第七十六話 絵本『ボスカルの冒険』
本の山脈ができた図書館へと足を踏み入れる。
本棚の尽くが倒れ、本は吐き出され、撒き散らされている。様々な装丁の本が散乱している様子はまるで花畑のように見えなくも無いが、しかし見ていて心地の良いものでも無い。
まともな生活のできない状況では、図書館のような施設の復旧は当然後回しにされる。あの戦い以来、人の手が一切付けられていない様子だ。
わたしとしては復興の手伝いをしたかったのだけれど、「魔獣を討伐してくれたから」と遠慮され、手持ち無沙汰なのであった。
そんな訳で、図書館に来た。先日シャールと話したこともあるし、お互いの暇を潰すには丁度良いであろう。
読む本は決まっている。後は実際にあるか探すだけだ——が、このような酷い有様では探す気も多少は失せるものだ。
後退る気持ちを抑え、本を踏まないように本同士の隙間に見える床を踏んだり、時には本をどかしながら、広大な図書館の絵本が並べられていた一角へと向かう。
「……あー……」
案の定、絵本もまた散乱していた。装丁が他の本よりも色彩豊かな為に、より花畑感のある場所と化している。
勿論、気が塞いでしまうような花畑なのだけれど。
そんな気持ちを堪え、発掘作業を開始する。本を取っては表紙を確認し、取っては表紙を確認し、取っては表紙を確認し——
外の景色は見えないものの、余りにも時間の掛かった作業は既に夕方、或いは夜になっていることを教えてくれた。
絵本の花畑は絵本の柱と化して何本もそそり立っている。それを見ては感慨深い思いを抱き、次いで手に取った目当ての絵本へと視線を移す。
絵本の題は——『ボスカルの冒険』。
思えば、絵本を読むのは初めての経験であった。子供の頃も、ファレオに入ってからも、絵本だけでなく本全般を読む機会が無かった故に。
それもあって、絵本を読む年齢はとっくに過ぎているけれども、それでも初めての経験に興奮を覚えてしまう。
昔々、ボスカルという少年がいた。
貧しい生活を送り、周囲から侮れられ、いじめられていた彼は、ある日天より降臨した神から力を授かった。
その力は、変化の力。
力を手にしたボスカルは旅に出た。
辛く苦しい生活が明るく楽しい生活へと一転する、巨万の富もの価値のある宝を求めて。
己の姿を獣に変え、鳥に変え、魚に変え、彼はこの世界を駆けていった。
己の手を槌に、己の脚を剣に変え、立ちはだかる敵と戦った。
世界を巡り、敵を倒していったボスカルは、その旅路の果てに遂に宝を手に入れた。
果たして彼の生活は一転した。
巨万の富を得た彼と彼の家族の生活は非常に豊かなものとなった。
彼を侮っていじめていた者達の態度も一転し、ボスカルは彼等と仲良くなった。
ボスカルが得た変化の力は、彼の姿を変えるだけでは無かった。その力は、彼の生活や彼の人間関係、彼に関するあらゆることをより良いものへと変えていった。
力を得ることはこんなに素晴らしいことなのだ——ボスカルはそう強く思ったのであった。
——というのが、大まかな内容であった。
「——力を得ることの素晴らしさ、か」
そう呟くと、シャールは鼻で笑い、次の瞬間には哄笑を響かせた。
「分かるぞ! その思い! 私も素晴らしきことと思う!」
「大の大人が絵本読んでこんなに興奮するとは思わなかったよ」
彼のその姿を見て引いてしまう——が、自分も絵本を読むことに興奮していたので、人のことは言えなかった。
でもまぁ、その恐ろしげな見た目も相俟って気持ち悪さを覚えてしまう。
「しかし最も面白きことは、私の知っている内容とは違うことだ」
憎たらしい笑みから放たれた言葉に、頭が一瞬混乱した。
——私の知っている内容?
「ってことは、読んだことあるの?」
「その通りだ。尤も、以前の私の魔腑の持ち主の記憶を通じて、であるがな」
彼はその時を思い出すように、当時を懐かしむかのように灰色の空を見上げて言葉を紡ぎ続ける。
「あれは衝撃的であったな。子供向けに誂えた絵本と謳っておきながら、その内容は子供向けとは言い難い」
「へぇ、どんな?」
「最終的に殺し合いが起こる」
躊躇いも無く告げられたその言葉に、わたしの読んだボスカルの冒険には全く無かった展開に、目を見開いて考えることしかできなかった。
——え、殺し合い? 聞き間違い……? いやでも確かに殺し合いって——
「殺し合いだ。力を得て傲慢の化身と化したボスカルは、その力を以て仇を虐殺し、弱者を恣に扱い、強者を失墜させた。その結果奴は殺され、奴の力を巡った殺し合いが起こったのだ」
わたしの読んだボスカルの冒険は、豊かな生活になり、いじめていた人達と友人になる、という幸福に満ちた結末だった。
しかし彼の語ったそれは、わたしの読んだものとは真逆の、悲惨極まりない結末だった。
「かなり昔の記憶だから恐らく私の読んだものの方が古いのであろうが……時代に合わせて内容を変えたのであろうな。大方、ネドラ派か帝国に因るものであろう」
「でも何で……昔のはそんな結末だったんだろう……」
「知らんな」
彼は憎たらしい笑みを崩さず、しかしにべもなく応えた。
「しかし、推測できない訳でも無い」
彼は間髪を容れずにそう続けた。
「今のボスカルの冒険が『力を得ることの素晴らしさ』を説くのなら、嘗てのボスカルの冒険は『力を得ることの愚かさ』を説いたのやもしれぬ……或いは魔術師の時代にまで遡り、魔術師が書いた可能性さえある作品がな」
そういえばボスカル少年やボスカルの獣の由来となったのは、魔術師の時代に存在したとされる『千変万化するボスカル』って人種だったっけ。
ゲロムスの魔術師、或いは北方の戦の民と同一の存在だという説もあるけど、いずれにせよ魔術師の時代の存在となる。確かに魔術師の手による作品の可能性もあろう。
「そうだとして……時にミーリィ・ホルムよ」
突然彼はわたしに問い掛けてきて、わたしの体はぴくりと揺れる。彼の顔からは、先程まで残っていた憎たらしい笑みが消えていた。
「今のボスカルの冒険と昔のボスカルの冒険、貴様はどちらが好みだ?」
「え、好み? うーん……」
そこまで深く考えていなかったけど……と思いつつ、わたしの読んだボスカルの冒険と彼の語るボスカルの冒険の物語を脳内に広げる。
……子供向けのものってのもあるし、わたしは幸せな結末の方が好きだから、今の方かな……でも——
——力を得ることの愚かさ。
まだ二十年くらいしか生きていない身であれど、わたしは色々なことを見てきた。
魔術であれ権力であれ、力を持つ人間が恣に振る舞ってきたことを。
多くの人間が力を求めた結果、この世界が暴力と謀略、欺瞞と争乱に満ちてしまっていることを。
その結果、多くの人々が苦しんでいることを。
「……好きなのは今の方だけど、腑に落ちるのは昔の方……とでも言うべきかな」
仮に彼の語ったボスカルの冒険が今のゴーノクルと同様の世界を描いたのなら、力を得ることの愚かさを説いたのなら。
もしゴーノクルがこうなることを予想してその絵本が描かれたのなら。
この惨状の原因となった人々への、そしてまだ彼等と同様の存在になっていない人々への、せめてもの戒めとして昔の方を広めたい。
彼の推測通りであればの話だが、そう思ってしまうくらい作者の理念に共感できる。
わたしのその答えに、彼はにやりと笑った。
「私も、昔の方が気に入っている」
腕を組んでこちらを見据えてそう言った彼の笑みは、いつにも増して嬉しそうに感じられた。




