13 夜会のあと
貴族の娘と生まれたからは、と一応ダンスも習っていた。
社交デビューは十六歳からである上、家柄的にも、頻回に夜会に招待されるという事もなく、これまで碌に踊った事もなかった。
一度、親戚のお屋敷でのお茶会に招待された時のドレスが、いつもよりも窮屈で動きづらくて、あとごてごてと飾り付けてもらった髪の毛が重くて痛くて、お呼ばれの格好なんて苦手になった。
でも、薄紫色のドレスを着てユージンと踊るシャーロットはいつも以上に可愛かったし、着飾った他の同じクラスの友達も、きらきらして素敵だった。
舞踏会も案外良いものだな、なんて思ったりした。
「来年も一緒に演奏できたらいいね」
と、ハリーは疲れて汗ばんだ笑顔も、爽やかで優しい王子様みたいだった。
「来年は新入部員も入るだろうし、君の出番はないからな」
とライアンは言っていたが、
「来年は僕も卒業してしまうからなぁ」
と四年生の先輩に言われ、「いや、でも」と慌てていた。
彼らとの合奏も、本当に楽しかった。
* * *
音楽棟一階の、ピアノ室の一つに立ち寄ったのは、偶然だった。
ヴァイオリンを片付けに行かなきゃ、と他の弦楽部員と同じように動こうとして、そうだ、今日で最後だから寮に持って帰らなきゃ、と思い出した。
そのまま帰ってしまう前に、テオがいつか練習していたピアノ室の事が、何となく気になったのだ。
ピアノの音も聴こえないし、まさか今日までいないと思うけど……、と思いながら、ドアノブに手を掛けると、思い掛けず扉が開いた。
「…………。何?」
やっぱり、中にいたのはテオだった。
テオは、私の姿を見て目を見開き、戸惑う様子を隠す事もなかった。
タイを緩めて、手袋も外し、ピアノの前に立っている。
「何となく、テオがここにいるかなと思って」
そう答えると、テオはまた少し驚いたような顔をして、それからそっと目を逸らした。
「そう……。何か用?」
「用事って訳でもないけど、最近テオの顔を見ていなかったから」
「親睦会の前に見ただろ」
「そうだけど……」
相変わらず、素っ気ない。まあ、今に始まった事じゃないけど。
沈黙の中、今なら話も聞いてもらえるかな、と口を開く。
「親睦会の前、テオの顔を見て落ち着いたの。きっと、あの目は私を励ましてくれてる、って思い込んで、頑張ったの。ありがとう」
ああ、伝えたかったから言ったけど、言ってて恥ずかしくなってきた。
そんな私の羞恥心が伝わったのか、テオも柄にもなく赤くなった顔を手で押さえて、「ああ、そう……」とか言っている。
「疲れてるの?」
「そりゃあんな慣れない場所、疲れるに決まってる」
「私達の演奏で踊ってくれた?」
「踊らない」
「えー? 一人も? そんな怖い顔して立ってるから……」
「怖い顔って。人を年中怒ってるみたいに……」
「だからテオのファンは、遠目に見て近寄らない」
「言いたい放題だな」
やっとテオの表情がいつも通りになってきた。練習中じゃないからか、いつもよりも幾分か柔らかい。
少し、調子良く進む会話に、私はほっとして笑う。
「じゃあ、聴いてくれた? どうだった?」
「良かったんじゃないか? しっかり合わせて弾き切ってたろ。どれがアメリの音かまでは分からないけどな」
淡白な反応だけど、ちゃんと聴いてくれていた。
「……良かった。まだ怒ってるかと思ってた」
「別に怒ってない。でも悪かったな……。それについては反省したところだから」
反省……。するのか。って言ったらさすがに失礼か。
テオからすれば怒ったって変じゃないし、こうして聴いてくれただけで十分なんだけどな。
鍵盤に目を向けて何やら考え込むテオは、いつもの彼に比べて少し小さく見えた。怖くない、って言ったらまた大きくなって怒られそうだ。いかんいかん。
「ひょっとしてとは思ったけど、今日も弾いて帰るの?」
「いや、そう思って来てみたけど、さすがに遅いから、今日はやめておく。色々聴いてたら無性に弾きたくなったんだけどな」
「そっか、残念。この前弾いていた曲、聴きたかったのに」
確かこんな曲、と右手でうろ覚えの旋律をなぞってみる。
あれ? ここはこうだったっけ? と何パターンか弾き直していると、
「本当、よく聴いてるよな。あんな気晴らしで弾いた即興なんて、覚えなくていいだろ。色々試していたから、多分どれも合ってるよ」
と、テオが私を見ながら呆れ気味に溜息をついた。
そしてそのままテオは、鍵盤の上から私の手を掬うように持ち上げる。え、と不意をつかれて息を飲む。
それからテオは、その手をじっと見て、それから静かに手の甲にその唇を落とした。
まさか、あのテオが、と意外な動作にただただ驚く。
手の甲に口づけなんて、初めてされた。フレアみたいな高位の貴族令嬢や、シャーロットみたいに高貴な方々とご縁があれば別かもしれないけど。
たかがちょっと裕福なだけの男爵令嬢には、刺激が強い。
あああ、そう言えば、テオだって伯爵令息だった。
顔が紅潮して熱を持つのを止められない。
右手もそのままの形で固まってしまった。ああー、手に汗を掻いてしまったらどうしようー。何で、手袋を外しちゃったのよテオ。
「……何だ、その顔。こっちが照れるだろ」
視線を上げて、私を目を合わせたテオまで赤くなる。
「だって……。急に……、何で……」
「別に。こんな日だから、たまには紳士らしい事もしてみようと思っただけ」
素っ気ない声だけど、そう言って再び私の手に視線を落とした彼の顔は、やっぱり赤いままだ。あ、よく見たら耳も赤い。調子狂うな、もう。
手は握られたままだ。テオはその、私の手を裏返して指先に触れると、
「色気のない手だな。指先は丸いし固いし……」
「仕方ないじゃないの……」
「そうだな」
そう言って、ふっと笑ったテオの笑い方が、今まで見たことがないくらい柔らかくて、また心臓が一瞬、その動きを止めてしまった。
一方テオは、それで多少落ち着いたらしく、顔色も元に戻って、すっと姿勢を正すと、
「よし、踊るか」
と言った。
「え。踊るの?」
「顔のせいで一回も踊っていないって言われたからな」
「そういう意味じゃ……」
いや、そう言えばそういう意味だったな。
「じゃあ、『組曲 北の魔宮』のワルツで」
「ねえ、もしかして魔王って言ったの根に持ってる?」
さあどうだかな、と言ってテオは小さく笑う。
そして、その微笑んだ顔を私に向けて右手を出す。彼の左手は、右手から私の右手を受け渡され、私の右手にそっと添えられている。
何故今日はそんなに優しい顔で笑うの。三度、その笑顔と仕草に心臓を止められ、私は観念して、テオの右手に左手を置く。
本当、素手なのが気になる。手汗と震えが伝わりませんように。
「そもそも、ダンスは苦手なんだよな」
「私も。一応習ってたけど」
「そういや昔、ハリーが実際踊ると、曲の見方も変わるから踊ってみれば良いって言っていたな」
「ああ、さすが、ハリー様。ダンスも上手なのね」
「それはどうだか。踊ってるところなんて見た事ない」
口遊むメロディの合間に、そんなことを話しつつ、最初はぎこちなかったステップも、徐々に息が合う用になって、「じゃあ最後」と言って、最後はくるっと上手にリードして回してくれた。
回っても、私が着ているのは制服なので、さっきのシャーロット達のように華やかではないけれど。
ああ疲れた、と言ってテオはピアノの前の椅子に座る。
「団には残れそうなのか? 単位取得辞退って裏技も、全科目は無理だろ」
「全科目……。そんな悪くないわよ。数学はちょっと無理だったけど……」
「そこは最初から分かってた。凄いな、他もあそこから挽回したのか」
テオが素直に驚いたという顔をして褒めてくれる。今日のテオは感情表現豊かだ。ていうか、最初から諦められていた私の数学……。七点じゃ仕方ないか。
「うん。コルド語なんて、八十五点だったし、もう話せると思う」
「随分舐めたこと言ってるな」
「テオも大丈夫だった?」
「誰が誰の心配をしているんだ」
まったく、とまた呆れられたようだが、それでも今日のテオは穏やかだ。
「だから、また休暇明けからよろしくお願いします」
「うん」
うん、って何だ。こんな控えめな返事が来るとは思わなかった。そう言って鍵盤をぼんやり眺めるテオが可愛く見える。
本当に、今日のテオは調子が狂う。
そんな不思議な思いでテオを眺めていると、テオがまた口を開く。
「別に、ずっといればいい。この少人数で、アメリは合奏でも十分戦力だし、いないと困る」
淡々と。静かに落ち着いた声で、噛み締めるように話す。
そんな風に言われるのは初めてではない。ユージンが「トランペットが一本減るのは困る」と言っていた。
でも、今、このテオの言葉がこうも胸に来るとは。嬉しい、という言葉では足りない。
ただ、次に続く言葉は、また別に意味で、私の感情を激しく揺さぶった。
「トランペットだって、ずっといくらでも横で吹いていたら良いし、ヴァイオリンが弾きたいなら、ピアノで伴奏だって弾いてやるから」
それは楽団での活動を超えている。それはつまり……。
どういう事。どう捉えたら良いの。
いくらでも勘違いしてしまいそうになる。勘違いなのかな。どうなの。
「弦楽部で演奏するのを見るのも悪くないけど、勝手にどっか行ったりしないで、最後はちゃんと俺のとこに帰って来てくれたら良い。ハリーのところにだって、やりたくない」
テオは、鍵盤に向かって、一気に喋り切ると、顔をくしゃっと歪めて、右手でその歪みが見えなくなるほど顔全体を覆った。
それから深く溜息をついて、
「って、そういう自分勝手な事に気が付いて、さっき反省したところなの、俺は。悪いな。終わり」
と、ピアノの鍵盤に蓋をして、そこに頬杖を付いて、私とは明後日の方向を向いてしまった。
何それ。急に何だと言うの。
さっきから何度も何度も、日頃と違う姿を見せては、繰り返し私の心拍を狂わせておいて。
部の先輩としてだけじゃない、思わせ振りな事を言っておいて。
顔に熱が上がったまま、どきどきと脈が早打ちするまま、私は治まらないというのに。どうしてくれるの。
終わりになんてさせないわ。
「わっ。何!?」
私は、外方を向くテオの顔を覗き込んで、無理やり視界に入ってやった。
「何じゃないわよ。終わりって何よ」
「何って、別にこれ以上ないだろ」
また目を逸らそうとするテオの視線の先を追っていき、強引に視界に割り込む。
「テオは、私の事が好きなの?」
「えっ?」
顔の大半は依然手で覆ったまま、目を見開いて驚くテオに、私も目を丸くする。
「……違うの?」
テオはそんな私の顔を見て、しばらく固まっていたかと思うと、また一つ、小さく息をついて、観念したように顔に当てていた手を下ろした。そして、
「違わないと思う。多分俺は、アメリのことが好きです」
そう言うと、目がうろうろし始め、やがて堪りかねて、また目を逸らしてしまった。
「……何で敬語?」
「うるさいな。さっき反省したところだって言ったろ。俺も整理できてないから、あまり突付くなよ……」
テオはついに、ピアノの蓋の上に額を乗せて伏せてしまった。これじゃ視線はもう追っていけない。
でも今は、私もとても覗き込む余裕がない。
「あー、情けないな。こういうのはきっと、ユージンの方が余程上手い」
「……そうかもね。シャーロットとも仲良くなってた」
二人が一緒に踊っていた場面を思い出す。
ユージンとシャーロットは、お互いどう想ってるんだろう。二人が上手く行ってくれると、私も嬉しい。
いやいや。今はそうじゃない。
人の事より自分の事だ。
テオが私とずっと一緒に音楽をしたいって言ってくれて。それが嬉しくて。でもそれだけじゃなくて、多分だけど好きだって言ってくれて。
私は、やっぱりそれが嬉しくてたまらなくて。
こんなに赤くも、熱くも、どきどきもしたことなくて……。
こんなにもいつもと違って見えるテオは、年齢以上に幼く感じる。何だこれ。可愛い。伏せた茶色い頭をぐしゃぐしゃに撫でたくなる。
「取り敢えず、帰るか。今日はまだ寮だろ。送っていく」
テオは、よし、と一つ頷くと、そう言って椅子から立ち上がった。
「ええ!? 一人だけすっきりした顔してる!」
「実際すっきりしたからな。悪いか。もう遅いから帰るぞ。大体ここまで来て、俺がいなかったらどうするつもりだったんだ。何のつもりだよ」
「テオが元に戻ってる!」
気付けば平常心を取り戻したらしいテオが、いつもの辛辣な口調を取り戻している。
違うのは、その目に温かい温度が感じられる事と、その後で私を見て、優しく笑みを浮かべる事。
「良いんだよ。特に迷惑でも嫌でもなさそうだし。まずはトランペットに帰って来るんだから。今は、これ以上の結論は出せないだろ」
今はって。これ以上はって。
そうなんだけど、ここで終わったら、もう休暇に入ってしまって、テオも私も有耶無耶にしたまま、今まで通りの日常に戻ってしまいそう。
それは嫌だ。
「……良くないよ。私はテオに話しておきたい」
部屋から出ようと足を踏み出したテオを引き留めようと、必死で声を掛けた。
テオは足を止めて、こちらを振り返ってくれた。
「私も、テオと一緒がいい。怒られたらちょっと怖いけど。ここに来て、演奏って、合奏って本当に楽しいんだって分かったから。それを教えてくれたテオに、そう言ってもらえるのは嬉しい」
私は、今彼に言えることと、言いたいことを言葉にする。
「うん」
テオは、じっとそれを聞いてくれる。
「だから、ええと、私も……」
テオの事、好きなのかな。これが好きってことでいいのかな。
ああ、でもこんなに訳が分からないほど、離れ難いないのは初めてで。私だって、テオがどこかに行ってしまったら嫌だ。
「いいよ。今はそれで十分。まあ、俺もまだよく分からないし。今は、ここにいてくれるだけで」
テオは、そう言って私に近い方にある左手を、私に向けて差し出した。
握手? と思い、私も左手を出そうとしたら、すっと右手を取られて、そのまま歩き出し、反対の手で入口の近くの棚に置いてあった私のヴァイオリンケースを取ると、
「帰るぞ。まあ、ここまで言ってしまって何だけど、休み明けの楽団が気まずくなりそうになくて良かった」
とまた歩き出した。
手を繋いでしまっている。
気まずくならないのかな。これはこれで空気が変わっちゃいそうだけど。
「休みの間も、練習はしておけよ」
「うん。あ、でも両親にまだトランペットの事、言ってないし……」
「いつまでも黙っていられるものじゃないだろ。さっさと言っとけ」
「ええー。怖いなぁ」
「ずっと一緒にいるには必要だろ」
「一緒にいる、って……」
あ。と、テオが言葉に詰まって天井を仰ぐ。
私も、急に照れ臭くなって俯く。失言でも嬉しい。
「……まあ、それを悪くない。けど、もうちょっと待って」
「はい……」
それも悪くない、か。
うん、悪くない。魔王の視線を持つ彼が、私の前でだけこうして可愛くなるのも悪くないな。
お読みいただきありがとうございます。
ハリーやフレアも含めて、まだ少々展開しそうなのですが、ひとまずここで一区切りです。