17 テオの婚約者(仮)
練習後、一階のピアノ室で個人練習をするところまでが、テオの一日の学校生活だ。今日も、一階のピアノ室に移動してきた。
今まではついて来ていなかった。でも、先日の備品庫での会話以来、私はいつもの凍てついた魔王面が崩れるテオがまた見てみたくてうずうずしている。だって、あまりに差が激しいから、今はまた白昼夢だったのではないかと思い始めている。
もちろん、この時間も彼にとっては真面目な練習の時間だ。
邪魔はしたくないし、別にいつものテオしか見られなくても仕方ないと思っている。
ただ、テオのピアノを聴くだけでも良いと思っている。
ピアノはそこそこ自信があった私だけど、やっぱり音楽界の神童として鍛えられ、将来を嘱望された彼の腕前は段違いだ。
所詮自分は、田舎でちょっとピアノが得意な小娘に過ぎなかったのだと思い知らされる事は、多少苦いものもあった。思ったよりも、自分でも自信があったみたい……。
でも、それを凌ぐくらい、今学園にいて、目の前で練習とはいえ演奏する彼を見る事が出来て、僥倖だと思える。
ずっと、演奏家として音楽を続けていけるなら、それも憧れ続けたトランペッターとして出来るなら、幸いな事だ。
けれど、現在王国の宮廷音楽界の門戸は、女性には開かれておらず、そしていずれどこかへ嫁いで行くなら、宮廷楽士はやはり難しいのかも知れない。
王宮ではなくても演奏はできる。けれど、やはりいつ家に入って妊娠出産をするか分からない女性は、雇ってもらい難いかも知れない。
そうすると、ピアノやヴァイオリンの家庭教師、が妥当な道なのかも。トランペットの家庭教師って、あまり聞いた事がないし……。
ん? そう言えば、変わった選曲のような……。
テオの練習に耳を傾けていると、聴き馴染みのない曲である事に気付く。ピアノの曲というより、これは……?
と、ふと楽譜の曲名を見ると、“ヴァイオリンのための小曲集”と書かれてある。
つまり、いまテオが弾いているのは、ヴァイオリンのための伴奏だ。何故?
不思議に思ってつい楽譜を覗き込んでいると、一回通し終わったテオが、嫌そうに眉を顰める。
「何? さすがに気になるんだけど」
「えっ。いや、ごめんなさい。練習にしては珍しい選曲だと思って……」
「ああ。今度弾く事になったから」
「伴奏を……?」
こどもの頃は演奏活動もしていたとは聞いたけど、学生で、楽団のトランペットパートに身を置いている間にも、ピアノで舞台に立っていたとは。
「入学してからはなかったけどな。例の、新しい歌劇場のお披露目の演奏会があるだろ。あそこで伴奏を依頼された」
もうプロの演奏家みたい。ってそうか、演奏活動をしていたという事は、既にテオは演奏家だった。
だけど、トランペットを吹く彼を主に知る私としては、ピアノで舞台に立つ姿が、不思議に思える。そんな思いが透けていたのかも知れない。
「むしろ、学園以外じゃピアノでしか舞台に立った事がない。両親は今でも俺をピアニストにするつもりだからな」
自嘲気味な口調でテオがそう教えてくれる。
でも、とふと気付く。
「同じ演奏会に出るなら、私もテオとその誰かの演奏を聴けるという事ですね」
「まあそうだな。さすがに、楽団の演奏時間とは調整してくれるだろうし」
それに気付いて、急に楽しみになってきた。
「ヴァイオリンはどなたが? 宮廷楽士の方?」
「いや、プロじゃない。前からその家のサロンコンサートに招かれて一緒に演奏する事が多かったから、指名されただけ。今回の演奏会は、市民に開かれた歌劇場の宣伝のために、俺等学生とか、その人みたいな音楽好きも出演するんだろ」
「へえ……」
でも、私みたいな下っ端貴族を含む学生はともかく、サロンコンサートを開催できる家って、市民からしたら十分過ぎるほど敷居の高い存在では……? という疑問は一旦しまっておく。
* * *
「今度の歌劇場の演奏会、テオ様って、ロンドベル家のアイリス様の伴奏もなさるのね」
「お二人の演奏は久し振りね。以前お聴きしたけど、いつも息ぴったりで、本当にお似合いのお二人だったわ」
「婚約なさるのでは、って噂だったわよね」
「アイリス様は未だに婚約されていないし、きっとそうされるのではないかしら?」
…………はい?
テオってあのテオで合ってる? 合ってるか。学園中の男子学生の名前なんて把握してないけど、伴奏ができるテオ様はあのテオくらいだ。
「テオ様って、あの、テオ様よね……?」
うん、多分間違いないわよシャーロット。たった今、私もそう結論づけたところ。
いつものように、昼食に食堂で買ってきたサンドイッチを、シャーロットと中庭で食べていたところ、通りがかった上級生らしい人達の会話が漏れ聞こえてきたのだ。
「婚約者がいらしたの?」
「さあ……。婚約はしてなさそうな話だったわね」
ロンドベル家といえば公爵家だ。そこのアイリス様が何歳でどんな人なのかは知らない。あー、これだからもっと高位貴族の方々の事も知っておけば良かった。我が家と取引でもあれば覚えるんだけどな。
それにしても、テオに婚約間近かも知れないご令嬢がいたとは。全然知らなかった。そんな気配なかったよね?
ていうか、だとしたら私は何? あんなに女っ気がなかったのに、実は愛人を囲うつもりだったとか言われたら、もう人間不信になりそうだ。そう言いつつ、あまりにイメージが合致しないので、あんまり現実味がないけれど。
「伴奏ってことは、楽器を嗜まれるお方なのね」
「ヴァイオリンだと思うわ。今度伴奏するって聞いたから」
しかもそれを私に聴かせようとしてた。本命の公爵令嬢との演奏を、愛人候補の男爵令嬢に聴かせようとか。どういうつもり!? ……て、そんなタイプでもなさそうだけど。
「ここにナディアがいたら、もうちょっと詳しく分かりそうだけど」
「確かに、そうね」
ナディアはシャーロットと同じ子爵令嬢だけど、音楽業界に詳しいから、何か知っているかも知れない。
「フレア様も詳しそうね。ハリー様と近いし。アメリ、親しいじゃない」
「…………」
本当に親しく見えているなら、その目は節穴だ。眼鏡でも掛けた方が良いよ。どこをどう見たらそう見えるの。
だがそして更にそこに、
「今日から、放課後の練習はここじゃなくて、別の所でするから」
とか、テオが言い出したものだから、つい無性にそわそわしてしまう。
「それは……、例の伴奏をするっていう……」
「そう。先方の家で合わせながら練習したいって」
学園祭もまだなのに。今からそんなに毎日合奏いる? もしかして、テオにそんな素振りはなくても、お相手のご令嬢はここぞとばかりにテオを囲っておきたい、とか。
ああー、放課後のテオのピアノ練習、最近の生活で結構楽しみな時間になっていたのにー。
「……何? 変な顔して」
色々考えていたら、どうも逐一表情に出ていたらしい。
ていうか、変な顔って。本当に失礼な口だ。
「しばらくテオのピアノが聴けないから、残念だなって思って」
「あ、そう……。そうだ。俺が弾かない間、このピアノ弾いてて良いよ」
「えっ!?」
エドワーズ家が学園に持ち込んだっていう、この立派なピアノを!? テオがいない間でも一人で弾いて良い?
ええー。ピアノなんて授業でしか弾く事がなくなっていたから嬉しい。
ピアノって、一台一台音やタッチにも違いがあるって言うし、いつもテオが弾いて圧倒されているこのピアノで、私が弾いたらどんな音がするのかずっと気になってた。ちょっとなら弾かせてもらった事もあるけど、もっと色々弾いてみても良いって事は……。いけない。生唾が出そう。
「これはこれで妙な顔してるな……」
妙な顔とかもういいや。明日から楽しみ。
「明日から送ってやれないから、暗くならないうちに帰れよ」
テオの言葉に大きくうんうん、と頷きながら、心は既にピアノに向かっている。大丈夫。毎日弾けるなら、一日一日の時間はそう長くなくても……。
「早く帰れって言ったろ。何故まだいるんだよ。本当に何しても加減を知らない奴だな……」
翌日、ロンドベル公爵家での練習から、わざわざ学園に引き返して来てくれたらしいテオの呆れ声ではっと気付けば、窓の外は既にすっかり暗くなっており、私は改めて自分の自制心のなさを自覚した。
* * *
かくして、すっかりテオの婚約者になるかも知れないらしいと噂のあったらしいロンドベル公爵家とやらのご令嬢の事を忘れ、学園祭の練習と、放課後のピアノ練習に夢中で明け暮れていた私だけど、どうもそのままどうぞ、とはいかないらしい。
学園祭が一週間後に迫ったある日、音楽棟の前に一台の馬車が、停まっていた。豪奢な装飾が施され、紋章も見えるが、私にはどこの家のものかは分からない。それより、学園内に馬車って良いんだっけ? 初めて見たんだけど。
馬車の窓が開き、白金のさらさらの髪を靡かせて、紫色の瞳が美しい美少女が顔を覗かせる。
うわぁ。美男美女は学園内にもたくさんいるけれど、間違いなく一番可愛い。同年代で、高位貴族の令嬢に見えるけれど、学園で見かけた事はない。造形が整い過ぎていて、人形にすら見える。
しかし、人形にしては表情が豊かだ。
放課後の練習に向かうべく、音楽棟の前には私以外にも数人の部員がいる。音楽棟の前で呆然と彼女と馬車を眺める私達を見て、彼女はぱっと花が咲くように表情を明るくした。
色白の顔が薄桃色に紅潮して、紫色の瞳がきらきらと輝くようだ。
「部外者なのにお邪魔してごめんなさい。二年生のテオ・エドワーズは、ここにいるかしら?」
なんと。この美少女、テオを訪ねてきていた。
私のような女の子にすら無礼者のテオに、こんな知り合いがいたなんて。ん? 最近も似たような事を思ったような……。
「あっ、テオなら大体早く来ているので……」
「今日はどうだった? さっきまだ教室にいなかったか?」
美少女に声を掛けられた弦楽部の先輩達が、しどろもどろになっている。私は少し離れていたので、彼等の数歩後ろからその様子を見ている。私も知らないので、しゃしゃり出て答える事も出来ない。
「あ。アイリス様、早いですね」
「あっ、テオ! 無事に会えて良かったわ」
更に私の背後から近付いてきた足音の一人が、その美少女に声を掛ける。テオだ。
アイリス様、と呼ばれた彼女のその可憐で明るい声から、頬を上気させた満面の笑顔から、テオに会えて嬉しい様子が、否応なく伝わってくる。
「随分早くいらしたのですね。まだ、楽団の練習があるので、すぐには無理ですよ」
対するテオは、いつも通りだ。淡々と、でも少し声が柔らかいかな。それはこの謎の美少女と、テオの親しさから来る柔らかさなのかも知れない。
そう言えばテオって、敬語も使えたのね。初めて聞いたわ。
「良いのよ。久々に楽団の練習も聴きたいの。さあ行きましょう」
アイリス様は、嬉しい様子を隠す事なく、にこにことテオに笑い掛け、そのまま彼の手を取って音楽棟に入って行ってしまった。後にはそれを呆然と眺めていた私達が残るのみ。
何、今の。非日常な光景に頭の整理が追いつかない。
「アメリ、こんにちは。久々にお見かけしたけど、相変わらず目立つねアイリス様」
「ユージン、知ってるの?」
テオと一緒に歩いて来たもう一つの足音の主、ユージンが私の横に並ぶ。
「うん。去年まで学園にいらしたからね。ロンドベル公爵家のご令嬢だよ。アイリス・ロンドベル様」
「え、あのロンドベル公爵の! ……あ」
音楽界の重鎮。音楽庁長官で、テオが頑固爺呼ばわりしていて、楽団の女子部員が気に入らないっていう。
ロンドベル公爵家のアイリス様。ああ、すっかり名前を忘れてしまっていた。テオの婚約者(仮)だ。
ていうか。テオの婚約者(仮)って、勝手に歳下だと思ってたー! いや、公爵家ともなれば、十九歳ならもうとっくに婚約してそうだし。偏見かしら。偏見ね。ごめんなさい!
何故忘れてしまっていたんだろう……。そうだ、最近ピアノに没頭してて。
しかもロンドベル公爵邸は、学園のすぐ隣らしく、初日にすっかり遅くまで一人で弾き続けていたのを知ったテオは、結局公爵邸での練習後、毎日音楽棟まで迎えに来てくれている。「分かった。もう迎えに来るまでやってろ。中途半端に薄暗い中一人で帰る方が危ない」と言われたので、その通りにしている。
そんなこんなで、色々あって婚約者云々のもやもやも、二の次、いや三、四の次くらいになっていた。
「そう言えば、今日はピアノ室でアイリス様と合わせるから、ピアノは使わせてやれないけど」
部の練習前にテオにそう告げられる。がーん。そっか、わざわざここまでご足労いただいているものね……。
「そっか。じゃあ仕方ないですね。うん、良いよ」
「いや元々、うちのピアノなんだが……。何故そんなに偉そうなんだよ」
アイリス様は、個人練習やパート練習中は、一階のピアノ室で自分の練習をされて、合奏の時間に見学に来られた。白金の美女の登場に、部員達がおおっとどよめき活気付く。
にこにこと微笑み見守ってくれるアイリス様に、ここぞとばかりに良いところを見せたいんだろうな。指揮棒が上がった時の、皆の気合の入り方が本番以上だ。
トランペット三人は、通常運転である。だってこの曲、そんなに見せ場もないし。
「トランペットを吹いているテオ、久々に見たわ。ピアノとはまた違って格好良いわね」
「それはどうも」
「ふふ、相変わらずね」
楽器や楽譜を片付けながら、素っ気なく対応するテオを、アイリスはまるでやんちゃな弟でも見るかのように、優しい目で見ている。いや、弟にしては距離が近い。テオが振り返れば、髪なり腕なりが当たりそうだ。格好良いって、この人ずっとひたすらロングトーンの伴奏ですよー。
つい、ちらちらと様子を覗ってしまった。
だがこの会話の間ずっと、白金の美少女が私を見る事はなく、会話の終わりでようやく、ふと私と目を合わせたかと思うと、アイリスはふっと微笑んだ。それはそれは美しく。
あ、でも何故かしら。失礼だけど、そこはかとなく、嫌な感じ……。どこか高圧的というか。
まあ、明らかに高貴な生まれであろう彼女にすれば、私なんて平凡でくすんで見えるんだろうけど。うわ。何だか卑屈になってきた。
そしてまた、アイリスがテオの手を取って、挨拶もそこそこにピアノ室に行ってしまった。何だったの一体。