第九十三話 追憶 〜殺すこと以上に難しい仕事〜
「ああ、ようやく目ぇ覚めたか」
目を薄く開けた少女は体を起こす為か蠢き——しかしその衰弱しきった体ではそうすることができなかった。
——起き上がれないのか。
彼女を起き上がらせようと肩に触れ——
「——っ!?」
その体がびくりと揺れた。きっと俺のことを、自分を散々痛ぶってきた屑共と同じ存在だと思ったのだろう。
積りに積もった苛立ちもあって、つい舌打ちを零してしまった。
「いちいちビビッてんじゃねぇよ餓鬼が……クソッ」
彼女の体を持ち上げて壁にもたれ掛からせる。そして台所へと向かい——嘆息を零す。
……やっちまった……
あの時の経験とどこぞの糞師匠の所為で昔に比べて性格が悪くなったのは重々理解している——のだが、自分でもここまで悪態が出るとは思ってもみなかった。
特に相手は酷い暴力を振るわれた子供だ。ただでさえ知らない人なのに、こんな態度でいては更に怯えてしまうだろう。
——どうにかしないとな。
大きく息を吸って、吐いて——も、苛立ちが出ていった気配は微塵も感じられなかった。
——やっぱり寝るしか無いか。
水の魔術で椀と匙をさっと洗い、汁を掬って入れる。
彼女の元へと歩き、椀と匙を差し出した。
「おら、さっさと食え」
しかし彼女はそれに手を伸ばそうとせず、呆然と眺めているだけである。
「さっさと食えっつったろ」
再度促すも、彼女は体を蠢かせるだけだった。なかなか手を伸ばしてこず——
「——だぁクソッ! おら口開けろ!」
そう叫んでしまった。
俺の叫びに彼女は再びびくりと体を揺らした。
——ああ、だから落ち着けっての、俺……!
恐れと共に微かに開かれた口に、慎重に汁を掬った匙を差し込んで傾ける。恐らく流れきったであろう瞬間に匙を抜き、再び汁を掬う。
零さないように慎重に口元へ運び——
「…………ぁぁ……」
消え入りそうな声と共に彼女は涙を流していた。まるで器から水が溢れ出るようで、布団を濡らす涙は一向に止まる気配が無かった。
「……飯如きで何泣いてんだ……?」
こんな貧相な飯なのに——と思ったところで思い出す。
この汁、塩を入れ過ぎていたのだ。
……やっぱり作り直すべきだったか……?
「……まぁ、何でもいい」
そんな訳は無いが、取り敢えず誤魔化すことにした。そうだとしたら、後でちゃんと謝罪をしよう。
思えばまだ名乗っていなかった。この少女がファレオを知っているかどうかは分からないが、名乗れば多少は安心するのではないだろうか。
「そういや名乗ってなかったな——ダス・ルーゲウス。自警団『ファレオ』所属だ」
俺のその一言に反応するように彼女の体はぴくりと揺れ、視線がこちらに向けられた。
——お、もしやファレオを知っているか。なら話は早い。
「お前に手を出すつもりは無い。安心してくれ」
——と言ったところで、自分の先程までの言動が脳裏を過った。
舌打ち、暴言、荒い語気——もう既に、自分は彼女にとって恐るべき存在である。
「……あー、さっきまでのは本当に悪い。ファレオで色々あった上に眠れなくて苛立ってな……以後気を付ける」
そう言うと彼女は「そんなことは無い」とでも言わんばかりに首を横に振った。
……あんなにビビっていたのだから、完全に気を遣っている。
俺はまた手を動かし、匙で汁を掬っては口に流し込むことを何度か繰り返した。
やがて汁は底を突き、俺は立ち上がって台所へと向かう。
「おかわり、いるか?」
振り向いてそう尋ねると、彼女はまたも首を横に振った。
やはりこちらに気を遣って遠慮を——と言うよりは、汁がしょっぱ過ぎるからなのかもしれない。
……後で何か買ってやるか。
再び水の魔術で椀と匙をさっと洗い、台所に置いて彼女のところへと戻った。
椅子に座り、痩せ細り衰弱しきった彼女の顔をじっと見る。そして包帯を巻いた右腕を、引きちぎられた服を、枯れ木のように細い体を——
……本当に、酷い……
残酷なことに、子供への暴行や強姦の事件はゴーノクル全土で頻発している。最悪の場合、魔腑を喰らった魔術師が奇跡魔術を用いることさえある。
彼女もまた、その被害者の一人なのだろう。
しかしながら、彼女が暴行の被害者であることに対してではないが、違和感を感じずにはいられなかった。
何故、彼女はあの場にいた?
何故、全てが凍りついた中で彼女だけ無事なのか?
或いは街が凍った後に別の街から来たのかもしれない。だが、あんな衰弱しきった体で歩けるものか? 先程だって、起き上がることすら困難だったのに。
そう考えると、あの街にずっといたと考えるのが妥当であろう。何故生きているのか、何があったのか——聞くべきことは沢山ある。
——のだが、流石に今この状況で聞くべきでは無いだろう。
いずれ聞くことではあるが、少なくとも心身共に深く傷付いている今では無いのは確かだ。
今するべきことは、こちらを警戒している彼女と打ち解けることであろう。改めて彼女の顔をじっと見る。
「…………」
……まずい、何話せば良いか分からない。
年齢は多分生きていた頃の妹と同じくらいだろう。だが、かれこれ何年も前の話だし、もう何年も子供の相手をしていない。
どう接し、何を話し、何をするべきか——それが全く分からない。
……今の俺にとって、子供の相手をするのは敵を殺すこと以上に難しい仕事かもしれない。
とはいえ、だ。
少なくとも名前くらいは聞いておくべきだろう。ずっと「お前」呼びだとお互いにやりづらいだろうし。
「……なあ、名前は?」
彼女の瞳をじっと見てそう尋ねた。
彼女はしばらく黙って考えているような様子を見せた。そもそも名前を忘れるなんて無いと思うが、思い出すにしても必要以上の時間が掛かっているように思えた。
何を考えているかは分からない——或いは、こちらが信用に値する人間か判断しているのだろうか? それとも、単に言いたくないだけか?
反応が無いので手持ち無沙汰だ。何をするべきか、何と声を掛ければ良いか分からずに彼女をじっと見つめ——
「……リィ……」
儚い声が耳を微かに撫で、俺は身を僅かに乗り出した。
その反応に彼女は驚いて萎縮するが、すぐに勇気を出したかのように少し背を伸ばして口を開いた。
「……ミーリィ・ホルムです……」




