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河童のハル  作者: 猿戸柳
3/5

ニンジョ

「ニンジョ・ウケント?」

何故そこで切る。何だか長距離が得意そうな名前になってしまった。彼はたすきを繋ぐ気も、箱根の山を越える気もない。ましてやエチオピア出身の留学生でもない。壬条は山を超えるくらいならトンネルをくぐって楽をしたいと、常々思案するような人間である。

「違う違う。壬条・兼人だ」

「ニンジョニンジョ」

壬条は諦めた。まあウケントよりはずっとマシだ。第一、壬条も兼人も自分で考えた名前ではない。生まれたら勝手についていたから使っているだけだ。もうニンジョでもオコジョでも好きに呼べば良い。

「じゃあニンジョでいいよ」

「ニンジョは何でここに居る?」

それは壬条がハルにしたい質問だった。河童に先を越された。

「ランニングだランニング」

「走るの好きか?」

ランニングは知っているらしい。河童の知識はよく分からない。

「好きっていうか、外の空気を吸ったりしたいからかな」

「いつも吸わないのか?」

「ずっと中の空気ばっかだと気が滅入るだろ」

「どうやって中の空気を吸うんだ?」

壬条は眉をしかめる。ジェネレーションギャップならぬ、異種族間ギャップだ。

「ハルにとっての中って何だ?」

河童は嘴についてる鼻から勢いよく息を吸った。そして膨らんだ胸の辺りを指し、

「中」

と言った。

「俺は中の空気は吸えない。ニンジョは凄い」

「俺だって吸えないさ。部屋の中の空気さ」

「へや?」

ハルは基本外に居るのだ。確かに河童の家なんて聞いた事が無い。

「こう、俺達人間が生活する為の箱みたいなもんだ」

「窮屈そうだな。だからランニングしてるのか」

「そうだ。なんでハルは部屋は知らないのにランニングは知ってるんだ?」

たうゎ(たま)にここ()で走って来る人間が居る。ソイツらが言ってた」

釈然とした。確かにこの景色のいい公園で走ろうと思う輩は他にも居るだろう。

「ニンジョ、座ろうよ」

河童に気を使われる人間。ハルはペタペタと枝みたいな手でベンチを触った。

「ありがとう」

河童と人間が腰掛けた。ハルの背は大人の男と同じくらいだ。

「ハルはなんでここに居るんだ?」

「うーん、よくおろ()えてない。結構わえ()から居るとおろ()う」

「じゃあこの蓮池はお前の部屋だな」

「ううん、池は池だ。へやじゃないし、中じゃない。俺の中は俺にしかない」

「……そうか」

「だからニンジョにうぉ()なんか中にある。うぃ()んな、なんかある」

「そうか」

壬条はそれしか言えなかった。河童はもしかしたら人間より何か知っているのかもしれない。いや、知っているという言い方自体、人間の奢りからでた錆のような物なのかもしれない。例えば鳥は空を飛ぶ理屈なんて知らないが空を飛ぶ。人間は例え理屈を知っていても、自ら羽を生やして飛ぶ事なんて出来ない。結局出来ないコンプレックスを、知る事で有耶無耶(うやむや)にしている。だからこそ、コンプレックスを認めた上でも尚、何かを追究しようとする姿勢は尊い。漠然とそんな気がした壬条であった。

 なんで池に居るのか、という質問から翼もないのに随分遠くまで来てしまった。太陽も大分隠れてしまった。

「ハルはこの池にいつも居るのか?」

「おう、大体居る……グア」

変な鳴き声を出し、手をとんがった耳にあて、

「……人がこっち来る」

と言った。

「俺も人だぞ」

「グアグアグア!」

もうハルは壬条の話など聞いていない。アヒルみたいに騒ぎ、ベタベタとがに股で走って蓮池に飛び込んだ。ザブンと池がしぶきを上げる。河童が荒立てた池の表面が静けさを取り戻した頃、ランナーが通り過ぎた。デカいカエルみたいな足跡だけが地面に残っている。壬条は薄暗い池に浮く白い皿を探してみたが、蓮も広葉樹も河童も、もう闇に溶けていた。全部の境が夜のベールに覆われ、曖昧になっていた。壬条は皿を触った左手をもう一回、こねてみる。とっくに乾いてヌエヌエしてはいなかった。とりあえず部屋に帰ろう。外だか中だか分からない部屋に。彼はベンチから立ち上がり、蓮池を後にした。


 カタンコトンと部屋の中に外の電車が走る足音が聞こえる。電車の中には人が詰まっている。部屋の中にはベッドで寝転んでいる壬条が居て、輪っかの電球が灯っている。さっき電気を付けたから、引き紐がまだプラプラと揺れている。彼はさっきの河童との会話を反芻(はんすう)していた。

 中と外。私達は色々なものを知ろうとする。子供は様々なものに興味を持つ。興味の裏返しでそれらを拒絶する事もある。壬条自身が大学に入ったのも、本来ならば新しい知識を獲得し見識を深める為だ。ただその行為は簡単に逆転し形骸化する。「知りたい事を知る」が「自分にとって都合の良い事を知る」にすり替わる。努力をして何かを得たから知ったと勘違いする。外へ外へ向かっていると思っていた行いが、いつの間にか自分を正当化する為の城壁を作る虚しい作業に成り下がる。反対に新しい何かを知る事に恐怖し、城壁の中に閉じこもる。結局どちらもそんなに変わらない。

 小さな城壁に囲まれた壬条はぷっと自嘲気味に笑った。ちっぽけな部屋で、服を着るくらいしか人間としてのプライドを持っていない学生がこんな事を考えているのだから、世も末だ。でも我々は始まりも終わりも曖昧なまま生きている。どこが末なのか分からないのが末たる所以なのかも知れぬ。ずっと末という(つな)の上をふらふらと渡るのが人生だ。そんな不安定な世界に居るのだから、周りを攻撃し、自分を守ろうとするのも至極真っ当な行いに思えて来た。そうでもしないと末から真っ逆さまに転げ落ちてしまう。だからせめてこの世が終わる時は末広がりで終わって欲しい。

 壬条は部屋の真っ暗な外に目を向け、晴れた昼間なら少しだけ見える富士を窓越しに想像する。想像していい気分になっていたら、点滅する蛍光灯が彼を河童が居る現実に引き戻した。

「ふふっ」

なんだかおかしい。想像上の生き物だと思っていた河童が現実に居た。壬条の気持ちは高ぶる。次、もしアイツが居たらキュウリでも食わせてやろうか。と心中で思った。

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