15 休暇明けに変わったこと
新学期を迎え、今度は最初から真面目に授業に取り組もう、と意気込んで臨んだ最初の授業は、裁縫の授業だった。
本当はもう受けたくない。だって、どうやったって苦手なものは苦手だから。
でも、「苦手だったら尚の事、授業で習っておかないと一生出来ないわよ」と姉に言われて、渋々ながら受講の手続きをした。
だが、気が重いのは私だけではなかったらしい。
教室に一歩入るなり、私の顔を見つけた先生は、「えっ……?」と蜘蛛か蛙でも飛び出してきたのかというくらい、顔を引き攣らせて絶句していた。
その後、課題に取り組み始めたところで、「貴女、何故また裁縫の授業を?」と訊かれたので、斯々然々と姉の勧めである事を説明すると、「そう……」と肩を落としていた。
え? 私って、受講するだけで先生を気落ちさせる程なの?
そんな後期の裁縫の授業も二回目。
前期はひたすら刺繍を刺したが、後期は縫製だ。初回の課題はハンカチなのだが、器用なシャーロットは、隣で既に三枚目を縫い始めている。私は二時間目でまだ一枚仕上げていないというのに。あ、また糸が絡まっちゃった。
うーん、と小さく唸りながらハンカチと糸と針との三つ巴の格闘していると、
「アメリさん。アメリさんって、楽団に入っていらっしゃるって本当?」
と、正面の席に座るクラスメイトから話し掛けられた。
一瞬、ばれた、と思って身構えてしまうが、そういやあちこちにもう知られているんだった。
何なら既に、王宮のお偉いさんにも知られている。
「あ、まだ内緒だったのかしら」
「うーん、まあ、元からそんなずっと誤魔化せるとも思っていなかったから」
話し掛けてきたのは、ナディア・コリンズ男爵令嬢だ。楽器商も営むコリンズ男爵家の長女で、管楽部部長のロバートの婚約者でもある。
以前から、ちょこちょこと話す事はあった。私は一方的に、楽器に詳しい事やロバートの婚約者という事から、勝手に親近感を持っていたりする。
周りでも学生同士が話す声が聞こえる中、ナディアは小声で話してくれた。
「アメリの謎の美少年感、もうちょっと楽しみたかったのに。残念だわ」
ナディアからの話にシャーロットも加わってくる。
前から思っていたけど、シャーロットはこれ、完全に面白がってるよね。
「格好は単純に、女性用の服もないし、目立たなくて良いかというだけだったんだけど」
「むしろ目立っていたわよね」
そんなのこっちだって予想外だったわ。
「あと、先輩達はOBが抗議してくるのを心配していたみたい」
「だからね。ロバートったら、私にも秘密にしていたのよ」
ナディアの家は、商売柄楽団関係者とも繋がりが多い。呆気なく知られてしまった今となっては、別に最初から隠さなくても良かった気がするが……、
「でも、その間にアメリさんが、しっかり楽団員として活躍していたのは大きいわよね。今や人気団員ですもの」
「最初に反対されていたら、出番すらなかったかも知れないものね」
そうでもないらしい。一時凌ぎも意味があったみたい。ていうか、人気団員って何。
「ねえねえ。ところで……」
ナディアが更に声のトーンを落として、ぐいっと前に身を乗り出して来る。
「アメリさんと、トランペットのテオ・エドワーズ様って、恋人同志なの?」
「えっ?」
何故。何故、入団すら知らなかったナディアが、そんな事を? 周りから見て、そんな風に見える程、私達は特別近かったかしら?
それに、私達の間柄が何かなんて、正直私が一番知りたいわ。
「あら。違ったのかしら。ロバートが最近ずっと、貴女達の事を気に掛けているからてっきり……」
「気に掛けているって?」
二の句が継げない私に代わって、シャーロットが聞いてくれる。
「お二人は気も合いそうだし、上手くいくと良いけれど、エドワーズ様は音楽第一で不器用そうだし、アメリさんも団で婚約者探しはしないって断言していたし、なかなか進展しなさそうって」
「それなのに何故?」
「ロバートからは、お互い憎からず思っているように見えるのですって。でもそうね。この様子は……」
「あらら……。アメリ、顔が真っ赤だわ」
「え?」
自分でも分かる。顔だけ熱くて熱くて仕方がない。
え? ロバートにも分かるくらい、そんな様子が出ていたかしら? 私だってテオだって、別に親睦会の前までは、そうでもなかったはず……。
テオとロバートは、部長とコンマスという関係もあって、割と親密だ。でもテオって、ロバートにそんな話するのかな。テオだって多分って、よく分からないって言っていたのに?
ロバートって、実はかなり察しの良い人とか。
そもそも。付き合っているかどうか分からない、という次元にすら届いていない気もする。
あれから休みに入って、久し振りに顔を合わせた時には、もう元通りの厳しいパートリーダーの顔をしていた。甘さもむず痒さも、微塵も感じられず……。
というか、あれからって。
あー。親睦会の後の時間を思い出すと、二月近く経った今でも、十分に赤面できる。あ、もう既に赤いわ。
「……私だって、よく分からないわ」
「よく知らないけど、まだ微妙そうね」
「話ならいつでも聞くわよ」
ありがとうシャーロット。でも、口にして相談するのも、一から細かく思い出してしまって、面映ゆいわ。
と、大きく頭を振っていると、「クラインさん、集中しなさい」と、先生に叱られてしまった。
* * *
あーあ。ナディアが急にあんなことを聞くから。
部室に入ってすぐに、テオの顔を真正面から見てしまって、びっくりして「わっ」と声を上げて部室から出て来てしまった。
「……何やってるんだよ。また何か悪口でも言ってたのか?」
そんな私に呆れる様子を隠す事なく、テオも部室の外に出て来て、ため息混じりに私を見下ろしてくる。やっぱり平然と、冷ややかさすら感じる水色の瞳で。
「またってそんな……。悪口なんて言った事……」
「どうだかな」
悪口じゃないです。今までのあれは愚痴です。
「まあいい。丁度良いから、このまま備品庫に行くか」
「えっ。呼び出し?」
「何でだよ。ついでだから、部の備品庫がどこか教えるって言ってるんだろ」
更に呆れたように溜息をついて、テオは歩き出す。これ、そのままついて行ったら良いんだろうか。
ちょっと躊躇うが、その間にもテオは備品庫とやらに向かってすたすた歩き始めてしまったので、置いて行かれないように慌ててついて行く。
二か月近くあった休暇の後、また当たり前のように目の前にいるテオの背中に、廊下から差し込む光で燦めく茶色い髪に、言い知れぬものがむくむくと込み上げてくる気がする。
階段を降りて一階の事務室とピアノ室をいくつか通り過ぎて、いつもテオが夕方のピアノの練習に使う部屋の向かいに、管楽部の備品庫はあった。
途中、事務室で借りた鍵を使って備品庫に入る。
「ここに、予備の楽器とか譜面台、昔の楽譜とかがあるから。あと、衣装とか……」
わざわざ、それを説明するためにここに連れて来てくれたのかな。こんな所があったとは知らなかったな。でもまああるか。部室にも楽譜がたくさんあるのに、ここにもこんなに……。あ、この曲、ピアノでも弾いた事がある……。
「その辺、埃っぽいから気を付けろよ」
うっ。確かに埃っぽい。もう遅いとばかりに咳き込みながら、テオの言葉を聞く。
「わざわざ案内のために……?」
「そんな訳ないだろ。用があったからついでだよ」
そうですか。相変わらずにべもないな。
ていうかこの人、二月前に向かいの部屋で踊った人と同じ人かな。休暇でリフレッシュして、その辺も綺麗さっぱり忘れ去って来たのかな。
目の前に立つテオは、知り合った頃と同じく、冷たさと厳しさを感じる素っ気なさで、私に向かってにこりともせずに何かを探している。今みたいに、不用意な言葉はその冷たい刃でばっさり斬り捨てられそうで、何も聞けない。
けど、この人、私の事が好きだって言ってなかったっけ。そんなの幻か勘違いだったかなってくらい、甘さも熱も微塵も感じられないんだけど。むしろ、辛口でひんやりするくらいなんだけど。
多分、って言っていたから、やっぱり思い違いだった、とかそんなところなのかな……。あ、何だか辛くなってきた。
「……何。そんな睨み付けて」
「え。別に睨んでないです。テオがいつも通り元気そうで良かったって思っているだけで」
「睨んでるだろ。良かったって顔か」
どうも知らず知らずのうちに、テオを見る目が険しくなっていたらしい。つい嫌味な口調になっちゃったな。
冷たい視線で相手を凍りつかせるのが得意なテオだけど、ふと気付くと、そんな私から視線を逸らし少し戸惑うように表情が緩んだのが見える。そして、小さく呟く。
「まあ……、ここの案内もしておかないとってのもあるけど、様子がおかしいから、何かあったかと……」
うん? あれ? こんなにぼそぼそと歯切れの悪いテオは珍しい。こっちこそ戸惑ってしまう。
もしかして、私の話を聞こうとしてくれていた?
「……何もないです。むしろ、何もなさすぎて」
「何だそれ」
「私は、久し振りにテオに会えて嬉しかったし、少し緊張してたけど、テオは何でもなさそうで驚いているくらい」
「…………」
顔を見ながら言うのは気恥ずかしいし、あの冷ややかな水色の視線を浴びたら寂しくなりそうなので、思わず私も目を逸らしてしまう。
すると、素っ気ないながらもぽんぽん返って来ていた言葉が途切れてしまい、再びあれと不思議に思って、テオの顔を見上げる。すると……。
そっちこそ何なのそれ。
彼らしからず、眉を困ったように下げて、右手で目以外の顔の大半を大きく覆って、視線をうろうろさせている。顔はほとんど隠れているけれど、隠し切れない端が赤らんでいたりもする。
つい今の今まで、いつも通り氷点下の空気を纏っていたのに、この温度差は一体。
「……いや、本当に、急に何のつもり?」
いやどっちが。急にそんな反応、私の方が余程びっくりするわ。
テオ自身もそう思ったのか、一つ息をつく。
「……何でもないことはない。俺も、多少ならず緊張もしたし、久し振りに会って、安心してるから」
「安心?」
「無事練習に来てる事とか、元気そうな事だとか……」
「え? 何故?」
「ご両親に黙って入団したろ。髪もそんなに短くして、やっぱり色々反対されたりしたかと」
「反対も何も、まだ言ってないもの。髪は邪魔だから切ったって言ったら、意外と似合うって好反応でした」
「……あ、そう。だから、また短く揃えて来たのか」
ちょっと伸びたしね。帰省した時に、ちょっと切り揃えて貰ってきた。それより、とテオの顔を見上げる。少し喋って、少し落ち着いた様子だったテオの顔が、私と目を合わせて再び狼狽える。そしてすぐに外方を向いてしまった。
「……あと、久々に顔が見れて、やっぱり可愛いと思ったし、今だって、アメリがそんな風に思ってるって分かって、俺も嬉しいと思ったから……」
しどろもどろになりながら、こんな風に歯切れ悪くいくつもの言葉を紡ぐテオは珍しい。
しかも、可愛いって。やっぱりって。俺も嬉しいって。
こんな日頃決して見せない顔も、日頃の彼からは決して聞く事のないであろう言葉も、ぐっと私の心臓を締め付けて何だか苦しい。好きだとか愛してるとか言われた訳でもないのに。
耳まで熱くなる感覚に、私も両手で頬を押さえる。
テオは、はあと大きくまた一つ息をついて、その場にしゃがみ込む。
「でも、練習は練習で集中したいだろ。そっちもそうだと思っていたのに、今日は急にどうした?」
「いや、そうなんだけど」
確かにそうだ。音楽に集中したいから、入団時にもここでは婚約者探しなんてしないって大見得を切った手前、練習は練習でちゃんとしなきゃって思っていた。
そう言って、ナディアやシャーロットとの遣り取りについて話すと、「ああ、そう」とテオはまた大きな溜息をつく。溜息多いな。酸欠気味なんじゃないかな。
「なるほど、ナディア嬢ね。ロバートの奴め……」
そう言って、拗ねたこどもみたいな顔は、いつもよりも幼く見える。二年生にしてコンマスなんて、時に管楽部全体を指揮する位置に立つ彼だけど、音楽を離れてみれば、たった一つしか違わない十六歳の少年なのだと思い知る。
まただ。眼下の茶色い髪がさらりと揺れるのを見て、その頭をぎゅっと抱え込みたい衝動に駆られる。
けどぐっと抑える。これ以上、どんな反応が返って来るかと思うと、もういい加減こちらの方が平静に受け止めきれそうにない。この後も練習があるし。
あーあ。休み前には、もっと不確かで曖昧な気持ちだったはずなのに、いつの間にこんなにはまってしまったんだろう。
「とりあえず、練習に戻るか」
「うん……。何か取りに来たんじゃなかったの?」
「ああ、そうだった」
そう言いながら立ち上がって、テオは楽譜の棚からいくつかの楽譜を取り出す。
「一応、演奏会向けの曲を見繕っておけって言われて」
「一応?」
「部員みんなで決めたいけど、どれでもいいってなるとなかなか決まらないだろ。先にいくつか候補を挙げておくんだよ」
「ふーん……」
新しい歌劇場の落成を祝う演奏会だから、祝典向きな明るくて華やかな曲が良いかな。
学校祭の舞台では、トランペットは大人しくしているし、ここはちょっと前にどーんと出る曲が演奏したいな。
「だとしたら、敢えて舞台で行進曲も悪くないかな……」
「コンサートマーチか。そうだな。ただその前に、学園祭の組曲をちゃんと仕上げてくれよ」
「うっ……」
今回の曲は、去年王宮で初めて演奏されたという、管楽器の組曲だ。派手な行進曲風の第一番はまだ良いけれど、しっとり叙情的な第二番は、目下さっさとやっつけたい難曲だった。
いや、楽譜の見た目はぱっと見では簡単なんだけど、何小節繋げるのっていうスラーとか、ピアニッシモなのにハイトーンという鬼畜さなのだ。
ただでさえ音が大きいトランペットにとって、ピアニッシモという音の小ささは、体力と神経の消耗が激しい。
「日頃からロングトーンの練習してるだろ。明日からピアノかピアニッシモでやってみれば?」
「はい……」
「どうせ休暇中、毎日練習出来なかったんだろ。ロングトーンが不安定だし、タンギングの切れも悪くなってる」
がーん。疲れやすいなって、なまってる気はしていたけど、休暇後だからといって大目には見てくれなかった。そりゃそうか。