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~死者を抱(いだ)いて山は沈黙する~ 7

Chapter 7


23


 「決議を欠席する?」

 王太子は大声で怒鳴りそうになるのを押さえた。それでもこぼれる声から怒りの感情は隠せない。机の上に置かれた両手はきつく握りしめられ、ぶるぶると震えている。

 執務室にて、王太子は宰相のリシュリューから、貴族連合の議員すべてが法案決議に欠席する旨を伝えられたのだ。決議される予定の法案は、例の参政権制限撤廃の法案だ。

 「くだらない抗議だ。法案が通るのが嫌だから、欠席で嫌がらせをしようってのか」

 王太子の憤る姿に対し、リシュリューはいたって冷静な表情で王太子の正面に立っている。

 「ですが、殿下。反対派が全員欠席だと、法案が通るのは確定的ではないですか。殿下にとっては、そのほうが都合の良い話なのでは?」

 王太子はぶすっとして腕を組んだ。

 「相手が引いたから法案が通る、ということが気に入らないんだ。これは民主的な議会の姿じゃない」

 「ご説はごもっともではありますが。ここはふてぶてしく実利を得ることです」

 「言われなくてもわかっている。しかし、宰相。妙な話だとは思わないか?」

 若き宰相は少し首をかしげた。「妙、と言われますと?」

 「今回の法案には評議員の中からも反対者はいるとのことだ。貴族連合が造反者をまとめあげ、今回の法案を廃案にする可能性はまだ残されていたんだ。ここへきて、なぜ、彼らは手を引くという選択をする? 戦略的には何の利点も見当たらないように思うが」

 「こちらで把握できていない票読みの結果を、彼らが先に手に入れたとは考えられませんか? 敗北を悟った彼らが、面目を保つために戦略的撤退を選んだ、というものです」

 王太子は首をかしげた。「本当にそう思うか?」

 「彼らの腹の底を読み切るのは困難です。もともと、ことわりでもってまつりごとに関わってはいませんから」

 「ずいぶんと辛らつなこと言うんだな」

 「私は国の繁栄を純粋に考えています。自分の立場とか出自などに拘泥することが国益に反するのであれば止めるべきです。それを当然のことと捉えることのできない人物は政治に対する思想が幼すぎます。貴族主義は、はっきり言って時代遅れの思想です。少しでも知恵があれば、この思想に未来はないとわかるはずです。ただ、貴族連合の方がたも、半分は理解しているとは思うのですが、感情に支配されて認めることができないのでしょう。私に言わせれば、そんな感情に負けている時点で政治家失格です。まつりごとは戦略、つまり理性によって進められるべきものだからです」

 「宰相の、彼らに対する評価がかなり低いということはよくわかったよ。しかし、『数』そのものも戦略のひとつだよ。数をそろえている彼らのことを甘く見るのは誤りだ」

 王太子の言葉に、リシュリューは小さくうなずいた。

 「彼らを甘く見てはいけないという点は、私も賛成でございます。手の者に、彼らが欠席を決めた背景を探るように命じております。背景が掴めれば、彼らの意図も明らかになりましょう」

 王太子は苦笑いの表情を浮かべた。

 「そのあたりはソツがないな、宰相は」

 「恐れ入ります」

 リシュリューは静かに頭を下げた。

 「まぁ、手を打っているのなら、それでいい。ひとまず明日中に採決を取って、法案を可決してもらおう。奴らの出方を待っている場合じゃないからな」

 「御意」

 リシュリューは再び頭を下げると、執務室を退出した。部屋には王太子がひとり残った。王太子は天井を見上げると、大きく息を吐いた。ここしばらく気を張り詰める日が続いている。先日は、もっとも不快な従兄弟と顔を合わす羽目にもなった。『ルッチ』になって街に繰り出したいところだが、さすがに今は厳しい。探偵事務所に顔を出したくても今は大変なときだと聞いている。村がひとつ全滅したという事件のことは宰相から報告を受けていた。詳細は知らないが、レトやメルルたちが事件解明のために村で奔走している。

――それに、だ。

 所長に密かに頼んでいた行方不明者捜索の件が殺人事件になってしまった。この報告は王太子を困惑させた。しかも、この事件の対応をめぐって貴族連合が探偵事務所に抗議をしているとのことだ。王立探偵事務所は王太子が設立したものだ。それを考慮したのか、探偵事務所に直接抗議するのではなく、憲兵隊に抗議しているという。いかにも貴族連合らしいやり方に、王太子は何かを蹴飛ばしたい気持ちだ。現在、憲兵隊は探偵事務所とは距離を取って行動している。リヒャルトの件も、憲兵隊と探偵事務所とが別々の捜査を行なっている状態なのだ。連携の取れていない状況では、捜査の進捗が遅れてもおかしくない。ひとの命が絡んでいるのに、あまりに露骨な妨害だ。貴族連合は貴族主義の復活を以前から訴えてはいたが、ここまで目立つ行動はしていなかった。しかし、ここ最近の彼らの行動が先鋭化しているのは明らかだ。

――そうだ。なぜ、最近になって彼らの動きが活発化したんだ?

 王太子は疑問を抱いた。カリナスが貴族連合の代表になったのは数年前のことだ。しかし、カリナスがお飾りの代表なのは間違いなく、実質的にはポール・マクダネル伯爵とジェームズ・シャーヘッド伯爵の二頭体制のはずだ。血統的には名門だが、ふたりの指導者としての資質は平凡で、いずれも上に立つには難がある。それに、どちらが優位に立つか互いが牽制しあってきたから、簡単な意見もまとまったためしがない。カリナスを連合の盟主に据えたのは、互いに出し抜かれまいと考えた彼らが唯一合意できた策だったのだ。そんなわけだから、彼らは今でも一枚岩ではないはずだ。先日のカリナスを見る限り、優れた指導者に成長しているようには思えなかった。カリナスの力で組織がまとまったとは考えにくい。しかし、伯爵ふたりを凌ぐ人物が台頭したという話も聞こえない。王太子はため息を吐いた。ここでいくら考えても、わからないものはわからない。

 そのときである。執務室の扉をコツコツと叩く音が響いた。

 「入れ」王太子は扉に向かって声をあげた。

 扉を開け、入ってきたのはリシュリューだった。

 「殿下、法案の決議は明日の14時に行なうことに決まりました」

 「そうか」

 王太子は背後の窓に目を向けた。外は夕暮れへと近づいて、あたりが赤く染まろうとしている。

 「勝負はとにかく明日だな。後で貴族連合にケチをつけられないよう、法の手続きは抜かりがないようにな」

 「承知いたしました」

 リシュリューは頭を下げると執務室を後にした。きびきびとした動きで無駄がない。抜かるなと念を押したが、あの宰相なら大丈夫だろう。

 ひとり残った王太子は、ふと外の景色に目をやった。窓からは大聖堂の鐘楼がそびえ立っているのが見える。そこよりやや手前には魔法障壁の搭が煙突のように伸びている。多くの煩雑な事案に取り組まなければならない王太子にとって、ここからの景色はいい気晴らしになった。気持ちが落ち着くだけではない。新たな闘志も湧いてくるのだ。気持ちを切り替えた王太子は、景色を眺めながらつぶやいた。

 「さて、奴らは次にどう出る?」


24


 ヴィクトリアにとっては久しぶりの母校だった。

 王立魔法学院の古びた正門をくぐると、校舎へと続く細道を塞ぎかねないほどに両脇の木々がうっそうと生えている。管理者は道にはみ出してきた枝をはらうだけで、木を切り倒そうとは考えていないらしい。おそらくこれらの木は樹齢二百年を超えているだろう。それを、百年も生きていない人間の都合だけで切り倒すのが憚られたのだろう。学院を建てたマーリン二世は、これらの木を眺めながら同じ道を歩いていたのだろうか。

 並木道を抜けると辺りは一気に広々とした場所になる。その中心に魔法学院の校舎がそびえ立っていた。灰色の石の土台の上に褐色のレンガを積み上げた、いかにも年代物の校舎だ。潤沢な資金を元に、貴族の手で建てられたバンコラン魔法学院のような洗練された雰囲気はない。しかし、長い年月を経て醸し出される重厚感は、バンコラン魔法学院のそれとは比べ物にならない。

 「やっぱり、学校ってこういう『いかめしい』感じが似合うわよね」

 ヴィクトリアは機嫌のいい声をあげて振り返った。彼女のすぐ後ろを、コーデリアが黙々とついてきているのだ。

 「バンコランのほうがきれいでいいと思う」

 コーデリアのそっけない答えに、ヴィクトリアは苦笑いを浮かべるしかなかった。

 魔法学院の図書室で保管されている資料類は、卒業生だけでなく他大学の研究者が閲覧することも許可されている。ヴィクトリアは受け付けで手続きを済ませると、さっそく非公開軍史の項目を調べ始めた。それは目次だけの本で、一枚につき一項目だけ記されているものだった。新しい項目はどんどん追加して綴じ込めるようになっているのだ。おかげで目次だけにもかかわらず、何冊も存在する上に、一冊一冊が重いものだった。ヴィクトリアはその分厚さに困惑の表情を浮かべた。しかし、記録は丁寧に整理されていたおかげで、目的のものはあっさりと見つかった。

 「あったわ、コーデリア。これを見て」

 コーデリアはヴィクトリアの指さす一枚に目を向けた。

 そこには、『ホルン山にて行われた魔法防衛技術の実験』とある。

 「魔法防衛技術?」

 コーデリアはつぶやいた。この項目だけでは、それが何に関する記録なのかわからない。

 「私にもさっぱりわからないわね。でも、あの山が非公開軍史でのみ記録される軍事機密であることははっきりしたわ。項目だけでは塔のことはわからないけれど、塔も当然、軍事機密であることは間違いないわね」

 「村人はその機密を守るために殺されたの?」

 「まさか。あの山自体には何の秘密も残されていないと思うわ。そうじゃなきゃ、あそこにひとが住むことを国が許さないでしょ? 塔についても同じ。塔そのものが残っていても、そこからは『魔法防衛技術』について解析されるものが存在しないから放置されたんだわ。つまり、あそこにひとが住むことで不都合なことは何もないから、村ができたのよ」

 「村人殺害と、山の歴史は関係ないってこと?」

 「機密保持が理由なら違うと答えるけど、正直わからないわ。とにかく、この資料がどれぐらい閲覧可能か確認しなきゃいけないわね」

 ヴィクトリアは本を片手に、受付に座る司書のもとへ歩いて行った。司書は金髪で、顔にまったく何の感情も見せない若い女性だった。資料の閲覧が許可されるか尋ねると、司書はうなずいた後に首を横に振った。

 「閲覧は可能ですが、本日はダメです」

 「どのようにすれば閲覧できるのですか?」

 司書はヴィクトリアが開いているページを指さした。そこには資料の重要性を示す記号がいくつか見られる。

 「この記録は、内容によって超特別から限定公開まで幅広いものです。閲覧理由と、その資料が必要とされる根拠の書類を提出していただきます。それから請求の正当性をこちらで精査いたします。希望される内容が限定公開範囲のものであれば、範囲内での資料が閲覧できます」

 だいたい想像していたが、やはり面倒そうだ。

 「精査にかかる時間はどれぐらいなのですか?」

 「まぁ、早くて一週間。時間がかかるものですと、数か月や数年かかるものもございます。その場合、身元を証明するものなど追加の資料を提出いただくことがございます」

 ヴィクトリアは思わず天を仰いだ。面倒そうどころではない。はっきり言って面倒だ。資料の閲覧は諦めて、ヴィクトリアはもうひとつの頼まれごとを尋ねることにした。

 「私たち、メリヴェール探偵事務所の者なんですけど、過去、この資料の閲覧を希望した人物がいないか知りたいんです。そのことは教えていただけますか?」

 若い司書は首をかしげた。「それはどういう話ですか?」

 「実は、私たちはある事件の捜査をしているのです。事件の関係者に、ここの資料を調べた者がいないか確認したいのです」

 司書の表情が曇った。今までにない申し出に、どう判断すればいいのか迷ったのだ。

 「閲覧者の氏名を簡単にお教えすることはできません。個人情報保護に関わりますから」

 ヴィクトリアは司書の前に王国の紋章が刻印された純銀のメダルを置いた。司書はそれを目にすると、驚いた表情でヴィクトリアを見上げた。

 「私たちは王都の憲兵隊と同等の権限を持っています。あなたもこのメダルがその証であるとご存知でしょ?」

 「王立探偵事務所がここまでの権限があるとは存じませんでしたわ」

 司書は目を伏せがちにしてつぶやいた。彼女は一旦、辺りを見渡したが、この資料室には彼女たち以外の人影がなかった。今、彼女に助言できる者は近くにいない。司書はため息を吐いた。

 「わかりました。では、メダルに刻印された番号を控えさせていただきます。あなたがたがここの調査に来た記録を取るためです。いいですね?」

 「それでけっこうよ」ヴィクトリアはうなずいた。

 「それで、いつからの記録を確認なさりたいのですか?」

 「そうねぇ。まずはここひと月のものから見せてくれるかしら?」

 司書はうなずくと身をかがめて足元の引き出しからノートを一冊取り出した。

 「ここに閲覧者の氏名が記入されています」

 ヴィクトリアはノートを開いた。特別な記録の閲覧を希望する者はそういるわけではない。特にこのひと月の間ではひとりの名前しか記されていなかった。

 「何、これ?」

 ヴィクトリアは声をあげると、かたわらのコーデリアにその名前をさし示した。ノートをのぞき込んだコーデリアはヴィクトリアの指先に書かれた名前を見つめた。

 「……リヒャルト・リースタイン」

 さすがのコーデリアも困惑の表情を浮かべた。思わぬところでリヒャルトの名前が現れたからだ。

 「あ、あなた、このリヒャルト・リースタインってひとが訪ねてきたことを覚えているかしら? そのひとはこの肖像画に描かれているひとと同じだった?」

 ヴィクトリアはレナード卿から預かった肖像画を取り出して、司書の前に見せた。司書は肖像画に顔を近づけた。

 「ああ、このひとですね。当日は私が応対いたしましたので間違いございません。この方です」

 肖像画は家族全員が描かれているものだ。リヒャルト以外にも兄弟が描かれていたが、司書は迷うことなくリヒャルトを指さした。

 「どういうこと? なぜ、ここにリヒャルトの名前が出てくるの?」

 ヴィクトリアはコーデリアと顔を見合わせた。そこで気付いたようにヴィクトリアはノートを見直した。

 「閲覧項目が『ホルン山における魔法防衛実験の施設』とあるわ。閲覧された日付は、ほぼひと月前。申請はさらに3か月前になっているわね。リヒャルトはあの塔を調べていたんだわ」

 ヴィクトリアは司書に顔を向けた。司書はヴィクトリアの真剣な表情に気圧されてたじろいだ。

 「ねぇ、申し訳ないんだけど、ここの責任者に会わせてくれないかしら? 長ったらしい手続きを踏んではいられない事態だってことがわかったのよ」

 ヴィクトリアの声は一種の熱を帯びた強いものに変わっていた。


25


 レトたちが下山したころには日がだいぶ傾きかけていた。ときおり吹き抜ける風が冷気を帯びている。温暖な地域ではあるが、寒さをもたらす季節は確実に近づいている。メアリーはぶるっと肩を震わせて、肩をすくめた。メルルはそれを見て、自分たちが薄着なのだと気が付いた。

 「大丈夫ですか?」

 メアリーはメルルの心配そうな声に振り返ると、笑顔を見せた。

 「大丈夫よ。宿営地に着いたら、羽織るものがあるから。あなたこそ大丈夫なの?」

 「私は高地育ちです。寒さには慣れてます」

 メルルは胸を張った。とは言え、少し肌寒いのも感じていた。慣れていますと答えたものの、都会で暮らすうちに少し寒さに弱くなっているかもしれない。

 「君は南部の出かね?」

 教授はレトに声をかけた。レトは髪が黒く、肌の色も濃い。典型的な南方系民族の特徴だ。レトをのぞくメルルたちはエウロペ族である。目と髪は栗色(教授は白髪だが)、肌はやや白く、顔が細いものが多い。もちろん、メルルのように顔の輪郭が丸いという例外はあるのだが。

 「僕は王国中部のカーペンタル村出身です。村の人々は主にエウロペ族ですが、僕の場合、母が南方系のようですね。僕の髪や肌の色は母親譲りだと聞いています」

 レトの答えに、メルルは思わずレトの顔を見上げた。その言い方ではレトは母親の顔を知らないということになる。

 「カーペンタル村。なるほど、君は元レンガ職人だったね」

 教授はそう言うとうなずいた。カーペンタル村は別名『大工の村』と呼ばれ、建築関連の職人たちが暮らす村だったのだ。

 「元レンガ職人見習いです」レトは訂正した。「一人前になることなく村を出ましたから」

 「レンガの知識は一人前じゃったがね」

 レトは手を振った。

 「よしてください。一人前かどうかは知識で決まるんじゃありません。ちゃんとした技量を持っているかどうかなんです。知識だけでは良いレンガを造れませんから」

 「ほう。その口ぶりだと、職人の仕事を嫌っていたわけじゃなさそうじゃの」

 「父がレンガ職人なんです。村では一番のレンガ職人と言われています。父が王国からも認められる存在であることを誇らしく思ってさえいるんです。ですから、レンガ職人の仕事を嫌ってはいません。嫌いなのは……それはここで話すことではないでしょうね」

 レトは言葉を選ぶようにして答えた。教授は片方の眉を上げただけで無言だった。その話はそれで終わってしまい、メルルはレトの母親のことを聞きそびれてしまった。そのことについては、教授が意図的に話を避けたようなので、尋ねることができなくなったのだ。

 教授たちが宿営地にしていたのはホルン山入り口近くの小さな広場だった。そのあたりだけ山を囲む木ではなく、芝生のような低い草で覆われていた。テントの前には2台の馬車が停まっていた。1台は教授たちが使っているものだ。

 「はて、誰か来ておるんかのう?」

 教授がつぶやいた、ちょうどそのときにテントの入り口が開き、ひとりの老年の男が姿を現した。続いてがっしりした体格の若い男が現れる。モランが出てくる様子はない。

 「あの、どちら様でしょうか?」メアリーはふたりの男に話しかけた。

 「ああ、先生。お帰りなさい。この方たちはホルン山の村を訪ねに来た方です」

 閉じかけたテントの入り口が開き、モランが顔を出した。

 「村を? でも、それは……」レトが言いかけると、若い男が手と首を同時に振った。

 「いえいえ。村のことは知っています。僕はチャベスと申します。僕の隣にいるのが行商の爺さん。村のみんなが死んでいるのを発見したひとです。僕は彼からゴメス伯父さんが亡くなったことを聞きました。実は今日、伯父たちの葬儀を終えたところです。僕は子供のころ両親とともに村を出て、ブライスの街に引っ越ししたんです。つまりは元村人というわけでして。葬儀を終えたので、今度はかつて暮らした村を見ようと思ってここまで来たのです。何かできるわけではありませんが、せめて花だけでも手向けたいと思いまして。行商の爺さんも同じことを考えていたそうなので、彼の馬車に乗せてもらってここまで来たんですよ」

 青年はよく聞こえる大きな声で説明した。

 「山の入り口に見慣れぬテントがあったので、村のことを知っているのか、このひとに尋ねていたところなのです」

 老人が補足するように話を継いだ。老人と言ってもそれほど老け込んでいるわけではない。ただ、額と頬に刻まれた深いしわが年齢を感じさせる。

 「僕は郡の方がたが調査しているところだから、村に入ることは許されないと思いますよと、お教えしたところです」モランはテントから顔だけ出したまま、締めくくるように説明した。

 「ふむ、では君たちはホルン山の村のことを知っているのかね? 例えば、あの村にはいつごろから人が住んでいるのか、山の周囲に建っている塔のことだとか」

 教授の質問に行商人と若者は顔を見合わせた。すぐに正面を向いたふたりの表情には、教授の質問を不審に思っているような様子は感じられなかった。若者が進み出るようにして答えた。

 「村の歴史については正確に知っているわけじゃありません。何せ、あんな小さな村のことですから。ちゃんとした記録があるわけでもないですし。ですから、僕が答えられるのは父や母から聞いた、村にまつわる昔話程度のものですよ」

 「その昔話には塔に関する話もあるのかね?」教授は少し歩み寄りながら尋ねた。

 「まぁ、少しですが。それに、塔の話は、村の話と繋がっていますよ」

 「ほう、そうかね! ワシはシドニー・パジェットという歴史学者じゃ。そして、こちらがメアリー・ハント君。ワシの下で助手を務めてもらっておる。すまないが君の話をもう少し聞かせてもらう訳にはいかんかね? おお、それにレト君」

 教授はくるりと向きを変えて、レトに話しかけた。

 「君も一緒に聞いてみないかね? 塔のナゾがあっさりわかるかもしれんぞ」

 「そうですね。ご一緒させてください」レトはうなずいた。

 教授は満足そうにうなずくと、再び若者に向き直った。

 「あちらにいるのは、王都の探偵さんたちじゃ。村の事件を調べておる。彼らにも村のことを話してもらえたら、君たちが村へ入る便宜を図ってもらえるじゃろう。そうじゃな、レト君?」

 レトは苦笑するしかなかった。「伍長や郡の方がたに話してみましょう」

 「そういうわけじゃ。頼めるかな、昔話のことを」

 勝手に話を進める教授に若者も苦笑していたが、力強くうなずいた。

 「まぁ、それならいいでしょう。覚えているかぎり、お話しいたしましょう」

 モランは事態の推移が少し理解できない面持ちだったが、やれやれというように首を振るとテントの入り口を広げた。

 「立ち話もなんですから、また、ここで落ち着いてお話ししませんか?」

 「もちろん、そうするわい」教授はモランを押しのけるようにテントに入っていった。

 モランは何かを言いかけて口を開いたが、結局そのまま口を閉じるとテントの奥に引っ込んだ。テントはありふれた中ぶりの大きさだった。大人ふたりはゆったりと横になれるだろう。しかし、今テントに入ろうとしているのは総勢7名だ。メルルは全員入れるか心配になった。自分は外に残って待っていようかと考えた、ちょうどそのときに頬をかすめるように風が吹き抜けた。風はかなりの冷気を含んでいて、メルルは思わずぶるるっと身体を震わせた。

……やっぱり、テントに入れてもらおうっと……。

 メルルはレトに続いてテントに潜り込むことにした。

 テントの中はメルルが想像したように、すでにいっぱいになっていた。レトは入り口わきに布を巻いたものをどかせて自分が座れる空間を作ろうとしている。

 「ああ、それ、僕の荷物です。僕が持っておきますよ」モランが身を乗り出して手を伸ばした。

 布は端が一部めくれて、中の柄が少しのぞいていた。レトはそれを元に戻すと「すみません」と詫びてモランに返した。レトが布をどかせたおかげでメルルも座れるぐらいの空間ができた。ふたりは並んで腰を下ろした。

 「さて、チャベス君。さっそくだが、あの塔は村の由来と関連があるということだったが、それはどういう話なのかね?」

 全員が腰を落ち着ける間もなく、教授はチャベスに質問を始めた。どうも待ちきれなかったらしい。

 チャベスは全員を見渡しながら、「ほんと、特別な話じゃないんですがね」と、両手を広げて話し始めた。

 「僕たちの先祖は元々、ブライス郡で生活していたんです。今のように大きな街はなく、住民は農業と土木作業をしながら生計を立てていました。今から二百五十年ほど前、ここにすごい魔導士が訪ねてきたそうです。何でも、ホルン山の周囲に塔を建てたいので、人夫を雇いたいのだとか。その魔導士は王都で王の相談役をされるほどの方とのことでした。ブライス郡には王の命令で来たようでしたね」

 「大魔導士マーリンだ」教授はつぶやいた。「当時、王の相談役を務めた魔導士はマーリン以外はおらん」

 「僕も子供のころ、村のひとからそのように聞いています。ただ、ほんとである証拠はないんですけどね。で、そのマーリンと思われる魔導士に雇われて、ホルン山の周囲に5つの搭を建てたのが、僕たちのご先祖たちというわけです」

 「それまで、ホルン山には誰も住んでいなかったのかね?」

 「ええ。当時は魔物の住処だったそうです。危険なので誰も近づかないところだったのですが、魔導士は山に住む魔物たちを退治してしまい、山は安全なところになったんです。工事は順調に進み、依頼通りの搭を建てることができました。塔ができると、魔導士は工事に携わったご先祖たちに、しばらくはここに近づかないよう要請しました。たっぷり礼をいただいたご先祖たちは、魔導士の要請に従って山には近づきませんでした。しかし、山は遠くからでも見えるので、夜間には山がびかびか光っているのが見えていたそうです」

 「山がびかびか?」

 山賊から聞いた話と同じ表現がチャベスから飛び出して、教授は思わずオウム返しに口を挟んでしまっていた。

 「さすがに詳しくは知りません。当時を目撃したひとも、あれが何だったのか説明できなかったそうですから。ただ、山がびかびかと……」

 「わかった。話を先へ進めてくれ」教授は手をひらひら振りながら先を促した。

 「それからしばらくして、あの魔導士が再びご先祖たちの前に現れました。用が済んだので、王都に戻るとのことでした。せっかく建ててもらった塔も不要になったので、壊して構わないともおっしゃったそうです。そのとき、ご先祖たちのひとりが魔導士に尋ねたそうです。『あの山にはミカンの木が生えていた。あそこであれば、ミカン栽培ができるかもしれない。もし、お許しいただけるのであれば、我々は塔に住まいを移し、山でミカンを育ててみたい』と。魔導士は快くそれを許したのです。そうして、僕たちの先祖はホルン山のふもとに移り住み、そこでのミカン栽培を本格的に始めたそうです」

 「最初は山頂ではなく、ふもとの搭で暮らしていたのかね?」

 「みたいですね。ですが、ご存知かもしれませんが、この辺りの土地は水が少ないくせに、水害の絶えない土地柄だったんです。塔が水害に襲われることはなかったそうですが、ご先祖たちは急な危険に対処できない搭での暮らしを諦めて、山頂で暮らすことにしたそうです。以来、ご先祖たちは二百年以上に渡って、ホルン山でミカンの栽培を続けていたんですよ」

 チャベスが最初に塔の話と村の歴史がつながると説明したが、その背景の意味はよくわかった。しかし、あの塔は一体何なのかという疑問は明かされないままだ。

 「結局、あの塔は何なんですか? チャベスさんはご存知ないのですか?」

 メルルが手を挙げて尋ねた。

 「ええ、知りません。それに、あれが何かって、村の者には大して問題じゃありませんでしたから。塔があることで何の危険も起こらないし、何か困ることがあったわけでなし。だったら、何も詮索しないまま放って置くでしょう? 僕が小さいころは遊び場だったんですから」

 「王国の機密施設が遊び場……」メルルは驚いた表情でつぶやいた。

 「きみつしせつ……? 何です、それ?」

 チャベスは不思議そうな表情を浮かべた。

 「え? あ、いいえ、いいんです。こっちの話ですぅ」

 メルルは両手をぶんぶんと振った。

 「まぁ、子供たちにとって、『秘密基地』なんてワクワクするじゃないですか。僕たちにとっては、あそこがそうだったんです。まぁ、近くには適当な遊び場所は他にありませんし、遠くでは魔獣に出くわす危険もありますからね」

 「遊び場として使っていたときに、塔の頂上にろうそくを灯したりしたことはありましたか? あるいは、祭事で火を灯すとか」

 レトが質問した。

 「は? いいえ。記憶にありませんが、そんなことはしていないはずです。ろうそくを灯すということは火打ち石とか、火をつける道具を用意しないといけません。山火事の危険があるから、大人たちは子供にそんなものを持たせたりしませんでしたよ。当然、僕も火をつける道具を持っていませんでしたから、塔でろうそくに火を灯すことなんてありえません。祭事は村の井戸を中心に行われるものがありましたが、塔で行なわれるものはありませんでしたよ。塔のあるところまでわざわざ降りなければなりませんからね。そんな風習は生まれなかったんでしょう」

 チャベスの説明は明快だった。レトは頭を下げて「わかりました。ありがとうございます」と礼を言った。

 「レトさん。ろうそくは新しいものだったんでしょ?」メルルはレトに囁いた。

 「ろうそくはなかなか腐るものじゃないから、念を押しておきたかったんだ。それに、あそこに火をつける習慣や風俗があるかもしれなかったしね」

 レトは小声で答えた。

 「まぁ、ろうそくをあれらの搭に置いたのは、村を襲った者だという裏付けになりそうじゃな。それに、ワシはあの塔の正体が読めてきたよ」

 「先生、本当ですか?」モランが大声をあげた。

 これまでの教授だと得意げな表情を浮かべるだろうと思われたが、教授は表情を変えることなく、手をひらひらと振ってみせた。

 「おそらくは、というところじゃな。それに、ウスキ君に塔のことを調べてもらっているところじゃ。たぶん、ワシの考えが裏付けされる答えが返ってくるじゃろうな」

 「先生、あれらの搭は一体何なんです?」レトが身を乗り出した。

 「そうです、先生。教えてください」メリーも答えが聞きたい様子だ。

 教授はぶんぶんと首を横に振った。

 「だーめじゃ。簡単に教えては君たちのためにならん。手掛かりはこれまでに提示されておる。あとは、それらをつなぎ合わせる構成力と、考えを飛躍させる思考力が必要なだけじゃ。しかも、それほど極端な思考を必要としない。君たちならワシが考えたことを言い当てることができるはずじゃよ」

 モランは無言で首を振った。やれやれといった様子だった。メアリーはあごに指をかけて考え込む様子を見せた。彼女は教授の課題に真面目に取り組んでいるようだ。

 「先生がそうおっしゃるのであれば、僕も考えてみます」

 レトはゆっくりと立ち上がりながら言った。すぐテントの布が頭に当たるので、身を窮屈そうにかがめている。メルルは慌てて立ち上がるとテントの外へ出た。自分が出なければ誰もテントから出ることができないからだ。

 「では先生。テントを片付けて、村へ一緒に向かいましょう。今夜は山頂でお過ごしください」

 レトはテントに首だけ突っ込んだ状態で中に話しかけた。レトの申し出にモランから驚いたような声があがった。

 「ここを引き払えって言うんですか? どうして? しかも、山頂って。あそこは事件のあった場所ですよ。何が原因で村人が死んだのかわからないのに、村へ行くなんてありえないですよ」

 「ですが、ここも安全じゃありませんよ。少なくとも山頂のほうが、山賊に襲われる心配はないですよ」

 「その山賊たちは、あなたが退治してくれたじゃないですか。今はこちらのほうが安全ですよ」

 モランは一歩も引かないつもりらしい。レトの説明に、すぐさま反論してくる。

 「確かに、山賊たちはもう捕らえられています。今夜だけなら、ここでも大丈夫だと思いますわ」メアリーはモランの意見に賛意を示した。

 「先生のお考えはどうなんです?」レトは教授に尋ねた。

 「ワシはどっちでも良い」教授は淡々と答えた。あからさまにつまらなそうな表情で、本当にどちらでも良さそうだった。

 「それに僕たちがテントを片付けている間に、どんどん日が暮れてしまいます。そうなると、彼らが山を下りるころには夜になっていますよ」

 モランはテントで座ったままのチャベスたちに目を向けて言った。彼らは席を立つきっかけがなく、所在無げに座っていたのだった。レトはふたりの様子を見てうなずいた。

 「わかりました。では、僕たちはこの方がたを連れて村に戻ります。……そうだ、先生」

 レトは懐から紙きれを取り出すと、そこに何やら書き付けて、紙を二つ折りにした。

 「さきほど出された課題の答えです。あとで見てください」

 「ほう、もうわかったのかね」

 教授は手を伸ばすとレトから紙きれを受け取った。レトは頭を下げるとテントから顔を引っ込めた。チャベスたちも教授たちに丁寧にお辞儀をしてテントから出て行った。やがて、行商人の馬車ががらがらと音を立てて山道を登る音が聞こえてきた。

 教授は手にした紙きれを無言で見つめていたが、馬車の音が聞こえなくなるほど遠ざかると、それを開いてレトの解答を見た。

 「フン。ある程度は『当たり』をつけていたってことじゃな」口調はいまいましげだが、口の端には愉快そうな笑みを浮かべていた。

 レトがどんな答えを書いたのか。メアリーとモランは教授の両側から紙きれをのぞきこんだ。

 「なるほどですわ」メアリーは思わずつぶやいた。


26


 ホルン山の村は日暮間近の夕日に照らされて赤く染まっていた。村の中心の井戸からは長い影が細長く伸びていた。もし、村が普段通りであれば、子供たちが井戸の周りを庭にいるかのように駆け回り、母親たちがそれを横目にしながら炊事のために水を汲んでいる光景だっただろう。村はそんな日常と切り離されたように沈黙していた。村が全滅したのは、ほんの数日前の出来事だったが、もう何年も前から無人だったような寂寥感に村は包まれていた。

 チャベスは伯父ゴメスが倒れていた井戸の前に立つと、持ってきた花束をそっと置いた。花束を供えると、彼は胸の前に手を当てて黙とうした。行商の老人も彼の隣に立つと険しい表情のまま黙とうした。レトはメルルやインディ伍長たちと並んで、ふたりの後ろ姿を見つめていた。誰ひとり口を開くものはいない。こうして無言の追悼が行われたのだった。

 チャベスたちが村にいたのはほんのわずかな時間である。村人の家屋に足を踏み入れるところまでは許可されなかったので、ふたりは井戸に花を手向けるだけで引き返すことにしたのだ。それでもチャベスはレトに礼を何度も言うと、満足したように晴れ晴れとした表情で山を下りていった。ふたりの姿が見えなくなると、村は急速に薄闇の中へ沈み始めた。

 暗くなると街へ戻るのが難しくなる。慌ただしく帰り支度を済ませると、あいさつもそこそこに郡の駐屯兵たちも帰っていった。村にはレトたち王都から来た者だけが残った。

 「探偵、お前に、話しておくことが、ある」

 インディ伍長の険しい声に、メルルは思わず振り返った。薄闇の中でもインディ伍長が厳しい表情をしているのがメルルにはわかった。

 「どうしました? インディ伍長」

 しかし、インディ伍長はすぐに話し出そうとせずに、ぐいっと親指で後ろのテントを指さした。あそこで話そうということらしい。レトとメルルは互いを見やると、先に歩き出したインディ伍長を追って、テントまで歩き出した。

 テントの中でも、インディ伍長はすぐに話し出そうとしない。さすがにメルルはじりじりと苛立ってきた。そこへフォーレスがテントに入って来て、インディ伍長の隣に座った。

 「それで、お話しとは何ですか?」フォーレスが現れたのが合図かのように、レトから話を切り出した。

 「う、うむ」インディ伍長はうなずくが言葉が続いて来ない。

 「さっき、早馬が来て、隊長から指示があったんです」

 インディ伍長がなかなか話し出さないので、フォーレスが代るように話し出した。

 「憲兵隊は探偵事務所とは別で行動せよとのことです」

 レトはインディ伍長に視線を戻した。「インディ伍長?」

 「詳しい説明は、あまりなかった。ただ、隊長は、探偵と一緒に、事件の捜査を行なうなとだけ、お命じになられたのだ」

 「何でも、王都で起きた殺人事件の捜査で、そちらの所長とイレス隊長との間で、何らかのいさかいがあったようなのです。その詳細は聞かされませんでしたが」

 フォーレスが補足するように説明した。レトたちの探偵事務所は王太子直轄の組織で、憲兵隊とは系統が異なる。憲兵隊と同列で、権限も同格ではあるが、探偵事務所は規模があまりに小さいため、憲兵隊の協力を得て捜査を行なっている。憲兵隊との協力関係は明文化されているわけではないので、その関係は非公式のものだ。突然、協力を得られなくなったからと言って、レトたちに文句が言えるものではない。

 「それでは、今後の捜査はどのようにされるおつもりですか?」

 レトはインディ伍長に尋ねた。声には抗議の響きはない。ただ確認したいだけのように聞こえた。

 「ここでの調査はだいたい終わっています。私たちは明日、機材などの片づけを行ない、村から撤収するつもりです。ですが、その際……」

 ようやく、レトには話が見えてきた。

 「行きとは違って、帰りに僕たちを乗せてやるわけにはいかない、ということですね」

 メルルはハッとしてインディ伍長に視線を向けた。「それ、本当ですか?」

 インディ伍長は無言のままだ。フォーレスが代りに口を開いた。

 「お察しください。上からの命令なのです」

 メルルは肩から力が抜けそうになった。この村は王都から20里近く離れている。郡の街からも2里は離れているはずだ。この山道を下り、荒れた道を歩いて近くの街に向かい、そこで駅馬車に乗らなければならない。想像しただけで疲れてしまう。

 いや、ふもとにはパジェット教授たちがいるではないか。彼らの馬車に乗せてもらえばいいじゃないか。

 そこでメルルは力なく首を横に振った。あの馬車は少人数用の小さいものだった。テントなどの荷物を積むと、レトやメルルを乗せられる空きはないだろう。そもそも、そんな図々しい頼み事ができるとは思えない。

 「立場はよくわかります。お気になさらないでください」

 レトはそう言うと立ち上がった。メルルも慌てて立ち上がる。

 「僕たちは自力で王都に戻る手を考えてみますよ」

 「わかってくれ、探偵」インディ伍長が弱々しく声をかけた。

 「嫌がらせを、したいわけでは、ないのだ」

 「わかってますよ、インディ伍長」


 レトたちは自分たちのテントに戻ると遅い夕食を済ませた。メルルが自分で淹れたお茶を口にすると、ようやく人心地着いたらしい。メルルは床にぺたんと腰を下ろした姿勢でぼやきはじめた。

 「もう、面倒くさいですぅ、インディ伍長は。立場だの、何だのって……」

 「そう愚痴るなよ。インディ伍長は『嫌がらせをしたいわけではない』って、言ってたじゃないか」レトはテントの床に魔法陣が描かれた布を広げながら、淡々とした口調で言った。

 「だからって、命令に忠実過ぎです。伍長さんは頭固すぎですぅ……」

 「メルル。軍隊は規律を重んじなければいけないんだ。ましてや憲兵はそれを取り締まる部署でもあるんだ。伍長が命令に忠実であろうというのは当然のことなんだよ」

 「でも……」

 「いいかい。軍隊は存在そのものが暴力なんだ。統制を取ることで、かろうじて『ただの暴力』にならないよう抑えられるんだ。僕は統制の取れない軍隊がどれだけ危険かを戦場で目の当たりにしている」

 激戦地で戦ったレトの言葉に、メルルはたじろいだ。軍隊に対する認識はレトの考えが正しいのだろう。

 「でも、協力体制を維持しなければいけないのに、一部の判断で連携を乱す命令は正しいんですか? レトさんのお考えには、命令が正しいものであることが前提条件になると思うんです」

 メルルはレトが身動きしていないことに気が付いた。背中越しにのぞいて見ると、レトは広げた布を見つめたまま沈黙している。

 「戦争だったら、きっと、大勢のひとが亡くなる作戦でも実行しなければいけないんでしょうね。そんな時に『自分が死ぬのはイヤだ』なんて兵隊さんが拒否したら、戦争どころじゃなくなるのはわかります。でも、その作戦が誰の目にも誤りだとわかるものであれば、それでも従うべきなんでしょうか? 私は納得いかないです」

 レトは深いため息を吐いた。

 「誰の目にもって言うけど、誰の目にも明らかなことってどれだけあるんだい? どんな優秀な指揮官が指揮しても、負けてしまえばその作戦は誤りということになる。逆に適当な作戦でも勝ってしまえば、最善の策と言われるんだ。誤りかどうかは結果が出るまで誰にもわからない。だからこそ、指揮官の指示を最優先にしなければ不必要な混乱を招くことになる。戦場でもっとも危険な状況は、収拾がつかないほど統制が取れなくなることだよ」

 レトはくるっと向きを変えた。

 「それに、今回はたかが馬車に乗せてもらえるかどうかの話じゃないか。そんなに大きな声で話すことじゃないと思うよ」

 そこでメルルはハッとして、自分の口に手を当てた。「聞こえちゃいましたかね?」

 「さぁ? でも、大丈夫だろう」

 レトにしてはいい加減な答えだった。

 「この話はこれで終わりにしよう。定時連絡の時間だ」

 レトは魔法陣の上に立つと、呪文を唱え始めた。メルルは、そのことに違和感を抱いた。

……そうだ。レトさんって、呪文なしで魔法が使えるひとだった。この通信魔法のときは呪文を唱えている。

 メルルには、レトが魔法を使える条件がわからない。高難度の魔法を難なく使いこなせるかと思えば、メルルでも扱える魔法が全く使えないことがある。意識不明の子供を見つけたとき、レトはメルルに回復魔法ができるか尋ねていた。レトは神聖系の魔法がまるで使えず、初歩程度のものさえ使えないのだ。まったくでたらめにもほどがある。

 『ああ、レト君。待ってたわよ』

 レトの正面に広げている魔法陣からヴィクトリアの姿が浮かび上がった。椅子に座って足を組んでいる。疲れたような表情から、レトからの連絡を待ちわびていたようだ。

 「お待たせしてすみません。その様子だと当たりが出たようですね」

 レトはヴィクトリアに話しかけた。レトの視線はヴィクトリアの形のいい脚に注がれている。その脚は落ち着かないようにぐらぐら動いていたのだ。

 『そうなのよ、レト君。この話を早く知らせたくってうずうずしてたんだから』

 ヴィクトリアは身を乗り出してきた。顔はやや紅潮して、少し興奮しているのがメルルの目にもわかった。

 「知らせたいこと、ですか。いったい何です?」

 『ホルン山の事件に、こっちの事件がつながったのよ』

 「そちらの事件に……? たしか、貴族の子息が行方不明だという? いや、すでに死亡しているんでしたっけ」

 『そう。話を順に説明すると、こうね。私たちは教授とレト君に頼まれた非公開軍史のリストを調べたの。すると、ホルン山と周囲の搭にまつわる記録が見つかったんだけど、その記録を最近閲覧していた人物がいたのよ』

 レトの表情が険しくなった。「……まさか、それがリヒャルト・リースタインだと」

 『さすが記憶力がいいわね。そのとおりよ。リヒャルト・リースタイン。彼は行方不明になるひと月前に王立魔法学院の資料室に現れて、ホルン山の搭に関する記録を調べていた。もちろん、閲覧可能な部分しか調べられなかったはずだけど、これって重要な話だよね?』

 レトはうなずいた。

 「そうですね、ヴィクトリアさん。ちなみに、リヒャルトが閲覧できた内容を知ることは可能なのですか?」

 『そこは向こうの責任者と掛け合ったわよ。緊急の調査だってね。ホルン山の事件は、ここでも騒ぎになっていて、それに関わるかもしれないって聞くと、丁寧に協力してくれたわよ』

 本当はだいぶ渋られたのだが、細かい経緯は話したくなかった。ヴィクトリアは何ともなかったように答えた。

 『リヒャルトが調べていたのは、『ホルン山における魔法防衛実験の施設』と題された記録よ。ホルン山はある魔法実験の実験場として使われていたのよ』

 「魔法障壁の開発実験場だったんですよね?」

 レトはさらりと続けたが、ヴィクトリアは驚いて口が開いたままになった。

 『レト君、気付いていたの?』

 「気付いたのは教授が先でした。僕は教授が手掛かりをくれたのでわかったんです。ホルン山は通常の山とは異なる形状の山です。鋭角で、まるで城のような姿をした山です。そして、周囲に5つの搭が囲んであるとなれば……」

 『……ディクスン城とそれを守護する5つの魔法障壁の搭。ホルン山は、それらを模してあるのね』

 「魔法障壁の搭を王都に設置するにも、それが有効であるか実証されてからでないとできないでしょう。まずは実験する場を設けて、いろいろな魔法攻撃を加えて効果を試したはずです。そこで問題点などを洗い出して、さらに改良を加え、より精度の高いものにしてから、王都に魔法障壁の搭を建てさせた。これを推進したのは大魔導士マーリンです。彼はホルン山を訪れて、地元の人々に5つの搭を建てるよう依頼しました。塔の中には、おそらく魔法障壁を発生させる何らかのからくりが運び込まれたに違いありません。ですが、地元の人々はそれを見ることはできませんでした。塔ができあがると、マーリンは人々を遠ざけたからです。そして、そのからくりは完全に非公開の情報として封印されている。たぶん、からくりそのものに関わる記録はよほどでないと目にすることはできないでしょう。ですが、からくりの器にすぎなかった搭のことは、ある程度の条件のもと、非公開の記録として残されたんだと思います」

 「チャベスさんのご先祖様が目撃した、山がびかびか光っていたって話は……」

 メルルが思い出したように声をあげた。

 「それが、魔法障壁の実験の光景だったんだろうね。おそらく、雷系の魔法攻撃を魔法障壁がどこまで防げるか試していたんだと思う」

 「ヴィクトリアさん。レトさんの推理は合っているんですか?」

 メルルは心配顔でヴィクトリアに尋ねた。もともと、この事件に得体のしれないものを感じていたが、王都の防衛機構に関わる話とはメルルの予想を上回っている。にわかには信じられなかったのだ。

 『ええ、合っているわよ』ヴィクトリアはあっさり肯定した。

 『大魔導士マーリンは当時侵攻を重ねる魔族の対処に苦心していた。万が一、魔族が王都まで攻め込んできたとき、強大な魔法で城を直接攻撃されたら、城は一発で落ちてしまうわ。そのために、遠距離からの魔法攻撃を防ぐ魔法障壁は必須の対策だった。ホルン山での実験はどうしてもしなければならないことであると同時に、秘密にしておくべきものでもあった。だから、当時の記録は非公開とされたのよ。ただ、完全非公開なのは魔法障壁を恒久的に展開する仕組みの情報で、魔法障壁を設置するにあたっての経緯などは単に非公開としている。おおっぴらに明かすわけにいかないけど、厳しく隠すほどでもないと判断されたみたいね』

 「実際、魔法障壁がどんな仕組みで、それに弱点があるのか、僕たちは知らないのです。ですが、何者かがそれを見つけようとしたんですね」

 レトの言葉にメルルは首をかしげた。

 「……どういうことです?」

 レトは一瞬ためらう表情を見せた。これから口にすることに恐れを抱いているようだった。だが、レトは強くうなずくとはっきりとした口調で答えた。

 「ホルン山の事件は、そのままマーリンの実験とつながるんだ。つまり、何者かが魔法障壁をホルン山に展開させて、障壁内に守られている村人をある魔法で攻撃できるか実験したんだよ」

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