人を良くする台所。
この台所は私がお母さんになってから3つ目の台所だわ。とんとんとん玉ねぎを細かくして小さなでも深い黒い鍋へ入れたらガスコンロの火を灯す。
ひとつ目のキッチンでは見てはいけないものが見えた。それは目の錯覚でその頃生後半年満たない女の赤ちゃんと赤ちゃんの父親と暮らす主婦の私は後から人に聞いた話では産後の日立ちが悪かったのらしい。排水溝の奥の奥水が流れる細かな揺れが虫が這い上がってくるように見えた。それか虫以外の恐ろしいもの。リビングと対面型で頭上に埋め込まれたLEDが白く眩しかった。私は目も痛めていた。
真っ白すぎるキッチンは小さな黒い影に神経が尖った。ほんのわずかな水滴も許せなさそうだった。それでその時は実家の古い台所ならこんなシミにイライラしないのにと気づいたのだった。
人参はもっと細かくしないと子供がよける。ジャガイモは半分溶けると塩分も控えめで野菜の味が優しく甘くなる。鍋の中からバターの溶ける香りがする。
ふたつ目のキッチンも対面式で今度はカウンターが付いていた。お店のように、はい!おまち!と元気よく仕事帰りの夫にゴーヤーが入った豚肉の生姜焼きをだした。ゴーヤーの苦味が甘じょっぱくて脂っこい生姜焼きの後味を爽やかにしてくれた。美味しいと言って食べてくれた。
蛸となめこのパスタも作った。あの時は喜んでもらえるとばかり思っていたらパソコンと向き合って料理も見ずに食べる夫にがっかりしたものだった。カウンターはカウンター、やはりおひとり様向きな様だ。一番端っこに腰掛けて時間をずらして食べていた。それでもさみしかった。味はおいしいはずだった。
あのカウンターキッチンは木目の色、シルバーの調理台、少し狭くて横に長い。そのうちに妊婦になった私は夫にどつかれ丸く膨らんだお腹を角にぶつけた。幸い泣いたのは私だけだった。妊婦と仕事の忙しい無口な夫に狭く細いカウンターキッチンはきけん。
いいえ、うちだけに限ったことです。忘れてくださいね。
玉ねぎもジャガイモも人参もいい感じに炒まってきた。ローリエをばらっと放つ。お水もそこらにあった犬のマグカップで2杯入れた。そうです。今日はカレーです。そこでやっと肉の存在を思い出した。少し濡れたまな板に片栗粉をばら撒き豚こま肉を塊にして刻む。そして丸めて食べ応えのある大きさにして煮立つ鍋へぽとぽと落とした。
子供とこどもと私だけのささやかなキッチンは呼び名はお台所の方が似合っている。対面にはおうとつのある窓ガラス。ダイヤの形の窓の格子。外から傘が掛けられる。アパートの廊下に面していて西陽が凄い。コンロの火が透けてしまう。気をつけないとね。安全装置はフライパンを浮かせただけで働くのでそこまで心配は要らないけど。背後にニトリで購入した北欧風のナチュラルウッドのテーブルセット、これは私がひとりで全て組み立てた。おかげでひとつの椅子だけ目立つところにネジを差し込む穴がある。どこか入れ違えた様だ。
扉を開け放ち子供達はそれぞれ寝転がってYouTubeを見ている。私が振り返ると家の中全体が見渡せて数歩歩けば洗濯機の様子も伺える。二つ目のキッチンでは外付けの客室用の洗濯乾燥機を使っていた。あそこはリゾートホテルの一室で管理人部屋だった。キッチンの奥には扉があり従業員の声が聞こえた。
私は今の暮らしにおおむね満足している。家賃と雰囲気は16の頃家出して手に入れた安アパートを思い出させた。なんにも進歩していない。そう自分に問いかけそうになった。
今は幸せだが、欲をかいてもいいのだろうか?美しい一軒家を望んで手に入るだろうか。そもそも家庭にトラウマの残る私に家そのものは手が伸ばせる代物だろうか。
進歩も欲も願望も飢えも全部、持ってる。今夜は美味しいカレーを生み出した私の手。キッチンから書斎へ移動して猫を抱き抱え広い広いベッドで大きな窓から森の様な庭を見る。
夢を見る力を私が私へ振りかける。もう忘れていいのだよ。わたしはあなたの心からの笑顔が見たいんだよ。