蓮池にて
壬条兼人は夕暮れ時、ランニングをするのが日課だ。いや、毎日律儀に走っている訳ではないから日課は言い過ぎだ。何となく続いている、という表現が一番しっくりくる。気分が乗らなかったり、大学の講義が遅くまである時は面倒くさいからやらない。無理をしていないから続いている。ちゃんと毎日やるとぞ気張って予定を決めて、気持ちは後からついて来るだろうと高を括るから三日坊主になる。飽きたらやめよう、くらいの気持ちでやるから長く続く。壬条は自身の、もとい人間のそういう惰性的な一面をよく理解していた。
今日は走るかと思い、もそもそとジャージに着替え、軽く体を動かしてから、四月にセールで買った安いランニングシューズを履いて外に出る。春独特の青臭く、植物の水気を含んだ風がするりと彼を通り抜けた。悪くない。歩道まで出て適当に走り始める。最初は適当で構わない。走るフォームとか、走るのに合った高価なシューズとかウェアとか、そんなのは本当に興味を持ってからで良い。初めから気合いを入れ過ぎると、その気合いに押しつぶされる。自分の器を高く見積もるから失敗する。出来る出来ると勝手に信じるから苦しくなる。どうせ出来ないけどやってみるかと思うと、存外上手くいく。結局そんなもんだ。自分は特別なんだという下らない希望を捨て、丁度いい器にちんまり収まれば、上手くいく。
ランニングコースも志の高くない彼らしく、一周一キロくらいだ。調子がいい時は二周するが、滅多にそこまで頑張らない。壬条は別に鍛えたいとか、良い脚、尻の形になりたいとか、そういう理由ではじめた訳ではない。気温の丁度いい日に、気分良く外の空気を吸い、なまった体を動かしたい、とふと思ったからだ。ちょっとした気分転換である。そして彼が住んでいるアパートの近くには大きな公園があり、そこが常々気になっていたのも、壬条がランニング生活を思いたった理由の一つだ。
この公園の遊歩道の両脇にはしだれ桜が並んでおり、一ヶ月前の四月はさぞかし風光明媚な景色だったに違いない。実際に彼がこの辺に越して来た直後は花見で盛況していたらしいが、現在その面影はどこにも見られない。緑色の葉が申し訳なさそうに頭を垂れている。謝る相手も居ないのに、垂れている。でも壬条にとってはこれくらい人気が無い方が好きだ。花見という大層な理由をつけてその実、我々はただ昼間から酒を飲みたいだけである。飲みたきゃ飲みたい時に飲めば良いが、なかなかそうもいかない。お天道様はただそれを見ているだけだが、人間様が蔑んだ目で見て来る。本当は俺だって飲みたいけど我慢しているのに、なぜコイツは昼間から頬を赤くして気持ち良さそうにしているんだ?と。他人だけ幸せを享受しているのが許せないのだろう。だからたまに適当な言い訳を見つけ、酒を飲む。皮を剥げば皆、同じ臓物が臭いを放ち、似たような見た目になるのに、人間という皮をかぶっただけで立派になったと勘違いする。皮が臓物の臭いに蓋をするように、ちんけな誇りが我々の欲望に蓋をする。だが決して壬条は人間が嫌いでは無い。彼自身、自分の事をよく出来た人間だとは思っていないから、他の輩にも大して腹は立たない。何が彼に嫌悪感を抱かせるのかと言うと、くだらない人間達が作ったくだらない決まりや慣習である。元を辿ればくだらない人間のせいなのだが、罪を憎んで人を憎まず、に近い考え方なのだろう。だからそのくだらない人間が決めた花見という慣習を、彼は好きになれない。
それでも壬条は自らの意思で大学に入り、学生としてこの決まりの中で生活している。要は自身で許容出来る程度のルールの中なら別に良いのだ。憲法でも法律でも、普通にちんたら生きる分には、そこまで我々の上にのしかかっては来ない。それに将来に胸を躍らせる程自分に期待もしていないので、例え何かに嫌悪感を抱いても基本的には面倒臭さが勝ち、壬条は反抗したり改善しようと試みるはずも無いのである。
しだれ桜の並木道を過ぎると、右手に池が見えてくる。蓮池だ。この辺りは公園の最奥なので長く伸びた壬条の影しか見当たらない。少し休憩でもしようと、蓮池に面したベンチに腰をかける。ランニングではなくシッティングである。まず遠くの方に目をやると広葉樹が柔らかそうな新緑の葉をつけており、秋頃には見事に赤く色づくのは容易に想像がつく。ここはプライドが高い酒好きの為に作られた公園なのかもしれない。向こう岸も、水面も平坦なので、彼が座っている所からだと水際がよく分からない。山際と山の端と同じように、水際と水の端の境が判然しない。ずっと向こうまで池が続いているように見えるが、広葉樹が生えていると言う事は、あそこはきっと土が僅かに顔を出しているのだろう。それから蓮池にゆっくりと目を移す。浮き葉がプカプカ楽しそうに浮いている。その浮き葉もやがて立ち葉になり、夏には大きな濃い桃色の花を咲かせるに違いない。そう思って小さい皿の様な緑色の蓮達を眺めていると、一つだけ、白い色をした皿が彼の目にとまった。