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~死者を抱(いだ)いて山は沈黙する~ 4

Chapter 4


15


 朝もやが立ち込める中、レトは湖畔に立っていた。朝もやは濃い乳白色で、湖面の様子はほとんど見えない。自分がいつから立っていたのかわからない。足元には穏やかな波がそっと撫でるように濡らしていく。

――ここはホルン山の火口湖じゃない。ここはどこだ?

 レトは辺りを見渡した。太い幹の樹々が身を寄せ合うように立っている。その光景にレトは見覚えがあった。

――ここは、あの湖だ。なぜ、僕はここにいる? どうやって、いつ、ここに来たんだ?

 レトは警戒するように剣の柄に手をかけながら、辺りに神経を配った。そこへ一陣の風がすっと駆け抜け、湖面を隠すようにしていた朝もやが少し晴れた。レトは柄にかけていた手を放してしまった。目の前にひとりの少女が背中を向けて立っているのが見えたのである。その少女は裸だった。

 「……君か」

 レトは思わずつぶやいた。懐かしさとともに、胸を締め付けられる思いが湧いてくる。レトはなぜこんなところにいるのか、考えることを忘れてしまった。

 『久しぶりだと言うのに、ご挨拶ね』

 少女はレトを振り返って言った。肩までかかる金色の髪、白い肌、青い瞳。やや冷たい表情だが、その顔は美しいものだった。

 『ほかに言うことはないの? 私に会えてどうだとか、いろいろあるでしょ?』

 「とっさには出てこないよ」

 それを聞くと、少女は『はぁ』とため息を吐いて、自分の額に手を当てた。

 『ほんと、あなたって進歩ないわね。そういう愚鈍なところ。それだから、私もこうして、あなたに苦言のひとつも言いたくなるんじゃない』

 「苦言?」

 『昨日、あなたが周りにさらした情けない姿のことよ。ほんと情けないったらないんだから』

 「君は、そのことを言うために現れたのか」

 『しっかりしてよ。私はあなたと2度戦って、2度ともあなたに負けた。私に勝てるほどの男が、簡単にくよくよした姿をさらすなんて許せるわけないでしょ? だって、あなたに負けた私はもっと弱いみたいじゃない』

 「君は強いよ。お世辞でもおべっかでもなく」

 『あなたに負けるまで、私はそう思っていた。あなたの強さは、ただ力のみに頼らないところ。誰にも負けない知恵と心を持っているのよ。それは、ほかの誰も持っていないもの。あの勇者ですら、それが足りなかった。力や技ではあなたを圧倒していたのにね。それは私にしてもそう。あなたに負ける要素なんてないと思っていた。その自信を砕いたのはあなたなのよ』

――ごめん。

 一瞬、謝罪の言葉が浮かんだが、それは口にしなかった。昨夜、コジャック医師と話したとき、相手に対する侮辱になると自分自身が言ったはずだった。

 「今回の失敗で、僕は学んだ。こんな間違いは2度と犯さない」

 少女はやれやれと首を左右に振った。

 『別にそんな決意表明が聞きたかったわけじゃないんだけどね。でも、まぁいいわ。あなたがそう言い切るのであれば』

 少女は再びレトに背を向けた。そのまま湖の奥へと歩いて行く。

 「……行ってしまうのかい」

 『言いたいことを言いに来ただけだから』

 少女は背を向けたまま、手を挙げて振ってみせた。再び湖面を朝もやが覆い始め、少女の姿を隠していく。

 レトは思わず後を追おうと片手を差し伸ばし、彼女の名を呼ぼうとした。それをさせまいとするように、少女の声が響いてきた。

――2度と情けない姿をさらさないで。まして、負けたり殺されたりするのは絶対許さない。あなたを殺すのは私なんだから……。


 レトはゆっくりと目を開いた。テントの中で毛布を被って横になっていたのだ。そこでようやく、自分が夢を見ていたのだとわかった。

 レトの胸の上にはアルキオネがとんとんと跳ねている。レトと目が合うと、くゎっとくちばしを開けて翼を広げた。

 「……さっきの夢は、君が見せたのかい?」

 ぼんやりとしながら、レトはアルキオネに話しかけた。カラスは首をかしげて横を向いた。まるで「何を言っているのかわからない」と答えているようだ。しかし、すぐにレトのほうを向くと、とんとんと跳ねてくる。

 「わかったよ」

 レトはのろのろと身体を起こした。アルキオネはさっと脇へ降りると、レトの顔を見上げる。

 「痛っ」思わず、レトは左肩に手をかけた。レトの左肩は鎧で覆われている。寝た姿勢が悪かったのか、ひねったような痛みがある。「鎧をしたまま寝たのは久しぶりだからか……」レトは肩を押さえながらつぶやいた。アルキオネは動きの鈍いレトにいら立ったのか、わき腹をつついてくる。レトは苦笑いして、枕元を振り返った。そこにはレトの鞄が置いてある。

 レトは自分の鞄を引き寄せると、中から干し肉の塊を取り出した。アルキオネはぱたぱたと羽を動かしながらレトのひざの上に乗る。レトは干し肉を噛みちぎると、そのかけらを口の中で噛み砕いた。こうして柔らかくした肉を取り出すと、翼を小刻みに羽ばたかせながら待っていたアルキオネに与えた。カラスは肉を口に入れるとさっそくぱくりと食べてしまう。その間に、レトはもう一度干し肉を噛みちぎり、それも噛み砕いてからアルキオネに与えた。アルキオネは食事を続ける。

 レトはそれを眺めながら、今度はパンを取り出した。日持ちするよう焼きしめたパンだ。レトはパンを半分に割ると、中の白くて柔らかい部分を摘まみとって、それをアルキオネに与えた。パンも干し肉と同様、あっという間にアルキオネの胃袋へ収まった。彼女はそれで満足したらしい。くるりと向きを変えると、テントの出入り口に向かい、器用に布をめくりあげて外へ出て行った。姿が見えなくなると、テントから飛び立つ羽音が聞こえてきた。

 「本当にお前さんは不思議な男じゃな」

 レトは声のしたほうを向いた。コジャック医師が横になったまま、こちらに顔を向けている。このテントはレトとコジャック医師が寝ていた。インディ伍長とフォーレスたち憲兵隊所属の者はもうひとつのテントで休んでいる。メルルはひとりだけ幌付馬車の中で寝ることになっていた。

 「すみません、起こしてしまいまして」

 レトは謝った。テントの布は遮光性が高くない。外はまだ早朝の時間らしく、あまり明るさを感じない。起床時刻にはやや早いようだった。

 「なぁに。この年齢になると、ちょっとしたことで目が覚めてしまう。お前さんが気にすることではないよ」

 コジャック医師はゆっくりと身体を起こした。

 「あんたが肩にカラスをいつも載せているのは知っているが、ああも人間に心を許しているなんて珍しいと思ってな。カラスは利口だからひとに馴れることもあるが、たいていは警戒して、寄りつこうともしないはずだが」

 「彼女は、ほかのカラスと違うんです。いつでも遠くへ去ることができるのに、僕のそばに帰って来てくれるんです」

 「カラスを『彼女』とねぇ。あれをまるで人間のように言うんだな、君は」

 「まぁ、それなりに付き合いがありますから」

 レトはつぶやくように言いながら、パンと干し肉を鞄にしまった。


15


 「おはようございます、レトさん」

 井戸水で顔を洗い立てのメルルが、テントから顔を出したレトに声をかけた。冷たい水を顔に浴びせかけたせいか、顔がほんのりと赤くなっている。帽子は井戸の脇に置いてあり、くしゃくしゃの髪を両手で撫でながら直そうとしている。

 村はうっすらと朝もやに包まれている。間もなく夜明けになるころで、陽の光はまだ見えない。それでも空はだいぶ明るくなって、濃紺の空が次第に濃い青へと変わっている。山頂の朝は肌寒く、頬に触れる風が冷たい。毛布の恋しくなるような寒い朝だが、メルルが起床時間より早く起きていることに、レトは少し驚いた。

 「ああ、おはよう。君はちゃんと眠れたのかい?」

 レトの問いかけに、メルルはやや下を向きながら「うーんと……」とあいまいな声を漏らす。やはり、あまりよく眠れなかったらしい。

 「ひょっとして馬車の中は休みにくかったのかい?」

 メルルは慌てたように両手を振った。

 「いえ、いえ! むしろ硬い地面で寝ていたレトさんたちのほうが寝苦しくなかったんですか?」

 「ああ、僕たちか」

 レトはテントを振り返った。

 「僕は問題ない。野宿でも平気だし」

 レトの返事を聞いて、メルルは思い出した。

……レトさんって、『討伐戦争』に行ってたんだっけ……。

 『討伐戦争』とは、今から2年ほど前、『魔国の四侯』と呼ばれる地位にいたアルタイルという魔族が私兵を率い、『魔の森』を越えて侵攻してきたことが発端となる戦争である。

 ギデオンフェル王国の東側には、『魔の森』と呼ばれる巨大な森林地帯がある。その土地は『魔素』と呼ばれる魔法の元素に満ちた世界だ。『魔素』とは、空気で言うところの酸素にあたり、『魔素』の濃い地域では魔法の威力が格段に増す。人体に直接的な害はないとされているが、『魔素』の濃い地域に留まっていると体調を崩す者がいる。そのせいもあって、『魔素』の濃い森林地帯は『魔の森』と呼ばれ、そこにひとが暮らしていることはない。

 『魔の森』のさらに東へ進んだところにあるのが、魔族たちの国、『マイグラン』だ。人間たちは畏れを込めて『魔国』と呼んでいる。この世界では、『魔の森』を境界線として、人間と魔族の棲み分けが明確になっていた。不文律ではあるが、互いにその境界を犯さないのが通常であった。しかし、『魔の森』を抜けて、人間世界に侵攻する魔族が皆無だったわけではない。むしろ、しばしば起きていたことだった。千年ほど前は、当時の魔王が世界征服を企み、人間世界の侵略を図ったことがあった。そのときは、超常の力に目覚めた『勇者』が現れ、激戦の末に魔王を討ち滅ぼした。ギデオンフェル王国はその戦いの後に成立した国である。 

 『魔国』は魔族の国と呼ばれるが、その国を支配しているのは、『ハイクラス』と呼ばれる種族だ。魔族であるにもかかわらず、その外見は人間そのものと言われるほど似ている。ただ、人間の限度を何倍も超えるほどの魔力を有し、呪文を唱えることなく魔法を行使できると言われている。似ているのは姿だけで、その性格は冷酷で残忍。強力な魔法であらゆるものを圧倒する存在。それが『ハイクラス』であるとされる。それらの情報はほとんどが噂で、実際に『ハイクラス』と会って、その実態を調べた者はいない。いや、それを知ろうとした者が、生きてその報告に帰還したことがない、と表現するほうが正確であろう。

 アルタイルはそのような『ハイクラス』の中でも、『魔国の四侯』と称されるほどの実力者であった。四侯とは、『魔国』の王、つまり魔王を支える4人の側近のことを指す。アルタイルは魔王シリウスの実弟であり、四侯の中でも筆頭とされていた。彼が、私兵を率いて侵攻してきた背景は今も不明であるが、この事件はギデオンフェル王国を揺るがす大事件となった。王国側も手をこまねいていたわけではないが、瞬く間に3つの城塞都市が陥落、それらを守備していた駐屯軍はそれぞれ壊滅するか全滅するという惨状であった。

 効果的な対策を講じることができないなか、王国に奇跡が起きた。人間世界を救った『勇者』の子孫から、再びその超常の力に目覚めた者が現れたのである。その勇者の名はリオン。王国は義勇兵を募り、リオンを団長に据えた『勇者の団』を結成する。『勇者の団』はアルタイルの軍と正面から戦い、これを撃破した。その激戦における犠牲は大きく、王国は勇者をはじめ、有力な剣士や冒険者を失った。

 魔侯アルタイルを討伐するための戦争。それが『討伐戦争』と呼ばれるゆえんである。

 レトはその『討伐戦争』で一兵士として戦っていたという。野営は日常のものだったはずで、「野宿でも平気」というのは、戦場暮らしでそれに慣れてしまっているのであろう。昨日は珍しく動揺していたが、普段のレトは冷静そのものだ。多くの死線をくぐり抜けた経験が、レトをめったに動じさせない性格にしたのだと思われる。時々、事務所へ冷やかしに訪れるルッチは、レトのことを「戦友」と呼ぶことがある。もしかすると、ルッチもレトと同じ戦場で戦っていたのかもしれない。

 レトの横顔をぼんやりと見つめながら、メルルはそんなことを考えていた。ほんの2年前ではあるが、自分は戦争のことはよく知らない。メルルが当時住んでいた村は、戦場から遠く離れた辺境の地にあったため、何の被害もなく、また、戦争の悲惨な話を聞くこともなかった。メルルにとって、『討伐戦争』はおとぎ話のような、現実とは異なる別世界の話だった。

 「……どうかしたかい?」

 自分の横顔を見つめられているのが気になったらしい。レトが居心地悪そうに尋ねた。

 「あ! ええっと、すみません。何か、いろいろ考えちゃって……」

 「昨日はいろいろあったからね。疲れが取れなくても無理はないね」

 レトはメルルの考えを勘違いしてねぎらいの言葉をかけた。メルルは今考えていることを口にするのははばかられたし、めったにいただけないねぎらいの言葉を取り消されたくなかったので、あいまいに笑みを浮かべてごまかすことにした。

 「今日も大変でしょうから、足を引っ張らないように頑張ります」

 メルルは帽子をかぶりながら言うと、レトは「あんまり気張らなくていいよ」と答えて、自分も顔を洗い始めた。メルルは自分が期待されていないように感じて、みるみるふくれ面になる。

 「私はやればできるんですよ!」

 「知ってるよ」

 レトは顔を上げると、こともなげに言いながら顔を拭いた。メルルは目を丸くする。

 「さぁ、みんなが起きる前に朝食の準備を進めようか」

 レトは馬車に向かって歩き出した。馬車にはみんなの食料が積み込まれている。メルルは少しの間、レトの背中を見送っていたが、すぐ我に返ると、今度は笑顔で「はい!」と言って、レトの後を追った。


 朝食の用意が終わるまでに、インディ伍長ら3人も起きだした。レトたちは馬車のかたわらに折り畳みのテーブルを広げて、そこに朝食のパンやハムなどを並べて置いた。5人は朝の挨拶もそこそこに朝食を摂ることにした。テーブルを囲んでいるので、そのまま朝の会議が始まる。

 「ワシは次に駐屯軍の馬車が来たら、それに同乗させてもらって、郡の病院を回ってみようと思う。それまでに、ここで試料として持ち帰られるものがないか、最後の確認をしたいのだが」

 コジャック医師はカップに口をつけながら言った。

 「それは、私が、同行いたしましょう。駐屯軍にも、話をしないと、いけませんから」

 インディ伍長が申し出ると、コジャック医師はうなずいた。「よろしく頼む」

 「私は駐屯軍が到着しましたら、山の中腹を中心に調査を行ないます。ミカン畑の荒れ具合を確認したいと思いますので」

 フォーレスはレトの顔を見ながら言った。

 「昨日、ミカンが大量に破裂しているのが見つかったと、おっしゃっていたじゃないですか。それをいくつか集めて、コジャック先生の試料として持ち帰っていただこうと思いますし、裂けた木の幹も一部は持ち帰ってもらったほうがいいと考えます。未知の村人の遺体が見つかる可能性を考えての調査はもちろん行いますが、今度の調査は試料集めを中心にと考えております」

 「フォーレスさんはその方向でお願いします。僕たちは9時までにふもとに降りて、教授たちと合流します。昨日お話しした遺跡周辺の調査と探索を行なう予定です」

 レトは全員の顔を見ながら話した。全員の予定の確認が終わり、テーブルを片付け始めたところで駐屯軍が村に到着した。今回は2台の馬車でやってきた。馬車2台分ということは、昨日より人員を半分に減らしたということだ。村人の回収は終えているので、人手を減らすのは当然のことと言える。

 「おはようございます、本日もよろしくお願いします!」

 アドラー大尉がピシッと敬礼して挨拶してきた。インディ伍長も敬礼で応えている。

 「なんか不思議ですね」

 インディ伍長には声が届かないほど離れた場所で、メルルはぽつりとつぶやいた。

 「何がです?」かたわらにはフォーレスが立っていた。

 「私、軍隊のことはよくわかりませんけれど、大尉って、伍長より偉いんですよね?」

 「偉い、という表現は適切ではありませんが、どっちが上位だと言うのであればその通りです」

 「でも、昨日から見ていると、大尉のほうがインディ伍長に対して丁寧と言うか、上のひとのように見ている気がします。王都の憲兵になると、伍長が駐屯軍の大尉さんより上位になるんですか?」

 フォーレスは苦笑した。メルルの率直な態度には笑うしかない。

 「いいえ。軍の上下関係は王都だからどうだとか、憲兵だからどうだとか、そんなことでひっくり返ったりはしません。おそらく、伍長が駐屯軍の中で人望があるからでしょう」

 「ええ! あのひとがですか?」

 「あなたも、伍長がイレス隊長の腰ぎんちゃくという評判を耳にしているのですね」

 「あ……、すみません。失礼なことを口にしてしまって」

 メルルは帽子で顔を隠しながら言った。

 「まぁ、そういうことが陰で言われているのは事実ですがね。ですが、伍長はすごいひとなんですよ、実際は」

 「どういうことです?」

 「2年前の討伐戦争がはじまったころ、伍長は城塞都市『アングリア』の駐屯軍兵士だったんです。ご存知ですか、『アングリア』を?」

 「いいえ、討伐戦争のことはあまり知らないんです」

 「そうですか。『アングリア』はアルタイルの軍勢から、真っ先に攻撃を受けた都市です。駐屯軍は壊滅、多くの住民も殺されました」

 「そんなところにいたんですか!」メルルはインディ伍長の後ろ姿を見つめた。王都でゆるゆると仕事しているようにしか見ていなかったが、そんな過去があったとは想像できない。

 「軍が壊滅状態にあっては、住民の安全は図れません。そんななか、住民の脱出を指揮し、しんがりまで務めたのが伍長だったんです。伍長の尽力によって数百の命が救われたんですよ」

 フォーレスから語られる意外な話に、メルルはただ目を丸くするばかりだ。

 「その話は我々の耳にまで届いて、一時は『アングリアの英雄』として評判になりました。特に駐屯軍の兵士の間では、伍長を英雄視しているのが多いですね。そりゃあ、あの激戦地であれほどのことを成し遂げたんですから。それから戦争が終わると、イレス隊長により王都の憲兵として呼ばれたんです。もともと階級なしの一般兵が、伍長に昇格してのおまけつきです。伍長は士官学校を出ていない、最下層の一般兵でしたから、あの若さで階級が上がることは考えられにくいんです。伍長に昇格して、さらに王都の憲兵隊員に選ばれるなんて、伍長のような身分のひとからすれば、とんでもなく破格の昇進ですよ。伍長はそのことを非常に恩に思っているようで、それで隊長には絶対的な忠誠心を示しているんです。それが周りから腰ぎんちゃくに見えることもあるんでしょうが。でも、あのひとはいざとなれば頼りになるひとだと、私は思っていますよ。大尉のあの態度は、王都の憲兵に対するおべっかでなく、本心から伍長に敬意を払っているんだと思いますね」

 フォーレスはそう話を締めくくった。メルルは伍長の意外な過去を知り、今までのことを反省した。私、あのひとのまだるっこしい話し方にイライラして、ずいぶんな態度をしていた。思い出してみれば、インディ伍長からそのことで怒られたことがない。あのひとは鈍いんじゃなくて、実は心の広いひとだったんだ。

 「レトさんも『アングリアの英雄』の話を知っているんでしょうか?」

 メルルは辺りを見渡しながら尋ねた。レトは出かける準備のため、テントに戻っている。

 「さぁ。でも、あのひとは伍長の過去のことを何も知らなくても、あの態度だと思いますね。破格の扱いなら、あっちのほうが上ですしね」

 フォーレスはレトのいるテントに顔を向けて答えた。

 「レトさんが破格の扱いですか?」

 「あれ、知らないんですか? レトさんは下級市民から飛び級で上級市民になって、姓を名乗れるようになったんです。まぁ、事件捜査のために上級市民でなければ立ち入ることのできない場所はありますからね。それでも中級市民を経ずに上位に上がるのは異例中の異例ですよ」

 「レトさんは戦争では手柄は挙げていないって聞いていますけど、本当はすっごい手柄を挙げていたってことじゃ?」

 「さぁ? それは我々も知らないことです。でも、あのひとは『あれ』の生き残りですからね。それだけでも大したもんだとは思いますが」

 「『あれ』って?」

 「それも聞いていないんですか? レトさんは、あの『勇者の団』の生き残りですよ」

 

16


――『勇者の団』。

 戦争を知らないメルルでさえも聞いたことがある兵団の名前だ。超常の力が覚醒した勇者リオンを団長とする有志の兵団。アルタイルと直接戦った結果、主だった者はすべて命を落としたと聞いている。兵団を構成していたのは、各地に飛ばされた檄を受けてつどった者たちだ。名のある冒険者から無名の者まで、総勢千名の兵士がアルタイルに挑んだ。そして、生きて国に帰ってきたのは半分にも満たないほどだった。生還者の中に勇者リオンは含まれず、彼を脇から支えた仲間たちすべてが帰ってこなかった。その辺りの事情は詳らかにされていない。王国は救国の勇者を失うという大きな犠牲を払って、この国難を乗り切ったのだ。『勇者の団』の名は、そんな苦い思いとともに語られる悲劇の兵団だった。

 レトがその『勇者の団』で戦っていた。その事実は少なからずメルルを動揺させた。思い出してみれば、レトの強さは、過酷な最前線で戦っていた経験の賜物だと思えば納得できる。かつて、魔物狩りですら手こずったリザードマンを、レトは難なく倒してみせた。まるで、リザードマンとは何度も戦ったことがあるかのように。いや、実際に戦っていたのだろう。強力な魔族が待ち構える最前線で、レトは戦っていたのだから。

 さきほどのインディ伍長といい、レトといい、みんなとんでもない過去を持っている。そんな経験のないメルルには、立ちくらみしてしまいそうな話だ。

 「何なんですか、みんな。すごいひとたちばっかりじゃないですか」

 文句を言うようなメルルの口調にフォーレスは笑った。

 「すごいと言えばあなたもですよ、メルルさん。何せ、そのすごいひとたちに混じって、それを当たり前のようにして働いているんですから」

 「……知っていたら、物怖じして口もきけなかったと思います」

 「そうですか? 私はあのふたりと働くことができて、とても光栄なんですけどね」

 レトがテントから現れると、話しているメルルたちに近づいた。

 「お待たせ。出発しよう」

 メルルは慌てて振り返った。「は、は、はい! 行きましょう! レトさん!」思わず声が上ずってしまう。フォーレスは背中を向けたままクスクス笑っている。

 「何か楽しそうなことを話していたみたいだね」

 「と、と、とんでもないです! さぁ、レトさん、急ぎましょう。約束の時間までそんなに時間はないです!」

 メルルはレトの腕を取ると、ずんずんと急ぎ足で村の出口に向かった。レトは引っ張られながらも、「では、フォーレスさん。伍長にもよろしくお伝えください」と頼んだ。

 フォーレスは背中を向けたまま手を挙げて応えた。まだ忍び笑いを続けているようだった。

 「本当に何も話していないのかい?」

 フォーレスの様子に不審を抱いたらしく、レトはメルルにやや詰問調で尋ねた。

 「ほ、本当です、レトさん。していたのは、伍長さんが実はすごい英雄だったとか、そんな話です」

 メルルは話しの半分だけ正直に答えてごまかした。レトはそれ以上の追及をしなかった。

 村の出口にあたる門のところで、レトたちはインディ伍長に呼び止められた。フォーレスからレトたちが出発したことを聞き、後を追ってきたのだ。

 「お前たち、ちょっと、待ってくれ」

 「どうかされましたか、インディ伍長」

 「う、うむ。郡のとある町で強盗事件が発生していたのだが、その容疑者たちが、この辺りに潜伏している、可能性があるのだ。さっき、アドラー大尉から、報告をいただいた」

 「強盗団がこの一帯のどこかにいるのですか?」

 「うむ。事件が起きたのは、もう5日も前のことだ。非常線は、すぐ張られたのだが、どうも、網を抜け出てしまっていたらしい。軍は捜索範囲を、町の周囲にも広げて行なっていたのだが、ようやく逃走の痕跡を見つけたら、この辺りに、逃げ込んだらしいのだ」

 「この辺りは荒れ地です。障害物が多い分、捜索は難しそうですね」

 「ここ以外に、村などはない。軍としては、人質を取られる危険が少ないのは、幸いだと思っている。だが、軍がパジェット教授に、注意を促そうと先日、宿営されていたところへ寄ってみたら、そこにはいなかったということだ。探偵が、落ち合う予定だから、教授の居場所はわかると思うんだが。教授にお会いしたら、危険を知らせてほしい、とのことだ」

 「そうでしたか。わかりました。必ずお伝えいたします。それに、強盗団が確保されるまで、我々とともに行動してほしいとお話ししてみましょう」

 「よろしく頼む」

 レトたちはインディ伍長と別れて、ふもとへ下る道へ進んだ。

 「今度は強盗団ですか」

 メルルが疲れたような声を出した。もう、面倒ごとは勘弁してほしい。

 「この荒れ地は広大だよ。強盗団がここを目指さない限り、出くわす危険は小さいと思うよ。ただ、用心に越したことはないからね。教授たちには不便だけど、僕たちと一緒に行動してもらうようにしよう。宿営もふもとではなく、山頂の村でご一緒してもらうよう話しておかなくちゃね」

 「あの素っ頓狂な先生が承知しますかね」

 「教授は奇矯なところがあるけど、それでも、ずっと常識的な方だよ。物事を理屈で捉える感覚も鋭敏だしね。ただ、好き嫌いがはっきりして、自己主張が強い方なんだ」

 「そう言えば、モランさんを好きじゃないように見えました」

 「……他人の名前に頓着しないところもあったね」レトも思い出したように言った。

 山の中腹にさしかかると、道に広場ができていて、そこに荷馬車が停まっていた。中腹の捜索を行なう部隊が、すでに活動を始めていたのだ。

 「この広場は、収穫したミカンを積み込む場所だね」

 レトの言葉で、メルルは柑橘類の甘い香りが辺りに漂っているのに気が付いた。

 「ミカンも被害に遭っているんでしたね」

 「この道からでもわかるよ。あそこを見てごらん」

 レトの指さす方向を見ると、何本かの木が行儀よく並んで立っていた。明らかに人の手で整えられて生えている木だ。それらには握りこぶし大のミカンがっていた。収穫時期が近づいて、実の色も鮮やかな黄色になっている。しかし、それらのいくつかは爆ぜたように割れていて、皮から果肉がこぼれだしている。こぼれだした果肉にはハエらしき黒い虫がたかっているようだ。

 「気付いてみると、これはひどいですね。無事なものはあるんでしょうか?」

 「さぁ。でも、このミカンを収穫するひとは、もうここには誰もいないからね」

 レトの口調には突き放したような冷たい響きがあったが、メルルはそれがわざとだと思った。昨日、村人の死に一番動揺したのはレトだったからだ。だからこそ、今は感情を押し殺して、事件の捜査に集中しようとしているのだろう。

 「行こうか。早く教授と合流しよう」

 レトは先に立って歩き出した。メルルはちらりとミカン畑に目を向けると、後を追った。

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