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河童のハル  作者: 猿戸柳
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皿の主

 違う種類の蓮かとも思ったが、白いのは一つだけだ。それに他の葉と質感がまるで違う。つるりとしている、否、ぬるりとしている。直径は十数センチくらいだろうか。あれは何だろうと首を右に左に傾けても、池が反射した沈みかけの太陽の光が目に入るだけだし、第一池の水は濁っていて水中を窺い知る事なんて出来ない。一向に皿の正体が分からぬまましげしげと観察し続ける。形容し難い存在感と質量感がある。あんなに重そうなのに、沈まないのが不思議でしょうがない。見れば見るほど異質だ。異質だが、汚い川に浮かぶゴミとは違う。珍しくはあるが、人工的な印象は受けない。池の主のような威厳を(まと)っている。するとどうだろう、おもむろに皿が左右に動き始めた。最初、壬条は池に住む魚のせいかと思ったが、白い皿だけがゆらゆらしている。皿から出発した波紋がちゃぷちゃぷと音を立て、岸に着く。

 壬条はその静かな波をただ眺める。何も考えず、ただ皿が水面を歪ませる様子を見る。生きるのもこれくらい気楽なら良いのに、と思う。自然がこうやって波風立てるのは普通なのに、人間がそれをすると煙たがられる。屁理屈なのは百も承知だ。でも我々だって自然から産まれて来たのに、自然と同じ事をすると文句を言われる。ライオンがシマウマを食うのは良いのに、人間が牛を食うのは可哀想だと言う奴も居る。でもキャンプをしたり、部屋の中に植物を置いたり、猫を飼ったりして自然を近く感じたい奴も居る。きっとどちらも間違っていない。「いただきます」と言った所で牛の苦しみは消えないし、死んだ人間が土に還らない事も無い。私達は不自然に自然の中に居るのだ。だから生きるのに難儀するのだろう。自然と不自然、二つの壁が両端から迫り来て我々を圧迫してすり潰す。結局私達はその二つの世界から煙たがられている。それに引き換え、あの皿は自由に水面を動いているではないか。羨ましい。

「良いな」

胸につかえていた何かが言葉になる。言葉ではない何か。言葉にすると「良いな」が一番近い何か。その何かに吸い寄せられるように、皿がこちらにすいと向かって来た。船が進むように水をかき分けて、航跡波(こうせきは)を作る。池の浅い所まで来ると、皿の後ろから大きい海亀のような甲羅が現れ、()いで皿の下についた顔がでて来た。そいつは、

「よいしょ」

と言って水際で立ち上がりブルブルと体を震わせ、緑色の体についた水滴をそこら一帯に撒き散らした。潜っている間は気づかなかったが、皿の周りには毛が生えていて、シャンプーハットみたいに広がっている。彼の目はオレンジ色だが、思ったより人間のそれに近い。切れ長でそれなりに整っている。しかしその下の黄色い猛禽類のような嘴が、端正な目を台無しにしていた。実に勿体ない。鷲や鷹みたいにまん丸の目がついていれば、あの嘴も映えるのだろうが、あの目じゃダメだ。間抜けだ。それに姿勢も悪い。甲羅をしょっているせいで猫背になっていて、腕が体の前でブラブラしている。足も()()()で形が悪い。やはり良くないかもしれない。壬条は先程「良いな」と言った事をもう後悔し始めた。皿だけ見ていれば良かった。

「よう」

苔色の鱗で覆われた生き物がこっちを向いて壬条に声を掛けた。もう傍観者を決め込む事は出来ない。何か答えないといけない。

「……お前、河童か?」

恐る恐る尋ねた。壬条はランニングシューズを履いている。逃げる準備は整っている。

「おう」

簡単に返事を済ませると、ペタペタと指の間に膜が張ってある、骨張った細長い足で近づいて来た。壬条はまずいと思った。何かされる。

「ま!待て!」

河童は素直に立ち止まった。

「なに?」

なんだか変な感じだ。壬条は危機感を覚え河童を警戒しているのに、河童はまるで友達のように近づいて来るではないか。壬条はもしかしたらこいつは悪い奴ではないのかもしれない、と思い始める。

「お前、尻小玉とか抜くんじゃないのか?」

座ったまま両手で尻を押さえ、河童に問う。

「しりこだわ?」

そう言いながら河童はまたペタペタ近づいて来る。さっき制止された事をもう忘れたようだ。

「違う違う。尻小玉だ」

壬条は尻をおさえたまま椅子から立ち上がり中腰で後ずさる。端から見ればシュールレアリズムそのものだ。サルヴァドール・ダリも髭、いや、舌を巻くだろう。

「クワックワックワッ、抜かない抜かない」

嘴の前で手を振って笑う。嘴は固くて笑えないから、かわりに目が笑っている。

「……皿は……乾いちゃいけないんじゃないのか?」

「触るか?」

河童が皿を差し出す。割れたり乾いたりしたらまずいと伝えられている皿を、こんなにも簡単に触らせるなんて、多分こいつは無害だ。壬条は半ばそう結論づけていたが気を抜いてはいけない。相手は河童だ、妖怪だ。安心させた所を強襲し、尻小玉を抜きにかかる算段かもしれない。彼は腰が引けたまま右手で尻を厳重に守り、左手を目一杯伸ばして皿に触ろうとする。ざわざわと向こう岸の広葉樹が風で騒ぐ。左手の指先がちょいちょいと皿に触れる。ひやりとぬるりが同時に伝わって来た。中腰をやめてきちんと立ち、手についた液体をこねると糸を引いた。

「乾くと良くない。だからヌエヌエしてる」

「ヌメヌメだろ?」

「ヌウェヌウェ」

河童は少し困った顔をし、細長い指を顎にあて目をつぶった。

「うーん……」

すると何か思いついたのか目をぱちりと開けた。

「あ、か、さ、た、な、は、うぁ、や、ら、わ」

嘴が邪魔してマ行が言いにくいらしい。きっとパ行も唇を閉じる必要があるから同じだろう。

「ああ、そう言う事か」

「うん、だから俺はかっわって言えないから、河太郎って言う」

河太郎は河童の別称である。

「河太郎か。それはお前の名前か?」

「ううん。ハル。俺はハル」

「俺は壬条兼人だ」

こうして俺は河童のハルと出会った。

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