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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

翼は折られた

作者: 任四郎

人の社会とは即ち「嫌悪」で出来ている。

「好き」な気持ちよりも、「嫌い」な気持ちの方が圧倒的に簡単で、単純で、創りやすい。たとえこの世から愛が消えても、忌む心は無くならないだろう。

では、この世に愛が溢れたら嫌悪は無くなるのだろうか? 答えは「ノー」だ。

人に限らず生き物は皆「進化」するのだ。我々から厭う心を取り去ってしまったなら、永遠に平行的な時間を過ごしていかなければならない。敵を警戒するからこそ進化し、ライバルがいるからこそ進歩出来るのである。「嫌悪」は立派に誇るべき感情なのだ。


私に言わせてみれば、「嫌悪」と「憎悪」は全く違う。「憎み」の方がよっぽど悪であり、罪であり、酷である。正反対だと言ってしまってもいい。

持ってしまった事を恥ずべきであり、生きる価値すらない。存在自体が無意味だ。禁忌だ。

ああ、人間ってなんて惨めな生物なのだろう。まさか、知能を持ったからといって全ての頂点に立ったつもり? 神様気取りの抜け作の間違いでしょう。もし、本当に神様がいるのだとしたら、大層後悔しているだろう。その身を捧げた雌に食べられてしまう蟷螂の雄のように。


逆に、今いる人間が全員人でないとしたら ─ 残忍で得体の知れない人外の何かだとしたら、合点いくというものだ。まともに生まれ落ちたのは私だけだった。さながら天使達の啓示を夜に広めたムハンマドのように。もしくは慈悲深く悪を浄化し、人々を救済するメシアのように。

世の中は、思っていたよりずっと無慈悲で腐敗していた。まるで「愛」なんて存在しないかのように冷たい空気が張り詰め、屑箱から生まれたような気狂いが街を闊歩する。彼らは自分さえ良ければ、平気で他人を懐疑し、弄び、侮蔑する。暴力が正義だと信じて違わず、快楽すら見出す。

「人は、知らず知らずのうちに反感を買う」という一文を雑誌で目にした時、カッターで滅多切りにしてやった。そんな言葉を飲み込んでしまえば終いだと感じた。頼んでもいないのに勝手に買わないでくれる? 私の反感は百万円よ。と言ってみたかったが、そんな大金手に入れた所で親に剥ぎ取られるに決まっている。


そして、私は自分が女として生を受けた事を最も忌んでいる。女はとりわけ「憎悪」が肥大する。何もかもどうでも良かった。自由さえ取り上げていいから、どうか私には関わらないで、「空気」でいさせてと何度も頼んだが、そんな希望でさえ不毛だった。何しろ奴等は誰かの泣きっ面をおかずに、飯を食うのである。


私を侮辱する人は、決まって低知能であった。この際だから言ってしまうが、私は文武共それなりに矜恃があった。また、容姿が優れていると噂される事もあった。そのせいで、私はいわれなき難癖を付けられ、淫魔と仕立てあげられ散々たる洗礼を受けた。それは二十一世紀初頭に横行した「魔女狩り」いや、この場合は「淫魔狩り」と言うべきだろうか。風に聞いた話だと、とある権力のある醜女の彼氏が、私に気をよこした、という事らしい。のど自慢にさえ足らないつまらなさだ。

外ヅラだけ良いという概要ならば日本人も対して変わらない。国を超えて「おもてなし」と持て囃される取り繕いの裏には、必ず毒牙が隠されている。同族嫌悪だろうか? 少なくとも、私の周りに親身になってくれるような人間は、誰一人いなかった。畢竟マイノリティは弱者に変わりなかった。


登校すれば迫害、臥床でも暴力の日々だった。夢はとっくに炭となり、希望など何処にもなかった。湧き上がるのは強さへの渇望と、激烈なる復讐心のみであった。暫く動悸を走らせてから、こう思うのである。「ああ、私も奴等と同じだ」と。

社会とは大いなる機械だ。七十億の歯車をまわし何千年と稼働し続け、ある日突然寿命が来る。その筐体内では創造と破壊が繰り返され、私もその一部なのである。たとえ一つ抜け落ちても、すぐに変わりが補充される。後顧の憂いなく去れるというものだ。


今は、全身の神経が研ぎ澄まされたようだ。なんだかとても身が軽い。東大に現役合格も出来そうだ。たとえ目の前に隕石が落ちたとしても、平然とした顔で立っていられる自信がある。ここが一面花畑だったらいいのにな、菜の花が咲き乱れる田舎の無人駅だったらいいのにな、と久しく気持ちが昂る。こんな感情は、三輪車に跨ってに家を飛び出した頃以来だろうか。無邪気とは、なんて響きのいい言葉なんだろう。

この都会の喧騒が、本当に心地よい。早足で帰路を急ぐサラリーマンの顔色の変化を想像するのもまた面白い。殊勝な顔して参考書を食い入るように見る受験生に、よりストレスをかけてやるのも良い。なぜか今は、何を考えてもクリスマスの夜のように楽しいのだ。

これから、長い旅になるのか、それともあっという間の道程なのかは分からない。生憎まだ定期の印字されたICカードしかないが、乗車した時、それは夢への片道切符となる。発車時間になるまで、点描された時刻表をまだかまだかと睨み続ける。


プラットホームの振動が大きくなっていく。私を見送ってくれる観衆は充分に集まった。吐息がだんだん激しくなってゆく。一抹の不安によるものかもしれない。されど私は興奮しているのだと信じたい。何もかも蹴ってまでその可能性に心酔し、己の人生を賭けた。この背徳感が堪らない。人の金でやるパチンコのような物だろう。なるほど父親の気持ちも理解できる。


手首に暖かい感触がある。ぬる過ぎず熱過ぎず、これは人感か。誰かが私の腕を掴んだのだ。ふと足元に目をやると、点字ブロックを超えあと数センチという所に立っていた。まさか、死に急ぐと思われたのだろうか。そんな、迷惑だ。邪魔な筈なのに、また別の新たなる希望が頭を過ぎった。いやまさか、そんな事は有り得ないだろう。しかし捨てきれない。状況が状況なだけに、みるみるうち大きくなっていく。


私は勇気を振り絞って、その温もりの方を見た。明らかに期待を寄せてしまっていた。若年の男だったが、その口から出る言葉を半ば信じて待った。

「ねぇ、この後時間とか空いてるかな? 良かったら、君と話がしたいんだけど」

気づいた頃には、彼の周囲は鮮血に染まっていた。ああ、やっぱり、こんなものだったか。現実とはこんなものだったか。一体全体どうして、見知らぬ男に希望を抱いていたというのか。不甲斐ない。希望は悪だ。夢は悪だ。妄想は悪だ。欲求は悪だ。大望は悪だ。過信は悪だ。甘えは悪だ。情けは悪だ。感情は悪だ。人情は悪だ。人間は悪だ。何より社会が、悪なのだ───


いやしかし、予定よりもよっぽど大きな利益を得た。もしもの為にと短刀を用意しといて本当に良かった。自分の周到さに心底惚れてしまう。遂に私は悪を討つことが出来たのだ。紛れもない復讐心を持ってナイフを胸部に突き刺した。醜くも私は正義だった。全ては私が正しかった。ようやく第一歩を踏み出せたのだ。

感極まって、言葉にならない声を上げ涙を流した。まさしく念願の優勝を果たしたアスリートのように暖かい目で見られているに違いない。表彰台は私のものだ。私が全ての頂点に立つのだ!


「何ぼさっと立ってんだよ。つぎはお前らの番だ」


お次は飛込競技だ。迫り来る電車へと華麗にダイブした。

さあ慄け。今度は私の血で震えろ。警笛が鳴ったその時、新世界への旅が始まる。

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