~死者を抱(いだ)いて山は沈黙する~ 8
Chapter 8
27
――魔法障壁でも防げない魔法攻撃の実験?
メルルはかすかなめまいを感じた。レトの言う通りであるなら、村人は魔法の効果を確かめるために犠牲になったということだ。あまりに理不尽すぎる。
「ヴィクトリアさん。リヒャルト・リースタインは、魔法学院の研究員でしたね? 彼は何の研究をしていたんですか?」
『彼は防御魔法の弱点を研究していたわ』
レトの質問にヴィクトリアは即答した。質問を予期していたようだ。
『防御魔法は、術者の周囲に魔法攻撃を防ぐ障壁を展開させて身を守るものだけど、個人が使うにはまだまだ問題点や改良すべき点が多い、とっても不完全な魔法なの。それで防御魔法の研究は、バンコラン魔法学院だけでなく、王立魔法学院やほかの研究機関でも研究されているわ。だから、その研究そのものは別に珍しくも特殊なものでもないわね。防御魔法の効果を調べるために、さまざまな実験が行われてきた。私が学生だったときも何人か、その研究に取り組んでいたわね。そして、バンコラン魔法学院でもある実験が行われていた』
「ある実験?」メルルはつぶやいた。
『行われていた実験というのは、よそでも行われているものよ。つまり、誰かが魔法障壁を張って、もうひとり別の誰かがいろいろな魔法攻撃を加えるというもの。そのやり方で、魔法障壁の耐久性など調べるわけなんだけど、その話だけなら、実は珍しくも何ともないのよね。ただ、数年前に行なわれた実験で、ちょっとした出来事が起こったの。それは、ある学生が放った雷撃魔法を防いだ学生がやけどを負ったの。大したやけどじゃなかったそうよ。ただ問題は、そのやけどした学生は完璧な魔法障壁を張っていた、ということ。雷撃魔法でやけどを負うはずがない状況だったのよ。目撃した多くの者が、やけどを負った学生が魔法障壁の術式を誤ったのだと考えた。でも、ある学生は、雷撃魔法が魔法障壁とぶつかったとき、従来とは異なる発光現象が起きていたことに気付いていた。そして、学生のやけどはその未知の発光現象が原因ではないかと推測したわけ。さらにその考えを掘り下げて、その学生は、魔法障壁は魔法攻撃を防ぐけど、そのとき生じた物理的な事象には対応できないという仮説を立てた。そこで、魔法障壁に何度も雷撃魔法をぶつける実験を行ない、観察を続けた。その結果、魔法障壁にある強さの電圧で雷撃を与えると、魔法障壁の裏側、つまり術者側に向かって、ある電気の波が生じることがわかったの』
「電気の波?」レトには初耳の言葉だった。
『もともと電気には水面の波紋のように波が生じることは知られていて、一応、『電波』という名前もつけられていたわ。ただ、電波の波は大きい波から小さい波までいろいろあって、たいていの電波は人体に影響を与えない。ただし……』
「人体に影響を与える電波もある、ということですか? 人体にやけどを負わせるような」
ヴィクトリアはうなずいた。
『細胞など水分を多く含むものに影響を与えるの。細胞よりさらに小さい原子って呼ばれるもののことは知ってるかしら?』
「多少は。あらゆる物質の構造は、最終的には原子と呼ばれるもっとも小さいものでできているんだ、ということですよね? そして、原子と原子がくっついて分子になる。知っているのはその程度のものですが」
『あと付け加えるのなら、分子は電波の影響を受けるということ。水もそのひとつ。今回の話なら『水分』と言っておこうかな。さっき話したある種の電波は、その水分の分子を激しく振動させて分子同士をこすり合わせるの。木と木をこすり合わせた摩擦熱で火をおこしたりするでしょ? あれと同じようなことが水分に起こって、熱を生じさせるのよ』
「電波って、そんなことができるんですか?」
『まぁね。電波のことは電磁波と呼ばれていたり、電波の振動の大きさについては周波数なんて用語がつけられているわよ。ただし、現在、私たちにはわかっていないことが多いの。何せ、電気は水のように貯めることができないんだから。常に生産し続けなければ存在できない代物なのよ。手に取って調べられないんだから、研究なんて進まないのも当然ね。そういうこともあって、電気を研究する学者なんて少数だし、まして、魔法と結び付けて研究する者なんて希少と言っていいぐらいだわ』
「でも、わずかでも研究するひとはいた……」
『そう。そして、一定の電圧の雷撃を魔法障壁にぶつけることで、水分に影響する電磁波を発見したのがリヒャルト・リースタインなのよ』
「彼は学院を卒業しても、研究員として学院に残った。その研究を継続していたのですね?」
『ええ、そうよ。やがて彼は研究の対象を、個人だけではなく王都の魔法障壁まで広げたのね。3か月前に王立魔法学院に閲覧の許可申請を出していたわ。そのとき、申請書類として執筆予定の論文の概要も提出されていたから、リヒャルトが何を調べようとしていたのかもわかったわ』
「執筆予定の論文はどんなものでした?」
『『魔法防衛の難点、およびその対策』という題名で、彼がこれまで調べた電磁波による攻撃の危険性、そして可能性を訴える内容になるみたいだったわ。王都を守る魔法障壁は完璧なものではなくて、いずれ攻略される危険を指摘したかったようね』
レトは自分のあごに手を当てて考え始めた。
「リヒャルトは王国に危険を警告する研究をしていた、ということですか。そのリヒャルトが行方不明になり、彼の下宿から遺体が見つかった……」
メルルがレトの小脇をつついた。
「レトさん。リヒャルトさんって方が行方不明になって間もなくなんですよね? ホルン山の事件が起きたのって。それって、リヒャルトさんの研究を誰かが犯行に利用したってことなんですか?」
『メルちゃん。私はそう考えているわ』
レトより先にヴィクトリアが答えた。
「ヴィクトリアさん。ひとつ教えてほしいのですが、リヒャルトが指摘した、電磁波を発生させる雷撃魔法はどれぐらいの電圧で発生するものなのですか? それに関する資料は残っていませんか?」
レトは考えている姿勢のまま、ひとりごとを言うように尋ねた。
『過去のレポート類を調べたけど、特定の電圧は不明ね。雷撃の魔法って、個人の魔力や技量で威力が変わるものだから、『これぐらいで発生する』なんて数値化できないみたいなの。ただ、コツはあるのではないかと考えていたようね』
「そうですか……。僕は雷撃系の魔法が使えませんから、実際はどうなのかと思ったのです。風を使った魔法と同じですね、個人の魔力や技量で威力が異なるという点は」
「ひょっとしてレトさんは、電磁波を発生させるための細かい条件を、犯人に脅されてリヒャルトさんが喋ったと考えているんですね? そして、情報を引き出されて用済みになったリヒャルトさんは犯人に殺されたと……」
「確信はしていないけどね」レトは短く答えた。
『でも、その可能性は高いんじゃない? リヒャルトは誰かにそしられることはあっても、恨みを買うような人物じゃなかった。元恋人ってひとにも会って聞いたけど、彼はとても大人しいひとだったみたい。誰とも衝突しないよう行動していたひとなの。そんな彼が魔法障壁でも防げない魔法の秘密のために殺されたというのなら理解できるわ。彼は自分が発見した研究に殺されたのよ』
「ヴィクトリアさんの考えを裏付けるには、誰が、どうやって、リヒャルトの研究が王都の魔法障壁を破るものだと知ったのか。それを明らかにする必要があります。今回、ヴィクトリアさんが掛け合ってくれたから、資料室の方は以前に記録を閲覧していたのがリヒャルトだと教えてくれたんですよね? ヴィクトリアさんの前に閲覧者を調べた者はいましたか?」
ヴィクトリアの表情が曇った。『いいえ、私の前に調べた者はいなかったわ』
レトはつと顔を上げて両目を閉じた。レトの唇は固く結ばれている。その様子に、メルルは何らかの決意を感じとった。ヴィクトリアも同じように感じたらしく、レトが沈黙しているのに何も声をかけようとしない。彼女もレトが話し出すのを待っているのだ。
やがてレトは目を開けると、メルルに振り返った。
「インディ伍長たちの様子はどうだい?」
メルルはテントの入り口に立つと、外へ顔を突き出して様子をうかがった。
「伍長さんのテントは真っ暗です。もう、お休みになっているようですね……。あっ、いいえ。まだ起きてるのかな? 何か怒鳴っているみたいです」
メルルはすぐ魔法陣まで戻ると、レトに報告した。
『そちらも憲兵の方たちとうまくいってないの? 私たちのせい?』ヴィクトリアが心配そうに尋ねた。レトたちがとばっちりを受けていると思ったのだ。
「探偵事務所はもともと憲兵隊から反発を受けていますよ。フォーレスさんたちが僕たちに好意的に接してくれているのは、むしろ異例なんです。僕たちは相手の厚意に甘えていたんですよ」
『よくもまぁ、そんな優等生なことが言えるわね』ヴィクトリアはやや呆れ気味にため息を吐いた。
『でも、まぁ、レト君の言うことにも一理はあるわね。それで、インディ伍長に何か用でもできたの?』
レトはうなずくと、「所長はこれまでの話は聞いていただいていますか?」と、事務所のどこかにいるはずの所長に呼びかけた。
『ずっと聞いている』
ヴィクトリアの背後から所長が姿を現した。所長が魔法陣の中へ入ってきたのだ。レトは所長の姿を認めると話し始めた。
「このホルン山の事件は、とても異質なものです。この事件の真相はいくつか可能性が考えられますが、もし、僕の考えている最悪の考えが正解であれば、状況は非常にまずいです。ですが、その考えに確信が持てなかったために、グズグズしてしまいました。もっと早く周りと諮って、事件解決に行動すべきだったと今は考えています。所長、この事件の解決には憲兵隊の協力が不可欠です。インディ伍長たちにも同席いただくことを許していただきたいのです」
所長はフンと鼻を鳴らした。『それが事件解決につながるのであれば好きにしたらいい。私は何が大切なのかを見誤るような、うかつな人間でないつもりだ』
レトは頭を下げた。「ありがとうございます」
『メルル』所長は腰に手を当てて、メルルに話しかけた。
「はい」
『インディ伍長を呼んでくれないか。レトはこの魔法陣の術者だから、ここを離れるわけにはいかない』
「わかりました」メルルはテントの外へ駆け出した。
『ずいぶんと思い悩んでいるな、レト』
所長はいくぶん優しい口調で話しかけた。
「犯人は50名を超える人々を殺害した大罪人です。裏付けが不十分な状態で誰かを犯人だと指摘なんてできませんから」
『だから慎重を期してグズグズしてしまった、ということなのね』ヴィクトリアはそう言うと、座ったまま脚を組みかえようと動かした。そのとき彼女の腿から、何かがぼとっと魔法陣の上に落ちた。
『あ、いけない』ヴィクトリアは慌ててそれを拾おうと身をかがめた。レトはヴィクトリアが拾い上げたものを目にすると、急に顔色を変えた。
「ヴィクトリアさん。それ、僕によく見せてくれませんか?」
ヴィクトリアは『それ』をレトの前にかざして見せた。
『レト君、見える? あとで見せようとは思っていたんだけど、これがどうかしたの?』
レトは自分の額に手を当てていた。その表情は喜んでいるのか、苦笑しているのか、何とも言えないぐらい妙に歪んだ笑顔に見えた。
「ヴィクトリアさん」
レトはゆっくりと答えた。
「あなたが手にしているのは、この事件の重要な証拠ですよ」
28
暗闇の中、インディ伍長はがばっと身を起こした。
隣ではフォーレスの静かな寝息が聞こえる。伍長はフォーレスとふたり、このテントで休んでいたのだ。月の明かりが弱いのか、テントの中は深い闇だ。懐中時計を見ることもできないので、今が何時なのかわからない。伍長は深くため息を吐いた。
悪夢のような戦争が終わって2年。あの当時のことは鮮明に覚えてはいるが、夢に現れることはなかった。しかし、今夜は『あのとき』のことが夢となって伍長を苛んだのだった。まさか、あのときのことを夢で見るなんて……。伍長は両手で顔を覆った。
炎と黒煙に包まれた街。逃げ惑う人びと。突然下された理不尽な命令。ただの一兵卒に過ぎなかった伍長には、その命令を拒むことなどできなかった。
――今、ここにいる市民を南門から脱出させよ。お前はしんがりとして市民を守り、そのままグロヴナ市まで護衛するのだ……。
街のいたるところで魔族の軍勢が暴れている。そんななか、数百にものぼる住民を避難させることなど、実質的に不可能な話だった。そんな無茶な命令を、上官は当たり前のようにインディ伍長(当時は上等兵だった)に命じたのだ。当時のインディ伍長には、その命令が意味するものはわからなかった。それが正しいものか、実現可能なものなのか、それを見極めるだけの明るさが、残念ながら彼には欠けていた。ただ、この混乱した状況のなかで、なすべきことがはっきりしただけでも彼にとっては充分だった。彼は上官に向けて敬礼し、命令を実行すべく行動した。
この、あまりにも危険な逃避行には、いくつかの幸運が味方した。
まずは、街を焼き払う炎と黒煙が視界を悪くしたため、門から逃げ出す市民の姿を魔族の軍勢に見つからなかったことだ。数百の市民が狭い門から逃げ出すのには時間がかかる。しかし、近づくのも危険なほど黒煙が周囲に立ち込めていて、全員が抜け出すまで、何者にも見つからなかったのだ。もうひとつは、上官が市民の安全より自己保身に走ったことにある。彼は市民を囮にして、自分たちが無事に脱出することを目論んだのだ。街から逃げるには、敵の注意をそらす必要があると考えたのである。そこで、大勢の市民を南側から逃がすことで敵の注意を南に向けさせ、その隙に自分たちは北門から逃げる算段だったのだ。城壁から見て、敵の囲みは北がもっとも手薄に見えたのだ。しかし、それは北側に誘い込むための敵の罠だった。罠と知らずに逃げ出した上官たちは、無数の敵と相対することになった。結果的に彼らが皆殺しに遭う間に、市民とインディ伍長は脱出できたのだ。伍長たちが脱出できたと言っても、全員無事にというわけにはいかなかった。住民の脱出に気付いた魔族たちが追ってきたのだ。魔族たちの追撃で何名かの住民は命を落とし、何名かの仲間は住民たちの盾となって散っていった。しんがりを務めた者で生き残ったのは彼ひとりだけである。やっとの思いで窮地を脱したとき、伍長は上官の作戦が功を奏したのだと信じて疑わなかった。
上官の卑劣な考えを伍長が知ったのは、しばらく経ってからのことである。ただ、それを知った伍長には何の感情も湧いてこなかった。伍長を嵌めた上官が無残な戦死を遂げて、自分は助かったからなのか。しかし、伍長はその答えが今もわからない。どちらかと言えば、答えを探そうとも思っていなかった。あの極限状況であれば、誰しも保身を考えるものだ。あの上官が拙い策に溺れても無理はなかった。伍長の考えはそこで止まっている。あまり深く考えたくなかったという部分もある。
……じゃあ、なぜ、俺は、『あれ』を夢で見ることになったのだ。
顔を覆ったまま、伍長は考えた。夢に現れたのは、ちょうど南門から市民を誘導しているときの様子だ。次々と市民を外へ送り出しながら、彼の目は炎に包まれた建物に向けられていた。建物の周囲には黒煙に紛れて黒いものがところどころに散らばっていた。最初は何なのかわからなかったが、やがて、それが黒焦げになった人間であると気が付いた。男女の区別も、年齢もまったくわからなかったが、元は人間であったことは確信が持てた。ちょうど頭部らしき部分から何かを語りかけるかのように口が開いていて、そこから白い歯がのぞいていたのだ。あれだけ黒焦げになっているのに、歯は白いままなんだと変な感慨を抱いたものだ。その頭部からぎょろりと目が現れて、伍長と目が合った。口が何かを喋ろうとぱくぱくと動いた。そのとき伍長は目を覚ましたのだ。
遺体から目が現れて、何かを語りかけた部分を除けば、あれは伍長が見た光景そのものだった。
……こんな現場に来たせいだ。大勢の人々が命を落とすことなぞ、戦争以外で見ることはなかった。気が付かないうちに、俺は平和に馴れてしまっていたんだ。殺人事件を捜査する部署にいるにもかかわらず、俺は今の世の中に安堵してしまっていたんだ。だから、こんな事件に直面して、心の深い部分がすっかり驚いてしまったんだ。
ただ、そうであれば、昨夜でもそんな夢を見ておかしくないはずだが、昨夜はどんな夢を見たかさえ思い出せないほどぐっすりと眠っていた。なぜ、今夜になって、こんな悪夢に苛まれることになったのだ? 伍長はすぐ思い当たることに気付いた。
……あの早馬か。
伍長は再び深いため息を吐いた。憲兵本部から送られた早馬からは、今後は探偵事務所と捜査協力を行なわない旨が通知されていた。本来、事件捜査を取り仕切るはずの憲兵が、探偵たちの指示で捜査を行なうことがある。そのことに不満を抱く者が、少なからず憲兵隊内部にいるのは事実だ。その感情は伍長自身にもいくぶんあるので理解できる。しかし、レトとともに捜査を行なうと、彼が快刀乱麻を断つように事件を解決するのを目の当たりにしてきた。あれを目にすると、探偵事務所との連携は事件解決に必要だと思えてならない。そうだ。伍長は今回の命令に従うのは不本意なのだ。
……しかし、俺はあの隊長にここまで引き上げてくれた。俺は隊長を裏切ることができない。
まぶたの裏に黒焦げの遺体が語りかける光景がよみがえって、伍長は慌てて頭を振った。一刻も早く、その光景を振り払いたかったのだ。
「ええい、クソッ!」
伍長は苛立った声をあげると、毛布の上から自分の太ももを殴りつけた。
「伍長、どうされましたか?」
物音でフォーレスが目を覚ましたようだった。
「すまん。気に、しないでくれ」
伍長はフォーレスが寝ている側の暗闇に向けて詫びの言葉をかけた。
「眠れないんですか、伍長?」もぞもぞと動くような気配がした。フォーレスが身を起こしたようだ。
「う、うむ。ちょっと、悪い夢を、見たんだ。邪魔をして、悪かった。俺も、すぐ眠るから、お前もゆっくり休んでくれ」
伍長はばつが悪い思いでフォーレスに言ったが、フォーレスが再び身体を倒す物音が聞こえない。フォーレスは身を起こしたまま、こちらを向いているようだ。
「どうした、フォーレス」
「誰かが近づいています」
言われて気が付いたが、誰かがテントに向かってざくざくという足音を立てて近づいている。
とっさにかたわらの剣に手が伸びたが、テントの外からメルルの声が聞こえて手が止まった。
「伍長さん、フォーレスさん。起きてらっしゃいます? 声が聞こえたと思ったので……」
メルルの声は遠慮がちだ。もし、伍長たちが眠っているのであれば、自分の声で起こしてしまうことを気にしているのだろう。
「大丈夫だ、起きている」伍長は短く応えた。
「お話ししてもいいですか?」メルルはテントの外から尋ねている。中に入るのは遠慮しているらしい。
「構わないから、中に入れ」伍長は外に向かって声をかけた。
すると、外でぽっと小さな明かりが灯り、「お邪魔します」の声とともにメルルが入ってきた。左手に小さな炎が立ち昇っている。魔法の炎で明かりにしたのだ。
「何の、用だ」伍長は静かに尋ねた。声の調子に不快そうな感じはない。それでも、メルルは緊張して、一瞬言い淀んだ。
「あ、あの、ええっと……。レトさんが伍長さんたちにお話があるそうなんです。それで、あちらのテントまで来ていただきたいのですが」
「私たちを呼びつけるのですか?」フォーレスが尋ねる。
「あ! いえ! 違うんです! レトさんは今、王都の所長たちと通信魔法で連絡しているところで、魔法陣の維持のためにそこを動けないんです。何か、重要なことらしく、所長だけでなく、伍長さんたちにも聞いていただきたいそうなんです……」
焦っているのだろう。メルルは炎を灯している左手をぶんぶん振っている。このままではいずれテントに火をつけかねない。
「わかった。わかったから、火のついている手を、振り回すな。テントが燃える」
伍長は慌ててメルルに手を振った。メルルも我に返ったように動きを止めた。
「フォーレス、先に言っておく」
「何ですか、伍長」フォーレスは伍長の横顔を見つめた。メルルの炎に照らされて、伍長の表情がよく見える。きつく結ばれた唇の端に、フォーレスは伍長の緊張を感じた。
「俺は、彼らのテントに向かおうと思う。だが、彼らに協力するため、ではない。どんな相手からも、情報を集めることが、大切だから、だ」
フォーレスは伍長らしいことだと思った。このひとはあくまで命令に忠実であろうとしている。先ほどの発言は、矛盾になりかねない自分の行動に、そうではないと言い聞かせているようだ。
「伍長が命令に忠実なのは、充分承知しています。わかっていますよ」
フォーレスの言葉で安心したらしい。伍長は表情を少しゆるめると、「そうか」の声とともに立ち上がった。かたわらの剣を手にすると、メルルの立っている入り口に向かって歩き始めた。フォーレスも起き上がると後に続いた。
テントの外へ出ると、外はそれほど闇ではなかった。月の姿は見えないが、満天の星空が村を覆っていたのだ。
「普段なら、まだ起きている時間みたいですね」フォーレスのつぶやき声に、伍長はとっさに懐中時計を取り出してのぞき見た。メルルが灯している炎の明かりでかろうじて文字盤が見える。たしかに日頃の伍長であれば、まだ起きている時間帯だった。
メルルに案内されてテントに入った伍長たちは、中の光景に目を丸くした。レトの正面には、今ここにいるはずのない所長とヴィクトリアの姿があったからだ。これが通信魔法というものなのか。ふたりはおそるおそる所長のそばに近づいた。
「今、伍長とフォーレスさんが入ってこられました」レトが言うと、所長はうなずいただけだった。彼女の目は彼らに向いていない。伍長たちが魔法陣の中に入っていないので、所長にはふたりの姿が見えないからだ。
『今、私には伍長の姿が見えない。伍長のほうを向いていなくても、悪意のないことは信じてほしい』
所長は正面を向いたまま伍長に話しかけた。「あの魔法陣に入らないと、向こうには姿が見えないんです」メルルが小声で伍長に伝えると、彼はゆっくりとうなずいた。「所長のことは、信じている。気にせず、話を続けてくれ」
「では、こちらで把握できた情報をお伝えいたします」レトが話を切り出すと、ホルン山の過去の歴史と、何者かがその山で魔法実験を行なった推理を説明した。伍長とフォーレスのふたりは終始無言だった。レトが話し終えても、すぐには口を開こうとしなかった。
「そういうわけで、おふたりに来ていただいたのは……」ふたりが何も話そうとしないので、レトが話を続けようとした。しかし、それを遮るように、伍長が手を挙げた。
「探偵。お前が言いたいのは、こういうこと、だな。『何者かがディクスン城の攻撃を計画している』、と」
レトはうなずいた。「その通りです」
「国王陛下や王太子殿下のお命が危ないとなれば一大事です。すぐ王都に戻って、急を知らさねばなりません!」
フォーレスが興奮したように大声をあげた。さきほど沈黙していたのは、あまりに衝撃を受けて、すぐに声が出なかったせいらしい。
「慌てるな。ここは、道が整備されていない山頂だ。こんな状況で、山を下りるのは、あまりに危険だ」
「そうです。ここの山道に慣れた行商人でさえ、山頂に向かうのは夜明け前にしているんです。それも荷馬車をゆっくりと進めながら、です。馬で駆け下りるのはお勧めできません。さらに今、馬車を使うのは、ある理由で反対です」
レトも伍長に同調した。
「ある理由って何です? 一刻も早く王都へ戻るのに、馬車以外の手段があるって言うんですか?」
「僕は犯人がまだ近くにいるのではないかと考えているからです。こんな静かな夜更けに馬車を使うと、かなり大きな音を立てるでしょう。それでは相手にこちらの接近を気づかれてしまいます」
「犯人が近くに、だと! 探偵、犯人がわかったのか?」
「このホルン山の事件が、ディクスン城を攻撃するための魔法実験であるならば、犯人が必ずあることをするはずなのです」
「必ず、すること?」
「実験の成果を確認する、ということです。犯人が行なった魔法実験は、村の様子を直接見ることができない山のふもとからでした。つまり、犯人は実験の成否を確認するには、山を登らなければならないんです。もし、村人全員がピンピンしているのなら、実験は失敗です。犯人はそれを確かめずに次の行動へ移すことができません。つまり、犯人は僕たちと同様、ホルン山の村に現れた者なのです」
「村を訪れた者は多いぞ。まず、郡の駐屯兵たち。そして、俺たち。それと……、まさか……」伍長はそこで言葉を切った。
「レトさん。まさか……」メルルが自分の口に手を当ててつぶやいた。
「あと、村に現れたのはシドニー・パジェット教授。助手のメアリー・ハント。そして、セバスチャン・モランの3名です。犯人はその3名の中にいるのです」
レトはしっかりとした口調で言った。
29
テントの中はメアリーひとりだけだった。
彼女は魔法で灯るランプをかたわらに、自分のノートの作成中だった。5つの搭を回りながら書き留めたメモを元に、彼女なりの考察をまとめていく。塔の正体をレトに見抜かれたのは、彼女にすればやはり悔しい。彼女は歴史学の研究者としての自負があった。それなのに、あの塔に関する考察では研究者でないレトに2度も出し抜かれたのだ。研究者の端くれであるなら、これ以上素人に先を行かれるわけにはいかない。
――しかし……。
メアリーは書きかけの手を止めて考えた。レトは研究者としては素人だろうが、『考察者』とするなら、かなり優秀なのだろうと思う。情報の引き出しを多く持っていて、それらを的確に引き出して情報の整理を行なっている。もし、探偵を辞めて研究者を目指しても成功するのではないか。パジェット教授がレトのことを気に入っているのは、彼女の目にも明らかなことだった。レトが望めば、教授は思ったよりも簡単にレトを弟子にするかもしれない。
そんな物思いにふけっているうちに眠り込んでしまったらしい。メアリーは外から何者かが近づく足音のような物音で顔をあげた。座ったままの姿勢だった。魔法のランプはまだ明かりを灯している。テントの布はあまり厚くないので、外の音がよく聞こえる。風が木々を揺らす音や、虫が鳴く声など、この辺境の地にも意外と音が満ち溢れている。彼女は風が草木を揺らす音かと思ったが、聞こえてくるざくざくという音は明らかに何かが地面を踏みしめる音だ。まさか、また夜盗が迫ってきているのか。彼女は魔法の腕輪を腕にはめると身構えた。
「教授、もう起きていらっしゃるのですか?」
外からレトの声が聞こえてきた。近づいてきたのはレトだったのだ。メアリーはほっと胸を撫でおろした。
「教授はこちらにはおられません。私だけがいます」
メアリーはノートを閉じると大声で返した。ついさっきはほっとしたが、彼女の心に不審の念が浮かんできた。なぜ、レトがここにいる? 彼は山頂の村で一夜を過ごすべく、山を登っていったではないか。ここにいるということは、夜中に山道を下りてきたということだ。馬の蹄の音がしなかったから徒歩のはずである。夜の山道は危険だということはレトなら承知しているはずだ。そんな危険を冒してまで、ここを訪ねる事情があるのだろうか?
「教授とモランさんはどちらにおられるんですか?」
レトはテントに入らず、外から尋ねた。女性ひとりだけと聞いて遠慮しているらしい。メアリーは上着を羽織ると、みずからテントの外へ出た。外へ出ると、彼女は目を大きく見開いた。そこにはレトだけでなく、メルルやフォーレスの姿もあったのである。3人はメルルの左手から立ち上る炎を松明代わりにして、ここまでやって来たらしい。
「いったい、何なのです? 皆さんでここまで来るなんて……」
「驚かせてすみません」レトが詫びた。
「ですが、どうしても急ぎ確認したいことがありまして、ここまでやって来たのです。それで、さっきの質問を繰り返すのですが、教授とモランさんはどちらですか?」
「教授は近くの搭で星を見ながら寝るとおっしゃって、寝袋を担いで出て行きました。モラン君は、実は……」
「あやつはここを去ったよ」
レトたちの背後から教授の声が飛んできた。3人は驚いて振り返った。気配を感じなかったのだ。
「去った? どういうことです、教授」レトは背後から現れた教授に尋ねた。教授は昼間と同じ服装で、今までどこかに外出していたかのようだった。メルルの炎に照らされて教授の顔はよく見えるが、その表情には何の感情も浮かんでいないようだ。
「君たちが去った後、急にあやつが癇癪を起こしてな。もうワシと一緒にやっていけないと言って、自分の荷物をまとめて出て行ったのだよ」
「教授のおっしゃることは本当です」
メアリーが話を継いだ。
「モラン君は自分がまとめた塔に関する記録を教授に見せていたのですが、教授が内容について質問すると急に怒り出したのです。『何でもかんでも、僕のすることにケチをつけるんですね!』って。私は教授がケチをつけているようには思えなかったので、モラン君の誤解だとなだめようとしたのですが、まったく聞き入れてもらえなくて。私もどうすればいいかわからなくなって、荷物をまとめるモラン君をただ見ているだけしかできませんでした」
「あやつは郡の街まで戻って、駅馬車か何かで王都まで戻るそうじゃ。そして、魔法学院にワシの研究室から離れることを申し入れるつもりなのだ」
そこで教授はフンと鼻を鳴らした。表情が不快そうなものに変わったのが見てとれた。
「ところで、君たちこそ、夜も明けないうちに何用かね? 夜空の下で眠るという、ワシの楽しみの邪魔をしよって……」
教授はメルルの炎にちらりと視線を向けた。
「たまたま、その明かりが塔で寝ていたワシの顔を照らしたのでな。目が覚めてしまった。誰かが山を降りてきたのはわかったが、まさか君たちが揃って降りてくるとはね。何か一大事なのかね?」
レトは頭を下げた。
「無粋なことをして、誠に申し訳ありません。たしかに一大事と言えるでしょう。本当は夕方の時点でお話しすべきだったのですが、確信が持てなかったのでずるずる後回しになってしまいました。しかし、裏付けが取れた以上、放ってはおけません。ご迷惑でしょうが、お付き合いください」
「裏付けとは、何に対するものかね?」教授は静かに尋ねた。
「この事件の背景について。そして、犯人について、です」
「この事件の真相がわかったんですか!」メアリーは驚いたようだった。「……と、言うことは……」彼女は気が付いたようにポケットから紙きれを取り出した。それは夕方にレトが書き付けたメモだった。
「ここにある搭が、魔法実験の施設だという裏付けが取れたのですね?」
「ええ、そうです」レトはうなずいた。
「ウスキ君に調べるよう頼んだ、非公開軍史に書かれていたのかね?」
「その通りです。ヴィクトリアさんが調べた内容はインディ伍長の到着次第、詳しく説明させていただきます。伍長は今、馬車を誘導して下山しているところなのです。馭者の操縦だけでは滑落の危険があるので」
「君たちは村を撤収したのかね?」
「そうする必要が生じたのです。僕たちは王都へ戻るつもりなのです」
「君は何を焦っている? 先ほどから話ししながらも心ここにあらずという様子だが」
そう話しかける教授の目は細く鋭い。レトを見つめる表情はいつしか険しいものになっていた。
レトはため息を吐いた。
「正直にお話ししましょう。僕はこの事件の犯人は教授、メアリーさん、そしてモランさんの3人の中の誰か、あるいは全員だと考えているのです」
「私たちですって?」メアリーは後ろに一歩下がった。教授の表情に変化はない。
「なるほどな。あれらの搭が魔法の実験設備であれば、犯人はその魔法の効果を実験の再現で確認したと考えられるわけだ。当然、結果を確認するためには実験後の調査は不可欠じゃ。現場近くに居合わせたワシらは容疑者として考えられて当然というわけじゃ。初めは駐屯軍からも取り調べを受けたんじゃからな」
「その際に、先生は身の証が立てられて解放されているんです。なぜ、先生が改めて疑われることになるんです?」
メアリーは震え声でレトに尋ねた。声が震えたのは寒さのせいではないが、彼女は背筋に何か強張るものを感じていた。
「この事件の経緯が問題なのです」
レトはメアリーに身体を向けた。
「この事件は、行商の老人が発見者となって明らかになりました。これは偶然の出来事です。この偶然がなければ、村での惨劇は誰にも気づかれないまま放置されていたのではないでしょうか? 犯人が実験成果をじっくり確認することができたはずです。ところが、事件は早朝に発見され、駐屯軍がすぐ派遣される事態になりました。そんな状況になることを犯人は予測できたでしょうか? 犯人の目的は村人の殺害そのものではありません。『うまく殺害できたか』を確認するためです。大勢の者たちに村へ押しかけてもらうのは、犯人の調査が終わってからのほうが良いに決まっています。つまり、犯人にとって、この状況はまったくの計画外だったのです。そこから考えて、駐屯軍の中に犯人はいません。誰かに通報されなければ村へ派遣されることがなかったのです。いつ、誰が村へ向かうことになるかわからないのに、それを計画の中心に据えることは考えられません。また、駐屯軍は村で起きたことが理解できず、王都に応援を求めています。それも予想されることでしょうか? 可能性はあっても確実性には欠けます。一応、王都からやってきた僕たちも嫌疑から外していいでしょう。ですが……」
レトはここで一旦言葉を切って、周りを見回した。
「皆さんだけは違います。ここに調査を行なうという確かな計画がありました。教授自身、塔の調査にあたって『村人に話を聞くつもりだった』とおっしゃっていたじゃないですか。あの村を訪ねる必然的な理由があったんです。皆さんが犯人、あるいは犯人が含まれているのであれば、こう計画できたでしょう。搭の調査を口実に村を訪ねて事件を発見したふりをし、状況を調査してから通報する、というように」
レトは、今度は教授に振り返る。教授は無言のまま話を聞いている。
「僕が頭を悩ませたのはそこからです。犯人にとって計画は狂っています。ですが、偶然が幸いし、皆さんは捜査協力という形で村へ現れることになりました。計画の軌道修正が図れるわけです。適当に捜査を手伝い、自分たちにとって有益な情報を手に入れ、実際の捜査には混乱するような情報を流せば、犯人側には有利に働きます。ですが、教授を含め、皆さんは僕たちの捜査に協力的で、捜査の進展に貢献もしてくれました。僕は事件の推理を教授の指摘で推し進めることもできたのです。もし、教授が犯人であれば、犯人にとって不利になることをするでしょうか? では、教授が犯人でなければ、残りのふたりにいるのではないか? ですが、この事件の犯人にはもうひとつ必要な条件があります。それは、魔法実験を行なうための専門知識を有しているかということです。今回の事件は特殊な魔法実験が背景にあります。当然、生半可な知識の者では不可能です。そんな特殊な知識を、魔法歴史学が専門のメアリーさんやモランさんが持っているのか、僕には疑問でした。つまり、犯人でありえるはずがないのです。整理すると条件はこうなります。犯人は『山頂の村を訪れる口実が用意できること』、『特殊な魔法実験を行なう専門的な知識を有すること』のふたつを満たさなければ断定できないのです」
「もし、専門知識を有しているかという条件なら、ワシも除外じゃな」
教授が口を挟んだ。
「正直な話、君の話を聞くまでワシはあれらの搭でどんな魔法実験が行われたのか、確実な答えを持ってはおらんかった。塔の正体には確信を持っていたが、詳細ともなると『おそらく、こうであろう』という程度のものじゃ。魔法にまつわる歴史の知識なら誰にも負けんと自負しておるが、魔法の実技理論となると話は別じゃ。君はワシを買いかぶっておるよ」
「教授の博識さから、あるいは……と思ったのですが」レトがそう返すと、教授は苦笑いを浮かべた。
「あまり自分を大きく見せようとするもんじゃないな。余計な疑いを持たれてしまうわい」
「ですが結局、私たちの中の誰かが、いえ、あるいは全員が犯人であると考え直したのですね? それはどういったことからです?」
メアリーが真剣な表情で尋ねた。レトがもやもやした状態で村まで戻った事情は理解できた。しかし、こんな夜明け前になって急に押しかけてきたのは、レトの中に何らかの『確信』が生まれたということだ。その確信とはいったい何なのだろうか。
「いや、ハント君。彼はまだワシたちが犯人だと確信しているわけではないようじゃ」
教授の口調は落ち着いたものだった。
「もし、そうであれば、ワシたちはすでに拘束されているはずじゃ。ワシもハント君も魔法が使えるんじゃ。そんな者を今も自由にしておくはずがない。そうじゃろ?」
レトが何か答えようとしたとき、ゴロゴロという物音とともに、山道から一台の馬車が姿を現した。馭者台の上には馭者とインディ伍長の姿が見える。
「探偵、何があった? なぜ、ふたりを押さえていない?」
インディ伍長は馭者台から飛び降りると、レトたちの元へ駆け寄った。腰の剣に手をかけているのは、すぐに抜けるよう警戒しているからだ。
「状況に変化がありました。モランさんが出奔したそうなのです」
レトは駆け寄る伍長に向かって説明した。
「あいつが? それで」
「ええ。教授とメアリーさんに、僕が考えていることを説明したのです。ふたりの反応は想定したものでした。つまり、僕たちに攻撃しようともしなかったのです。そこですぐ拘束はせず、事情の説明から始めたのです」
「下手に騒いでおったら、攻撃されるところじゃったのか」
教授はあごを撫でながら言った。あっさりとした口調で、この状況に不快そうな様子もない。一方、メアリーは「テントの外から忍び寄って来たのはそっちですよ! もし、山賊だと思った私が攻撃したらどうするつもりだったんですか!」と、レトに喰ってかかっていた。
「ですから、忍び歩きなどせずに堂々と近づいたつもりです」
レトは取り合わない。メアリーは頬を膨らませて黙った。たしかに山賊ならば、あれほどあからさまな音を立てて近づいては来ないとメアリーも理解したからだ。しかし、これがレトの悪いところだ、とメルルは思った。相手を揺さぶってボロを出させようと、細かい策を打ってくる。真犯人相手には有効だが、相手が無実であれば迷惑この上ない。
「皆さんのうち、何人が犯人かわかりませんでしたが、僕は少なくともモランさんだけは犯人だろうと思っていました。そのモランさんだけがここを立ち去っています。おそらく王都を攻撃するために、です」
「……そうか」教授は小声でつぶやいた。
「あやつは医学の知識もあるからと言って、村人の検死に立ち会っていた。実験の効果を間近で確認できたのだ。床下に逃れた少年も命を落とした。あやつにとって効果は充分確認できたわけじゃ。あとは、速やかにここを立ち去り、本来の目的を果たすだけということか。夕方、変な言いがかりをつけて出て行ったのは、そうするためだったか……」
伍長を乗せていた馬車は、レトのすぐそばで停車した。レトは荷台から布を引っ張り出して地面に広げた。風で布が飛ばされないよう、フォーレスが石を集めて布の四隅に置き始めた。
「先生。どういうことです?」
メアリーが教授に尋ねた。
「レト君は説明をはしょったから、君にはピンと来なかったんじゃな。今のワシは確信できておる。これらの搭はただの魔法実験場などではない。ディクスン城を守護する魔法障壁の実験設備だったんじゃよ」
教授は塔の秘密をメアリーに説明し始めた。その内容は山頂でレトが推測したものとほぼ同じだった。さらに魔法障壁を利用した魔法攻撃についてはメルルが説明した。レトは通信魔法の準備を進めていた。
「……それじゃあ、モラン君は国王陛下のお命を狙っているのですか? なぜ、そんな大それたことを……」
メアリーはかなり衝撃を受けたようだった。彼女にとってモランはまるで無害な人物に見えたのである。
「答えはこれからお見せするものにあります」
教授とメアリーはレトの声がしたほうを向いた。そこには魔法陣を発動させたレトの姿があった。レトは一方の魔法陣の上に立っている。もう一方からはヴィクトリアの姿が浮かび上がっていた。教授とメアリーのふたりは魔法陣のそばへ近寄った。
「これから見せるものって何ですか?」メアリーはレトに尋ねた。
「おふたりはこれが誰だかわかりますか?」
レトはヴィクトリアが手にしているものを指さした。ふたりはそれに顔を近づけて目を凝らした。
「これって……、モラン君ですよね、ちょっと違うようにも見えますけど。これが何か?」メアリーが不思議そうに尋ねた。
「そうですね。僕たちにとってはモランさんですね。ですが、これはモランさんではありません。これはレナード・リースタイン男爵とその家族が描かれた肖像画です。メアリーさんが指さしたのは、リヒャルト・リースタインという人物なのですよ」
30
しばらく沈黙が続いた。メアリーはレトの言われたことが理解できなかった。
「……どういうことです? このリヒャルトというひとは何者なんですか? モラン君と容姿がよく似ているということですか?」
「いいえ、違います」レトは静かに否定した。
「僕たちが今までモランさんだと思っていたのがリヒャルト・リースタインだったんです。本物のセバスチャン・モランさんは一週間ほど前、リヒャルトの下宿で殺害され、遺体はその地下室に放り込まれていました。殺害したのはリヒャルトです。リヒャルトはモランさんに成りすましたのです」
「いったい何のために?」
メアリーは混乱して頭を抱えた。モランがすでに死んでいる? 今までのモランはリヒャルトという全くの別人? メアリーは教授のほうへ顔を向けた。教授はいたって落ち着いた表情で、ヴィクトリアが手にするリースタイン家の肖像画に見入っている。
「本物のモランさんは、リヒャルトの数少ない友人でした」
『それは私がバンコラン魔法学院で調べたことです』レトの説明に、ヴィクトリアが補足するように言った。
『私たちはリヒャルトの周囲を調べていたのですが、友人のひとりが王立魔法学院に移籍したことを聞きました。それがセバスチャン・モランさんです。その後、レト君に依頼された件で王立魔法学院を訪ねた際に、モランさんとも会うつもりでした。ですが、実地調査に向かったということで会うことができませんでした』
実地調査とは、当然、ホルン山の調査を指しているのだろう。
「本物のモランさんはパジェット教授の元で研究を深めようと論文を送り、研究室に迎え入れられました。リヒャルトはそのことを知ったのです。知ったというより、教えられたのでしょう。モランさん自身にです。まだモランさんの顔が教授に知られていないことを確認したリヒャルトは、モランさんを自分の下宿で殺害しました。モランさんに成りすましたリヒャルトは、さっそくホルン山の搭を調査するよう薦めます。もし、教授がその調査をすぐ決断しなければ、事件も先送りにされたでしょう。教授が意外と乗り気で、すぐ調査へ向かうことになり、リヒャルトは調査の前日にホルン山で実験を行なう計画を立てたんです」
「じゃあ、たとえば先生が調査を一か月後に計画していたら……」
メアリーが弱々しくつぶやくと、
「事件も一か月後に起きた、ということです。あくまで塔の調査にかこつけて村に立ち入るまでが計画の一部でした。機会を含めて調整可能の立場にいることが犯人であることの条件なのです」
レトがしっかりとした口調で答えた。
「じゃあ、本物のモランさんは教授を誘導できる立場を狙われて殺されたんですか?」
「リヒャルトは防御魔法の研究者でした。それは逆に、魔法攻撃の専門家でもある、ということです。もし、リヒャルトが『リヒャルト』として実験を行なえば、誰もが彼を疑うでしょう。村人を未知の魔法で攻撃できる人物なのですから。リヒャルトの最終的な目的は村人にありません。あくまで実験対象です。村人の事件の段階で捕まるわけにいきませんから、疑いをそらすためにモランさんの立場を命ごと奪ったのです。実際、僕は攻撃魔法に通じていないはずのモランさんを犯人と断定できませんでしたから。それにモランさんとは違い、リヒャルトには国王陛下の命を狙う可能性がありました。彼は最近、貴族主義に傾倒していました。それはつまり、世の中を貴族中心のものから変えようとする王太子と敵対するということです。ですから、ディクスン城への攻撃は、国王陛下というより、王太子殿下を暗殺するためのものと考えられるのです」
「……途方もない話です。リヒャルトはそれが可能だと考えたのですか?」
メアリーはふらふらと頭を振った。
「強力な魔法障壁で守られたディクスン城は、人間ひとりの力で落とせるようなものとは思えません。ですが、魔法障壁そのものが凶器になるのであれば、それらに囲まれているディクスン城は無防備と同じで、同時にすでに攻撃可能な状態にあるということです。リヒャルトは自分ひとりの力でそれが可能か、ホルン山で確かめたのです。それに、あの実験はリヒャルトでなければ実行が難しいものでした。魔法障壁に一定の電圧の雷撃を加えるには個人の能力で電圧の調整をしなければなりません。たとえ数値化してあっても、魔力に個人差がある以上、その数値はあくまで術者本人でしか成立しない数値なのです。他人がいくらその数値で実行しようにも、魔力が違えば、同じ現象を引き起こすことができませんから。メルルやヴィクトリアさんが、誰かがリヒャルトの研究を奪ったのではないかと考えましたが、僕はさきほどの問題点から逆にリヒャルト本人でなければ実行不可能だろうと考えました」
「あやつがリヒャルトで、この事件の犯人だということはわかった。しかし、君は『少なくとも』あやつが犯人だと考えていたとは、どういうことかね? 君は何を根拠にあやつを疑ったのかね?」
教授は腕を組んで尋ねた。レトとのこれまでのやり取りを思い出そうとしているらしい。
「先生、憶えておられますか? 5つの搭を調べていたときです。南側の搭には円台があって、僕はそちらを調べようとしていました。その間に、先生は先に塔のほうを調べるとおっしゃいましたね?」
「ああ、そうじゃが」教授はうなずいた。
「そのとき『モラン』がこう言いました。『ろうそくの状態を調べるんですか?』と」
「たしか、そんなことがあったな」
「その発言はおかしいのです。事件後、塔に登った者は教授が最初で、塔の上にろうそくの燃え跡があることを知っていたのは次に登った僕、さらに次の搭に登ったメアリーさんとメルル。以上の4人です。『モラン』はそれまで一度も登っていないのです。つまり、塔の上のろうそくは目にしていないのです」
「誰かからろうそくのことを聞いたのでは?」
「先生がさっさと先に進まれるので、僕はろうそくのことを皆さんに伝える暇がありませんでした。僕だけでなく、誰ひとりとしてろうそくの燃え跡について、『モラン』と会話した者はいなかったんです。『モラン』は調査現場に先行していたから、先に塔に登ってろうそくの燃え跡を目撃していた、という考えもできるでしょうが、それには問題があります。最初、倒壊の危険を確認せずに登るものではないと、塔に入ろうとしませんでしたから。あれが本当であれば、当然、塔の上のろうそくは見ていないはずです。なにせ一度も塔の上に登っていないからです」
「犯行現場に出入りしていないことを強調しようとして、下手な芝居を打っていたということか」
教授は呆れたようにつぶやいた。「策に溺れるとは、まさにそのことじゃな」
「僕は円台を調べていたとき、そのことに気づきました。ですが、その嘘ひとつで犯人だと断定はできませんでした。しかし、そのときから皆さんを信じることが難しくなったんです」
「塔の調査以降、君の態度がやや距離を取った感じはあったが、ワシも疑い始めたのかね?」
教授は穏やかな口調で尋ねた。レトの考えに抗議するつもりはないようだ。
「すみません。この事件の犯人は単独だけではなく、複数の場合も考えられます。先生門下の『モラン』が怪しいとなれば、容疑者のひとりとして先生を外すことができませんでした」
「ワシが首謀者で『モラン』が実行犯という考え方か」
「その可能性を考えたのは事実です。一方で、首謀者は別にいる、とも考えたことがあります。実は、リヒャルトが外部と連絡を取っていたと考えられる場面があったのです。まぁ、それ以前から彼の正体を疑っていたので気づいたのですが」
「あやつの正体? 今夜、肖像画を見る前から疑っていたのかね?」
「先生は送られてきた彼の論文は褒めておられました。研究室に入ることをすぐ認めるほどです。ですが、実際に会った『モラン』は、先生の期待を裏切るほど研究者として不できだった。実はリヒャルトがすでに成り代わっていたからです。彼は魔法理論学の専門家ですが、歴史学はそれほどでもなかった。ある程度は知識を持っていたのでしょうが、先生から全幅の信頼を勝ち得るほどの知識ではなかったんです」
「たしかに、あの論文は素晴らしいものじゃった。あれは本物が執筆したからなのか」
教授は腑に落ちたようだった。
「あなたは、そこまで考えを推し進めていたのに、それでもリヒャルトを拘束しなかったのですね?」
メアリーの疑問に、レトは苦しそうな表情になった。
「ヴィクトリアさんから搭に関する裏付けが取れるまで、確信を持って言えることがなかったんです。ここまで一気に推理が進んだのは、あれらの搭の正体に確かな裏付けが得られたからです。そして、あの肖像画。あれを見たことで全貌が見えてきたのです。それまでは僕の推理は、推理というより疑念でしかなかったんです」
「そのおかげで、リヒャルトには、逃げられてしまったわけだがな」
インディ伍長が拘束具を手に近づいてきた。
「何をするつもりですの?」メアリーが怯えた声をあげた。
「ワシたちを一時拘束するということじゃよ、ハント君」
教授の声はいたって穏やかだった。静かに両手を差し出している。
「……先生」
「レト君が言っていただろう? ワシたちが無実である確証は持っていないと。そうなれば、事態が収拾するまでワシたちを一時的に拘束するのは当然の対応じゃよ。彼は、ワシたちが事情を把握すれば、この拘束にも理解を示すだろうと考えて、今まで説明してきたのじゃ」
レトは無言だった。だが、その沈黙が教授の説明が正しいことを雄弁に物語っていた。
「ハント君。不服もあるだろうが、ここはこの憲兵に従うこととしよう。彼らがリヒャルトを捕らえたとき、ワシたちの無実は明かされるはずじゃ」
レトは頭を下げた。「すみません。僕の捜査が至らないために」
「なあに。もし、ワシが本当に君たちの敵であったなら、君の対応は手ぬるいの極みじゃ。それだけワシのことを信じたい気持ちが強いんじゃろう。ワシとしては、その信じたい気持ちに応えたくないわけじゃないからの」
教授の言葉に、メアリーも決心がついたようだった。これまではめていた腕輪を外すと、そばに寄ったフォーレスに手渡して両腕を差し出した。こうしてふたりは拘束された。
「あなたの馬と馬車は、こちらで管理させていただきます。駐屯所で預からせていただくことになります」フォーレスの説明に、教授は首をすくめた。「お好きなように」。メアリーは無言のままだった。
「さて、レト君」
拘束された両腕を挙げてみせて、教授が話しかけた。
「君に信じてもらえるかどうか、ではあるが。君にひとつ助言を与えてみたいのじゃが」
「助言、ですか」
「うむ。リヒャルトがどのようにディクスン城を攻撃するかはわかった。そうであれば、それを防ぐ手立てがあるのではないかね?」
「先生はわかったんですね」
「手掛かりは君自身の言葉にあった。君はあの魔法実験はリヒャルト本人でなければ実行は難しいと言った。つまり、魔法障壁を攻撃するのもリヒャルト本人でなければならないし、リヒャルトが魔法障壁にぶつける雷撃も本人が威力を調節したものでなければならない、ということじゃろ?」
レトは強くうなずいた。「先生、わかりました。先生がおっしゃりたいことが」
教授は満足げな笑みを浮かべた。「君が使命を果たすことを願っとるよ」
「ヴィクトリアさん。こちらの件は一旦終わりました。次はそちらの番です。リヒャルトの確保を急ぎ手配してください。おそらく、リヒャルトは自分の正体がばれたことに気づいていません。王都で網を張れば確保できるはずです」
『その件は、リヒャルトがいないことを知った時点で所長が動いているわ。今頃、憲兵本部で事情の説明をしているはずだわ』
「……大丈夫ですか? 今、憲兵隊と探偵事務所の関係は最悪なのでしょう?」
『さすがに王国の危機で対立し続けるわけにいかないでしょう。憲兵隊もそこまで馬鹿ぞろいじゃないはずよ』
「憲兵隊は馬鹿ぞろいですか」
フォーレスが苦笑した。「そりゃあ、捜査に不得手な者は多いですがね」
『あら、ごめんなさい』ヴィクトリアは自分の口に手を当てた。
「とは言え、所長の言葉に、簡単に耳を傾けるかどうかも、たしかでは、ない」
教授たちを憲兵隊の馬車にあげたインディ伍長が声をあげた。
「下手をすれば、騒乱罪の疑いで一時拘束の危険も、ある」
「こうしてはいられません」
それを聞いてレトはヴィクトリアに振り返った。
「僕たちは急ぎ王都に戻ります。手配が遅れて、リヒャルトの潜入を許すかもしれません。ヴィクトリアさんは念のため、リヒャルトの魔法攻撃を防ぐために備えてください」
『魔法攻撃を防ぐって、どうすればいいの?』ヴィクトリアは目を丸くした。レトはその方法を簡単に説明した。
『なるほど。それって私が適任ってことよね』
説明を聞いてヴィクトリアはうなずいた。
「インディ伍長。お願いがあります」
レトは伍長をまっすぐに見つめた。
「何だ」
「伍長はこれから馬を駆って、王都に戻ってください。リヒャルトの顔を知っていて、誰よりも早く王都に戻れるのは伍長です」
レトは周りを見渡した。
「それは乗馬に一番優れているのが伍長だからです。僕は乗馬ができません。それに、王都に必要な人員を手配できるのは伍長だけです」
伍長はレトから視線をそらすと腕を組んだ。伍長の沈黙は長くなかった。すぐに顔をレトに向けると、「探偵、お前も来い」と言った。
「伍長、いいんですか?」フォーレスが驚いて声をあげた。村でしたような言い訳は通用しない。これは明らかな命令違反だ。
「命令違反かどうかは、事が済んでから、裁定を仰ぐ。たとえ俺ひとりが王都へ戻っても、リヒャルトを見つけられるか、わからない。それに、人員手配をするのも、時間がかかる。とても俺ひとりで片付けられることではない」
「それでは私が同行いたします」
「フォーレス。お前には、教授たちの連行と、監視をしてもらわなくてはならない。教授たちを乗せたままでは、馬車の速さなど知れている。とても、同行できるものでは、ない」
「しかし……」
「リヒャルトの王都潜入を許してしまえば、奴を見つけるのは難しくなる。そんなときに奴を見つける適任者は、探偵しかいない」
「ですが、伍長。さきほども言いましたが、僕は馬には乗れないんです」
レトがそう言っても、伍長は首を振るだけだ。そのまま教授の馬車まで歩くと、かたわらにつないであった馬の手綱を握った。教授が初めて村に現れたときに乗っていた馬だ。馬は大人しく伍長に引かれている。
「探偵は俺の後ろに乗るんだ。俺が馬を走らせて、まずは郡の駐屯本部へ急ぐ。たとえ馬でも、王都までは全速力で走ることができない。各所の早馬に、順次乗り換えて、王都を目指す。それが一番早くて、確実だ」
伍長はそう言いながら馬にまたがった。手綱を握り直すと、レトに手を伸ばす。
「さぁ、乗れ。早く」
レトはすぐ動こうとしなかった。
「伍長。あなたにとって、イレス隊長は絶対なのでしょう? この決断は隊長に対する裏切りと取られるんですよ」
「もちろん、そうだ」
伍長は差し出した手をレトの前でひらひらしながら答えた。
「しかし、軍隊は結果責任だ。もし、リヒャルトの潜入やディクスン城への攻撃を許してしまうと、その責任は王都警備も担うイレス隊長が問われることになる。首尾よく奴を捕らえることができれば、責を負うのは俺ひとりだけで済む。俺に迷う理由など、ない」
レトはまだ手を出さない。じっと伍長の顔を見つめている。
「……違うな。いや、さっき言ったことに嘘は、ない。だが、俺の目には、あの村人の死に顔がまとわりついてるんだ。お前は知っているか? 城塞都市アングリアを。俺は討伐戦争勃発時に、あそこにいた。街の住人が、大勢殺された。俺の後悔の記憶だ。村人の死に顔は、あのときの住人の死に顔と、重なるんだ。あんなことを何度も許しては、ならない。たとえ、命令に背くことになろうとも、だ。探偵、さっさと乗れ。俺の戦いに、付き合ってくれ」
レトはさっと手を伸ばし、伍長の腕を掴んだ。伍長は勢いよくレトを引き上げると、自分の後ろに乗せた。
レトが自分の腰に手を回して身体を固定するのを確認すると、伍長は手綱を手繰りながら叫んだ。
「フォーレス。後のことは頼んだ!」
続いてレトも大声で叫んだ。
「メルル、君にも頼む。アルキオネが近くにいるはずだ。彼女を探してきてほしい。一緒に連れて帰ってもらえないか」
メルルは黙ってうなずいた。
伍長が大きく身体を揺すると、馬は気持ちいいほどの速さで駆け出していった。メルルが目で追っていると、星のまたたく夜空から馬めがけて何かが矢のように飛んできている。
「まさか!」メルルは目を見張った。
レトの耳元でバサバサという羽音が聞こえると、すぐ真横を一羽のカラスが飛んでいるのが見えた。気がつけば、ようやく月が昇って辺りを照らしている。あたりの視界が広がっていたのだ。
「アルキオネ!」レトが叫ぶと、カラスはレトにぶつかるようにして肩に留まった。
「危ない、振り落とされる!」レトはアルキオネに叫んだが、カラスはじっとレトの肩につかまって離れようとしない。
「探偵、しゃべるな!」伍長が鋭く叫んだ。「舌を噛むぞ!」
馬は力強く地面を蹴っている。馬に乗ることに慣れていないレトには空を飛んでいるように感じた。レトは唇をぎゅっと噛みしめると、片手を伸ばしてアルキオネの身体を押さえた。
ホルン山を囲む森を抜けると、そこは広々とした荒れ地が広がっていた。荒れ地は月明かりで青白く見える。ところどころの窪みに深い闇が溜まっていた。レトたちを乗せた馬は、そんな荒れ地にも速度を落とすことなく駆け続けている。目指すは郡の駐屯本部。レトたちの追跡劇は今始まったところだった。