第百六話 不審者現る
声の方を振り向くと、そこには一人の美貌の男性の姿があった。
闘技大会の参加者なのだろうか、金や極彩色を纏った彼の背には同じく豪奢な剣がある。
服の右腕には袖が無く、光り輝く腕が露わになっている——まるで自身が魔術師であることを誇示するかのようだ。
彼は何も言わず、優しげな笑みを浮かべてこちらをじっと見ているだけである。
「あの、何か——」
痺れを切らして声を出した時だった。
「——っ!?」
じゃらじゃらといった音を伴って、一瞬にして彼の顔が目と鼻の先にまで迫ってきた。
彼の体勢はわたしの両耳の側にある腕で支える形になっており、外から見ればわたしを捕らえたように映るだろう。
……いや、文字通りわたしを捕らえたのだ。
「遠くから君を見つけた時、僕は君に惚れてしまってね——これから、食事でもどうだい?」
その瞬間に、落雷のようにあの時のことが脳裏に浮かんでしまった。
「え、あ、あの……」
上手く声を出すことができない。体を動かすこともできない。
あの時と同じことが起こってしまうのではないか——そう考えてしまい、わたしはまともに動くことができなかった。
唯一できることは恐怖に耐え、背を伝う冷や汗を感じることだけだった。
「どうしてそんなに怯えているんだい? 僕はただ、君と一緒に食事がしたいだけなんだ。本当だよ」
ただでさえ近い彼の顔はより一層近付いてきて、お互いの鼻が接しかねない程に迫ってきた。
目の下に涙が湧いてくるような感覚を覚え、わたしの体は恐怖に震え始める。
……ああ、駄目。このままじゃ——
「や、やめて下さい……早く、逃げ——」
何とか言葉を振り絞った時だった。
彼すぐ後ろに、その背丈以上に跳躍した人が躍り出てきた。
一瞬だけその人の顔が見えた。黒髪から覗かせるのは、殺意に満ちた三白眼——ダスさんだ。
彼は見下すように男性の頭を捉え、腰を捻って振り上げた脚を——
「あ゛がべっ゛っ゛っ゛!?」
側頭に直撃させ、美貌の男性を蹴り飛ばした。
男性は何回もその体を床に打ちつけて弾むように転がり、通路を往来する人々が道を開けたこともあってなかなか止まらない。
彼は最終的に壁に衝突し、そこでようやく止まった。
「ミーリィ! 無事か!?」
「ダスさぁんっっっ!!!」
足と片手で着地し、憂慮を帯びた声を掛けてきたダスさんに駆け寄る。いつの間にかわたしの目から涙が零れていた。
「不審者に声を掛けられましたぁっ!」
彼の体に縋りつきながらそう言うと、彼は殺意を伴った視線を蹲っている男性に向けた。
「任せろ、もう二度とそんな気を起こさせないようにしてやる」
「ミーリィ! ダス!」
食事が入っているであろう袋を携えたポン君がこちらに駆け寄ってきた。状況を理解できていない為か、彼はこちらと美貌の男性を交互に見ている。
いつの間にかわたし達の周りには人だかりができていた。ただしその目は憂慮では無く期待と興奮に満ちている。流石はクァヴァスといったところか。
「なっ、何するんだッ!? 何なんだアンタはッ!?」
倒木のように動かなかった男性がようやく動いた。体をがばっと起こし、自分を蹴り飛ばしたダスさんに対して憤怒の咆哮を轟かせた。
「わっ、わたし達は結婚してるんですっ! ほら子供だっていますっ!」
「いや結婚していない」
「おれミーリィの子供じゃない」
「せめて今だけは合わせてくれませんか!?」
咄嗟に吐いた嘘をダスさんにもポン君にも否定されてしまった。
もしかしたらこの嘘で切り抜けられると思ったのだが——
「結婚しているかしていないか——そんなことはどうでも良い!」
……いや駄目だなこれ。
「あんなぱっとしない見た目の、背後から人を殴るような非力で臆病な男より、僕の方が絶対良いさ! 僕には富も名声もあるんだから! あんな出来損ないと一緒にいるよりも遥かに楽しい時間を過ごせるよ!」
「ちょ……!」
彼の発言に思わず声が零れてしまった。
見え透いた挑発だということは分かっている。しかし今のダスさんにその挑発は非常にまずい。
「……俺に、喧嘩を売っているのか?」
ダスさんの口から静かで重々しい、怒りを滲ませた声が聞こえてきた。
彼は徐に美貌の男性へと近付き、その前で立ち止まって倒すべき敵を見下ろした。その顔は見えないが、きっと冷酷なものであろう。
「闘技大会に出て戦え、ってことだろ? 分かった。戦ってやる」
そう言ったダスさんを美貌の男性は呆然と見つめ——少ししてその顔に不敵な笑みが浮かんだ。
そして彼は立ち上がり、僅かに高い位置にあるダスさんの目を睨んだ。
「その通りさ。今日の夕方の大会だ。まだ枠は残っているはず。その背中の槍が飾りだってことを証明してみせるよ!」
彼はそう言って豪奢な装飾を揺らして踵を返し、通路の奥へと消えていった。
その場で立ち尽くして消えた背中をじっと見ているダスさん、そんな彼にわたしとポン君は駆け寄る。
「ダスさん、大丈夫で——」
と声を掛けて彼の顔を覗き、その瞬間に言葉を失った。
「糞餓鬼が……その体と心を完膚無きまでに痛めつけてやる……」
言葉こそ静かであるが、顔は全然静かではなかった。憤怒と殺意に満ち満ちた、兇猛な魔物の顔である。わたしもポン君も困惑していて、何の言葉も掛けられなかった。
そんな初めて見る怒りようが故に、同情の言葉が浮かんでしまった。
——あの人、終わったな……
「ねぇあれってダス・ルーゲウスじゃない?」
「きっとそうよ! あの槍を持ってるの見たことあるもん! それにしても顔怖いわね……流石は『ファレオの魔獣』ね」
こちらをじっと見ていた人だかりの中からそんな会話が聞こえてきた。流石はダスさん、広く認知されている。
——ふと思った。
あの人、ダスさんがあのダス・ルーゲウスだと気付いていないのだろうか?




