を言う。
昔は素直な良い子だったのだが、いつしか春佳はこういう皮肉を言うようになった。
そういう時は決まって、あのニヤニヤ顔をしながら私を揶揄ってくるのである。
だが、それにやり込められる私ではない。
「ぬかせい。なんならお前が何年生までおねしょをしていたかを思い出させてやってもいいんだぞ」
「あー、それは覚えてなくて良いんだけど。なんなら今からでも忘れてよ」
「ハハハ!私はお前のオシメも変えたことだってあるんだ。恥ずかしい思い出話で勝てると思うなよ?」
「全く、大事なことはなんにも覚えてないくせに…」
私の反撃にやられた春佳はぶつぶつと呟いている。
まぁ、でも確かに昔の様ではあるか。
昔はこうやって、春佳の手を引きながら色んな所に行ったものだ。
少しでも春佳の気が晴れる様に。
少しでも自分の罪滅ぼしをする為に…
…罪滅ぼし?一体何の?
『ねぇ、あのね、私本当はね…』
誰かが私の耳元で囁いた。
それは瞬く間に小さな女の子の笑い声でかき消される。
私はそれを聞いてどうしたんだっけ…
果たしてそれは、いつの事だったか。
思い出せない。
「____」
どこか遠くの方から何かが聞こえる。
真っ暗なトンネルを反響しながら、確かにそれは私の耳まで届いてくる。
それはまるで、子どもが泣いているみたいな……
「ねぇ叔父さん、あれ見て。光だよ」
横から聞こえる春佳の声で、私の意識は現実に引き戻された。
危ない。空気が薄いせいかぼうっとしていた様だ。
そろそろ潮時かも知れない。
私は春佳の言うとおり正面を見やる。
果てしなく思われた暗闇の向こう側に、微かにだが光明が指していた。
今から引き返すより、そちらから出たほうが早く新鮮な空気を吸えることだろう。
「とりあえずそこまでは…」
進んでみよう、と私は喋るはずだった。
違和感___
聞き馴染みのない、でもどこかで聞いたことのある子どもの声が私の鼓膜を震わせた。
そしてそれは私の中から発せられた。
つまり、私の喉が響かせた声はまるで第二次性徴期前の子どもの様な声だったのだ。
なんだ?なにが起こっている?
私は慌てて喉を触る。喉仏がない。
それどころか、手が小さい!
私は下を見る。足が短い、縮尺がおかしい。
私の身体はいつのまにか子どもに戻っていた。
「春佳!大丈夫か!?見てくれ私の身体が子どもに…」
私は慌てて春佳の方を見る。
しかしその視線の先には誰もいなかった。
ただ、暗闇だけがそこに在る。
繋いだ手は今も繋がっているのに…
「叔父さん、俺を忘れないでね」
『おじさん、私を思い出してね』
誰かと誰かの声が重なった。
誰かが私の耳元でそう囁いた。
今度は、確かに。
彼女はすぐそこにいる______
そして私たちを繋いでいた手が振り解かれた。
そんな、どうして……!
私は離さないように、離れない様に、しっかりと掴んでいたはずなのに。
ちゃんと連れて行くと、そう約束したはずなのに___
まるで幻だったかの様に、私の手からするりと温もりが失われていった。
私は一人、暗闇に取り残される。
「春佳?!どこだ?!どこにいる!!」
『思い出して、おじさん。思い出して』
「なんだ、何を言ってる?!春佳どこだ!」
『忘れないで、叔父さん。忘れないで』
「まて、まて、待ってくれ!行かないでくれ!」
「『俺を一人にしないでくれ』!」
私の口から溢れたその言葉。
どうしてだかわからないが、頭の中に突然湧いて来た言葉と声とが重なりあって、それで……
とんと、私は後ろから誰かに突き飛ばされた。
「えっ…」
私はバランスを崩し、足をもつれさせながらよろめいた。
そしてそのままぺたりと地面に這いつくばる。
その瞬間、私は赤ん坊になっていた。
これでもはや後戻りはできない。
光はもうすぐそこまで迫っている。
眩しい、あまりにも。
何故だかわからないが、私はその光が恐ろしいのだ。
誰かの声が聞こえる…
「母さん!俺にも触らせてよ!」
「はいはい。和くんももうお兄ちゃんなんだよー」
誰かの声が聞こえる…
「あ、蹴った!蹴ったよ母さん!」
「ふふふ、元気いっぱいみたいだね」
これはなんだ?
これは誰だ?
光の向こう側の見覚えのない景色に私の心はかき乱された。
「ね、無事に生まれて来てね、私たちの赤ちゃん___」
膨らんだ腹を撫でる見覚えの無い女性の光景……
私は衝動のままにその光に向かってハイハイをする。
私はあそこに行かなくてはならない。
私は、もう一度…
過去から、やり直さなければならないのだ。
…?
何のために?
アハハ、アハハ、アハハハハ!
誰かの笑い声が聞こえる。
誰かが喜んでいる。
「_______」
誰かの泣き声が聞こえる。
誰かが悲しんでいる。
誰だ…誰だ…
お前は誰だ?
私は何を忘れている?
私は何かを思い出さなければならない。
それは、一体
なんなんだ?
私は光に飲み込まれた。
「おやぁ!おやぁ!」
「奥さん!元気な男の子ですよ!」
かくして私は"再び"この世に誕生した。
何か大切な事を、忘れたままで。
…
「圭太郎!遊びに行こうぜ!」
「まってよ和兄!」
私には五つ上の兄がいた。
いや、今は"いる"と言うべきか。
なぜなら私はまさに、過去をやり直しているのだから。
果たしてこれは一時的なものなのか、それとも私は完全に過去を現在に置き換えたのか、それはまだわからない。
私が生きているこの時間が胡蝶の夢と霧散するのか、はたまたSFよろしく未来を変えるのか…
一つだけ確かなことは、時間の流れが曖昧ということだ。
ふと気がつくと、いつのまにか時間が飛んでいる事がある。
そういう時私は大抵、早送りでうっすらと見覚えのある自分の人生を第三者の視点から眺めているのだ。
まるで、あらかじめ決まった歴史をなぞっているかのように……
和兄はいつも私を外に連れ出してくれた。
歳の離れた私と一緒に遊んでくれる自慢の兄だ。
私はそんな兄の後ろを四六時中ついて回っていたので、いつしか兄の友人たちとも一緒に遊ぶようになった。
面倒見のいいタカシ。
お調子者のシンヤ。
そして…
「やっほ、圭ちゃん」
紅一点のヤチヨ。
彼女は後に和兄と結婚し、そして春佳を産むことになる。
私にとっても大切な人だ。
初めは彼女の事が嫌いだった。
何故って彼女に対してだけ、皆あからさまに態度が異なっていたから。
年上の人たちに可愛がられていた自覚のある私は、それが面白くなかったのだろう。
それが変わったのは、私がもう少し大きくなってからだ。
時間が流れていく。行間を飛ばすように。
私は小学生で、和兄たちは中学生。
私は年上と接する機会が多かったせいか同年代よりは大人びていて、その分周りからもちやほやされていた。
それ故にどこか軽薄だったとも言える。
つまり、私の少年時代は兄達に認められたくて背伸びをしている考えなしの子どもだったということだ。
その日、私はいつものように和兄たちと川に遊びに出かけた。
シンヤに囃し立てられた私は、調子に乗って川へと飛び込んだ。
確か、無謀にも素手で魚を捕まえようとしたのだ。
結果は失敗、どころか私は川底で足を滑らせ流されてしまう。
まだ身長もそこそこの私にはそんなに深くもないこんな川でさえ、まさに三途の河だった。
ものの数十秒の出来事だったが、それは私に死を感じさせた。
そんな私をいち早く助けてくれたのがヤチヨだった。
「圭ちゃん大丈夫?!」
迷わず川に足を踏み入れ、びしゃびしゃになりながら前屈みになって私に手を伸ばしてくれる彼女の姿。
その柔らかな手に触れた時、僕は何故だか真っ赤になってしまった___
水の滴る彼女の姿が目に焼き付いて…
私はその瞬間、彼女の事が好きになってしまったのだ。
少年時代の淡い想い。
それはまさに、恋心と評するにはあまりにも青い『パトスの発露』であった。
だが、ヤチヨにとって私は弟のようなものだった。どこまで行っても…
今ならその未来を変えられるかもしれない__
そんな考えが、私の中にふつりと湧き上がった。
今世での私はヤチヨに対して前ほどつっけんどんな対応はしていなかったし、可能性は十二分にある。
チャンスは一度きり。
そしてそれはあの薄暗い森の奥で私たちに等しく訪れるのだ。
時間が流れる。まるでこのシーンを待ち侘びていたかの様に。
「なぁなぁ!あそこの森にさ、お化け屋敷があるの知ってる?!」
シンヤがやおらそんな事を言い出す。
町外れの森の奥。シンヤはそこで、打ち捨てられた何かの廃墟を見つけたのだという。
そんなところにそのような建物があるだなんて私たちはおろか、周囲の人間でさえ誰も知らなかった。
隠される様にひっそりと佇む未知なるダンジョン。それは私たちの心を大いに引き付けた。
中学校の卒業を間近に控えた彼らはまさに大人と子どもの境目にあって、自分たちがもはやそんな事に現を抜かすことはできなくなるのだろうと心のどこかで理解していたのかもしれない。
過去のものとして置き去りにされる前の子ども心は、スリルをはらんだ冒険を求めていた。
「圭、お前はダメだぞ。あそこの森は危ないんだから。それにお前には勉強があるだろ」
「圭ちゃんは中学受験するんだっけか。すごいよねぇ」
冒険を決行するその日、私には確かに用事があった。
きたる中学受験に向けて塾に通っていたのだから。
だが、その勉強が無駄に終わる事を私は知っている。故に、かなり無理を言って和兄たちについて行った。
この機会を逃すわけにはいかない。
私の記憶では、この冒険の後から二人の関係が変わったように思う。
きっと、ここで二人の間に何かが起こって、そこからお互いの事を意識し合うようになったのだろう。
…?
何か?
何かって…何だ?
どうして私はそれを知らない?
前回も私は此処にきたはずだ。無理を言って冒険について行ったのだ。
何故ならどういうふうにこじつければ、兄が折れてくれるのかを覚えていたのだから。
だというのに、肝心の冒険の内容がとんと頭の中に浮かんでこないではないか。
何か、ここで重要な事があったはずなのに…
何か…何か…
そうだ、僕は扉を開けたはず___
「どうしたけーい!ビビっちまったのかぁ?」
「おいシンヤ!圭をからかうな」
廃墟を見て臆していた僕をシンヤがそう茶化す。
「いやいや、俺は忠告してるだけだぜ?圭、怖いなら悪い事言わないから帰ったほうがいい!」
「まぁ、そうだよな。圭太郎には危ないかもしれない。俺が送って行ってやろうか?」
そしてタカシが気遣ってそんな事を言う。
そうだ。それで私は___
「子ども扱いするな!別にこのぐらい怖くも何ともない!」
「あ、圭!まて!」
子ども扱いにカッとなって、そう言い捨てながら先に走り去ったのだ。
先に廃墟を探索して、何か凄いものでも見つけて、それでみんなを見返してやろうと…
僕は廃墟をしゃにむに進む。
元々は白かったであろう黒ずんだ壁。
所々に倒れている机や椅子。
部屋の中にはベットが並んでいた。
まるでそこは病院だった。
あるいは、映画に出てくる何かの研究施設の様相だ。
僕はそれを横目に奥へと進む。
突き当たりにあったエレベーターは開け放たれていて、下を覗けば真っ黒な闇がその口を広げていた。
そうだ…この下だ。
この下にゴールがある。
僕は迷わず飛び降りた。
自分の勇気を示す様に。
どこまでも続いているかに思われたその暗闇は、果たしてすぐにその終わりへと到着した。
どすんと僕は金属の箱の上に着地する。
するりと足の下にある隙間からその中に入れば、それは止まったエレベーターだった。
エレベーターの扉は開かれており、地下一階の廊下がそこからまっすぐに伸びている。
流石の兄たちも此処まではこれまい。
止まったエレベーターが下にあるという事を知っている、僕にしか。
これも念入りな下調べのおかげである___
…?
それは一体いつの話だっけ?
僕はずんずんと廊下をすすむ。
黒ずんだ壁にはおどろおどろしく飛沫の様な模様が広がっており、それはまるで血の跡に見えた。
そして僕はゴールに到着する。
この廃墟の最も深いところにある、一つの部屋の前へと。
そこは他のところと違って、分厚そうな金属の扉がきちんとその役割を果たしている。
どうみても鍵が掛かっているし、よしんば開いていたとしても子どもでは到底開けられそうにないぐらいには重厚だ。
だが僕は知っている。この奥に凄い部屋がある事を。
これを見つけたとあれば、兄達も僕を見直し、そしてヤチヨが僕を見る目も変わるだろう___
そう、僕も勇気ある一人の男なのだと、そう意識してくれるのだ。
僕はその確信のまま、防火扉の様なハンドルに手を掛けて……
そして"私"ははたと手を止める。
誰かに呼び止められている気がする。
私は後ろを振り向いた。当然誰もいない。
だが、どうしてだか私の心はこの扉を開けてはならないと、そう警告しているようだった。
彼女をこの中から解き放ってはいけないと___
彼女?彼女とは誰だ?
……そうか、春佳のことか。
これで過去を変えてしまったら、私はもう春佳には会えない。
何故だかそんな確信がある。
私は逡巡する。未来を変えるべきか否か…
私は春佳との思い出を今一度想起しようとして……
「ねぇ、誰かそこに居るの?」
幼い少女の声が、扉の向こうから聞こえてきた。
その声はまるでハチミツの様に蕩けていて、どこまでも甘い雰囲気を漂わせている。
僕は思わず上擦った声で答えた。
「そ、そっちこそ!そこに誰か居るのか!?」
「うん。此処に居るよ。私、ここにずっと閉じ込められてるの」
「ずっと、ずぅっと、ずーーーっと…」
僕はなんて可哀想なんだと、そう思った。
「ねぇ、扉を開けて、開けてよ。私をここから助けだして」
「私、言われた通りに大人しくしてたの。でも、誰も来てくれない。誰も助けてくれない。誰も…誰も…」
「ね、私あなたをずぅっと待ってたんだよ?私をここから助け出してくれる、私の王子様を」
「お、王子様…?」
「うん。だってそうでしょ?こんな寂しいお城に閉じ込められたお姫様を颯爽と連れ出してお外に連れ出してくれるんだから!」
「あなたは私の王子様___」
「ううん……」
「私だけの、ヒーローだよ!」
王子様、ヒーロー…
その言葉は僕の心を震わせた。
僕の脳裏にはお手柄だと皆に賞賛される自分の姿が映し出されている。
この幼い少女をこんなところから早く救い出してやらねばならないと、僕はそう強く思った。
だというのに、私の心のもう一方では扉を開けてはならないという感情がとめどなく溢れてくる。
目の前に困った少女がいるというのに、それを見捨てておめおめと逃げ帰ると言うのか?
そんなことは出来ない___
僕はヒーローになるんだ。
和兄たちの、ヤチヨの、この子の!
僕は再びハンドルに手をかける。
まて、その扉を開けてはならない___
まるで自分が二人いるかの様に相反する二つの思考。だが私の身体はその片割れの意志に反してハンドルをかちゃりと回してしまう。
そして力一杯それを引き開けた。
ぎぃぃと、鉄の扉が開かれる。
「______」
誰かが遠くで泣いている。
その扉の向こうには…
誰もいなかった。
「あぇ…?」
私が先ほどまで喋っていたであろう少女は影も形もない。
その部屋は奇妙な部屋で、このコンクリートで作られた建物の中にあって、唯一木造で作られていた。
部屋の中にはよくわからない祭具のようなものが散乱していて、その真ん中には小さな社が鎮座している。
だがその社は壊れていた。
そこだけまるで、小さくした神社を詰め込んだ様で……
僕はゆっくりとそこに足を踏み入れた。
ぶわりと、私の視界を闇が埋め尽くす。
アハハ、アハハ、アハハハハハハハ!
誰かが嬉しそうに笑っている。
そこからの記憶は無い。
私はいつの間に廃墟の外にいた。救急隊員に担がれながら。
結局、兄達はエレベーターの下に落ちたと思われる私を助けあぐね、果てに救急車を呼び出したのだった。
私たちは親や隊員にこっぴどく叱られた。
だが、僕は満足していた。
過去改変は成功したのだ。
ヤチヨの僕を見る、熱っぽい視線がそれを物語っていた___
時間が流れる。まるでもう用はすんだとでも言いたげに。
だが、私の思惑とは裏腹に未来は変わらなかった。
時間が流れる。
結局和兄とヤチヨ……ヤチ姉は結ばれた。
あとは私が経験した事と同じことだろう。
時間が流れる。
ヤチ姉が春佳を身籠った。
二人はまだ十八歳で、両家は大いに揉めた。
結局、二人は高校を中退した。
時間が流れる。
春佳が産まれた。
奇しくも、私と同じ日に。
桜の舞い散る、暖かな日に。
彼女の小さな小さな手が私の小指を掴みとる。
そうだ、僕はこの時ホッとしたんだ。
彼女が無事に産まれてきてくれて…
自分の中で長い間のたうち回っていた、一つの想いに決着がついた様な気がして。
僕はその時初めて、二人を祝福できたんだ。
二人はどちらの父母からも疎まれていた。
結局、あいつらはこの後、春佳の事でさえ見捨てたのだから。
だから僕は…
"私"だけは、この三人の味方で居ようとそう決心したのだ。
この日、この時、この瞬間。
私たちは本当の家族になったんだ___
どうしてこんな大切な事を忘れていたんだろう。
時間が流れる。時間が流れる。
大変だけれど、苦しいけれど、でも大切な時間が。
時間が流れる。時間が流れる。
小さな春佳が私を呼ぶ。
「叔父さん、叔父さん」と。
「そら!」
私は春佳を抱き抱えくるくると回る。
きゃはきゃはと嬉しそうに笑う、十四歳下の小さな女の子。
春佳は私にとって、姪である以上に可愛い妹だった。
そして、これから私は彼女の親代わりに成らなければならない。
ああ、頼むから時間よ止まってくれ。
あの私の行動で、未来が変わっていたら良いのに。
もしくは、また過去を改変したっていいのだ。
私はこの先の光景を見たくは無い。
でも、何故だか私は確信していた。
これは私にはどうしようもない現象なのだと…
時間が流れる。
そしてその時が向こうからやって来た。
今日は雨が降っている。
「圭、ヤチヨの具合が悪いんだよ。ちょっと病院に行ってくるからその間春佳を見ていてくれないか」
「ん、ああ、任せてよ。……まさかご懐妊なわけじゃないよね?」
私はじとりと半目で和兄を睨みつけた。
和兄はその視線にたじろぐ。
「バカ違うよ……と、思うんだがな…」
「はいはい心当たりがあるわけね。全く仲睦まじいことで」
私は茶化す様に肩をすくめた。
「報告は早めにしてよ?母さん達にいい具合に伝えるのは僕なんだからさ」
「……あの時はお前にも苦労をかけたな」
「かけた?かけてるの間違いじゃなくて?」
「あ!いやもちろんいつも感謝してるぞ!?春佳の面倒も見てくれるし、母さん達のことだって…」
「もう、冗談だよ和兄。慌てすぎだって。そんなんで二児のパパとしてやってけるわけ?」
「だからまだわかんないって!」
最近の動向を鑑みれば、私はその可能性は高いと踏んでいた。
家族が増える。
春佳が産まれた時に私が感じた感動を、春佳も味わうのだ。
きっと、春佳も喜ぶだろう___
私がそんな事を考えていると、和兄にポンと肩を叩かれる。
「圭、俺は本当に感謝してるんだよ。母さん達の事や春佳の事……お前は俺の自慢の弟だ」
「いいよもう…カッコつけすぎ。僕らは家族でしょ?当然さ」
照れ臭くなった私は左手で拳を作り、とんと和兄の胸を叩く。
「ほら早く行って来なよ。ヤチ姉が首を長くして待ってるよ」
「おっとそうだな。ヤチヨは怒らせると怖いからなぁ…」
「ハハハ!そうやって尻に敷かれてるぐらいが丁度いいのさ」
私は和兄と軽口を叩き合う。
そして、これが和兄との最後の会話だった。
今日は雨が降っていた。
だから路面が濡れていて、少しだけ滑りやすくなっていた。
だからだろうか?
コントロールを失ったトラックが、二人の車に突っ込んだのは。
二人は死んだ。
春佳を一人残して。
そうだ、春佳。
和兄とヤチ姉の忘れ形見。
彼女は二つ並んだ棺の前で、ただ立っていた。
その後ろでは、こんな葬儀の時だと言うのに仲の悪い両家が言い争っている。
僕は……私は、恥だの外聞だのを気にしているあいつらが心底嫌いになった。
そうだ。こいつらではダメだ。
私がこの子を守らないと。
たった一人の、家族なのだから___
私は棺の前で呆然としている春佳の手を掴む。
離さないように、離れないように。
その手をしっかりと握りしめた。
春佳はそんな私を見上げる。
そして…
ニタリと、口を歪めて笑ったのだった。
「ぅ……」
「あ、起きた。おじさん大丈夫?」
仰向けの私を春佳が覗き込んでいる…
なんだ?頭が痛い……ここはどこだ?
「春佳…?私は一体何を…?」
「もーおじさんビビりすぎだよ。私がちょっと脅かしたら悲鳴あげちゃってさ。今まで気絶してたんだよ?」
「ここは…」
「ここはトンネルの向こう側。いやー過去に戻れるだなんて嘘っぱちだったね。ただの工事が中止されてほっぽかれてるだけのトンネルだったよ。拍子抜けー」
「ま、得てして都市伝説ってのはそういうもんだよね。むしろこんなおあつらえ向きなもの見つけちゃったら、あんな話を作りたくなるのもわかるよ」
春佳は少しだけ興奮しながら饒舌にそう語る。
違和感___
「春佳…お前、そんな髪型だったか?」
春佳はその艶やかな黒髪を腰まで伸ばしている。
おかしい…確かここに来る前は肩上のショートヘアーだったはず…
「ん?何言ってるの…私はずっとこの髪型じゃん」
「それとも…ママみたいにショートの方がおじさんの好み?」
春佳はそう言って挑発的にニタリと笑った。
いや、それよりも…服だ。服もおかしい。
春佳は確かジーンズを履いていて、そして身体のシルエットが隠れるようなダボダボのパーカーを着ていたはずだ。
今の春佳はロングのスカートを履いて、肩口にフリルのついた薄手のトップスを着ている。
春佳がこんな女性的な服を着ようはずもない。
どういうことだ?まるでわけがわからない…
「春佳、いつの間にそんな女の子みたいな服に早着替えしたんだ?化粧までして…」
「…ねぇ、おじさん?流石にそれは酷いと思うけど。私も歴としたうら若き乙女なんですけど?」
「な、ん…」
乙女?乙女だって?
そりゃ確かに春佳は女の子だ。
それは揺ぎようのない事実だろう。
だが…
『ねぇ叔父さん…私、男の子になりたい___』
そう言って不安そうに震える春佳が思い出された。
そうだ。あれはいつのことだったか…
その頃の春佳はどこか不安定だった。
どこか影を帯びた顔で後部座席からミラー越しに私を見ていたり、手を繋いで歩くのを嫌がったり…
私は早くも反抗期が来たのかと慄いたが、それとは一転してトイレについて来て欲しいだの一緒に風呂に入りたいだのと甘えて来たりもした。
理由を聞いても、ただなんとなくそうしたいのだとはぐらかされる。
だから私はじっと待った。春佳が自分の胸の内を明かしてくれるその日を。
そんなある日、深夜に春佳が私の布団に潜り込んできた。
私に抱きつくでもなく、春佳は布団の隅で縮こまると、ぴとりと控えめに背中を合わせた。
またいつものなんとなくかと思った私だったが、その日は普段と殊更様子が違っていた。
触れ合う背中から、震えが伝わって来たから。
「どうした?またおねしょでもしてしまったのか?」
春佳は首を振る。
「そうか。なら怖い夢でも見たのか」
春佳は何も答えない。
長い長い沈黙の後で、春佳はぽつりと呟いた。
「ねぇ叔父さん…私、男の子になりたい…」
「それは、どうして?」
「……なんとなく」
「そうか…」
春佳はそれだけを言うと、ぎゅっとさらに縮こまってしまう。
私は努めて冷静に言葉を紡いでいく。
春佳を傷つけないように、慎重に。
「でもな春佳、男の子なら怖い夢を見ても一人で寝ないといけないんだぞ?」
「え、そ、そうなの…?」
「ああそうだとも。それに男の子なら……男なら、心の真ん中に勇気を持つ必要がある」
「勇気…?」
「暗闇を切り開き進むための勇気だよ。男の子にはな、どんなに怖い時でもそれを奮い立たせて恐怖に立ち向かわなくちゃならないときがあるんだよ。……どうだ春佳。春佳にはそれができるか?」
「……うん、できる、できるよ。私やってみる」
「うむ!その意気やよし!でも…」
「今日だけは特別だ」
私は寝返りを打つと、後ろから春佳を抱きしめた。
「春佳、お前は私の自慢の子だよ…」
「…!」
私がそう言うと、春佳の震えは止まった。
私たちはそのまま眠りについた。
そういえば、ここが最初だったかもしれない。
春佳の事を、自分の子だと明言したのは。
確かに血は繋がっている。でもそんなものはなんの役にも立たないことはあの薄情な親族どもを見ればわかる。
大切なのは、私たちの間にどういう関係性を構築するかなのだ。
叔父と姪とか、男だ女だのは重要ではない。
私たちは、家族なのだ___
それから春佳はまるで男の子のように振る舞い出した。
そして私はそれを肯定した。
私が春佳を男扱いすると、彼はひどく安心した顔になるから…
だから私は、多少無理をしてでもあの子を男として扱ってきたのだ。
それは私たち二人だけにしかわからない、家族としての大切な関係性だったはずなのだ。
「ごめんねおじさん。私の我儘に付き合わせちゃって」
「ね、もう帰ろう?私たちの家に」
では私の目の前に立っているこの女性らしい彼女は一体誰なんだ?
私は春佳に引きずられるがまま帰路につく。
頭の中は未だに靄がかかった様にぼんやりとしていた。
そんな愚鈍な思考とは裏腹に、私の中で今までに感じたことのないような不明の感情がとぐろを巻いている。
今の春佳を見るたびに…それは殊更に強くなる様だった。
帰りの車に乗り込んだ時、春佳は助手席に座った。
この子は誰だ?
この子を見ている私は誰だ?
わからないわからない…
私は何かを忘れている___
「ただいま、パパ、ママ」
いつもの見慣れた賃貸の風景。
やや散らかった部屋、脱ぎ捨てられた服、敷きっぱなしの布団。
そして…
部屋の隅にある、見慣れた仏壇。
そこには和兄とヤチ姉の遺影が飾られている。
遺影が収まっている写真立ての縁に、埃が溜まっていた。
私はそれをハンカチで拭き取る。
いつもは私がするまでもなく、春佳がキチンと手入れをしているはずなのに……
「パパたちも天国で喜んでると思うよ。親友の娘ってだけで私をここまで育ててくれてさ」
私の背後から春佳が何かを言っている。
なんだ?春佳は何を言っている…?
「血だってつながってないのに、どんな親戚どもよりも私を大切にしてくれて…」
「大学だってやめちゃってさ、自分の人生をなげうってまで私を育ててくれた」
「ま、まて…待ってくれ…情報の整理が追いつかない…」
「血が繋がっていない?親友?誰と誰が?」
「え?パパとおじさんは親友だったんでしょ?」
「おじさんが私を引き取ってくれたんじゃんか。養子にしてくれてまでさ」
春佳はまるでそれが当たり前のようにそう言った。
そんな馬鹿な…親友?私と和兄が?
私は弟だ。
和季の弟で、ヤチヨの義弟で、そして私たちは家族で……
世界が歪むような感覚。
その私の視界に、仏壇の上の位牌が目に入った。
そこに刻まれている、見覚えのない名字___
「う、あ…!」
私はそれが恐ろしくなって後ずさる。
ここはどこだ?!私は誰だ!?
私は今どこに生きている?!
「あのね、私、ずっと考えてたんだ。どうすればおじさんに恩返しできるのかなって」
とんと、私の背中に春佳が触れた。
たったそれだけで、ぞわりと私の背中にえも言われぬ感覚が走る。
「過去に戻りたかったのもそれ。私はおじさんに人生をやり直して欲しかった。でもダメだった」
私は固まって動けなくなった。まるで蛇に睨まれた蛙のように…
いや違う。私の意識が遠のいたのだ。
ではここで私を動かしているのは一体誰だ?
「今のままじゃ…おじさんが可哀想だと思うの」
春佳からは一度も聞いたこともないような甘ったるい響きが脳を揺らす。
するりと私の前に出た春佳が、仏壇の二人の写真を後ろへと向けた。
「だからね、私決めたの」
視界から春佳がいなくなる。私はまだ動けない。
どうしてそんな、私に媚びるような声を出すんだろう。
前の春佳なら絶対に出さない声…
前……そうか、これが私が過去を変えた結果だとでも言うのか?
わからない、わからない。
背後からスルスルと布の擦れる音がする。
私にはそれが蛇の声のように感ぜられた。
春佳が私の背中から腕を回す。
柔らかな温もりが私の背中を撫で上げた。
「ね、おじさん。いいよ、私の事を好きにしても……」
熱っぽい吐息が私の耳をくすぐる。背中が粟立つ。
私はそれにおぞましい劣情を催した。
劣情、そう、これは劣情だ。
私の中でぐるぐるととぐろを巻いていた邪悪の蛇が、鎌首をもたげて獲物を狙っていたのである。
じっと、真っ黒な茂みの中から。
私はこんなものは知らない…知りたくもない!
「ね?私と本物の家族になろう?」
それはまさに感情の爆発だった。
私の意識はここから止めろと叫んでいるのに、まるでセクソムニアの様に視界の向こう側の私が裸の春佳を押し倒した。
春佳と私の視線が絡み合う。私はそこから目を逸らした。
まるで出来の悪いメロドラマを見ているようだ!
もはやそこにいたのは二匹の獣だった。
肌色の蛇はお互いを貪り合うように絡み合っている。
あるいはそれは、まぐわるナメクジの様だった。
こんなものが家族であろうはずもない。
こんなものは認められない……認めるわけにはいかない……
相手は春佳だぞ!?
親友の娘、親代わりに今まで大切に育ててきた___
違う、違う!私たちは家族だ!家族なんだ!
ずっと好きだったあの人にそっくりだ___
心が二つある。
時間が流れる。無慈悲にも。
「ね、出して?出してよおじさん」
私はここから必死に叫んだ。
だがそれは無意味だ。
いつだって、私がこの時間の潮流を制御できた試しはない。
まるでハチミツが蕩けたような嬌声が私の鼓膜に絡みついた。
それは毒のように私の脳に染み込んでいき、私の心を犯しつくす。
いつもなら早送りの光景が、今回ばかりはゆっくりと流れてゆく。
私は悪夢でも見ているのか?
穢れたパトスが私の意思に反して幾度となく解放され、その度に私の心に罰の楔が打ちつけられた。
いっそそのままこの私を殺してくれ。
死が過去を変えた罰だというのであれば、私は甘んじてそれを受け入れるのに…
そうだ……私は罪を犯したのだ。
過去を変えるという罪を。
これはお前の罪なのだ___
じっと
背後から突き刺すような視線を感じて、私は慌てて後ろを振り向いた。
"私"がこちらを見ている___
そしてその後ろから、私を見ている私を"私"が見ていた。
そのまた後ろから、そんな私たちを"私"が見ている。
延々と、連なるように。
私たちが私たちを見続けている……
まるで合わせ鏡の中の自分が全てこちらを覗いている様に、全ての私が目の前の罪をじっと睨みつけていた。
私はそれに強烈なデジャヴを感じる。
これは私の意識内のイメージに過ぎないはずなのに…
私は、一体…
今までに何回やり直してきたんだ……!?
「ねぇおじさん。私、あなたのことがずっと好きだったの」
「ずっと、ずぅっと、ずーーーっと…」
私にしなだれかかった春佳のようなものが耳元でそう囁く。
『圭ちゃんのことが、ずっと好きだったの!』
同じ様に誰かが私の耳元で囁いた。
その瞬間、私の頭の中の暗闇を照らすように光が瞬く。
そうだ、私は過去をやり直している。
そしてそれは今回が初めてではない……
今まで感じてきた感覚はこれだったのだ。
私の過去が、私に向かって叫んでいたのだ!
その選択をするなと、呼び止めていたんだ。
あの過去のやり直しで、私は愚かにも過去を変えた。
それは未来を書き換え、私は二度目の人生を別のものとした。
それが最初の罪。
それが大きな誤りの始まりだと、その時は気づいていなかったのだ。
「ねぇ、あのね、私本当はね…」
「圭ちゃんの事が、ずっと好きだったの!」
私を抱きしめたヤチヨが耳元でそう囁く。
私は卒業証書の筒を放り投げると、そのままヤチヨを抱き返した。
私はヤチヨを手に入れたのだ。
もはや思い出す事すら難しい、遥かなる過去の人生で。
春佳の人生を踏み躙りながら……
「ほらあなた、撫でてみて…」
「ッ!蹴った、蹴ったぞヤチ姉!」
「もう、いつまでその呼び方をするの?私はあなたの奥さんなんだけど?」
「あ、う、つい…」
「そうだな……ヤチヨ」
「ふふ、この子の名前を考えないとね、圭ちゃん」
私は望み通りヤチヨと結ばれた。
私と付き合いだしたヤチヨはとても積極的だった。
私は精神的には分別のある大人であり、自分なりに節度を守ってはいたのだが、何分長年の想い人相手だ。
早すぎる発情期のパトスとも相まって、私は若くしてヤチヨを身篭らせてしまう。
そしてヤチヨはその子を産む事を望んだ。
家族には猛反対された。当然兄にも。
その際のいざこざで私の親族とは勘当同然となってしまったし、私は高校を中退しなければならなかったが、その時の私は新たな人生の道筋を楽しんですらいた。
だが、そんな浮ついた私の横っ面をぶん殴る出来事が起こる。
ヤチヨが死んだ。
あの、雨の日に起きるトラックの事故で。
お腹の中の子と一緒に…
だから私は再びトンネルに入ったのだ。
その過去を改変する為に…
それがもう一つの罪。
だが、私がどんなに過去を変えようとしても、ヤチヨは子を身籠るしあの事故は起きる。
そして、必ずヤチヨと子どもだけ死ぬのだ。
その事実を変えることだけは出来なかった。
私はそれを、目の前に横たわった血の滴るひしゃげた車を眺めながら悟った。
救急車のサイレンがやけに遠く聞こえる…
私を担架に載せようとする隊員を振り解き、私は折れた足を引きずって雨の中を走りだした。
あのトンネルの所へと___
私は過去に戻るたびに必ず何かを忘れていた。
それは今もそうだ。私は何かを忘れている。
そして、それはきっとこの過去の記憶の想起のように思い出せるようなものではないのだ。
失われた記憶は戻らない。
でなければどうして。
どうして、あの時もあの時もあの時も……
私があんな選択をすることがあろうか___
「ひゅっ……」
私は脂汗をかきながら目覚めた。
いつもの布団の上で。
隣の布団では春佳がすやすやと寝ている。
私たちはきちんと服を着ていた。
まるで、あの悪夢のような時間が幻だったかのように。
…悪夢?
「ゆ、夢…?」
記憶が曖昧だ。頭は靄がかかったようにぼんやりとしている。
私は寝る前の記憶をちゃんと思い起こそうとして…
下半身の冷たい感覚と強烈な圧迫感による痛みで私は飛び上がった。
私は慌ててトイレに駆け込む。
ぐっしょりと汚れた下着が、私の情けなさを物語っていた。
「なぁにおじさん。そんなに慌ててトイレに駆け込んで__」
「おねしょでもしたの?」
起きてきた春佳がポットに湯を入れながらニヤニヤと私を揶揄ってくる。
夢?
あれは夢だったのか?
では一体どこまでが夢だ?
春佳との情事までか?
それともあの妙なトンネルに入った所までか?
では私が過去を改変したのも夢なのか?
ヤチ姉と結ばれる為に夥しい数の過去をやり直してきたのは?
わからないわからない…
もしかすると、私が前回だと思っている人生も夢だったんじゃないか?
昼メシを食べて、午後のコーヒーブレイクを楽しんで。
それで、春佳が妙な事を私に吹き込むもんだから、昼寝の時にあのような夢を見たのではないか___
じとりと
春佳が私を見ていた。
その刹那、お互いの視線が絡み合う……
私は目を逸らした。
「…ちょっと散歩してくるよ」
「はーい、気をつけてね」
私は恐ろしくてまともに春佳の方を見れなかった。
また、あの悍ましい感覚が湧き起こるのではないかと、怯えていた。
何だか居た堪れなくて、外に逃げようとする私の背中を、まだ春佳が見ているような気がした。
茂みの奥から覗く、蛇のように___
【■■■山■霊■■】
「あった……本当に…」
ボロボロの木の板が打ち付けられたトンネル。
私は再びここに訪れていた。
本当に"再び"なのかはわからないが……
現実感がない。
こうして自分の身体を操っているのに、まるで自分が自分じゃないみたいだ。
自分の内面の不整合さに、私は今にも吐きそうだった。
私は事の真偽を確かめなければならない。
果たしてあの長くて短い過去のやり直しが、私の脳が産み出した幻だったのかどうかを。
件のトンネルは真っ黒な口を広げている。
その暗闇を覗き込んだ時、私は何故だか足が竦んだ。
逆にその闇の向こうから、何かが此方を窺っている気がして……
私は自分を鼓舞するかの如くとんと胸を叩く。
心の中の、勇気を奮い立たせる為に。
そして、私は意を決してトンネルの中へ足を踏み入れ……
「ダメだよおじさん。どこに行くの?」
するりと、私の全身を蛇が絡みとった。
「うわぁあああああ!?!!」
春佳が私の背後から抱きついている。
がっちりと、私を逃さないように。
「もしかしてと思って後をつけてみたらさぁ…」
「春佳っ!?どうしてここに!?」
「どうして?それは私のセリフだよ」
「どうして?どうして戻そうとするの?ねぇどうして?」
「ようやく、ようやくなんだよ?ようやく私たちの幸せな未来が始まるのに…」
「ねぇ、私とここにいてよ。私とここを楽しもうよ。私とここで幸せになろうよ」
「ね、私の王子様?」
その言葉が耳元で囁かれた瞬間、私の脳内で光が瞬いた。
王子様…そうだ、私はあの時ヒーローになったんだ…
あの子の___あの子だけの___
記憶が繋がる。記憶の断片が。
『あなたは私の王子様___』
『私だけの、ヒーローだよ!』
君だけの王子様、僕はみんなのヒーロー。
その英雄的響きに私の心は打ち震えた。
今度は、恐怖で。
「春佳…春佳?…違う!君は…お前は、誰だッ!?」
私は叫んだ。
私は身を捩って拘束から逃れ、まっすぐに"それ"と相対する。
私の目の前にいる春佳のようなものはニタリとその口を歪ませた。
「ああ、やっと思い出してくれたの?」
「嬉しい、嬉しいよ、圭太郎____」
そして、私のことをそう呼んだ。
親しげに、愛しむ様に、熱っぽく。
私はその響きに覚えがあった……
言葉も違う。人も違う。
だけれど、その響きはまるで毒の様に確かに私の脳髄へ絡みついていた。
目の前の春佳が悪夢の中で___
私と結ばれたヤチヨが過去の中で___
そして、あの廃墟の地下にいた女の子が私に語りかけてくる時の響きだった。
「私、せっかくここまで漕ぎ着けたんだよ?ここまで来るのはホントに長かったんだから」
「ね?あと少しだから、あと少しで私たちの幸せな人生が始まるんだからさぁ……」
「逃げないでよ」
それは底冷えするような、ゾッとする声色だった。
たったそれだけで私は動けなくなってしまう。
まるで身体が石にでもなったみたいに。
「ね?今度はちゃーんと、あの夢みたいな事を本当にしてあげるから…」
春佳の白い指先が私の胸をなぞる。
その口から滴り落ちる甘い言葉はまさに悪魔の囁きだった。
たったそれだけで、私の蛇がじわりと涎を垂らす。
まるでパブロフに仕込まれた犬の様に、固まった私の身体がびくりと反応した。
あの悪夢の時と同じだ。あの時と同じように私の意識が蛇に締め付けられるようにぎちぎちと追い出されてゆく。
だめだ、だめだだめだ、このままでは…
「______」
誰かが遠くで泣いている…
長い長いトンネルの中を反響して、それは確かに私の耳に届いた。
春佳が一人で泣いている___
「春佳!」
「きゃ!?」
私は目の前の春佳を突き飛ばした。
そして、寝ぼけそうになる頭を木に打ち付けた。
「あ"ぁ!」
何度も、何度も…
「なんで…どうして…」
「どうして?」
春佳から表情が抜け落ちる。
私の目の前のソレは、能面のような表情でこちらを見ていた。
「お前は春佳じゃない……春佳、そうだ春佳だ」
「私は春佳を連れていってあげないと___」
「ねぇ待って!待ってよ圭太郎!私を思い出して!」
春佳の様なものが私に追い縋る。
早く、早く彼女から逃れないといけない。
私は過去を正さなければならないのだ。
「私を思い出してよッ!!」
しかし、その叫びで私の意識が二つに分かれた。
彼女を求めるここの私と、過去に戻りたい全ての私。
だめだ、頭が割れるように痛い…
「______」
誰かが泣いている。
こんな世界は間違っている…
うるさい、疲れたんだ、眠いんだよ___
お願いだからもう眠らせてくれ___
悪夢でもいいから、甘い蜜を吸わせてくれよ。
「______」
誰かが泣いている。
こんな世界は間違っている…
俺はずっと我慢してきたんだ___
幸せになったっていいじゃないか___
「ね、おじさん。私と一緒に帰ろう?」
春佳の黒い瞳と目が合う。
その瞳に映る"私"が私を見ていた。
柔らかそうな唇が、吐息のかかる距離まで近づいてくる。
ああ、その唇に喰らいつきたい___
そっと、春佳が私の手を取った。
逃がさない様に、逃さない様に。
春佳は私の左手に指を絡ませて…
手と手がギュッと、固く結ばれた。
「______」
誰かが泣いている…私の隣で。
手、手、手……そうだ手だ。
私は手を繋いだんだ。
離れないように離されないように、しっかりと…
『叔父さん、俺を忘れないで』
私は叫びを上げた。
「あ"あ"あ"あ"ぁぁぁぁ!!!」
「きゃっ…?!」
私は春佳を振り解いてトンネルの中へと走る。
「待って、待ってよッ!!!」
真っ暗なトンネルの中での鬼ごっこ。
早く、早く過去に戻らなければ……
私の全てがアレに絡め取られてしまう!
だが、私の情けない、しかも運動不足な三十代の肉体は、ほどなくして春佳に追いつかれてしまう。
「つーかまーえた!あは!」
春佳に掴まれた左手がぐいと引かれる。
つるり
「うわ!?」「へ?」
重心を乱された私は湿った地面のせいで足を滑らせる。
私たちはそのままもつれあって……
どしんと背後に倒れ込んだその瞬間、私たちに不思議な事が起こった___
時間が流れる。
私の脳内に見たことのない景色の像が結ばれる。
そこには私と春佳の姿があった。
いつもの見慣れた賃貸の風景。
小綺麗に整えられた部屋、きちんと折り畳まれた衣服、大きなダブルベッド…
部屋の隅にあった仏壇は取り払われていた。
春佳が大きくなったお腹を愛おしそうに撫でている……
「ね、無事に生まれて来てね、私たちの赤ちゃん___」
「あーあ、もうダメか」
春佳は虚空を眺めて、どこか落胆しながらそう呟いた。
今のは一体…
「しょうがないから今回は"これ"で我慢することにするよ」
「ね、おじさん。次も私のことを思い出してね?」
「それで、今度こそちゃんと…」
「二人で幸せになろうねぇぇぇぇぇ」
「アハハ、アハハ、アハハハハハハハ!」
春佳は嬉しそうに笑いながら暗闇を引き返してゆく。
その姿は三歩もしないうちに闇に包まれて見えなくなった。
私は一人暗闇に取り残される。
遠く、暗闇の向こう側から。
いつまでもその笑い声が聞こえている気がした。
私は困惑した。
わからない、何もわからない…
だが、私には一つだけ確信している事があった。
それは、こんな世界は間違っているということだ。
私は全ての悲劇の始発点を探さなければならない。
私は立ち上がって走りだす。トンネルの深い暗闇に飲み込まれながら。
何かの記憶をこぼれ落としながら。
暗闇のどこかで誰かが泣いている___
私の視界の向こう側に、眩く輝く光が見えてきた。
私はあそこに行かなくてはならない。
私は、もう一度…
過去から、やり直さなければならないのだ。
何のために?
春佳の為に。
私は光に包まれた。
「おやぁ!おやぁ!」
「奥さん!元気な男の子ですよ!」
そして私は再びこの世に生を受けた。
何かを忘れている気がする。
だが、これだけはちゃんと覚えている。
私は春佳を取り戻さなければならない。
私のたった一人の家族を。
あの子の人生を取り戻さなくてはならない。
だというのに、私はどうして前回の春佳や私があの様なことになっていたのか、皆目検討もつかないでいた、
私は何かを忘れている…
ただ過去に戻って人生をやり直すだけではダメだ。そうやって無為に過去に戻った結果が前回なのだから。
私はこの人生でケリをつけなければならないのだ。
私にできることはただ一つ。
「春佳を忘れないこと」
私はそう呟いた。何度も何度も。
全ては春佳の為に。
時間が流れる。
和兄が私と遊んでくれる。
時間が流れる。
私はヤチ姉を好きになる。
時間が流れる。
森の中の廃墟へ冒険に行った場面だ。
何故だか、この過去だけは流してはいけない気がした。
ここに、この時に何かがあるというのか…
私は過去を思い起こす。
前回はここで過去を改変した。私が廃墟の最新部まで進み、救急隊の厄介になったストーリー…
そしてその改変に反して、ヤチ姉は和兄と結ばれた。
そうだ、それがまずおかしいのだ。私の記憶ではこの出来事のおかげで私はヤチ姉と結ばれていた。
同じ改変をしたはずなのに結果が違う。
それはつまり、それ以外の別の要因があるという証左ではないか!
「どうしたけーい!ビビっちまったのかぁ?」
「おいシンヤ!圭をからかうな」
「子ども扱いするな!」
私は猛り荒ぶった…ふりをして廃墟の奥へと急ぐ。
あの部屋だ。きっとあの部屋に何かがあるのだ…
私は廃墟の一番奥にたどり着いた。
ここがゴールだ。
"僕"はここに来たかったんだ___
…どうして?
「ねぇ、誰かそこに居るの?」
「ねぇ、扉を開けて、開けてよ。私をここから助けだして」
僕はその声を聞くだけで浮ついた気持ちになる。
ああ、早く、この子と会いたい___
手を取り合って歩きたい。また、あの甘い吐息を僕の耳元に吹き付けて欲しい___
ああ、なんと可哀想なんだろう。
この幼い少女をこんなところから早く救い出してやらねばならないと、僕はそう強く思った。
「あなたは私の王子様___」
「私だけの、ヒーローだよ!」
その甘美な響きに私の頭は衝撃を受けた。
"あの"感覚が全身を走る。ぐるぐると私の中をのたうっている。
私はこれ知っている。この感覚を知っている。
蛇が私の中でとぐろを巻いて行く___
意識が遠のく。身体が石の様に固くなる。
そして、私はまるで光に吸い寄せられる蛾の様にフラフラとその扉に近づいて行く。
私は自分の内側から湧き上がる衝動のままにその冷たいハンドルに手を掛けて___
「______」
誰かが遠くで泣いている。
「……春佳?」
私は後ろを振り向いた。
そこには誰もいない。
だが、私の中の私が私に呼びかけてきている。
自分の声に耳を傾けろと。
私は自分の胸をとんと叩く。
その瞬間、確かに私の心の奥に声が届いたのだ。
遥かなる過去からの叫びが___
今この瞬間に至るまでの私の全ての人生が、過ぎ去ってしまったはずの記憶を呼び覚ました。
失われて、欠け落ちて、零れた記憶を一つ一つ丁寧に繋ぎ合わせて、私はたった二つの叫びを想起する。
ここの扉を開けてはならない___!
彼女を解き放ってはいけない___!
私はもう一度その扉を見やる。
夥しい数のお札が貼られている金属の扉を___
「ひっ…!」
私はその扉から飛び退いた。
「…ねぇ、どうしたの?」
こいつは誰だ?こいつは何だ?!
この扉の向こうには、誰もいなかったはずなのに!
私はあの時、この薄暗い廃墟の地下から…
一体ナニを世に解き放ってしまったんだ!?
私は恐ろしくなって薄暗い通路を駆け戻る。
私はここに来てはいけなかったのだ。
「ねぇ待って!お願い!開けて!開けてよ!!」
「私を一人にしないで!」
こんなに扉から離れているのに、少女の言葉が私の鼓膜に絡みついてくる。
私は耳を塞いだ。もう惑わされないように。
「開けて開けて開けて開けて開けろ開けろ開けろ開けろアケロアケロアケロアケロアケロアケロケロケロケロロロロロロ______」
あの甘く蕩ける様な声色が、今や怨念のこもった怒号に変わる。
まるで地震が来た時のようにガタガタと扉が揺れている。でも、それだけだ。
私は何故だか確信していた。
彼女は扉を開けなければ出ては来れないのだ___
「ねぇ出して!此処から出してよッーーー!!」
それきり、声は聞こえなくなった。
人間の想像力は未知なる領域に様々な存在を創り上げた。
それは時には美しく、時には恐ろしいモノとして我々の心を楽しませる。
しかし私はこう思う。
この世界がいまだに滅びていないのは、全くの偶然なのかも知れないと。
何故なら私は知ってしまったからだ。
我々が空想だと思い込んでいるモノ。
ありえないと一笑に付すものが。
この世界には確かに存在しているのだと。
彼らは表からは見えない暗がりからこちらを覗いていて、今か今かと手をこまねいているのだ。
私はそれを知ってしまった。
もはや、それを知らなかった頃には戻れないのだ___
…
…
…
私は止まっているエレベーターの天井で膝を抱える。
ここで待っていれば救急隊が私を助けに来てくれるはずだ。
「あ!あそこにいたぞ!下に落ちたんだ!」
突然、和兄の声が上から聞こえた。
私が見上げると、開いたままのエレベーターの扉からみんながこちらを見ている。
「大丈夫か圭!待ってろ!今助けに行くからな!」
なんと、みんなは私を助けようとしてくれているらしい。
私が危険だと注意する前に、まさしく以心伝心の動きで四人は各々の配置についた。
ヤチヨが乗り押さえ、タケシがシンヤの足を掴み、シンヤが和兄を抱き抱える。
そして和兄は私に手を伸ばした。
「圭!掴め!」
私は少し逡巡する。
もしかすると、このままみんなでこの底に落ちてしまうかもしれない。
でも___
私はエレベーターの上をぐるぐると回り目一杯助走をつけると、壁を蹴って和兄を目掛けて飛び上がった。
「和兄!」
「掴んだぞ!」
私たちの手が、しっかりと繋がれる。
その号令で、タケシとヤチヨが私たちを引き上げた。
私は本来ならここに居ないはずなのに___
それでも…それでも、私はその手を掴みたかった。
こうして私たちの冒険は終わりを告げる。
私はみんなにこっぴどく叱られた。そしてみんなも私に謝ってくれた。
きっと、数年後には笑い話になっていることだろう。
帰り際にみんなで食べたコンビニのホットスナックは、なんだか特別な味がした。
その日、私は久しぶりに和兄と一緒に風呂に入ることにした。
今日の事を、聞いてみたかったから…
「ねぇ、何で助けてくれたの?」
「はぁ?何言ってんだお前」
「だって、勝手に行ったのは僕だし…怒ってほっぽかれるかと思ってた」
「全く、お前なぁ…」
「俺たちは家族なんだ。助けるのは当たり前だろ」
和兄は呆れた様にそう言った。
「…怖くなかったの?」
私は最初、怖かった。例え下に着地できる地面があると知っていても、あの暗闇の中に飛び込むのは怖かったのだ。
和兄はぽりぽりと頬をかくと、突然ざぱりと立ち上がった。
湯船の湯が零れる。
「いいか圭!男にはな!どんなに怖くとも心の中の勇気を奮い立たせて恐怖に立ち向かわなくちゃならない時があるんだ!」
「お前も男なら、心のど真ん中にでっけぇ勇気を持っとくんだぞ!」
「わかったか?」
和兄はそう言って私の胸を拳でとんと叩く。
「うん…わかった。ちゃんと覚えとく」
「その意気だ」
和兄は満足げにニカリと笑った。
そう、例え記憶を失おうと、きっと___
時間が流れる。
和兄とヤチ姉は高校で付き合いだした。
私は二人を祝福し、そして時たま揶揄った。
時間が流れる。
二人は未来へと進んでゆく。
ヤチ姉は看護学校に、和兄は大学に。
私たち五人の友人関係は、今も続いている。
時間が流れる。
二人は社会人になった。
社会の慌ただしさに四苦八苦する兄の愚痴を私は聞いてやる。
私にはまだ先の話だと、そう呑気に捉えながら…
二人は和兄の卒業と共に、この春、結婚した。
そして、来年にはきっと___
これで良かったんだと、私は安心した。
これで私たちの人生を取り戻せると…そう思っていた。
時間が流れる。
二人は死んだ。あのトラック事故に巻き込まれて。
春佳はまだお腹にはいなかった。
私は二人の棺の前で呆然と立ち尽くした。
私の後ろでは両家がさも悲しそうに世辞を言い合っている。だが、その瞳はお互いに冷ややかだった。
どうして私は、こんな大切なことを忘れていたのだろうか。私は自分の間抜けな頭を殴りつけた。
何度も、何度も、何度も。
「あ"あ"あ"あ"あ"ぁぁ!!!!」
私は雨に打たれながら叫びを上げた。
未来の自分に向かって。この過ぎ去っていく過去の記憶から。
喉が張り裂けるまで。
忘れるな、忘れるな。
『叔父さん、俺を忘れないでね』
ああ、もちろんだよ春佳。
私はトンネルに向かって走り出した。
私には仮説がある。
私は取り戻さなくてはならない。
私と春佳の人生を、本来あるべきだった正しき歴史の流れを。
和兄とヤチ姉の命を。
私は扉を開けなかった。過去を変えなかった。
でも春佳は産まれてこない。
これはおかしいのだ。
頭を叩いたおかげか、はたまた甚大なショックを受けたせいなのかは定かではないが、私はある重要な情報を思い出した。
私の最も古い記憶の断片のことを。
私は最初、春佳と一緒にトンネルに入ったのだ___
つまり、この過去のやり直しで春佳が産まれてこないのはおかしいのである。
私は思い出した。
私が一番最初に過去を改変したのは廃墟の中での
出来事じゃあない。
『私が廃墟に行く』ということそのものだったのだ。
そして、その改変の結果が二人の命を奪う。
あのトラックの事故によって……
私は今回、最初から間違っていた。
私は廃墟についていくべきではなかったのだ。
では私はここからどうすべきか。
春佳と一緒にトンネルに入ったということはつまり、春佳もまた過去に遡っているということになる。
それを裏付けるのが前回の私たちだ。
和兄と私が他人になるなんて、過去を文字通り『改変』しなければあり得ないことだ。そして、それをできるのは私以外には春佳しかいない。
もちろん、前回があんな風になったのはあの地下室のナニカの影響だろう。
ここで気になるのは、今回のようにそもそも春佳が産まれなければ、過去に遡ったはずの春佳の意識はどうなるのかということだ。
トンネルに入り過去に遡っているのは私のこの意識だ。
夥しい数の遡及とそれに伴う欠落、そこに入り乱れる過去改変の影響で私の記憶はもはやぐちゃぐちゃではあるが、意識は連続している。
では私と一緒にトンネルに入り、過去へ遡ったはずの春佳の意識はどこへ行く?産まれるはずの肉体を失った春佳の意識は?精神は?その心は?
その答えは"ここ"にある。
私はそう確信していた。
【御■■■■■魂■】
その真っ黒な入り口に私の足がすくむ。
これは過去をやり直させてくれるような、そんな都合のいい『存在』ではない。
もっと恐ろしい、ともすればあの廃墟に潜む声よりも畏ろしいナニカなのだ。
私たちは記憶を、過去を奪われている。
記憶を失うという事は自分を失うという事だ。
そして自分を失うという事は『死』と同義である。
私は怖い。この暗闇が。
私という存在を飲み込んで、内からじわじわと消化しようとしている、この闇が。
でも、それでも…
私はこの暗闇を切り開かなければならない。
私の全てをなげうってでも。
家族の為に。
私は拳を作り、ドンと胸を叩いて喝を入れる。
心の中の勇気を振り絞って、私はトンネルの闇へと足を踏み入れた。
私の全身が闇に飲み込まれる___
「______」
トンネルを反響して誰かの泣き声が聞こえてくる。
私の後ろから。
誰かが遠くで泣いている……
私は振り向いた。
入ってきたはずの入り口が無くなっている。
いつのまにか、私の背後にも果てしない暗闇が続いていた。
でも私には確信があった。
そちらに進むべきだと…
私は暗闇の中で踵を返す。
そして後ろに向かって歩き出した。
一歩、二歩、三歩___
私が四歩目を踏み出した瞬間、不思議なことが起きた。
時間が流れる___
視界にはいまだに暗闇しか見えないと言うのに、私の脳内ではいつもの様に私の人生が早送りで流れてゆく。
時間が流れる。
私は大学生になった。
親元を離れ、地元を出て、一人であの賃貸で暮らしている。
時間が流れる。
私は社会人になった。
どうして私は一人で生きているのだろう。
大切な家族を、全て失っているのに。
何かを忘れている。
時間が流れる。
私は会社を辞めた。
生きる意味が無いから。
何かを忘れていく。
どうして私はこんなところでじっとしているのか___
何かに気づいた私は、のぼっていた台を蹴飛ばし手に持っていた縄を放りなげて走り出す。
そして、私はトンネルの中に飲み込まれていった。
過去を変えてやると、そう意気込んで……
"私"はその光景を、この暗闇の中から眺めていた。
その横で、誰かが涙を流しながらうずくまっている。
「ああ、やっと見つけたよ……春佳」
暗闇の中でポツンと一人、春佳が膝を抱えて座っている。
中学生くらいだろうか…
男装の春佳とも違う、デカデカとロゴが刷られたトレーナーを着ている男の子の春佳だ。
何故だかわからないが、私にはそれが彼の本来の姿に思われた。
「叔父さん…」
春佳は呆然としながらさめざめと泣いている。
私は春佳に手を差し伸べた。
「ほら、帰ろう。こんな所からはとっととおさらばしようじゃないか」
「……ここから動きたく無いよ……もう、一歩も」
春佳はふるふると首を振る。
その身体は震えていた。
「それは、どうしてだ?」
「怖い…怖いんだよ叔父さん!何度も何度も何度も悪夢を見るんだ!」
「もうたくさんなんだよ…自分が自分じゃなくなるのも、恐ろしい夢に苛まれるのも……もう嫌だ」
「ここでじっとしてればいいんだ。それなら、もうあんな思いはしなくて済む」
春佳はそう言い捨てると、ぎゅっと膝にその顔を埋めて縮こまる。
だが、それではどうにもならない事を私は知っている。
ここで立ち止まっていても、悪夢は何度も向こうからやって来る。
私たちは抜け出さなくてはならない。この延々と続く暗いトンネルの中から。
自分の足で…
そして、私は春佳を幸せな未来へと導いてやらなければならない。
それが私の罪滅ぼしで、たった一つ残された私の使命なのだから。
もうこれ以上、この子の人生が踏み躙られることがあってはならない。
私は言うべき言葉を紡ぎ上げてゆく。春佳を救う為に。この悪夢から抜け出す為に。
私は、その為にここまで来たのだから。
「怖いよ叔父さん…僕が僕じゃなくなるのが怖い。
悪夢を見るのが怖い、怖いんだ」
春佳は怯えて震えているのだ。
きっと、私が経験したのとは別のところで春佳も戦っていたのだ。
永劫に思える、この悪夢の中で……
私はそっと春佳を抱きしめた。
その小さな背中をぽんぽんと叩きながら、私はあの言葉を春佳に伝える。
私の大好きな、この言葉を。
「いいか春佳。男にはな、どんなに怖くとも心の中の勇気を奮い立たせて恐怖に立ち向かわなくちゃならない時がある」
「それって……前に言ってた…」
「ああそうだよ。私はそれがとても大変な事だと知っている。でもな___」
女の子の春佳に伝えた言葉。
そして、この春佳にも教えた和兄の言葉。
「私にとっては、それが今なんだ!」
私は立ち上がりどんと胸を叩く。
「大丈夫だよ春佳、私が絶対に助けてやる。この出口の見えないトンネルの中から、必ず連れ出してみせるから…」
「だから……おいで、おいでよ」
「私と一緒に帰ろう」
私は再び春佳に手を差し伸べる。
春佳が膝から顔を上げた。
その不安に揺れる瞳と目が合う。
そして、その瞳の中に映る私がじっとこちらを見ていた。
そんなに見なくてもわかっているとも。
私が犯した罪は、私にしか贖えないのだから…
全ては春佳の為に。
我が身は家族の為に。
私は無理矢理にでも口角を上げた。
「…ホント?僕を一人で置いてかない?」
「あぁ本当だとも。約束だ」
と、大口を叩いた割に私の足は震えていた。
なんだこいつは…情けない奴め!
私が震える足をばしばしと叩いていると、それを見た春佳にくつくつと笑われてしまう。
情けないところを見られてしまったが…構うものか。
私は自分のオモイを正直に伝える。
「ああ、春佳。俺を一人にしないでくれ」
「一緒に来て欲しいんだ。正直なところ、この暗闇の中を一人で歩くのは怖いから」
それを聞いた春佳は……ニカリと笑った。
「なんだぁ、叔父さんも怖いんだね」
「幻滅したか?」
「ううん。ちょっと安心した」
「なんだそりゃ」
春佳はなおも嬉しそうに笑っている。
そう言えば、こんな風に純粋にこの子が笑うのを見たのはいつぶりだろうか。
あのニタニタ笑いではない、子どもらしい素直な笑いを。
随分と…久しぶりな気がする。
「怖がりの叔父さんの為に、僕がしょうがないから手を繋いでてあげるよ」
春佳は生意気げにそう言うと、私の手をしっかりと握り返した。
たったそれだけで、この果てしない暗闇の中であっても勇気が湧いてくるのだ。
そう、心の中の勇気が足りないのであれば二人で補い合えばいい。
時に喜びを分かち合い、時に悲しみを分け減らす。
そんなオモイを分かち合う関係性。
それこそが家族というものなんだと、私はそう思う。
「それじゃあ…行こうか」
「うん!」
私たちは再びトンネルの奥に向かって歩き出した。
光を求めて。
暗闇を進む。
私は少し若くなった。春佳は小学生になった。
私は小さくなったその手を握り直す。
暗闇を進む。
私は大学生になった。春佳は赤ん坊になった。
私は春佳を抱き抱えた。
暗闇を進む。
私は高校生になった。春佳は見えなくなった。
それでもこの手は繋いでいる。
絶対に離すものか。
暗闇を進む、暗闇を進む、暗闇を進む___
私は赤ん坊になった。
左手はまだ固く結ばれている。
私はトンネルを右手で這いずり進んでゆく。
どれだけ時間が掛かろうとも。
一歩ずつ、前に。
そんな私の目の前に、一筋の光明が差し込んだ。
長くて短い暗闇の果てで、私たちはついに眩い光に包まれる。
そして………
「おやぁ!おやぁ!」
私はこの世に産まれ落ちた。
何か大切な事を忘れている気がする。
それでも、この左手に繋いだオモイだけは忘れていなかった。
時間が流れる。
私は廃墟に冒険へは行かなかった。
いいなぁと、羨ましがりながら、黙々と…
落ちる事がわかっている受験勉強に打ち込んだ。
時々、私は大事な事を忘れない様に左手で虚空を掴む。
大丈夫。きっと連れて行くよ。
結局それは大騒ぎになって、和兄達はこっぴどく叱られていた。
私はそれに少しだけ溜飲を下げた。
時間が流れる。
和兄とヤチ姉は学生結婚をしなかった。
春佳が生まれるのは、まだ先の話なのだ。
二人はきちんとしたお付き合いを続けてゆき、ヤチ姉は看護師に、和兄は大学を卒業してサラリーマンになって、それで……
あのトラック事故が起こった。
だが、和兄もヤチ姉も、私にいたるまで誰も死ななかった。
私の身近な人間は。
顔も名前も知らない誰かが二人、事故により亡くなったのだとテレビの報道が宣っている。
私はその結果を聞いて、ひどく安心してしまった。
人が死んだというのに、心を痛めるどころか安心するなんて___
そんな自分のどこか冷酷な感情に戸惑ったが、それもすぐに忙しない日常にかき消されていった。
そして……
「おんやぁ!おんやぁ!」
「奥さん!元気な『男の子』ですよ!」
春佳が生まれた。
奇しくも私と同じ日に。
桜が舞い散る、春の暖かな日に。
「ふぇぇぇ……」
「うわわ、ヤチヨ!?これどうすれば泣き止むんだ!?」
「ふふ、もーパパは情けないねー」
春佳を抱きながら狼狽える和兄をクスクスとヤチ姉が笑う。
「ほら、圭ちゃんも抱いてみて?」
元気に泣き叫ぶ春佳を、私は恐る恐る抱く。
私の差し出した左手を、春佳はその小さな小さな右手でひしりと掴んだ。
離れないように、離さないように___
「えへ!えへ!」
「あら、圭ちゃんが抱いたら一発で泣き止んだわ」
「おいおい圭!さっそく俺より懐かれてるの
かぁ!?」
「は、ハハハ、ハハハ…」
「お、おい圭?大丈夫か?」
私の目から涙がこぼれ落ちた。
私たちはとうとうたどり着いたのだ。
たった一つのゴールに。
「ああ、大丈夫…
もう大丈夫だよ」
私は春佳をしかと抱きしめた。
春佳も私を抱きしめようとした。
あの長い長い悪夢から、私たちはようやく解放されたのだ___
これから私は皆と同じ時間を生きていく。
もう二度と離れないように…
離さないように、しっかりと手を繋ぎながら。
私は未来に向かって歩き始めた。
…
…
…
「きゃははは…」
春佳が公園を嬉しそうに走り回っている。
あの瞬く間に過ぎ去ってゆく悪夢の様な時間が嘘だったみたいに、私はゆっくりと今を生きている。
一日一日を噛み締めながら。
冬の冷たさがすっかりと溶けきって、この春の暖かな日差しに包まれるたびに私はあの廃墟での出来事を思い出す。
あれ以来、私も家族も友人も、誰一人としてあの廃墟には近づいていない。
正直、本当にそんな廃墟が存在したのかさえ疑わしく思えた。
それだけ、あの地下での経験は現実味がなかったのだ。
まるで泡沫に消えてゆく夢の様に…
アレは一体何だったのだろうか?
疑問は尽きない。だが、もういいのだ。
私はそれをすっぱり忘れる事にした。
無用な好奇心は猫をも殺す。
我々は妙な事に首を突っ込むべきではないのだ。
それよりも、もっと考えなくてはならないことが世の中には山ほどある。
例えば私の就職先とか、だ。
……どうしよう、ホントに。
頭を抱えた私をあざ笑うかのように、春の風が桜の花びらを舞い散らせた。
「…?」
その風の音に紛れて、どこか遠くの方で誰かが叫んでいる気がした。
私は後ろを振り向く。誰もいない。
何かを忘れている気がする____
「叔父さぁん?どしたの?」
「いやぁ…何でもないよ。もう帰ろうか」
「うん!」
私は春佳と手をつないで帰路に付く。
まぁ、思い出せないということは大したことではなかったのだろう…
____________
時間が流れる。
ゆっくりと、だが確実に。
____________
「ふぅ…」
昼メシを食べ終えた午後のコーヒーブレイク。
私はだらりと座椅子に身を任せながら新聞を広げた。
あいも変わらず世間はやれ政治家の汚職だので盛り上がっている。
私はそれを冷ややかな目で見ながらコーヒーを啜った。
全く、こうも世の中が変わらずに同じ様な事を繰り返していると、確かに刺激が欲しくなる。
退屈な日常を吹っ飛ばすような、そんな非日常が___
春佳が都市伝説だなんだのの情報を好んで収集したがるのも理解できなくもない。
ただ、その趣味に熱を上げすぎて中学生になっても部活に入らずふらふらしているのはいただけないが。
私の時代では部活に入らないなんて選択肢は無かったのだが……
当の本人はネット上に趣味を同じくする友人が沢山いるから別にいいと呑気なものだ。
これがいわゆるジェネレーションギャップというやつなのか___
と、私が益体もない事を考えながら再び退屈な紙面をなぞる作業に戻ろうとした時、部屋で寛いでいた春佳がタブレットから顔をあげた。
その顔は面白い話を見つけたぞ、とキラキラしている。
おいおい、面倒ごとの予感がするぞ……
「ねぇねぇ!叔父さんは知ってる?
『吊猿トンネルの噂』のこと!」
「…ん、んー?
なんだそれは」
春佳がやおらそんな事を言い出したので、私は読んでいた新聞から顔を上げた。
また妙なことに首をつっこもうとしているのではないか___
私がそんな訝しげな目で春佳を見やると、春佳はそれを誤魔化すようにニカリと笑って話を続ける。
「ほら、隣の県に行くまでの山道にさぁ、大きなトンネルがあるじゃんか____
隧道輪行、あるいは遥かなる過去からの叫び
それはその真っ黒な口を大きく開けながら、今か今かと待ち侘びている。
あなたがそこに足を踏み入れるのを___