16 裁縫王子と私
あ、あのきらきらの金髪頭は。
「あ、アメリだ。久し振りだね。元気にしてたかい?」
やっぱり。ハリー・メイリントン侯爵令息。侯爵家の嫡男にして、王妹の息子。つまり国王陛下の甥っ子。私が密かに心の中で王子と呼ぶ人物だ。
だって、私と親交がある人達の中で一番王子様っぽいから。
一、二年生と三、四年生は、別の棟にそれぞれの教室があるので、低学年の学生と高学年の学生は、食堂を除けば、日頃はあまり出会う事がない。
弦楽部員でもあるハリーとは、音楽棟で出会う事もあるが、それでも、彼を見掛けるのは新学期になって初めてだった。
何故か低学年の棟の前にいた彼は、辺りを見回して私を見つけると、まさに王子様然と澄ました顔をぱっと顔を明るくして、こちらに向かって歩いて来る。
……ハリーにはこういうところがある。
高貴な生まれと、優れた容姿に恵まれ、成績だって優秀で柔和な人柄も文句の付けようがない。
だというのに、育ちの良さ故の素直さなのか、妙に隙だらけというか、感情が顔に出すぎるのだ。この人この調子で、将来侯爵として大丈夫なのかな?
まあ、身分が全く違う彼の、同じ人間らしい一面として、私は好感がもてるのだけど。
「これ、アメリに会ったら渡そうと思っていたんだ」
そう言ってハリーは、平たく小さな包みを差し出す。
何か分からないまま、思わずそれを受け取ってしまう。え? 一体何?
「ハンカチだよ。僕が刺したんだ。アメリにあげたくて」
おっと。ハリー様の刺繍熱はまだ続いていた。
早速見て欲しいのか、にこにこと私の手元を見つめられ、私も包を開いて中のハンカチを取り出す。
「わぁ……、素敵……」
白いハンカチは、ぐるりと一周百合の花のモチーフで縁取られ、一角にトランペットが刺繍されていた。トランペットってことは、わざわざ私のために刺してくれたって事かな。百合の花は、まあうん、ちょっと複雑だけど。
「気に入ってくれたかな。親睦会が楽しかったから、ヴァイオリンでも良いと思ったけど、アメリはやっぱり、トランペットの方が喜んでくれるかなって思って」
そう言って、ふんわり柔らかい笑顔を浮かべるハリーこそ、楽しそうで嬉しそうに見える。
二歳上だし、身分も随分上だけど、知れば知るほど親しみやすい良い人だと思う。
「ありがとうございます。嬉しいです。でも、こんな素敵なハンカチいただくなんて……」
「遠慮なんてしないでよ。たくさん刺しちゃって、受け取ってもらえたら、僕の方が嬉しいんだから」
あ。作り過ぎちゃって困るって事ね。
そういえば、母もお菓子を作り過ぎては、消費に困って色んな人にあげていた。お菓子は食べたらなくなるけど、刺繍はそうはいかないものね。
「刺繍の事は、アメリと母しか知らないからね」
「そうなんですね。でも……、嬉しいです」
「良かった」
だって、この刺繍は、私のためにモチーフを選んでくれて、刺してくれた刺繍なのよね。糸の色も、管楽部の制服と同じ青色だし。青い百合はまあ、何とも複雑だけど。
「このハンカチ、母に勧められて、生地から自分で切って縫ったんだ」
はい? 何ですって? ハンカチを?
反射的にぱっとハンカチを目元まで上げ、裏返してその縫い目を凝視する。
今、私は裁縫の授業で同じ事をやっていた。
それを、この侯爵令息のハリーが、私よりも先に既に熟しているとは。しかも、既製品かと見紛う質で。
昨日の三回目の授業で、私はようやく一枚縫い上げた。先生は大きな溜息をついていたが、「まあ良いでしょう」と合格を出してくれた。
ちなみに、シャーロット達他の学生は、すでに次の課題であるクッションに取り掛かっている。
これ、もしかするとシャーロットよりも上手いのではないかしら?
思えば、初めて針と糸を手にした時から、縫い目に尋常ならぬこだわりを見せていたハリーだ。縫製だって、同じ調子で得意なのかもしれない。
これはもうあれね。刺繍王子から手芸王子に格上げね。
「どうかした?」
「あ、いえ、本当に綺麗な縫い目だと思って……」
「そう? ありがとう。アメリに褒めてもらえるなんて恐縮だな」
いやいやいやいや。私如きに。こっちこそ恐縮だから。
ハリーはいつもの陽だまりのような暖かい笑顔で、私とハンカチをを見ていたかと思うと、やがてふっと小さく息をつく。
「聞いたよ。ロンドベル長官とレイモンド隊長にも、楽団員である事を認められたって」
「あー……、認められたかどうかは疑問です」
「はは。大丈夫だよ。あれ以来何もないだろう? 一回文句を言わせておけば終わりだよ」
「そんなものですか?」
「そうだよ」
完璧なようでそうでもないハリーだけれども、こんな余裕ある微笑みで著名人の話をする姿は、やはり彼を高貴で寛容に見せる。怒ったりする事あるのかな、この人。
「長官といえば、王立歌劇場の演奏会の話は聞いた?」
「はい。あんな大きな舞台で演奏できるなんて、今から楽しみです」
「広いだけじゃないよ。音響にもかなりこだわって設計されているらしいからね」
「そうなんですか?」
かと思えば、こどもみたいに目を輝かせたりする。
刺繍にもはまっているハリーだが、やはり音楽の話になると目の色が違う。活き活きと国内外の歌劇場や音楽堂について語っている。
だが……、
「ああ、もう午後の授業が始まるな。また話そうね、アメリ」
数多くの舞台に立ち、演奏を聞いてきたハリーの話は、とても興味深いものだったが、正直なところ、途中から背中を刺すような視線の気配を感じて、それどころではなかった。
手を振って爽やかに去って行くハリーを見送り、私も「あ、急がなきゃ。授業に遅れるわ!」と慌てて小走りでその場を去った。
うん、逃げた。無事逃げられた!
「貴女、凝りもせずにハリーに纏わり付いているのね。諦めが悪すぎるのではなくて?」
いや、逃げ切れなかったらしい……。
* * *
今学期初めましてのフレア・キャンベル嬢。
授業ちゃんと最後まで受けたのかしら? 授業が終わったら、既に教室の前にいらしたんですけど。
今日も美しい赤い巻き毛に、迫力いっぱいの緑色の瞳で、私を眼光鋭く睨み付けていらっしゃる。
「何か弁解はございまして?」
「弁解と言いますか……、諦めるも何も、私から纏わり付いては……」
「口答えなんて、生意気ですわ」
そんな無茶な。どうしろと……。
「まるで、ハリーの方から近寄ってきているとでも言いたげですわね」
いや、今日についてはそうでしょうよ……。見てないかもしれないけど。
さっさと逃げたいのに、壁際に追いやられて凄まれているので、逃げ場がない。
しかも、何と答えても怒られそう。はあー、超難問。
「人を目の前に溜息なんて、良い度胸ですわね」
答えなくても怒られた。やだもう。
「あー、では聞きますけど、私に何と言わせたいのですか?」
「何ですの、その開き直った態度は? ハリーへの恋情なんて、分不相応な気持ちはさっさと捨てなさいと言っているのよ」
「そんな事おっしゃられましても、そもそも、そんな気持ちは持っておりませんし……」
「しらばっくれるおつもり!?」
ええええ。もうどうしたらいいの。
フレアは、何故こんなも私に絡んで来るのか。って、偏に私が大好きなハリーに近付くお邪魔虫に見えるからなんでしょうけど。
気にしなくても、私はフレアからハリーを盗ったりなんてしないし、ハリーにとっても私は数いる音楽仲間の一人に過ぎないのに。あ、刺繍仲間でもあるんだっけ。
あれかな。家格も年齢も釣り合うのに、政略的な旨味がないせいで、ハリーからは婚約者候補として見られていない。それをフレア自身も知っているから。
だから、こんな男爵令嬢如きにも突っかかる程、余裕がないのかな。
そう思うと、きっと昔からずっとハリーを想い続けたであろう、フレアが少し不憫にもなる。まあ、“ずっと”も、想い“続けた”も想像だけど。
「別に、私如き放っておけば良いのです。私には、ハリー様とは別に想う人がいますので」
「そうですの?」
私がそう言うと、ずっと吊り上げていた一瞬目を丸くしたフレアだが、はっと何かに気付き、再びきっと目を鋭くする。
「貴女まさか……。ハリーじゃないなら、青百合の君じゃないでしょうね?」
「ええ!?」
「それだって許される事じゃなくてよ。いい加減になさい」
「…………」
そりゃ当然許されないでしょうけど。本人だし。ていうか、フレア嬢はまだその正体をご存知ない?
もう本当に、この人どうしたらいいの……。
* * *
トリルというのは、二つの音を交互に細かく鳴らす技法だけど、それを指を使わずにするのをリップトリルという。
「わ。アメリのリップトリル、速いし綺麗だねー」
そう。私の特技。
ユージンに褒めてもらって、つい浮かれて調子に乗って色んな音で披露する。フレアお嬢様に絡まれて、溜まっていた鬱憤をここで晴らすのだ。
「僕も指を使えばトリルはそれなりに出来るんだけどな」
「うーん。私はむしろ指があまり速く動かなくて……」
「アメリの楽器、時々動きが悪いけど、オイル差してみた?」
「あ。そう言えば指よりピストンがついてこないような……」
そんな事を話しながら、二人でひたすらトリルの仕方を試していると、ふと流れてきたひんやりした空気にはっとなる。
「……トリルの練習も良いけど、いつまでやってるんだ。基礎練習は終わってるのか?」
トランペットパートの魔王様、もといリーダー降臨である。ユージンがさっと基礎練習の楽譜を開く。いやもう手遅れだから。
「学園祭の演奏に向けて、ちょっとね……」
「学園祭の曲、トリルないけど」
そうですね……。基礎練習さぼってごめんなさい。
学園祭の曲のトランペットは、とにかく脇役だ。主旋律のメロディはあるけれど、これまでのファンファーレや行進曲に比べると大人しいものだ。
音量を抑えて吹くのも飽きてきたなー。とか言ったら、隣の魔王様に怒られるんだろうか……。
とか考えていたら、軽く音出しとチューニングを終えたテオが、不意にパーンと音を鳴らしたかと思うと、そのまま音量大きめのまま高速でスケール練習を始めた。
練習と言うには、あまりに高速。音質も粗め。時々割れてるし。それでも一つ一つの音の粒が揃っている辺りがさすがなんだけど。
いつも、どんなに速くても激しい旋律でも、生真面目に丁寧に音を鳴らすテオにしては珍しい。
「……どうしたの?」
「別に」
テオの口から楽器が離れたところで尋ねてみれば、少し疲れたような、不機嫌そうな顔をしたテオが、小さく溜息をつく。
「……でもまあ、次は派手にファンファーレとか吹きたいよな」
やっぱり。テオも大概、派手に吹き鳴らしたい溜まっているようだ。ユージンもすかさず賛同する。
「いいね。次の演奏会で一曲目、どーんと」
「どの曲が良いかしら。楽しみー」
「全員トランペットソロを吹いたりしても良いかもな」
「え。僕、ソロは遠慮したいかも。胃が痛い……」
「まあ、そう言うなよ」
「そうよユージン、あんな良いステージで目立たないなんて損だわ」
「ええ? アメリもそっち側の人なの?」
そっち側ってどっち側よ。
コンマスのテオがそう言っているんだから、歌劇場の音楽会の選曲には期待が持てるわ。