Ninjo is
「へー、本当に河童って居るんだ。それともコスプレ?つうか二人とも『グア!』って叫ぶとか、笑える」
誰だ。壬条は焦った。この男は人の顔や名前を覚えない質なのである。記憶しようと努力すれば出来るが、しない。別に人に興味が無い訳ではないが、彼から話しかけたりはせず、ただ黙って聞き耳を立てたり挙動を観察するだけなのだ。端から見れば薄気味悪いかもしれない。だから今まで他人が寄って来る事は滅多に無かった。友達と呼べる人間も、彼の中では片手で数えられるくらいしか居ない。
「…ど…どなた?」
壬条は人と話す時は大抵こんな感じである。他人の存在感に圧倒され、怯む。初めて河童の皿を触った時のようなぎこちなさで人に接する。
「あ、ごめんごめん。私、是藤いすず。壬条君の後ろで講義受けてるの。出席カード書いてるとき名前見えちゃったんだ」
「ああ、そうだった…んですね」
壬条は思い出した。彼はいつも後ろの方で授業を聞く。前の方に居て熱心な生徒だと勘違いされても困るからだ。ある授業の時も一番後ろの席につこうとしたが、先客が居た。是藤いすずである。他に空いている最後尾の席は無く、少し悔しかったが、彼は甘んじて後ろから二番目の席を受け入れたのだ。だから思い出せた。勿論、二回目以降の授業で彼女よりも先に教室に着き、一番後ろの席を奪い返す事も出来たはずだが、壬条はそんな事はしない。変に「あ、こいつ私の席とったな」と認識されたくない。高校の時のように決まった席順など無いが、大学では暗黙の席順がある。これも壬条は好きになれないが、だからといってそれに反抗する気も起きないから、惰性的に今の席に落ち着いていた。
「そうだったんです」
なかなか彼女は飄々としている。河童を見てたじろぐ訳でもなく、壬条と普通に会話をしている。そういえば河童はどうした。壬条と会った時はもっとずけずけ踏み込んで来たはずなのに、一切気配を感じない。流石妖怪だ。壬条がハルの方を向く。今まで悠々自適に池に浮いていたハルは水際でうずくまっていた。
「おいハル…ってお前…」
河童が真っ青になっている。慣用的な表現ではなく、本当に青い。色が変わっている。それも今日の空のように澄み渡った水色ではない。油絵のように重々しく、少し灰色を混ぜた色味をしており、くすんでいる。そして彼の体は小刻みに震えていた。
「…キ…キ…キキュウリ食っててて、気づかかなかった」
感知出来なかった自分の無力さを悔いているのか、意図せぬ出会いに動揺しているのかはっきりしない。ただ体中から変な汁が出て来ている。粘着質なそれは、恐らく壬条が最初に触った皿を保護していたものと同じ成分だろう。なぜならその汁は皿から一番多く、たらたらと滴っているからだ。
「大丈夫かハル」
壬条は焦った。偶然とはいえ是藤と知り合わせてしまったせいで、河童が死んだら後味悪い事この上ない。
「お…お前、この前走ってた」
「そうそう。よく分かったね。ていうか河童さん青くなってるけど平気?」
壬条は憤っていた。そもそもお前のせいだ、と。もっと危機感を持って絶滅危惧妖怪に接したらどうだ、と。コイツ、動物に嫌われる類いの人間だな、とさえ思った。ちなみに壬条は昔、野良猫に触ろうとして鋭利な爪で人差し指を深くえぐられた経験がある。
「そんなに汗出てたらひからびるね。私の持ってるスポーツドリンク飲む?」
「なにそれ?」
河童が匍匐前進で是藤の所まで向かう。案外こいつはまだ余裕があるのではないか、と壬条は疑い始める。彼女は腰に巻き付けたドリンクホルダーから青色の水筒を取り出した。きちんと準備していて偉いな、と、キュウリを持って来た壬条は思う。
「コレトー、これどうやって開けるんだ?」
壬条の名前は間違えているのに、是藤の名前はちゃんと言えている。少しフランス人みたいな名前にも聞こえるが。
「そこの黄色いボタンを押すの」
「おお、開いた。ここから出るのか」
黒く細長い筒状の飲み口を指でつつきながら、ハルが言った。
「そうそう」
青い河童は青いステンレスの水筒の真ん中辺りを嘴でおさえ、のど仏を上下させてスポーツドリンクを飲む。
「美味しい。俺、これ好きだ」
みるみるハルの体色が元の緑色に戻っていく。壬条の心情も正常に戻っていく。それと同時に彼の中に猛烈な後悔と、懺悔したい気持ちがふつふつと腹の底から湧いて来た。ハルが青くなったのを是藤だけのせいにし、彼女の行動を卑下した。でも結局ハルを救ったのは彼女である。それに壬条はハルを表層的に心配してはいたものの、河童が死んだ時にその罪の火の粉が自分に降り掛からないよう、胸中で是藤を責め続けていたのだ。言い訳が天使の輪っかのように、頭の上を絶えずグルグルまわっていた。彼は自身の矮小さに肩を落とす。
「コレトー、これありがとう。あとニンジョうぉしんふぁいしてくれてありがとう」
河童が水筒を是藤に返しながらお礼を言った。彼女は「どういたしまして」と言って少しぬめった水筒をホルダーにしまった。ハルのお礼は、壬条の傷口に塩を塗るも同然の行為である。
「……俺は何もしてない。是藤さんがハルを助けたんだ。俺は良い事なんて一つもしてない」
ハルはクワクワ笑い、再び仰向けになって蓮池をたゆたい始めた。
「俺がお礼言いたかったから言っただけだ。気にすんな。それに本当にぜんう良い奴なんて居ない。悪い所うぉある。だけど悪い事は悪くない。気にすんな」
「ハル君、面白い事言うね」
「悪い事は悪くない、か。でも本当に悪い事する奴も居るからな」
ハルはまたクワクワ笑う。笑い声の噴水が、今度は壬条と是藤に降って来た。
「俺はニンジョに言ったんだ。ニンジョの悪い事は悪くない。じゃ、俺は帰る。わたな」
そう言うとハルは壬条の返事も聞かず、うつむけになりザバザバと足をばたつかせ、池の中へ潜って行った。二人が河童の帰路を見守る。池が跳ね返すゆらめく光と、白い皿の区別が徐々につかなくなり、しまいには一緒になってしまった。しばらく河童が居た余韻に浸る。沈黙が続いたあと、是藤はドリンクホルダーに収まった水筒に目を落とす。
「……あ、この水筒、ハル君の歯形がついてる」
「嘴だから歯形ではない、のでは?」
「確かに」
二人はそそくさと帰り支度を始めた。