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~死者を抱(いだ)いて山は沈黙する~ 9

Chapter 9


31


 王都を離れたのは、ほんの数日程度のはずだった。

 それでもリヒャルトには何年か越しに王都へ帰ってきたような心地になった。昨日の夕方にホルン山を離れると、リヒャルトは郡の中心であるブライスの街に向かった。街へ到着すると、休むことなく運河に向かい、夜間に移動する荷船に乗り込んだ。ブライス郡には、夕方に積み込んだ荷を翌朝に王都まで届ける船便があったのだ。このことは事前に調べていたので、迷うことはない。荷船は人を乗せて運ぶことがあまりないが、商売としては普通に行われていた。それで、リヒャルトは誰からも不審に思われることなく船に乗り込み、王都へ向かうことができたのだ。

 船の中ではリヒャルトはぐっすりと眠った。不和を装い、うまくあの場から立ち去れたと彼は思っていた。翌朝、探偵たちがこのことを知っても、まさか、あの場を都合よく立ち去る口実づくりに、ずっと芝居をしていたとは気づくまい。正直、あのパジェット教授の態度には本当に腹が立つこともあった。彼が激昂して立ち去ったというのは、演技には見えなかっただろう。そう確信した彼は満足し、同時に長い緊張感から解放されてほっとしたのだ。船員に肩を揺すられて目を覚ますまで、彼は深い眠りについていたのだった。

 どさどさと荷物を運び出す音を背に、リヒャルトはおかにあがった。その場を立ち去ろうとした彼に、彼を起こした船員が声をかけた。

 「旦那、この荷物を忘れてやすぜ」

 振り返ると布を巻いたものを指さしている。リヒャルトは手を振った。

 「もう、いらないんだ。そっちで捨ててくれないか?」

 船員は黙って手を挙げると、布を軽々と持ち上げて荷下ろし場から離れたところへ放り投げた。その布には通信魔法の魔法陣が描かれていた。外部との通信に使用していたのだ。今回、自分の計画に露見の恐れがあったのは、あの行商人たちが現れて、テントの中でみんなと話を聞くことになったときだ。あのとき、レトは魔法陣の描かれた布を手にしてしまっていた。あれをその場で広げられると自分が何者かと通信していたことがばれてしまう。慌てて布を取り返したが、レトは布に描かれた魔法陣を布の柄と勘違いしたようだった。レトは何も言わずに布を返した。内心、彼はほっとしたものだ。外部との連絡は短時間に終わらさなければならなかった。塔の記録をまとめるなどと言ったものの、歴史学視点で記録の整理などしたことがない。記録資料を急いでまとめあげ、時を置かず外部と連絡を取ったのだが、急な訪問客で片付けがおろそかになり、レトの目に触れることになったのだ。しかし、探偵に気づかれていない。彼が計画の成功を確信した瞬間だった。

 荷船が到着したのはオーウェン区である。船着き場からは天に突き刺すほどの大聖堂の鐘楼がよく見えた。あれほど目立つ目印はない。この船着き場は初めてだったが、『あれ』のおかげで大聖堂までは迷うことなく向かうことができる。リヒャルトは散策に向かうような気軽さで、大聖堂への道を歩いて行った。


 リヒャルトがディクスン城への攻撃を考えたのは、つい最近のことだ。それまでの彼は、そんなことが考えられるほど自分以外のことに気が回らなかった。自分自身のことだけで精一杯だったのだ。

 著名な音楽家、レナード・リースタインの息子として生まれた彼だったが、兄たちふたりと違い、彼には音楽的才能はなかった。あるいはないと信じ切っていた。兄ふたりは年齢が近いこともあってか、演奏の技術を競い合い、少年のころからその技量は高いものだった。リヒャルトが生まれたころには、兄たちはすっかり神童の誉れが高く、幼少の彼が追いつくには相当の距離ができてしまっていたのだ。とは言っても、音楽と距離を置こうとする三男に両親が失望しなかったのは、彼にとってはまだ幸せだった。両親は兄たちと変わらぬ愛情を彼にも注いでくれたのだ。しかし、それが後に彼の苦しみへ変わるとは、彼自身も予想できなかった。

 リヒャルトが7歳になるころ、父レナードはこれまでの功績が称えられ、男爵の地位を得るに至った。貴族の一員に加わったのである。ちょうど幼年学校の進学を控えたころの彼は、貴族の子弟が通う学校へ進むことになった。両親は早いうちから貴族としての立ち居振る舞いを身につけさせようと考えたのだ。彼はこれから貴族の一員という目で見られることになる。貴族としての教育を受けさせて、彼が困らないようにしてあげたい。両親の願いはいたってわかりやすいものだった。彼自身、幼いながらも両親の心遣いは理解できた。彼は高い志を持って、貴族の幼年学校に入学した。

 そんなリヒャルトの高い志はたやすく打ち砕かれた。彼が生まれたとき、父はまだ貴族ではなかった。そのせいで、『元平民』という扱いで級友たちからいじめられる日々が始まったのだ。仲間外れにされることを皮切りに、自分の持ち物がどこかへ消えてしまう。どこからともなく小石などをぶつけられるのは日常茶飯事だった。訴えたくても、相手は皆、自分とは格上の貴族の子弟だ。下手をすれば、父の立場が危うくなる。10才に満たない少年が、そんな世の中の処世術を意識しながら通学を続けたのである。兄たちに対する劣等感を抱いていた少年は、今度は自分が異物であるかのような違和感に苛まれることになった。ただ、こんな状況にあって、まだ彼がそれほど卑屈にならなかったのは、勉学において彼は非常に優秀であったからだ。彼は常に学年一位の座を守り続けた。それは、彼のわずかに残った自尊心を保つのに貢献した。その幼年学校は高等部までの一貫校だった。その間、彼は成績の最優秀者であり続けた。さすがに、ここまでの者をいじめるのはひがみと取られかねない。いつの間にか彼に対する嫌がらせは下火になって消えていった。

 大学はバンコラン魔法学院を選択した。両親の期待に応えられる名門校である。リヒャルトは優秀な成績で合格を果たした。兄たちは「音楽では負けないが、勉学ではかなわない」と言って、彼を称えた。それを聞いて、長年の兄に対する劣等感が消えたように感じた。

 大学ではリヒャルトは最優秀者とはいかなかった。彼より優秀な者が数多く入学していたのだ。数少ない友人であるセバスチャン・モランもそのひとりだった。モランは体つきがリヒャルトと似通っているものの、顔つきも性格も、まるで共通点がなかった。そのわりに、ふたりは不思議とウマが合った。

 モランは有力貴族モンペール家の分家筋にあたるが、貴族としてはいくぶん格が落ちていた。だが、モランはそういったことを気にしている様子はまったく見せず、誰とも気軽に話しかけ、親しくなってみせる特技を持っていた。また、歴史学に深く通じており、歴史がやや苦手であるリヒャルトにわかりやすく解説するなど、頭の良さも目立っていた。

 モランの気取らない人柄はリヒャルトにとって新鮮なものだった。ふたりはすぐに打ち解け合って親しくなり、よく連れ立って遊びまわるようになった。専攻がまったく異なるため、成績を直接競い合うことがなかったのが、親交を続けられた理由かもしれない。モランがリヒャルトの自尊心を損なうことがなかったのだ。リヒャルトは魔法理論学で、モランは魔法歴史学でそれぞれ優秀な成績を修めて卒業した。

 大学の卒業後、彼らはそろって院生として大学に残った。それぞれが研究者としての成功を目指すことになったのだ。リヒャルトはモラン以外と人付き合いがなかったが、忙しい院生の身分のおかげで、そのことにあまり気を向けずに済んだ。研究を重ね、論文を書き、たまにモランと語らい、笑い合う。それだけで日々が過ぎていき、修士課程を修了したのだった。

 もし、リヒャルトの人生が万事その調子であれば、その後のできごとは起きなかったであろう。

 修士課程を終えたリヒャルトは引き続き魔法学院に籍を置いて、研究者として道を進んでいた。在学中に発見した魔法障壁を破る手掛かりをさらに探り、現状の魔法障壁の弱点を明らかにし、さらにそれをも超える魔法防御態勢を構築する。そうなれば、彼はその分野において大魔導士マーリンを超えたことになるのだ。そして、それは非現実なことではない。彼は研究に熱中した。

 バンコラン魔法学院では、修士を修めた者は研究室に入り、研究者として活動するだけでなく、指導員として学生の面倒をみなければならない。リヒャルトも例外ではなかった。彼にとって苦痛の時間の始まりである。

 初めて教室に入ったとき、リヒャルトは自分を注視する者がひとりもいないことに気づいた。おのおのが、勝手にノートを開いたり、隣の級友と語り合ったりしている。彼の存在にまるで気づいていないかのようだ。彼は教本の底を教壇の上でトントンと打ちながら注目を集めようとした。さすがにこのままでは仕事にならない。

 「これから講義を始めます。諸君は静粛に」

 何人かはリヒャルトに注意を向けたようだが、それもほんのわずかの者だった。それらも間もなく周りの大きなうねりに溶け込むようにいなくなってしまった。

 「この魔法理論基礎学は、進級に必要な単位に計上されます。1回生で留年したくなければ、真剣に取り組んでください」

 苛立ちを押さえて、リヒャルトは声をあげた。日頃、人前で大声を出したことがない。そのせいか、彼の声はか細く、教室のざわめきの中で掻き消されてしまう。結局、彼は無言のまま教室で立ち尽くすだけだった。講義終了のベルが鳴ると、彼はそそくさと教室から退散した。去り際に背後から「やっと出て行くよ、あの平民」という声が聞こえてきた。するとすぐ、「違うよ。元『一般民』だよ。間違えちゃ、あのひとに失礼だろ」と別の声が聞こえてきた。そこでクスクスと笑う声があちらこちらから湧きあがった。彼は居たたまれなくなって、その場を逃げ出した。

 教員の控室に駆け込んだとき、リヒャルトは自分でもわかるぐらい顔色が変わっていた。大粒の汗が彼の目に流れ込み、彼は慌ててそれを拭った。控室にはすでに何人もの教員が座っていたが、彼に注意を払う者はひとりもいなかった。

 「リースタイン君」

 背後から声をかけられ振り返ると、そこに教務部長の大きな顔があった。

 「は、はい、部長。何でしょうか?」

 「君の講義は今日からだってねぇ。どうかね、初仕事は?」

 「そ、そうですね……。まぁ、いろいろと難しいものだと思います」

 リヒャルトはできるだけ言葉を選んで答えた。

 「そうかね。君の受け持っている教室は、名門の子弟が一番多く学んでいる教室だ。君にそこを任せるんだから、しっかりと頼むよ」

 「は、……はい」リヒャルトは小声で応えた。

 「いいかね、彼らはそれぞれの家名を担う後継者たちだ。あの教室から決して落第者を出さないようにしてくれたまえ。ただのひとりも、だよ」

 「え、それでは……」まともに講義を受けようとしない生徒も落第させてはならない、ということではないか。

 「私はきちんと君に頼んだよ。みんなのいる前でね」

 教務部長の言葉に、リヒャルトは正面に向き直った。さきほどから座っている教員たちは、相変わらず顔をこちらに向けようともしていない。しかし、それが意図的であることは明白だった。そのとき、彼は厄介な教室を押しつけられたのだと理解した。何も知らない新人だから割を食ったのだ。

 「今後、君の経歴にも関わるんだ。そこのところを忘れないように」

 教務部長はとどめを刺すように言い残すと控室から出て行った。控室に残されたリヒャルトはひとりぼっちでもないにも関わらず、言いようのない孤独感に包まれたのだった。

 その夜、たまたま時間の空いたモランとともに夕食を取ることにした。リヒャルトの下宿はさる領主が所有していた屋敷を下宿向けに改装したものだった。歴史的な建築物とあって、モランのお気に入りであり、夕食をともにするとかこつけて押しかけてきたのだ。

 「やっぱりいいよなぁ、リヒャルトの下宿は。豪華で、格調高くて、さ」

 夕食をそこそこに食べ終えると、モランはさっそく柱を撫でまわしている。まるで恋人を慈しむかのようだ。

 「おい、あまり撫でまわすなよ。気持ち悪い」リヒャルトは苦い顔をした。

 「そうケチなこと言うなよ。今となっては旧ヴェルド調の建築物なんて残っているもんじゃないんだ。君は貴重な文化遺産で生活してるんだぜ」

 「格調高いことは認めるがね。だが、管理も行き届かない屋敷なんだ。けっこうボロだよ。管理人は足腰の弱ったお婆さんだし」

 「そうさ。そこが問題だ。貴族は年々弱体化している。経済的な余裕を持つ者も減ってきている。ここの所有者も維持が難しくなって、下宿屋にしているんだろう。せっかくの貴族文化だが、滅びに向かっているのはたしかだね」

 「貴族は滅びるのかい?」

 「今日、明日ってことにはならないと思うが。封建制度では国の維持が難しくなってきている今の時代に、封建制度の一部である貴族が安泰ってことはないだろ」

 「君は貴族なのに、王太子派なのか?」

 リヒャルトはモランにお茶を勧めながら尋ねた。

 「別に『何とか派』のような主義主張を持ってるわけじゃないよ。歴史を把握することで、未来が見えてくるんだ。いや、予想の立つ部分がある、というのが正確かな」

 「歴史がわかると、未来の予想ができるのかい? それじゃあ、君なら未来予知魔法が完成できるな」

 「未来予知なんて大げさなことはできないよ、さすがに。だがね、政治にしろ、経済にしろ、現在に至るまでの過程というのは存在する。その過程を丁寧に読み解くことができれば、ある程度の予想ができるって言いたいのさ」

 「君の研究の行きつく先は未来なのか」

 「ラプラスって偉い学者先生がそんな理論をぶちまけていたね。ただ、あれは歴史学じゃなくて、力学理論での話だったかな? 究極はそうなのかもしれないが、僕はそこまで極めるつもりも、その力もないね。だから、研究を心から楽しむんだ。なによりも学問できる幸せを享受する。僕が生徒に教えているのもそのことさ」

 そこで、モランはリヒャルトの表情が変わったのを見逃さなかった。

 「どうした?」

 「いや、君は、受け持ちの生徒たちと、うまくやっているのかい?」

 「少なくとも悪い関係じゃないね。高等部だったらさ、歴史の授業は退屈だって逃げ出すやつっていたじゃないか。でも、大学だと歴史が好きで来ている連中だからさ、こっちの退屈な話もけっこう聞いてくれてるぜ」

 「そうか」リヒャルトは短く相づちを打って話を打ち切った。もし、モランに対する殺意が芽生えた時期をさかのぼれば、このときになるのかもしれない。彼はモランに言い知れぬそねみの感情を抱いたのである。


 バンコラン魔法学院で研究員として働き出してから1年が過ぎた。モラン以外ほとんど人付き合いのなかったリヒャルトに新しい出会いがあった。しかも相手は女性である。相手は名門レイドック家の令嬢、エリザベスである。家柄はもちろん、彼女の美貌は学内でも評判だった。もともと学院の生徒である彼女とは、たまに校内ですれ違うことはあった。しかし、それ以上の接点はないし、話す機会もなかった。彼女は卒業後に院生となって彼と同じ研究室に所属することになった。こうして彼女と初めて接点ができたのである。偏屈と言われるリヒャルトだったが、彼女は彼をも凌ぐほどの変わり者と思われていた。日頃からほとんど表情を見せないのだ。まるで仮面を被っているかと思えるほどの無表情である。そんな彼女に、リヒャルトは興味を抱いた。何気なく話しかけても、話しかけた以上の返事がない。下手をすると「はい」「いいえ」だけで会話が終わってしまう。ほかの者に対しても同様らしく、やがて彼女に話しかける者はいなくなった。

 これまでのリヒャルトであれば、ほかの者と同様に彼女と関りを持とうとはしなかったであろう。だが、彼は彼女と関りを持つことをあきらめなかった。どことなくだが、彼は彼女に自分と近しいものを感じていたのだ。同病相憐れむではないが、同じ孤独を味わう者同士通じ合えるものがあるのではないか。そこまで具体的に考えていたわけではないが、それに近い考えを彼は持っていたのである。特に不純な動機を持っていたのではないと考えていた。

 エリザベスはそう感じてはいなかったらしい。ある日、彼女はリヒャルトの目をまっすぐ見て、こう言った。

 「あなたは私のどこに興味を持っていらっしゃるの?」

 あまりに冷たい響きに、リヒャルトは気圧されてしまった。

 「い、いや、そんなに詰問されるようなことは……」

 「これは詰問ではありません。質問ですわ」

 リヒャルトはうつむきながら小声で答えた。

 「君は……、僕と似ていると思ったんだ。うまく言えないけど、君と親しくなりたいと思ったんだ」

 「似ているから親しくなりたいと思った? 私が? あなたと?」

 こうも立て続けに言われると何も言えなくなってしまう。「そんなことを言われて心外だ」とでも言われると、彼は立ち直れなくなるかもしれない。

 エリザベスはすぐには声を発しようとはしなかった。ただ無言で、うつむいているリヒャルトを見つめているだけである。

 やがて、エリザベスは口を開いた。

 「あなたが私のどこに共通点を見出したのか見当がつきません。ですが、あなたと一緒にいる時間を持てば、私にもわかるようになるのでしょうか?」

 リヒャルトは驚いて顔をあげた。これまでで最も予想外の答えだったからだ。こうして、彼らはともに語り合い、寄り添い合う時間を持つようになった。それでも、それを恋人関係だと考える者は少数だったであろう。リヒャルトと語り合うエリザベスの顔に、笑みを見た者が誰もいなかったからである。それは彼ですら同じだった。

 エリザベスは心の奥底に自分の感情を封印したようだった。その理由を、いや、正確には理由だと思われることを、リヒャルトは交際直前に聞かされていた。

 「私はレイドックの娘として、家柄と見合う男性と結婚しなければなりません。聞けば、あなたは新男爵家の三男であるとか。レイドック家はそういう方との結婚を認めることはありえません。つまり、私との交際は破局が前提なのです。それでも、あなたは私と交際したいとお考えなのですか?」

 リヒャルトはあいまいだがうなずいた。彼女の心の底流にあるのが『冷めた物分かりの良さ』だと気づいたが、それでも彼女との時間を持つことができるのであれば、それで構わないと思ったのだ。彼の中にも『冷めた物分かりの良さ』が潜んでいることを知っていたからである。本来、恋とは熱情の産物である。だが、彼らの間に温度を感じることはできなかった。それでも彼にとって、彼女は分かちがたい存在であることは間違いなかったのである。

 リヒャルトとエリザベスの奇妙な交際はしばらく何事もなく続いた。感情的な衝突が起きないのであるから、関係に亀裂が入ることがなかったのである。一方で、今以上に絆を深めることもなかった。ふたりの関係は交際開始からずっと『現状維持』だったのである。もちろん関係を深めるべく何の行動もしていないわけではない。彼はこれまで女性に何か贈り物をしたことがなかったが、彼女に何かを贈ろうと考えた。しかし、花など手渡しても嬉しそうな表情を見せてくれない。丁寧に礼は口にするのだが、喜んでもらえているとは思えない。ただ、研究の助けにと、自分が使い古した参考書を譲ったときは少し違った。彼女は本を手にしばらく見つめ続けていると、「大切にします」と抱きしめるように胸で抱えたのだ。表情から感情は読み取れなかったが、たぶん気に入ってもらえたのだろう。こうして、互いがどのように思い合っているのか曖昧な日々が続いたのである。

 そんな関係に変化が訪れたのは、夏が近づいたある日のことである。リヒャルトはエリザベスを伴って、ある夜会を訪れていた。次兄が演奏者のひとりとして出演するので、その演奏を彼女と聞こうと考えたのである。夜会の主催者はポール・マクダネル伯爵であった。

 夜会が始まると、リヒャルトは兄の演奏に聞き惚れていた。次兄はチェロの奏者として、名声をほしいままにしていた。貴族たちはさまざまな夜会や交流会を企画しては兄たちを招いていた。兄たちは社交界を彩る重要な音楽家だった。

 兄が演奏を終えるとリヒャルトは勢いよく拍手しながら、「どうだい、良かっただろう? あれが僕の兄なんだ」とエリザベスに囁いた。

 この日のエリザベスも表情に変化はなかった。「すばらしい演奏ね。あなたには自慢のお兄様なのね」感想も淡々としたものだった。だが、この反応はとっくに慣れている。彼は感情を害することなく「その通りさ。子供のころから、兄たちは僕にとっての英雄みたいなものなのさ」と再び囁いた。

 「失礼」

 背後から急に声をかけられ、リヒャルトは飛び上がった。振り返ると初老の男が慇懃に胸の前に手を当てて身をかがめている。

 「そちらはレイドック卿のご息女、エリザベス様ではございませんか? 私はこの夜会の主催者、ポール・マクダネルでございます」

 エリザベスは立ち上がるとドレスのすそを摘まんで優雅に頭を下げた。

 「お初にお目にかかります、マクダネル卿。エリザベス・レイドックにございます」

 「いや、ここでお会いできるとは喜ばしい限りです」

 マクダネル卿はエリザベスの手を取ると、手の甲にそっと口づけをした。

 「実は、お父上とお話を進めているところですが、我が嫡男とあなたとの婚儀を考えているのです」

 リヒャルトは思わず立ち上がった。マクダネル卿はリヒャルトのほうを一顧だにしないで話を続ける。

 「お父上もこの話には乗り気でございましてな。私も聡明の誉れ高いあなたを一族に迎えられれば、何にも替え難い幸福となりましょう」

 リヒャルトは恐る恐るエリザベスの表情をうかがったが、彼女の表情には何の変化も見られなかった。

 「さようでございますか。私も名門マクダネル家に迎えられることになれば、名門の名を汚さぬようお支え致しますわ」

 「何よりのお言葉です。では、近いうちにまた」

 マクダネル卿は恭しく頭を下げると、ほかの客に挨拶すべくその場を立ち去った。リヒャルトは呆然とその後ろ姿を見送っていた。

 「どうかされましたか」

 エリザベスの声に、リヒャルトは我に返った。「い、いや、何も……」

 「演奏会は終わりました。このあとは上級貴族の方がたの交流会です。私たちは退出いたしましょう」

 エリザベスはその上級貴族であるレイドック家の令嬢だ。交流会に参加しても良いはずだが、彼女はリヒャルトの手を取るとその場を後にした。リヒャルトのことを慮ってのことだとすぐに悟った。彼女にも感情や、周りを気に掛ける心遣いが存在するのだ。不思議でもなんでもないはずだが、彼女はごく当たり前の判断ができる常識を備えた女性だった。今さらながら彼はそれに気づいたのだ。

 「不愉快に思いましたか?」

 帰りの道を歩きながらエリザベスは尋ねた。「ですが、あれが私の現実なのです」

 「……わかっているつもりです」

 リヒャルトは短く答えたが、声に不愉快さを隠すことができなかった。はた目にもわかる憮然とした態度だった。

 「あなたが納得していることに、僕が何か言えるものではありません」

 リヒャルトの言葉に、彼女は何も返さなかった。まっすぐ前を見て、無言で歩き続けている。彼も彼女に遅れないよう、歩調を速めた。いつしか、彼女は早歩きになっていたのだ。リヒャルトは気まずい思いを抱いたまま、彼女を自宅まで送ったのだった。


 昔の貴族であれば、名誉を賭けて決闘を行なうことがある。賭けるのは名誉だけではない。財産や領地、そして女性。現在の法律では決闘は禁止されているので、リヒャルトは決闘が行えない。しかも、エリザベスを巡ってマクダネル卿の嫡男と決闘をするというのは現実的な話ではなかった。第一、その嫡男というのは遥か遠くの外地にいるということだった。面と向かって物申すことすら物理的に不可能だったのだ。

 そこでリヒャルトが取った行動は、マクダネル卿に近づくことだった。その目的は実のところ明確ではない。ただ、敵を知ることが勝利への近道だと、何かの本で読んだ記憶がある。マクダネル卿を知ることが、何らかの解決へ通じるのではないか。打つ手なしのリヒャルトは藁にもすがる思いで行動していたのだ。

 マクダネル卿は政治結社『貴族連合』の代表者のひとりとして知られている。最近の活動はかつてないほど活発で、貴族主義の排斥を目指す王太子にとってはさぞ目障りなことであろう。リヒャルトはマクダネル卿の掲げる『貴族主義』を知るべく、マクダネル卿が主催する集会に顔を出すことにした。その集会は当然、貴族しか入ることができない。だが、男爵の子息であるリヒャルトは容易に参加することができた。

 その日、集会が行われたのは、とある人物の屋敷の地下室である。初め、開催が地下室だと聞いて小さな集会だと予想していたが、案内された地下室はダンスホールかと思えるほど大きい部屋だった。リヒャルトはいきなり度肝を抜かれてしまった。さらには会場に集まった顔ぶれに目を見張ることになる。同じく貴族連合の代表者であるジェームズ・シャーヘッド卿は当然としても、チャールズ・ブックマン子爵など有力な貴族の姿もあったのである。とても小さな集会などと言えなかった。

 その日はマクダネル卿の講演があるという。リヒャルトはひと目を気にしながら末席に座ると、講演が始まるのを静かに待った。自分だけが異物のような居心地悪さを感じていたのだ。部屋は暑いぐらいで息苦しく、どこからともなく甘い香りが強く漂っている。何かの香水の香りだろうか。彼はその甘い匂いに当てられたらしく、頭がふらふらしてきた。彼はここに来たことをすでに後悔していた。願わくば早く講演を聞き終えて退散したい。

 やがて始まったマクダネル卿の講演は、一種のひとり芝居だと言えるものだった。

 マクダネル卿は演壇の前に立つと、天を仰ぎ、涙を流さんばかりの表情で、今、自分たちに大いなる試練が与えられていると声を張り上げた。

 「我々貴族はいったいどんな存在であろうか。国王陛下に与えられた地位? いいや、諸君。諸君も気づいている通り、我々は神の偉大さを示す存在として、神に選ばれた存在だ。国王陛下からいただく称号は、神に選ばれたからこそ与えられたものなのだ。なぜなら、国王陛下も神のしもべのひとりであり、神の代行者であるからだ」

 マクダネル卿はグラスに満たされた水をごくりと飲むと話を続けた。

 「現国王陛下の世になって最大の災禍である『討伐戦争』終結以降、国の立て直しのために我々の権利の多くが停止、あるいは廃止とされた。気がつけば、我々貴族と一般市民が同じ政治の場で意見しあわなければならない状態だ。なぜ、こうなってしまった? それは、我々が怠惰であったからだ。王太子殿下はまだお若く、国外にはびこる『みんしゅしゅぎ』なるものに心を奪われてしまわれた。神の代行者を継ぐべき方が、なんと嘆かわしい。神に選ばれたものとして、王太子殿下の目を覚まさせ、世をあるべき姿に戻すべく、我々は行動すべきだったのだ。しかし、この2年、我々は手をこまねいていたばかりに、ますます状況が悪化してしまった。これは我々が怠惰であったと認めざるをえない。結果がそれを示している。はたして、我々はこの事態を覆すことができないのだろうか? 諸君。私は大声で言いたい。『できる!』と。なぜなら、我々はまだ神のしもべだからだ!」

 リヒャルトはぼんやりとマクダネル卿の話に聞き入っていた。いつの間にか話に引き込まれている。部屋に入ったときには感じていなかった高揚感が心の中に溢れているようだ。そう感じているのは彼だけではない。周囲の貴族たちも表情を生き生きと輝かせ、マクダネル卿の「神のしもべだからだ!」のあたりでは拍手する者も現れた。貴族の正当性は『神』によって認められる。この主張の前では、どんな反論も意味を持たないだろう。――神? 僕も卿の言う神のしもべなのか? ふいに湧いた疑問に彼の頭はいっぱいになり、彼は強いめまいに襲われた。――いや、ここで倒れてはいけない。彼は無理やり頭を起こすと、マクダネル卿の話を聞き逃すまいと意識を集中した。

 「我々は、いつから奪われる側になった? 当然の権利をなぜ奪われなければならない? 恵みを差し出すのは貴族でない者の役割だ。我々は常に恵みを与えられるのが本当の役割であったはずだ。我々がその歪みを正すべく行動しなかったからこそ、神は我々に試練をお与えになった。この試練を乗り切るために、我々は行動しなければならないのだ」

 「僕が奪われ続けているのは、神の試練だとおっしゃるのですか?」

 マクダネル卿はきょとんとして声のしたほうを向いた。そこには青ざめた顔をしたリヒャルトが立っていた。なぜ、いきなり発言などしたのか、彼自身にはわからなかった。しかし、今何かを言葉にしなければ、彼はすでに意識を保っていなかっただろう。

 「君は……、誰かね?」ほんの数日前に会っているが、マクダネル卿はリヒャルトをまったく覚えていなかった。あの夜のマクダネル卿は、彼のことがまるで眼中になかったのだろう。

 「レナード・リースタイン男爵が一子、リヒャルトでございます。私のこれまでの人生は常に奪われ、踏みにじられるものでした。誇りも尊厳も、貴族の一員になってから奪われ続けました。それが神の試練なのですか?」

 お付きの者らしい男がマクダネル卿のかたわらに近づくと、小声で何かを囁いた。マクダネル卿は二度三度小さくうなずくと、リヒャルトに向き直った。

 「君はレナード卿が爵位を得たときには、すでに生まれていたそうだね。つまり、もともとは一般市民だったわけだ」

 リヒャルトは顔が熱くなった。「それが何だと言うんですか?」

 「誤解せんでくれたまえ。私は君をそしるつもりなどない。ただ、事実だけを告げようと思うのだ。君の疑問に対する答えはこうだ。『君はまだ貴族になっていないから』だ」

 「僕は、まだ貴族ではない……」

 「いいかね。貴族の真似は誰にでもできる。どんな卑しい身分の者も、貴族が身にまとう豪奢な服を着さえすれば、見た目だけは貴族になれる。だがね、それは本当の貴族ではない。中身が卑しいままだからだ。真の貴族はたとえボロをまとっていても貴族なのだ。そして、真の貴族は常に神の恵みを手にすることができるのだ。君には神の恵みがない? それは、君が貴族の一員であると、まだ神に認められていないだけの話なのだ」

 リヒャルトは目を見張った。思いがけない答えに出会ったからだ。

 「君はこれまでずっと神に試されていたのだ。いつ、君が『奪う側』になるのか問うために。いや、そうなるよう常にけしかけられていたのだよ。きっと、それは過酷なものであっただろうね」

 リヒャルトは自分の頬に涙が伝っているのに気づいた。マクダネル卿はリヒャルトがもっとも知りたいことに答えてくれたのだ。それも、諭すように優しい口調で。まるで、これまでのリヒャルトの苦悩のすべてを知り、理解したかのように。初めて他人から肯定的な言葉をかけられ、彼は胸の奥から何かがこみ上げてくるのを感じていた。今まで味わったことのない感覚で身体が震える。今、自分の中で何かが覚醒しつつあるのだ。

 ふいに、リヒャルトの脳裏に過去のいくつかが浮かんできた。彼を蔑み、差別を繰り返してきた生徒たち。そうだ。彼らはリヒャルトを貴族と認めていなかったからこそ、差別したのだ。同期のモランが容易に受け入れられていたのは、彼が生まれながらの貴族だったからに違いない。なんだ、簡単な話だったのだ。

 「レナード卿は、貴族に相応しい資質を神に示したからこそ、貴族の一員となれた。つまり、神に認められたのだ。君は不幸にも神の恵みとともに生を得ることができなかった。神はそういう者には真っ先に試練をお与えになる。これはね、神の摂理なのだよ」

 リヒャルトの身体はぐらりと揺れた。彼はどさりと席に腰を下ろすと、呆然とした表情のまま、「じゃあ、僕はいったいどうすれば……」と、うわごとのようにつぶやいた。

 「申し訳ない。具体的な答えを、私は君に示してあげられない。だが、これだけは言える。君の力を神に示すことができれば、神は君に真の恵みをお与えになると」

 「僕の力、ですか。僕にどんな力があると言うのです?」

 「答えは君の中にきっとある。なぜなら、神は見込みのない者に試練などお与えにならないからだよ」

 リヒャルトは呆然と座り込んでいた。人生で初めての衝撃だった。彼はこれまで自分の感情を表にさらしたことがなかったし、悩みを打ち明けることもなかった。彼はこうして、自身の内面を苛んできたものをずっと放置してきた。彼は今まで何に悩んできたのかもわからないまま苦悩し続けていたのだ。彼のこれまでの行動は、問題解決にまるで向かっていなかった。多くのひととの接触を避けてきたこと。傍若無人の振る舞いを繰り返す生徒たちとの衝突を避けて、まるで差し出すように単位を与えたこと。本当は友愛を感じない友人と語り合ってきたこと。そして、互いに愛しているかもわからない女性と交際していること……。実は、そうした事柄のひとつひとつが、彼にずっと緊張を強いてきたことに気づいていなかった。この日、彼は渇望してきた答えを得て、長い緊張から解放された。彼は意識が遠のくと椅子から崩れ落ち、その場で気を失ってしまった。


 どれぐらい意識を失っていたのだろう。リヒャルトは突然目を覚ますと、勢いよく身体を起こした。まだ、頭の奥にもやもやしたものが残っているようだ。彼は自分の頭を押さえると、今まで横になっていたところを見回した。

 小さい部屋の中だった。しかし、講演を聞いていた地下室と同じ壁紙が貼ってあることから、同じ屋敷の別室に運ばれたのだとわかった。

 「お気づきになりましたか」

 すぐかたわらに小柄な男が立っていた。顎のとがった細い顔。やや吊り上がった細く鋭い目。典型的な鷲鼻に鼻眼鏡を載せ、執事が着用する黒い背広に身を包んでいた。この屋敷の執事だろうか。しかし、自分を地下室に案内した男とは別人だった。

 「興奮して意識を失われたのです。ご気分に変わりございませんか」

 男は抑揚のない口調で尋ねている。リヒャルトはゆっくりとうなずいた。

 「大丈夫だと思います。まだ、ぼんやりとしてはいますが」

 「馬車をご用意いたしております。歩けるようでしたら、ご案内申し上げます」

 「ありがとうございます。ご厚意に甘えさせていただけるのであれば、あと少し休ませていただければ、あとは歩いて帰ることができます」

 「左様でございますか。ですが、今回は無理をなさらず、馬車でお帰りくださいませ。主から言いつかっておりますので」

 「主? それはマクダネル卿ですか?」

 男は首を振った。「いいえ。私の主は訳あって名を明かすわけにはまいりませんが、マクダネル卿ではございません」

 「そうですか……。そう言えばマクダネル卿は? 講演はどうなりましたか?」

 「講演は少し前に終わり、マクダネル卿や集会にご参加された方がたもお帰りになりました」

 リヒャルトはため息を吐いた。「いきなり卿のお話しに割って入る無礼をしてしまった。卿はさぞ気を悪くされただろう。お詫びしておきたかったが……」

 「それはお気になさらぬようにと、卿より伝言をお預かりしております。むしろ、若者と有意義なやりとりができたと大変ご満足されておいででした」

 リヒャルトは再びため息を吐いたが、これは安堵したからだった。「そうか……。そうであれば父上たちに迷惑をかけずにすむかな」

 「ご安心ください」男は短く答えて頭を下げた。

 「ところで、こんなことをあなたに尋ねても良いかわからないのですが……」

 「何なりとお尋ねください」

 「今後もこの集会に僕は参加させてもらえるのですか? 出入り禁止になっていませんか」

 「リースタイン様にそんな仕打ちを考える者は誰もおりません。今後も積極的にお顔を出してください。リースタイン様は歓迎されておられます」

 「ぜひ、そうさせてください。僕も貴族連合に加わりたいものだ」

 リヒャルトはすっかり気分が晴れて、顔つきもすがすがしいものになった。しかし、彼の言葉に男は困ったような表情になった。

 「どうかしましたか?」

 「まことに申しにくいことなのですが……。リースタイン様は現時点では貴族連合の一員になることがおできになりません」

 「何ですって? 理由をご存知なのですか?」

 男はうなずいた。

 「連合の参加資格は爵位をお持ちであることなのです。貴族の一員であっても爵位をお持ちでないリースタイン様には認められないのでございます」

 そうか。僕はまだ「本当の貴族」になっていないんだったな……。

 リヒャルトはすぐに納得した。

 「ですが、連合は活動の趣旨に賛同していただく方の支援を歓迎いたしております。これまでも厚い支援をいただく方には、特別会員として連合の参加が認められております。リースタイン様が望めば、道がないわけではございません」

――ほら見ろ。僕には見込みがあるからこそ試練が与えられるんだ。これはそれを乗り越えるために示された『手がかり』だ。

 リヒャルトは高揚する気持ちを抑えながら尋ねた。

 「連合はどんな支援を望まれている? 僕にできることであれば何でも協力するよ」

 「そうお急ぎにならないでください。私は主に使える下僕のひとりにすぎません。主たちを差し置いて、私が条件を出すなどありえません。あくまで主の意向をお伝えするのみでございます」

 男の言うことはもっともだ。リヒャルトはうなずくと男の手を握った。

 「無理を言って困らせてしまった。許してほしい。許してもらえるなら、僕の図々しい願いを聞いてもらえないだろうか?」

 「何なりと」

 「あなたの主に伝えてほしいのだ。連合の味方になりたい者がいることを。そして、そのためにできることを知りたがっていることを」

 男はすぐに答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。だが、男は静かにうなずくとリヒャルトの手を握り返した。

 「リヒャルト様からの伝言は必ず主に届けます。ですが、お返事がすぐに来るとはお考えにならないでください。主は慎重な方でございます。何事も時間をかけてから結論をお出しになるのです」

 「わかりました。しかし、それまでの間、僕はどうすればいいのだろう」

 「リヒャルト様がさきほどご希望されたように、集会のご参加をお勧めします。集会にお顔を出す機会が増えれば、知己の方も増えましょうし、それだけ連合への参加資格に近づけるというものです」

 「あなたの言う通りだ。今後もあなたにはいろいろ教えていただきたい。改めて名乗ります。僕はリヒャルト・リースタイン。あなたは?」

 「ジャン・バティストと申します」男はゆっくりと会釈した。


 それからのリヒャルトは忙しい日々を過ごした。多くの集会に顔を出し、貴族主義の素晴らしさを演説する講演者の話を熱心に聞き入った。もう何回、集会に顔を出したのかわからないぐらいだ。それほど彼は夢中になっていた。あれ以後、マクダネル卿と会話する機会は訪れなかったが、彼は一向に気にしなかった。まだ、その時期でないのだと理解していたからだ。貴族連合に関する知識は、ジャン・バティストから得ていた。この主が不明の男は、リヒャルトに集会の招待状を送ってきたり、他の貴族連合の会員に引き合わせたりと、何かと手を焼いてくれていた。おかげで、まだ一員になっていないにも関わらず、リヒャルトはすでに会員になっているかのように感じていた。貴族連合の多くの関係者に覚えられるようになったからである。自分が認められる日も遠くはない。彼はそう強く信じていた。それはもう、政治団体に参加する者の姿ではなかった。まるで何かの宗教に改心した信者である。貴族主義に傾倒することで、彼の魂は何らかの救済を得ているかのようだったのだ。

 ある日のことである。いつものように集会の案内を届けに来たジャン・バティストは、リヒャルトに案内状を手渡すと、無言で頭を下げて立ち去ろうとした。普段はひとことふたこと言葉を交わしていたので、その様子は奇異に映った。

 「何かあったのですか?」

 背を向けて立ち去りかけていたジャン・バティストは、くるりと向きを変えた。

 「実は、主のことが心配なのでございます」

 「主が? 何かお病気なのですか?」

 「病気は病気でも、主自身のご病気ではございません。主が気に病んでらっしゃるのは、この国のことでございます。この国の病を、主は憂いてらっしゃるのです」

 「この国の病ですって?」

 ジャン・バティストは、目を閉じてうなずいた。

 「左様でございます。現在、王太子殿下はまつりごとの中心から貴族の皆さまを排斥せんとばかりに、立て続けに政策の変更を指示されておられます。この間などは、評議院の参政資格を下級市民にまで広げる政策案を評議会に提出なさったのです。貴族の聖域であった政を地に落とす暴挙であると、主はお嘆きなのです」

 「政治には無関心だったから、そんな話が進められているなんて知らなかったよ。たしかにひどい話だ」

――ひどい話。

 リヒャルトにとって、貴族主義は自分の心を檻から解き放った神に等しいものだった。それは何人であっても決して穢されたり貶められたりしてはならない神聖なものなのだ。それが、たとえ国王であってもだ。

 「主に伝えてくれないか。何か頼みたいことがあれば私にも声をかけてほしいと。いつかお役に立って見せると言ったのは嘘でないことを証明したい、と」

 「お心遣い感謝申し上げます。主にはたしかにお伝えいたしましょう」

 ジャン・バティストは礼を言うと立ち去った。後に残されたリヒャルトは腕を組んで考えた。ああは言ったものの、僕がどのような役に立つのだろうか? 王太子にこれまでの政策を転換させ、貴族主義の政を執るように仕向けられたら、第一等の功績になるだろう。貴族連合の一員に選ばれるのは間違いない。だが、王太子をどう説得すればいいのか、見当がつかない。それに自分は王太子と接点がないのだ。これまでも拝謁など叶わなかった。説得以前の問題だ。説得できないとなれば、ではどうする?

――王太子殿下を政の中心から外してしまう。

 続いて浮かんだのがそれだった。漠然とした考えだ。リヒャルトはそう思った。具体性がない。それでは何も行動に移せられない。

 「リースタイン様」

 扉をノックする音が聞こえ、下宿の管理人の老婦人が手紙を手に現れた。リヒャルトはそれを受け取って差出人の名前を見た。送り主は王立魔法学院の司書だった。そこで彼は3か月ほど前に資料の閲覧を申請していたことを思い出した。ディクスン城を守護する魔法障壁の謎を調べていたのだ。城を魔法攻撃から守るために建てられた5つの搭。しかし、あれらが何の術式で半永久的に機能しているのかわからない。大魔導士マーリンが残した最高級の遺産である。そんな遺産に対して、彼はある推測を立てていた。それは、あの塔はどこかで性能実験を行なってから設置されたはずだと。思い付きで建てられるような代物ではないからだ。マーリンであれば、非公開軍史に記録を残しているはずだ。資料を調べたが、直接つながる資料は見つからなかった。しかし、ある項目の資料が気になった。それはホルン山で行なわれた魔法防御の実験についてで、時期はマーリンが魔法障壁の搭を建てた頃に近い。魔法防御に関わる項目であるし、申請次第で閲覧可能のものだったので、彼は申請を出したのだった。手紙はその許可が下りたことを伝えるものだった。彼は苦笑を浮かべた。最近はまったく研究に打ち込んでいない。そんな申請を出したことさえ、とっくに忘れてしまっていたのだ。

 リヒャルトは手紙を屑箱に捨てようとしたが、その手がふいに止まった。

……これは、使えるのかもしれない。

 リヒャルトは学生の頃、防御魔法の耐久性の実験を行なっていた。彼が同級生の防御魔法に雷撃魔法を放った時だ。同級生がやけどを負ったのだった。やけどの具合は知れていたので、それほど騒ぎにはならなかった。やけどを負った同級生がやけどを自分の魔法が失敗したせいだと頭を掻いていたが、リヒャルトは違うと考えていた。同級生の魔法に問題点はなかった。それでも彼の雷撃魔法がやけどを負わせたのは、魔法本来とは別の要素が働いたからではないかと推測したのだった。なぜなら、火炎魔法での実験では、相手にやけどを負わせられなかったからである。彼は実験を重ね、やがて、ある事実を突き止めた。一定の電圧で放った雷撃魔法が、電磁波となって相手にやけどを負わせられるのだ。電磁波は物理上の産物なので魔法防御をすり抜けてしまう。彼はそう推定した。それは魔法理論学とは異なる分野の見解だった。そのため、魔法の権威者でさえも見過ごされてきたのだ。彼は自分の発見を論文にまとめ、学院に提出した。

 論文の評価は彼を失望させた。ほとんど注目されなかったのだ。魔法理論学とは異なる視点での論文は独自性が高い一方、誰も正当性の判断ができなかったのだ。それが意味するのは評価の良し悪しだけではない。論文が指摘する魔法防御に潜む弱点と危険性も理解されていないことを意味していた。論文としてはそのような評価であったが、彼は学位を修得することはでき、さらに研究室へ進むことができた。論文の評価はともかく、彼の成績は悪くないものだったからだ。彼は自分の発見の再評価を願い、研究を続けることにした。今度はすぐ論文にまとめることはせず、発見を裏付ける証拠固めに努めた。研究室に移ってからの彼の実績が乏しいのはそのような背景からである。

 ホルン山の資料閲覧を希望したのは、魔法障壁の実験場所を特定し、自らも魔法障壁の実験を行なおうと考えたからだった。さらに、雷撃魔法による電磁波で、障壁の内側に被害の起きることが確認されれば、彼は自分の正しさを証明できるだけでなく、最大級の栄誉を受けられるはずだ。大魔導士マーリンが生み出した魔法障壁に、弱点が存在することを発見した研究者として。

 ほんの少し前まで、彼が望んでいたのはそれだった。しかし、今の彼はそんなことを考えていたことすら忘れてしまっていた。彼の望むものはただの優越感ではない。誇りとともに得られるものだったのだ。どれだけ優秀であるかを示して見せても、評価する側が認めなければ無能と思われるのと同じである。彼がこれまで味わった屈辱感は恨みを募らせ、同時に多大な緊張を強いた。他人から謗られることがないよう、彼は周囲を常に気にしながら、息をひそめるように過ごしていたからだ。彼の緊張を解いた貴族主義の思想がなければ、彼は今も満たされない承認欲求に苦しめられながら研究を続けていたことだろう。

――だが、今の僕は違う。誇りを胸に、試練に立ち向かう勇者だ。これまでの人生は、真の誇りを獲得するまでの道のりだったのだ。魔法障壁の弱点を確認できれば、僕はたったひとりで貴族連合の敵を倒すことができる。そう、魔法障壁に守られたディクスン城に電磁波を浴びせて、国王もろとも王太子を始末するのだ。それを成し遂げれば、王位を継ぐのは王家の血筋であるカリナス様だ。この革命はたったひとりの力で実現される。

 リヒャルトは自分の思いつきに興奮した。彼はジャン・バティストが訪れると、ディクスン城攻撃の計画を伝え、計画が成功した暁には自分を正式に貴族連合の一員に加えてもらえるよう願い出た。王太子の政治を「国の病」と断じ、主のことに思い悩んでいた彼なら、この計画に賛同してくれると信じていたからだ。

 ジャン・バティストはリヒャルトの計画に目を丸くしながらも、それを非難するような言葉はひと言も発しなかった。ただ、細い目をますます細くして、「果たして実現可能なのですか?」とだけ尋ねた。

 「むろん、検証の必要な事案ではあります」

 リヒャルトは冷静にうなずいた。ジャン・バティストの疑問はもっともなことだ。

 「そこで、計画実行前に実験を行なうつもりです。場所はホルン山。かつて、マーリンが魔法障壁の実証実験を行なった場所です」

 「マーリンが実験を行なった場所ですと?」

 「ええ。山の頂上には何十名かの村人が居住しています。山の周囲に魔法防御の障壁を展開し、電圧を調整した雷撃魔法をぶつけるのです。それによって生じた電磁波で、村人が致命傷を負ったと確認できれば、この計画の成否も決まります。実験が成功すれば、僕はその足で王都へ向かい、国王と王太子に雷撃魔法を喰らわせてやりますよ」

 「なるほど、お考えはよくわかりました。しかし、おわかりですか? これは失敗すれば反逆として処罰される行為です。貴族連合のためといえど、貴族連合は表立ってお味方するわけにはまいりませんぞ」

 「それは承知しています。だからこそ、僕が単独で行動するのです。連合の皆さんが動くのは、僕が成功してからで良いのです。そうであれば、たとえ僕が失敗しても連合の皆さんに迷惑はかかりません」

 ジャン・バティストはため息を吐いた。

 「そこまでお考えであるなら、私からは何も申し上げますまい。ですが、事は慎重に運んでいただかなければなりません。城には連合の皆さまも議会に出席なさっているのです。議会中に攻撃されると連合の皆さまも巻き添えに遭います」

 「そうですね。そこで、あなたには通信役をお引き受けいただきたい。僕とあなたとで通信魔法で連絡が取れるようにしておくのです。城に連合の皆さんが不在で、かつ国王と王太子がいる時間帯を連絡いただければ、僕はそのときを狙って攻撃します」

 「私に魔法の心得があると、どうしてご存知で?」

 「有力貴族に仕える執事は、あらゆる場面に対応できるよう魔法の修得者が就くものです。あなたほど優秀な方なら当然だと思いましたよ」

 「ご慧眼なことで恐れ入ります」

 ジャン・バティストは頭を下げた。それからふたりは、細かな打ち合わせを行ない、それぞれの行動に移るべく別れた。去り際にジャン・バティストは念を押すように伝えた。

 「くれぐれも行動は慎重に願います。実験段階で事が露見すれば、それまででございますから」


――事が露見すれば、それまででございます……

 ジャン・バティストが帰った後、リヒャルトは彼の言葉を反芻はんすうした。彼の言う通りだ。実験を行なった村は事件現場となる。こっそり実験の検証ができるか保証がない。もし、駐屯軍などに拘束されると、身元を調べられてしまう。自分がリヒャルト・リースタインだと知れれば、さすがに自分の研究も調べられて明らかになる。そうなれば事件と自分の研究を結び付けられるのは簡単なことだ。それでは城への襲撃が不可能になる。しかし、実験を行なえば、村の調査は必須事項だ。結果を知らずに計画の実行はありえない。

 リヒャルトが対策を考えていると、彼の部屋を訪ねる者がいた。モランだった。

 「いや、なに、挨拶をしようと思ってね」

 モランは部屋に入るなり切り出した。顔は満面の笑みで、やや紅潮している。

 「どうかしたのかい?」

 「ほら、こないだ話したろ? シドニー・パジェット教授の研究室に入れていただきたいと論文を送ったこと」

 「ああ、たしかに」リヒャルトはうなずいたが、憶えていない話だった。そのころはモランの話もいいかげんに聞いていたからだ。

 「あの論文がさ、けっこう気に入られたんだ。研究室に迎えてくれることが決まったんだよ」

 「そりゃ、おめでとう」

 「ありがとう。さっき、学院に行って移籍の手続きを済ませたよ。明日からは王立魔法学院の研究者だ」

 モランのことに無関心だったリヒャルトも、この言葉には驚いた。

 「王立だって? しかも明日?」

 「何だ、やっぱ憶えていないじゃないか。僕はもともと学院の研究室を辞めるつもりだったんだ。辞める手続きは先月済ませたって話を、こないだしたんじゃないか」

 「あ、ああ。それは、憶えているさ……。でも、明日だってことは聞いてないぞ、たしか」

 「そうか。そうだったな。悪い、驚かすつもりじゃなかったんだ。ただ、今までのように顔を合わすことがなくなるからな。ちゃんと言っておこうと思ったんだ」

 モランは頭を掻きながら詫びた。リヒャルトは気にしないよう言いながらモランを部屋の中に招いた。

 「大したもてなしはできないよ。急な話で何も用意していないから」

 リヒャルトはお茶の用意をしながら言った。

 「お構いなく、さ。こっちもそんなことをねだりに来たわけじゃないから」

 モランはそう言いながらも差し出されたカップに口をつけた。

 ふたりはその後しばらく昔の話をしながら過ごした。そうは言っても、話しているのはモランがもっぱらで、リヒャルトは大人しく聞いているばかりだった。たまたまパイ生地を伸ばすのし棒が手元にあったので、それをコロコロとテーブルの上で転がしてもてあそんでいる。リヒャルトはとっくに冷めたカップを見つめながら、モランの話す話題とは別のことを考えていた。

 「なぁ、セバスチャン」

 「なんだい」

 「さっき、教授と会うのが楽しみだなんて言ってたが、教授と面識はないのか?」

 「まぁ、面識がないことになるね。僕は教授の講演を聴きに行ったことがあるんだ。だから、僕は教授を知っているが、あっちにすれば大勢いる聴衆のうちのひとりだからね。僕の顔なんて知らないに決まっているよ」

 「そうかい」リヒャルトは立ち上がるとモランのかたわらに立った。「お茶のおかわりはどうだい?」

 モランがリヒャルトに顔を向けようとしたが、リヒャルトはその側頭部をのし棒で殴りつけた。のし棒は太く、重いものだった。強烈な一撃を受けて、モランは声も上げずに食堂の床に転がった。頭の皮膚はそれほど破れなかったらしい。あまり血が流れてこなかった。リヒャルトはモランに馬乗りになると、その首を両手で絞めた。モランはすでに意識がなく、まったく抵抗されなかった。

 リヒャルトにとって初めての殺人は、ほんの数分の出来事だった。彼は念のためあたりの気配をうかがったが、周辺に彼の行動に気づいている者はいないようだ。ここが広い屋敷だけでなく、互いが互いのことに無関心だった。大して物音も響いていないので、屋敷に下宿している誰もが気にしていないのだ。

 それでもモランの遺体を運び出すのは深夜になるのを待たなければならなかった。勢いで殺してしまったので、遺体を隠す手立てを用意していなかったのだ。辺りが完全に寝静まったのを確認して、リヒャルトは遺体を地下の物置部屋まで引きずった。そこは誰も使わなくなった古い部屋で、よほどでないと誰も立ち入らない。しばらくは遺体を隠していられるだろう。

 遺体を物置に放り込み、かんぬきをかけるとリヒャルトは自分が笑みを浮かべているのに気がついた。地下の物置はジメジメとして、不快なカビの臭いが漂っていた。こんなところだとモランの遺体はすぐにでも屍霊化グールかしてしまうだろう。この世界では、遺体を放置していると屍霊グールとなってしまう。屍霊グールはひとを襲い、食い殺す。屍霊グールはひとにとって、身近な脅威である。かつて、この地を支配していた魔王が勇者によって倒された。魔王が死にぎわに残したのが屍霊化グールかの呪いだと言われている。事の真偽はともかく、モランが屍霊グールになるのであれば溜飲が下がる気分だ。彼の死を穢すことで、リヒャルトは完全にモランより優位に立てたと実感できるのだ。

 翌朝、リヒャルトはこれまでの長い髪を切り落とし、最近使わなくなった古い眼鏡を着けて下宿の外へ出た。今日から彼はモランとして行動するのだ。新しい出発に彼の胸は躍った。

 下宿の門を出たところで、リヒャルトの足は止まった。門のすぐそばでエリザベスが立っていたからだ。

 「おはよう、リヒャルト」エリザベスはリヒャルトの変貌を気にするふうでもなく挨拶した。

 リヒャルトの額から汗が滲み出てきた。なぜ、こんなときに、こんなところで、彼女が現れるんだ!

 「おはよう、エリザベス」

 リヒャルトは努めて平静に返した。「どうしたんだ、いったい? これまでここに来るなんてなかったのに」

 「どうしても、今、あなたと話しておきたくて」エリザベスはうつむきぎみで、リヒャルトと目を合わさない。話したいと言っておきながら、まるで話したくないようだ。

 リヒャルトはいらいらするのを抑えながら尋ねた。「何を?」

 「私の婚約が決まりましたの」

 リヒャルトは一瞬、呼吸するのを忘れた。しかし、すぐ我に返ると自分でもわかるほどぎこちない笑みを浮かべた。

 「……それは……、おめでとうって、言わなきゃいけないんだろうね。お相手は、まさか」

 エリザベスはうつむきぎみのままうなずいた。

 「ポール・マクダネル伯爵の嫡男、ベイル様よ」

 そうか、ついに決まったのか。過去には王家との婚姻もあったレイドック家のご令嬢と釣り合うのは、やはり同じような名門であるマクダネル家ぐらいしかないだろう。

 「そんな報告をするために、わざわざ出向いてきたのかい、君は?」

 そこでエリザベスは顔を上げた。何かを問いかけたい真剣な眼差しだった。これまでに見たことがない彼女の表情に、リヒャルトはたじろいで一歩下がってしまった。

 「私はあなたにお尋ねしたいのです。あなたは私とのことをどう思っているのかを。もし、あなたが私とともに生きることを望むのであれば、私はあなたについていっても良いと考えているのです」

 リヒャルトは面喰ってしまった。これまであらゆる感情を消し去ったかのようなエリザベスから、そんな言葉が飛び出してくるなど思いもしなかったのだ。いや、ただ、感情を抑えていただけなのだ。何かの拍子に、この場合は婚約が内定したことがきっかけで、感情を抑えることができなくなったのだ。忘れていた。夜会のときに彼女は当たり前の感情を持った女性だと知ったではないか。しかし、ここまで自分のことを想ってくれているなど、どうして想像できよう? これまで愛を語らうことなどまったくなかったのだ。

 もし、エリザベスの告白が一日早く、モランの訪問より先であったなら、モランの運命も、その後の出来事もまったく異なるものになっていたのかもしれない。もちろん、それを論ずるのは不毛なことだ。モランは遺体となって地下の物置に放置され、リヒャルトは殺人者として新たな事件を起こすべく行動を始めているのだ。もう後戻りはできない。

 「僕についていくだって?」

 リヒャルトは皮肉な笑みを浮かべた。エリザベスはこれまで聞いたことがない冷たい口調に目を見張った。

 「僕と君との関係は限定的なものだって言ったのは君自身じゃないか。僕はそれで納得していたんだ。そうさ、僕は納得していたんだ」

 リヒャルトの中に今まで感じたことのないものが胸の内から湧きあがってくる。彼はそれが何なのかわからなかった。ただ、それをあえて表現するのであれば、『快哉かいさい』がもっとも近いのだろう。

 「そうだよ。僕はずっと、納得していたんだ。ずっと、ずっと、ずうううっと!」

 ついには感情が哄笑となってあふれ出した。リヒャルトはひと目もはばからずわらいだした。

 「意外だよ。君も納得しているものだと思っていた。僕たちは貴族だ。貴族としての生き方に疑問など持っていないと思っていたのに」

 「そんな、納得など……。いえ、あなた、どうなさったの? 私の話に怒っていらっしゃるの?」

 エリザベスは狼狽して手を差し伸ばしてきた。リヒャルトはその手を振り払った。力は込めていなかったが、手を振り払われた彼女はまるで頬を引っ叩かれたような顔になった。

 「僕が怒っている? この顔を見て怒っているだなんて、君のほうがどうかしている。僕は君の生き方に敬意を払っているんだ。貴族としての生き方を貫くため、余計な感情を捨てて生きている君に」

 「捨ててなどいません!」

 初めてエリザベスが大声をあげた。「ただ、捨てることができれば、どれほど楽だったかと思ってまいりました」

 「でも、その生き方を教えてくれたのは君だ。君のおかげで僕は貴族としての生き方ができる」

 「私のおかげ?」

 「そうだよ。僕は君を見倣って、真の貴族になる。奪われる側から奪う側になるんだ。僕は神に与えられた試練を乗り越えてみせる」

 リヒャルトはエリザベスに向けて一歩進みだした。彼女の表情に恐怖が見て取れた。彼女はあとずさりながらつぶやいた。

 「……奪う? 試練? あなた、いったい何を言っているの? あなた、本当にどうかしてしまったの? あの夜会からずっと、あなたの様子がおかしいと思っていた。私のせいで心が壊れてしまったの?」

 「壊れてなどいないさ!」

 リヒャルトは快活に答えた。「むしろ逆だよ。僕はあれから自分を取り戻したんだ!」

 リヒャルトはまっすぐ歩き続ける。エリザベスは脇へどいて彼を通した。

 「改めて婚約おめでとう、エリザベス! 僕は君の結婚を心から祝福するよ!」

 リヒャルトはエリザベスのかたわらを通りながら声をかけた。そして、そのまま振り返らず歩み続けた。彼女がどんな表情で立っているのか、彼はもう気にもならなかった。彼はそのままその場を立ち去った。


 とんとん拍子とはこのことだ。

 パジェット教授に会ったリヒャルトはモランと名乗り、さっそく遺跡調査の提案を行なった。モランの論文にほれ込んでいた教授は快くその提案に乗った。助手であるメアリー・ハントからは、教授が発掘したいと考えるナシナカ遺跡はなかなか許可が下りないこと、研究実績がないままでは研究費が削減されかねない状況にあることを後に教えられた。リヒャルトの提案にさっそく乗ったのは、研究費削減を回避するための実績づくりだとわかった。

 ホルン山に向かうのは早くても一か月後になるだろうと踏んでいたのだが、二日後には教授が準備を終えてしまっていたのには驚いた。リヒャルトはジャン・バティストに実験を間もなく開始することを伝えた。そして、自分が別人になって行動するので、リヒャルトが行方不明になることを伝えた。行方不明になった自分を探して、家族の誰かが連合の誰かを尋ねに行くかもしれない。そのときはまったく関りの無い間柄だと説明するように頼んだ。ジャン・バティストは状況を理解し、実験の成功を祈った。リヒャルトは礼を言うと通信を切った。

 ホルン山へはリヒャルトが先行して調査の準備を行なうことになった。まさに好都合だった。彼はホルン山へ到着すると、さっそく周辺の搭に入った。資料から、搭の中に魔法障壁のからくりが収められていたのは調べてある。塔の中はがらんどうで、何の手掛かりも残ってはいなかった。彼はうなずいた。ますます都合がいい。ここが魔法障壁の実験施設であったことを匂わすものは何もない。彼がここで実験を行なっても、実験と魔法障壁を結び付けて考えられる者はそうはいないだろう。彼は満足して下見を終えた。


 実験はその夜に行なわれた。巨大で強力な魔法防御の魔法陣を張るのは手間がかかる。魔法陣の維持にも相当な魔力が必要だ。個人的な魔力に頼ることなく魔法陣を維持するため、彼はろうそくを使った方法を試すことにした。魔法陣の力を引き出すための象徴効果を狙って、ろうそくを配置したのだ。このことは魔法理論学を追究した者なら基本の知識だった。彼ははやる気持ちを抑えながら、すべての搭を回り、魔法陣を張った。周囲がうすぼんやりと虹がかったようになり、ホルン山は防御魔法で覆われた。魔法陣の設置で時間がかかったので、夜はだいぶ更けてしまったが、おかげで山頂の村人は何も気づかずに眠っているはずである。実験の障害は何もない。

 リヒャルトは南側の円形の台に立ち、呪文を唱えた。気分が高揚してくる。今、自分はマーリンと同じ場所で、同じように実験を行なっている。マーリンは守るために、一方、自分はそれを打ち破るために。自分はまるでマーリンと対等の宿敵ではないか。これで気分が高揚しないほうがどうかしている。

 リヒャルトが放った雷撃魔法はまばゆい光を放ちながら防御魔法に襲いかかった。彼は電圧を調整して電磁波の発生を促した。防御魔法の内側には、水を張ったグラスを塔のそばに置いてある。それは円台の上から見える位置にあった。目論見通りに電磁波が発生すれば、グラスの水に作用して沸騰する。極限にまで熱を発するようになれば、グラスは熱に耐えかねて割れてしまうだろう。自分の魔法が効果を上げているかは、それで確認することができる。おかげで、彼は自分の魔法が電磁波の発生に成功していることがわかった。グラスは雷撃の明るい光に照らされて、遠目でもよく見える。グラスからは白い蒸気が立ち昇り、中の水が沸騰していることが見て取れた。やがて、かすかだがパリン!とグラスの割れる音が聞こえた。同時にグラスから反射される光も見えなくなった。グラスが割れたのは確実だ。

 もう充分だと思ったが、念のためあと数分は魔法をかけ続けた。地上では効果が大きくても、山頂ではどうかわからないからである。とは言え、ここまで魔法をかけ続けるのは非常に疲れる。リヒャルトは魔法を解くと、その場にくずおれるようにへたりこんだ。すぐには立ち上がれないほどの疲労感に襲われる。これでは攻撃を仕掛けた後、走って逃げるのは無理のようだ。だが、それはもういい。彼は実験の成功を半ば確信していた。実際の攻撃も成功すれば、自分は大人しく捕まってやればいい。国王と王太子を失えば、国はカリナス様のものとなる。暗殺者として捕らえられるが、カリナス様を国王へ導いた者として解放されるのだ。その後の歴史には自分の名が記されることになる。新たな英雄として。


 だが、順調に思えた実験は、思わぬ形で齟齬そごをきたすようになった。予想以上に早く事件が露見して、リヒャルトが教授たちと合流すると間もなく駐屯軍に捕らえられたのだ。実験は成功だとわかったものの、実態調査ができないのはさすがに痛い。効果の範囲などが確かめられなければ、城への攻撃は難しくなる。

 一時は不運に見舞われたかに思えたが、パジェット教授が駐屯軍の司令と身内の関係にあると判明すると、再び風向きはリヒャルトのほうに向いた。教授のみならず、彼とメアリーへの疑いも晴れ、事件の調査を依頼されることになったのだ。ひと目がなければ、彼は小躍りしたいところだった。教授が渋々引き受けると、彼は医学の心得があるから役に立てると申し出た。面倒ごとを彼に押しつけられるとでも思ったのか、そのときの教授はほっとした様子だった。

 現場には文字通り駆けつける羽目になった。ひとりで馬に乗った教授に置いてきぼりにされたのだ。メアリーとともに山を駆け上がると、現場の光景に目を奪われた。小屋の前に白い布をかけられたものがいくつも横たわっていた。それらがすべて遺体であると瞬時にわかった。彼は思わず雄叫びをあげそうになって、慌てて自分の口を押さえた。これを自分がやったのだ。自分ひとりで。自分ひとりの力で。すぐにでも実験の成果を確かめたかった。実験の成功は研究者の最高の喜びだ。今、自分は最高の歓喜に包まれている。さぁ、早く布をめくらせてくれ。自分に成果を見せてくれ。

 検死を務めるコジャック医師とともに遺体の検分ができたのは、さらに幸運だった。自分の知識も悪くはなかったが、専門家はやはり数段違う。コジャック医師は遺体の状況を的確に分析している。リヒャルトは記録を熱心に書き留めながら、自分の成果を確認した。途中、生存者がいると騒ぎになったが、発見された少年はすでに息絶えていた。彼が脈をとり、医師にそのことを伝えると、周囲の者たちはがっくりと肩を落とした。特に探偵の落胆ぶりは見ものだった。ひざをついて、呆然としていたのだ。その様子を眺めながら、彼は次の行動の計画を練ることにした。どこかの機会を捉えてジャン・バティストと連絡を取り、実験の成功を伝え、計画の実行日を教えてもらうのだ。あとは適当な口実をつけて王都へ戻り、城を落とすだけである。

 機会はなかなか訪れなかった。連絡を取るにはひとりになる必要がある。塔の調査のときも、いつでも連絡できるよう通信魔法の術式が描かれた布を持っていたが、使う機会は結局訪れなかった。教授たちが調査で塔に入っても、わざとひとり外に残って機会をうかがった。しかし、彼らがいつ戻ってくるかと思うと魔法を使うことができない。調査に不要の荷物も持ってきたので、ひとりで運ぶのにも苦労する。思わず愚痴を漏らすと、メルルが手伝おうとしてくれた。しかし、彼はそれを断るしかなかった。何かのはずみで通信魔法の布を見られると、後で面倒だからである。

 通信をする機会は、教授とメアリーが山頂の村へ登るときまで待たなければならなかった。通信をつなげると、ジャン・バティストが待ち構えていたかのようだった。

 「リースタイン様。実験は成功のようで何よりです」

 リヒャルトは驚いた。彼はこれまで一度も連絡できなかったからだ。

 「実験の件は事件として王都に伝わっております。村がひとつ全滅したとあって、それなりに大きな騒ぎになっていますよ」

 「僕がやったという疑いは挙がっているのですか?」

 ジャン・バティストは首を振った。

 「いいえ。村で何が起こったのか、誰もまったく見当がついていない様子で、主もこれなら実際の計画も成功できるだろうとおっしゃっていました」

 「そうでしたか」

 リヒャルトは満足そうにうなずいた。すべての決着がついたら、ジャン・バティストの主が誰なのか教えてもらおう。ひょっとするとカリナス様なのかもしれない。リヒャルトは自分の予想にウキウキする気持ちだった。

 「あとは、この魔法を王都でも実行するだけです。決行はいつにすれば良いのですか?」

 「実は明日、ある法案の決議が行われます。その決議に貴族連合は欠席することを決めているのです」

 「それでは」

 ジャン・バティストはうなずいた。

 「決行は明日。正午から14時までの間が良いでしょう。その時間帯であれば、国王陛下はもちろんのこと、王太子殿下も議会のために城内においでです。機会を捉えるのは、その時かと」

 「了解しました。では、僕は適当に口実をつけてここを離れることにします。ジャン・バティストさんは、主に決行について僕が了承した旨をお伝えください」

 「かしこまりました。では、首尾よくいけますよう願っております」

 通信を終えて布を片付けていると、突然の訪問客に驚かされた。事件発見者の行商人と元村人の男だった。事件の現場となった村を弔意訪問したいという。おかげで布の片づけが中途半端のまま応対する羽目になったのだ。あの予想外の出来事で終始ヒヤヒヤされっぱなしだったが、彼はどうにかやり過ごしたと思っている。あとはどんな芝居でホルン山劇場を退場するか、その演出を考えるだけである……。

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