~死者を抱(いだ)いて山は沈黙する~ 2
Chapter 2
8
コーデリアとヴィクトリアはオーウェン区にある、リヒャルト・リースタインの下宿先に向かっていた。行方不明になるまで、リヒャルトはバンコラン魔法学院の研究員として働いていたとのことだった。バンコラン魔法学院は私立の魔法学院で、貴族の子弟が多く学ぶ学校として有名だ。魔法学院の名門としては、王都の王立魔法学院があげられるが、バンコラン魔法学院はそれに迫るほどの有能な魔法使いを輩出している。魔法を追究する者にとっては憧れる学校のひとつだ。レナード・リースタインの屋敷は王都から離れたオストリー市にある。それで、リヒャルトはオーウェン区にある屋敷で下宿生活をしているのだった。
ふたりが訪ねたのは、荘厳ではあるがかなり古めかしい屋敷だった。かつては貴族の邸宅だったらしいが、現在は下宿屋として使われており、主に貴族の子弟によって利用されている。魔法学院だけでなく、音楽大などの他の大学に通う者や、一部はリヒャルトのような勤め人が住んでいる。この屋敷を管理しているものは、それほど熱心でないらしく、外壁の破損や周囲の雑草などが放置されているのが目についた。
「ここでいいのよね?」
ヴィクトリアが顔をややしかめながらつぶやいた。彼女はこうした古めかしい建物があまり好きではなかった。
「入るわ」コーデリアはヴィクトリアに構わず屋敷に足を踏み入れた。
この日は、たまたま屋敷を管理している老女が清掃にやって来ていた。聞けば、週に1回か2回しか訪れないと言う。老女の細腕を見れば、この屋敷の荒れ具合も納得できるというものだった。
――リヒャルト・リースタイン様ですか? ええ、最近はお見掛けしませんでしたねぇ。もっともお勤めなさっている方ですから、昼間に部屋に居るということはめったにないのですけどねぇ。そうですねぇ、最近見かけたのは10日以上前のことだったでしょうか……。休みでもないのに、このお屋敷の1階でお会いしました。ええ、下宿されている方がたが団らんに使われる大広間でございます。あちらで、ソファに腰かけて考え事をなさっている様子でした。いえいえ、こちらからは何も話し掛けてはおりません。それが「分」というものでございますから……。いいえ、私はこの屋敷の主に雇われているだけの者でございます。この屋敷は、さる領主様の持ち物でございますが、現在はずっと領地にお住まいなのです。ただ、この屋敷を朽ちるままにするのはもったいないからと、下宿屋としてお貸しするようになさっているのです。屋敷を放っておくと、盗賊や浮浪者の住処になるか、そうでなければ、ただただ荒れ果てるだけですから。安い下宿屋として人にお貸しするほうが、よっぽど得なのだとおっしゃってました……。
老女は話し好きらしく、次から次へと話してくれるのだが、肝心のリヒャルトの行方につながる話は出てこなかった。ふたりは礼を言うと、リヒャルトの部屋がどこにあるのかを尋ねた。すると、老女は先に立って案内を始めた。リースタイン男爵の許しがあるのだが、部屋の捜索には立ち会うと言うのだ。
リヒャルトの部屋は屋敷の2階にあった。屋敷の中心にある大階段を登ってすぐのところだった。老女は、分厚く頑丈そうな扉の前までふたりを案内した。
「こちらでございます」老女は扉を手で示した。
コーデリアは持参した部屋の鍵を鍵穴にそっと挿し入れた。すぐにガチンと錠の外れる音が響き、扉が大きな口を開いた。コーデリアたちの足元に日の光が差し込んでくる。時刻は昼を過ぎたばかりだった。
「おじゃましまぁす」ヴィクトリアは小声で言いながら部屋に入っていった。
部屋の内装は旧ヴェルド調と呼ばれる歴史的風格の漂う豪壮なものだった。部屋の角や柱の上部に豪華な彫刻が施されているのが特徴で、ここを安下宿と呼ぶにはあまりに豪華すぎた。広々とした部屋で、彼女たちの探偵事務所の2倍ほどの広さはあろうかというものだった。
「……下宿って聞いてたわよね?」部屋を見回しながらヴィクトリアがつぶやいた。「ずいぶん贅沢な下宿だこと!」
「この屋敷は貴族の子弟のみがお住まいになられるものなのです。ご領主様の方針で、この屋敷が恥ずかしくないと思える方にお貸ししているのです」
「……たしかに、一般向けではなさそうね」
コーデリアは脇の扉を開けた。リヒャルトの部屋はひと部屋ではなく、いくつかの部屋で構成されているものだった。コーデリアが開いた先は食堂になっていた。簡単な調理場も備え付けられている。
「自炊していたのかしら?」ヴィクトリアが後に続きながらつぶやいた。
「そうかもね」コーデリアは流しに目をやっていた。そこにはカップがふたつ並んでいる。
「お客様が来ていたのかしら」ヴィクトリアはカップをのぞき込んだ。カップは空だった。使用後に洗ったまま、流しに放置しているように見える。ほかには小麦の生地を伸ばす太いのし棒が転がっていた。リヒャルトが使っていたものらしい。
コーデリアに意見を聞こうとして、ヴィクトリアが振り返ると、コーデリアの姿がない。足元に気配を感じて視線を下ろすと、そこにしゃがみこんでいるコーデリアの姿があった。彼女は床を撫でるようにして様子を見ている。
「どうかした?」
ヴィクトリアはコーデリアの隣にしゃがみながら、コーデリアの手元を見つめた。
「……この床に血の跡が付いている」
コーデリアが指さす所をよく見てみると、タイル張りの床に黒い汚れが点々と付いていた。ヴィクトリアはそれを指でなぞってみると簡単に剥がれた。指に着いた汚れに顔を近づけてよく見てみると、たしかに血の汚れのようだ。
「料理をしている最中に、包丁で指を切ったとか……」ヴィクトリアがやや引きつった顔で言うと、コーデリアは真顔で「本気で言ってるの?」と尋ねた。
「じょ、冗談よ」ヴィクトリアは急いで立ち上がって、辺りを見渡した。急に事件の気配が濃くなってきた。
ガタッと音がしたのでヴィクトリアが振り返ると、コーデリアは戸棚を開いて中をのぞいている。中は食器の皿などが収納されていた。コーデリアは戸棚を閉めた。
「もし、事件だとしたら、行方不明になって一週間経っているから、相当匂いがするんじゃない?」
ヴィクトリアが自分の両腕を抱くようにしてつぶやいた。コーデリアは返事をすることなく、もうひとつの扉を開く。そこは洗面台や風呂場になっているようだった。コーデリアは湯船をのぞく。湯船は空だった。コーデリアは食堂に引き返した。
不安顔で立っているヴィクトリアに目もくれず、コーデリアは広間へ戻った。閉まっている扉を次々開けて中をのぞき始める。コーデリアはベッドの布団をはねのけ、ベッドの下をのぞき、衣装棚を開けて吊るしてある服をずらしながら奥を確かめるなど、次々と調べていった。
ヴィクトリアはその様子を不安そうに横目で見ながら、管理人の老女に話しかけた。
「ねぇ、このお屋敷に、ひとがめったに立ち寄らないところで、大きなものをしまえる場所ってあるのかしら?」
質問の意図がわからない老女はぼんやりとヴィクトリアの顔を見つめた。
「……はぁ。まぁ、地下に物置がありますねぇ」
「それはどこですか?」
ヴィクトリアの背後から声が飛んだ。コーデリアが部屋の探索を終えて、ふたりのもとへ戻って来たのだ。
「はぁ。こちらでございます」
老女は大階段へ引き返して、下へ降りていく。ふたりは後に続いた。
屋敷はかなり大きいもので、階段から降りると、しばらく奥へ続く廊下を歩くことになった。ここに住む者は登校か出勤で不在なのだろう。これまでの間、誰ともすれ違わなかった。
「物置と言っても、奥まったところにあるし、狭い階段の上り下りは不便なので、私はほとんど近づいたこともないのでございます。必要なものはさっきの大階段の後ろにある小部屋にしまってあるのです」
老女は歩きながら説明した。
「その小部屋に見慣れないものが置いてあったりしましたか?」
コーデリアの質問に、老女は首を振った。「入っているのは掃除道具など見慣れたものばかりでした」
3人は廊下の突き当りで立ち止まった。そこは古めかしい扉で閉ざされている。
「この先でございます」老女はそう言うと、扉の脇にある小さな戸棚を開いた。
「地下は明かりがございません。下へ行かれるのであれば、このランプをお持ちくださいまし」
老女が取り出したのは、魔法の力で点灯するランプだった。コーデリアがランプを受け取った。
「コーデリア、気付いてる?」ヴィクトリアが小声で囁く。
「うん」コーデリアは小さくうなずいた。
扉に近づくにつれ、わずかに腐臭らしい臭いが漂ってきていたのだ。
「では、中へ入らせていただきます」コーデリアは扉を開きながら老女に言った。
「うっ」ヴィクトリアが鼻を押さえた。扉から解放されるように、肉が腐るような匂いが廊下に広がって来たのだ。老女も気付いたらしく鼻をつまんだ。「何ですの、この臭いは?」
「私たちがそれを確かめます。私たちが戻るまで、こちらでお待ちいただけますか?」
コーデリアはランプを灯しながら老女に頼んだ。
「私もここで待ってていい?」ヴィクトリアが愛想笑いを浮かべた。コーデリアは無言でじっとヴィクトリアを見つめる。ヴィクトリアはため息を吐いた。「行きますよ、行きゃいいんでしょ!」
ふたりは地下へ通じる階段を下りはじめた。階段は、石壁と石の階段から冷気が立ち昇っているかのように空気が冷たい。ヴィクトリアは自分の両腕を抱いたまま降りていった。
「コーデリア。さっきも言ったけど、行方不明になってから一週間経っているわけで……。だとすると、もし、ここに遺体があるとしたら、かなりの確率で屍霊化しているんじゃない?」
ヴィクトリアの質問にコーデリアは答えなかった。コーデリアは行き止まりで立ち止まると、ランプを頭上に掲げた。「ここが地下の物置」
ランプの黄色い明かりに照らされて、今にも朽ちて穴が空きそうな扉が浮かび上がった。その扉はかんぬきで閉められている。
「ここに屍霊が潜んでいるとしても、このかんぬきのおかげで外へ出られなかったのね」
コーデリアはつぶやいた。
「じゃあ、中を調べるのはさ、憲兵さんにお願いするとして、私たちは引き返さない?」
ヴィクトリアはコーデリアに提案した。吐き気を催す臭いはかなり強くなっている。扉の向こうにその原因があるのは間違いない。
「猫か何かの動物が忍び込んで死んでいるのかもしれない。あるいは、ここに住む誰かが生ゴミを不法投棄しているだけかもしれない。それも確かめずに憲兵に引き継ぐなんてできないわ」コーデリアは扉から視線を逸らさずに答えた。
「マジメねぇ、あなたは」ヴィクトリアはがっくりとうなだれた。
ぎぃいいいいと物置の扉は耳に不快な音を立てながら開いた。コーデリアがかんぬきを外し、扉を開いたのだ。奥は黒々とした闇しかない。コーデリアはランプを差し入れて室内を照らした。ヴィクトリアは恐る恐るコーデリアの肩越しに中をのぞいた。
地下の物置は、かつては楽器の演奏か練習をするための部屋として使われていたようだった。部屋は広く、扉のすぐ脇にはコントラバスのケースが立てかけられてあり、少し離れてピアノが置かれている。そのほかは大小さまざまの箱が積み重ねられて、部屋のあちこちを占領していた。足の踏み場がないというほどではないが、かなり乱雑に置かれて部屋を狭くしている。ランプの明かりが届く限りでは遺体らしきものは見当たらない。
「近くにはなさそうね」コーデリアは室内に足を踏み入れた。
「よく平気で入られるわね!」ヴィクトリアはコーデリアの肩につかまりながら後に続いた。
ふたりは辺りをうかがいながら、少しずつ奥へ進んでいった。ヴィクトリアはコーデリアにくっつかんばかりに身体を寄せて、肩から手を放そうとしない。コーデリアはその手を冷たくはねのけた。「動きにくい。邪魔」
「そんなこと言ったって!」ヴィクトリアは首をすくめて辺りを見渡す。「私、こういうのダメなの。すっごく苦手なの!」
「遺体なんて、もう見慣れたんじゃないの?」
「い、遺体はね……。でも屍霊は別。悪霊や幽霊も怖いわよ。龍や悪魔のような伝説の存在じゃないのよ。簡単に慣れるってものじゃないわよ」
「身体が大きいのに、怖がりね」コーデリアは淡々とランプをかざしながら歩いて行く。
「身体の大きさは関係ないでしょ!」ヴィクトリアは立ち止まって、大声を出した。
コーデリアはため息を吐いて、くるりとヴィクトリアのほうを向いた。ランプがヴィクトリアの立っている辺りを照らし出す。
「あ」コーデリアは小さな声をあげた。
「何?」ヴィクトリアが尋ねると、誰かが自分の肩に手をかけるのを感じた。
コーデリアがヴィクトリアの肩越しを指さす。
「後ろ」
9
ヴィクトリアは悲鳴をあげた。肩をつかんでいる手をはねのけると横っ飛びに飛んで、部屋の壁に激突した。かたわらの箱が崩れて床に落ちる。ヴィクトリアの立っていたところには、ひとりの男が虚ろな表情で大きな口を開けて立っていた。まさにヴィクトリアの首筋に噛みつこうとしていたようだった。
「出たぁああ!」ヴィクトリアが口に手を当てた。恐怖で顔が引きつっている。
屍霊と化した男はゆっくりとヴィクトリアに顔を向けた。顔は膨れ上がっていて、額から流れた血の跡がさらに人相をわからないものにしている。光を失った濁った瞳がぐるりと動いて、ヴィクトリアの顔を見つめた。
「え?」ヴィクトリアは嫌な予感で身体が震えた。屍霊は両手をヴィクトリアに突き出すと、何やら声を漏らしながら近づいた。
「いやあああ!」ヴィクトリアは再び悲鳴をあげた。
コーデリアが屍霊の脇から飛び蹴りを放つ。男の身体は勢いよく吹っ飛んで、コントラバスのケースに激突した。ケースの蓋が開き、コントラバスが男の身体とともに床に転がる。屍霊はコントラバスをどかすと、ゆっくりと立ち上がる。
「痛みを感じていない。死んでいるから当然だけど」コーデリアは身構えながらつぶやいた。さっきまで手にしていたランプは荷物の上に載せていた。
「私の物理攻撃では動きを封じられても、倒すことまではできないわ。あなたの魔法攻撃が必要よ」
「……まさか、私の魔法で屍霊を倒させるために、ついて来させたの?」
コーデリアは無言だ。
「……私の魔法を前提で無茶しないでよ!」ヴィクトリアは抗議した。
屍霊はじりじりとふたりに近づいて来る。
「ヴィクトリア」コーデリアはヴィクトリアに促した。
「ああ、もう! わかったわよ! でも私、『浄化』の魔法は使えないんだからね!」
ヴィクトリアは腕輪をはめると、屍霊に手を差し伸べた。
「ボルト・カム・レイ、アクダ・レス・ギニラ……って、こっちに来ないでよ!」
ヴィクトリアは慌てて奥へ逃げ出す。屍霊はヴィクトリアめがけて駆け寄って来たのだ。
「ヴィクトリア、ちゃんと呪文を唱えて」コーデリアの冷たい声が聞こえる。
「し、仕方ないでしょ! コーデリアもあいつが近づかないようにしてよ!」
「あ、やばい」
「今度は何?」ヴィクトリアから不安の声が漏れる。
「屍霊が悪霊を取り込んでいる」
屍霊の周りに、黒い霧状のものがまとわりついていた。それは屍霊の身体に吸い込まれるように消えていく。
「屍霊は悪霊を取り込むと強化される。さっきとは段違いに強くなるわ」
「……それ、冷静に解説するところ?」
悪霊を取り込んだ屍霊は唸り声を上げ始めた。身体が膨れ上がり、さきほどまで虚ろだった表情が凶暴なものに変わっている。光を失っていたはずの両目に力が蘇り、じろりとふたりに視線を向けた。
「……来る!」コーデリアが声をあげた瞬間、屍霊が飛びかかってきた。さきほどまでの愚鈍な動きとは別物の敏捷さだ。
「もうやだぁ!」ヴィクトリアは泣き声をあげて奥へ逃げ出す。屍霊の振り回した腕が、ヴィクトリアのそばにあった木箱を粉々に破壊した。屍霊はその勢いのままコーデリアに向かってくる。
コーデリアは屍霊の足元にしゃがみ込むと、身体のバネを最大限に使って足を突き上げた。突き上げられた足は屍霊のあごを捉え、屍霊はうめき声をあげながらのけぞった。がら空きになった胴体にコーデリアの無数のこぶしが叩き込まれる。屍霊の身体は再びコントラバスのケースまで吹っ飛んだ。
「ヴィクトリア早く! そんなに長くは押さえられない!」
コーデリアから鋭い声が飛んだ。
ヴィクトリアは両足をしっかり踏ん張って身構えているコーデリアの背中を見つめていた。自分よりはるかに身体の小さいコーデリアが前面に立って戦っている。ヴィクトリアは覚悟を決めると、コーデリアに近づきながら呪文を唱え始めた。
「ボルト・カム・レイ、アクダ・レス・ギニラ、レスト・ウム・トール。我、風と水の精霊に請い、願うは天上からの偉業……」
屍霊はゆっくりと立ち上がると、今度はいきなり襲いかからずに、じりじりと間合いを詰めていく。襲う機会をうかがっているようだ。
「天を切り裂く稲妻の力をもて、我が敵を討ち懲らしめたまえ……」
あと少しでふたりに手が届きそうなところで屍霊は立ち止まった。やや、身体をかがめると、再び唸り声を上げ始めた。
ヴィクトリアは屍霊に手を差し伸べた。
「我が手に力を添えるかりそめの名は」
屍霊は大きく口を開けると、両腕を広げて飛びかかった。
「雷球衝撃!」
ヴィクトリアの声と同時に轟音が轟き渡った。地下室の天井からは、稲妻がまばゆい光を発しながら屍霊の身体を貫いた。屍霊の身体は直立して動かなくなった。
「まだよ! この屍霊はまだ動けるわ!」コーデリアが叫んだ。ヴィクトリアも魔法を解かずに、雷を屍霊に流し続けた。
屍霊は両腕を広げたままだったが、徐々にヴィクトリアのほうへ動かし始めた。
……まだ動けるの? こいつ!
ヴィクトリアは屍霊をキッ睨むと、「電圧を上げるわ!」と叫んだ。稲光はさらに強くなり、屍霊を刺し貫いている雷の柱がさらに太くなった。屍霊の両腕の動きが止まった。
屍霊の身体はみるみる黒焦げになっていく。ようやく、ヴィクトリアが魔法を解くと、屍霊は両腕を広げたままバタリと床に倒れ込んだ。黒焦げの身体からは湯気とともに、白い霧状のものも立ち昇っていく。屍霊が取り込んだ霊が抜け出して、天へと昇って消えていくのだ。
「終わったようね」コーデリアの声に、ヴィクトリアはへなへなと床に尻をついた。
「ああ、疲れたぁ」ヴィクトリアは吐き出すようにつぶやく。
コーデリアはランプを手に、黒焦げの遺体にかがみこんだ。やがて首を横に振るとヴィクトリアに振り返った。
「顔まで完全に黒焦げね。これじゃ、これがリヒャルトなのか、すぐにわからないわ」
ヴィクトリアは床にへたりこんだまま、深く息を吐いた。
「しょうがないじゃない。ほかにどうしようもなかったんだから……」
10
ホルン山の山頂では、検死のために使われるテントが張られていた。検死台が中へ運び込まれ、コジャック医師の検死が始まろうとしている。ここでの検死に使われるのは、小屋1.の男性の遺体だ。比較的損傷が少なく、急ぎの検死に最も向いていたからだった。
村の入り口には何台かの荷馬車が停まっている。確認と記録の終えた遺体が、いよいよ運び出されようとしているのだ。メルルは荷馬車に積み込まれる遺体を眺めながら、何か言い知れない不安に襲われていた。何か引っかかる。
レトはパジェット教授にこれまでの概要を伝えていた。パジェット教授はさきほどの奇矯な振る舞いは鳴りを潜め、面白くなさそうな表情でレトの話におとなしく耳を傾けている。隣にはメアリーが立っていた。モランの姿は見えない。彼はコジャック医師のそばにいた。生体生理学を学んでいたということで、コジャック医師の助手を務めると、自ら申し出たのだった。モランはコジャック医師の指示に従って、検死の道具をテントに運び入れているところだ。
メルルは馬車に積みこまれる遺体がどの小屋の住人のものかわかるよう、番号の札を遺体に取り付けていた。言い知れない不安は、その作業をしているうちに徐々に湧き上がっていたのだった。
村は昼下がりの太陽に照らされながらも、重苦しい空気を漂わせている。ブライス郡の駐留兵たちは無言のまま、遺体の運び出し作業を続けていた。兵士の数は30名ほどだが、誰も無駄口を叩かないので、村は不気味なほど静かだった。ゆるやかに流れる風の、木々を優しく揺らす音が聞こえるほどだ。
メルルは不安を抱えながらも、遺体に番号を取り付ける作業を続けていた。疲れが出てきたのか、頭が少しぼんやりとしてくる。
ひとつの遺体が白い布に包まれたまま馬車に積みこまれたとき、布の隙間から小さな足がはみ出してきた。メルルはそばに寄り、その足をそっと布の中へ押し戻してあげた。メルルにはそれが小屋7.と記録された、母親と乳児の遺体だとわかった。
……そうだ、私、この家を記録していたとき、変だって思ってたんだっけ。
メルルは思い出した。
……小屋の中の様子と遺体の状況に、どこか辻褄が合わない気がするって思ってたんだ。
メルルは記録を読み返した。
――小屋7. 3体(男性1体、女性1体、乳児1体)乳児は女性に抱きかかえられた状態で発見。性別不明。小屋の中は比較的荒れておらず、遺体は寝台の横で重なり合うように倒れていた模様。床には木製の剣のおもちゃと、兵士の人形が転がっていたが、事件で転がったものではないと考えられる――。
駐屯軍からもらった資料に、レトの指示でメルルが書き加えていたものだ。メルルは不安の正体を探るべく、もう一度記録を読み返した。
そして、メルルは気が付いた。慌ててさきほどの遺体の布に手をかけると、布をめくり始めた。「おい、お嬢ちゃん」兵士のひとりが声をかけたが、メルルはそれに構わず、乳児の遺体に手をかけた。乳児に着せている産着を確かめ、震える手で少し産着をめくってみる。
……何てこと!
全身に悪寒が走り、メルルは記録紙を落としそうになった。
……早く、レトさんに伝えなきゃ!
メルルは駆け出すと、レトのかたわらに立った。
「レトさん、お話が……」
レトはメルルが青い顔をしているのに気が付いた。「どうかしたのかい?」
「あの、私、小さな弟がいまして、私が面倒を見ていました。それでわかったんですが……」
レトはメルルが何を言い出しているのかと戸惑った。口を挟みかけたが、メルルの真剣な表情を見て、それは思いとどまった。
「あの小屋7.に落ちていたおもちゃがおかしいんです。あれは私の弟が兵隊ごっこで遊んだりしていたものによく似ています。でも、弟がそれらで遊んでいたのは4才過ぎあたりからです。生後数か月しかないような赤ん坊が遊ぶものじゃありません」
レトの表情が変わった。メルルの言わんとしていることがわかりはじめたのだ。
「それに、あのおもちゃは、あの赤ちゃんのものであるはずがないんです。だって、あの赤ちゃんは女の子なんですから!」
レトは村の中央に駆け出した。
「皆さん、聞いてください!」
レトの大声に周囲の者たちは一斉に注目した。インディ伍長がレトに近づく。
「探偵、いったい、何を騒いでいる」
「皆さん、もう一度、村の周囲を探索してほしいんです。村にはあとひとり、住民が見つかっていないんです!」
「何だと!」インディ伍長も大声を出した。
「見つかっていないのは幼児から10才ぐらいまでの男の子です! 近くの茂みの中なども調べていただけませんか!」
レトはそう叫ぶと、ひとつの小屋へ走って行った。7.と記録されている小屋だ。
レトは勢いよく戸を開くと、中へ足を踏み入れた。小屋の中は調度品といえるものはタンスと戸棚しかない。レトは戸棚を開いた。
「一応、駐屯軍のひとたちは開いて確かめた、と言っていたが……」
戸棚の中には誰もいなかった。レトは念のためタンスの引き出しも開いた。小さな子供であれば、隠れるのは不可能とも言えなかったからだ。しかし、レトはため息を吐いて引き出しを戻すだけだった。
「あと、ひとが隠れられるのは……」
レトは小屋の中を見渡した。そして部屋の一角に目が留まった。そこは台所として使用する場所で、かまどや調理台が備えられている。その床に、四角で区切られた箇所があったのだ。おそらく野菜などを貯蔵するための床下収納がそこにあるのだろう。
レトはそこへ歩み寄ると、指をかけるところを探り出して蓋を開けた。
男の子はそこにいた。10才になるかどうかの男の子だ。野菜の上に身体を丸めて横向きに倒れており、口の端から血のあぶくが漏れ出ていた。凍り付いたように動けないレトの視線の先に、男の子の口がわずかにぱくぱくと動くのが見えた。そこから新たに血のあぶくがこぼれだす。
――まだ生きている!
レトは男の子を抱えだすと、小屋から飛び出した。
「見つかった! 誰か手当てを!」
レトの叫び声に、村の外を探っていた兵士たちも駆け寄ってきた。メルルは布を地面に敷いた。「レトさん、こちらへ!」
レトが男の子を横たえると、男の子の腕がだらりと布の上に落ちた。男の子に意識はまったくなく、顔色に生気が見られない。「ついさっきまで動いていたんです!」レトは叫んだ。メルルは男の子の口もとから溢れている血を拭った。
「メルル、君は回復魔法が使えるよね?」レトはメルルに尋ねた。
「少しだけですが」そう言いながらも、メルルは両手を男の子に向けて呪文を唱え始めた。
「駐屯軍の皆さんに、救護班かその係りの方はおられませんか?」
レトは周りにも声をかける。すると、ひとりの女性兵士が進み出てきた。
「私が救護係りです」
「応急手当をお願いできますか?」
「もちろんです」女性兵士は男の子のかたわらにしゃがみこむと、頭の位置を整え、口を開かせると、心臓のあたりをぐいぐいと押し始めた。もうひとりの女性兵士が駆け寄り、男の子の口に息を吹き込み始める。そのそばでメルルは目を閉じたまま、一心不乱に呪文を唱え続けている。
インディ伍長が心臓に刺激を与え続けている女性兵士のそばへ近寄った。
「交代しながら、処置しよう。多少なら、俺もできる」
「お願いします」女性兵士は額の汗をぬぐった。それからふたりは交代で子供の胸を押し続けた。
「皆さん、村の周囲は探索しているんですよね?」レトは駐屯軍の兵士たちに尋ねた。
「もちろん、村の近くはひと通り探しているが……」ひとりの兵士は答えかけたが、レトの顔を見ると口をつぐんだ。
「いや、もう少し、範囲を広げて調べてみる。なにか見落としがあるかもしれないし……」
兵士はそう言うと、再び茂みに入っていった。それを見て、ほかの兵士たちも周囲の探索をするべく散っていった。
少し呆然と立っているレトのもとへ、フォーレスが歩み寄ってきた。フォーレスはさきほどまで、火口湖の状況を調べていたのだ。そこへ男の子を探しにやって来た駐留兵士から生存者探索の話を聞き、村へ戻って来たのだ。
フォーレスの顔を見ると、レトは少し正気に戻ったように表情が引き締まった。
「僕はほかの小屋をもう一度調べ直します。フォーレスさんはここで情報の集約をお願いできますか?」
フォーレスは広場で応急手当をしている伍長の姿を認めるとうなずいた。
「了解しました。ところで、あの子に息はあったんですか?」
レトは力なく首を振った。「さっきまでは」レトはそのまま向きを変えると近くの小屋へ入っていった。
レトの後ろ姿を見送りながら、フォーレスは思っている以上に、レトが動揺していることに驚いていた。これまで知っているレトとはまた違う一面だ。
……日頃、何でも悟っているように見えて、やっぱり、あのひとは俺と年齢の近い普通の男なんだ。
レトと一緒に仕事をするまで、レトについてフォーレスが耳にしてきたのは悪評ばかりだった。いつも冷静で油断がない。冷酷でずる賢く、憲兵隊の裏をかいて手柄を横取りする。元下級市民の成り上がり。それがレトという人物だった。しかし、実際に一緒に仕事をしてみると、非常に利口で、周りのことによく気のつく男だった。手柄は憲兵隊のものになるよう動いてくれるなど、聞いていた人物像とかなり違うことを知ったのだった。今ではむしろ、いい奴だと思っている。確かに、いつも沈着冷静な感じが鼻につくことはあったが。
しかし、今のレトの姿はそれとは違う。何かに追い立てられるように焦燥感を露わにした、ごく普通の人間の姿だ。素の姿はもっと違うものなのかもしれない。
フォーレスの目の端に、コジャック医師が男の子の治療に取り組んでいる者たちに近寄るのが見えた。医師はモランを伴い、治療の現場にやって来たのだ。男の子のそばにかがみこむと、息の様子を確認し、瞼を開いて両目をのぞき込んでいる。モランは男の子の脈を取ると、医師に何か告げた様子だ。医師は胸を押している伍長とメルルに話しかけた。ふたりは手を止めて医師の話を聞いている。やがて、メルルはがっくりとうなだれて、魔法をかけていた両手を下ろした。医師がぽんとメルルの肩に手を置く。フォーレスはその様子ですべてを察した。
レトは最後の小屋を検めると、疲れたような表情で広場に現れた。結局見つかったのはあの男の子だけだった。広場では、横たわっている男の子を中心に大人たちが無言で輪になっている。誰も言葉を発しないし、手当ても行なわれていない。レトはつまずきそうになりながら輪の中へ入っていった。
メルルが「7」の数字が書かれた札を男の子の身体に取り付け、モランが布をそっとかけて男の子の姿を隠した。レトは両膝をついた。「間に……合いません、でしたか……」
「すでに死んでいたのじゃ」コジャック医師が説明した。
「動いて見えたのは、生体反応ではなかったのだよ。死後間もない遺体にはまれにあることだ」
「死後間もない……」レトはぼんやりとつぶやいた。
「死んだ者はいくら手当てしても戻らない。だから、手当ては止めさせた。そういうことじゃ」
レトはふらふらと立ち上がると、一同に背を向けて歩き去った。向かった先は火口湖のようだ。
「大丈夫かね? これまで遺体で動揺したことのない男が」
コジャック医師は自分の髭を撫でた。
「私、行ってきます」
メルルは立ち上がりながら言った。
11
レトは火口湖の湖畔でぼんやりと湖面を眺めながら立っていた。小さなさざ波が足元に打ち寄せる。火口湖には浜辺はない。ごろごろとした大小さまざまな石が石畳のように敷き詰められている。表情は虚ろだが、頭の中ではぐるぐると様々なものが駆け巡っている。感情だけでなく、これまで見てきた情景などがまったく意味を成すことなく頭の中で氾濫しているのだ。今のレトは、それらを整理することが全くできなくなっていた。
「レトさん……」
背後の声に、レトはゆっくりと顔だけを向けた。うつむくようにメルルが立っている。
「ごめんなさい、私……、ちゃんとできなくて……」
「なぜ、君が謝る!」レトは大声をあげた。メルルはびくっと身体を震わせる。
「失敗したのは僕だ! 現場に着いたとき、駐屯軍の説明から捜索に不足点はないか、その検証をしなかった。付近の捜索を終えたという報告をうのみにした。でも、駐屯軍は捜索の専門家じゃない。僕たちは改めて生存者の可能性を追求して、捜索活動にかかるべきだった。僕は採るべき手順を間違えたんだ!」
メルルは何も言えずにただ立ち尽くす。
「さっきの小屋の件もそうだ。僕は目の前に手掛かりがあったのに、安否不明者の存在に気付かなかった。あれほど、あからさまなものだったのに! 助けられたかもしれない命だったのに……」
レトは自分の額に手当てて、歯を食いしばる。怒りの形相で顔が紅潮していた。
「でも、助けられたかなんて誰にもわからないです……」
メルルはやっと言葉を発した。
「僕たちが着いたときは、まだ生きていたかもしれないんだ! 助けられる可能性がわずかだったとしても、僕はそれを見逃したんだ!」
レトはくるりとメルルに背を向けた。両手は肌の色が変わるほどきつく握りしめられ、わずかに震えている。
メルルはレトの背中にかけるべき言葉が浮かばなかった。メルルは消沈してレトから背を向け、火口湖から立ち去った。入れ替わるようにフォーレスが姿を現した。うつむいたまま歩き去るメルルを横目に、ずんずんとレトのほうへ歩いて行く。
「あなたが考えていることのひとつを言い当てましょうか?」
フォーレスはレトの横に並ぶと言った。レトはフォーレスの横顔に視線を向けた。
「僕の考えていることのひとつ?」
「この湖に誰かが沈んでいる可能性はありません。足元の石に藻か苔のようなものが付着していますでしょう? 足で踏んだら、すぐに剥がれて跡ができるんです。辺りを見渡したら一目瞭然ですが、あそこに見える跡と、今、僕たちが立っているところしか、ひとの立ち入った形跡がありません。あちらの足跡は、さっき、私がつけたものです。そして、こちらにはあなたと私のものしかついていない。つまり、ここ最近は誰も湖に近づいていなかった。言い換えれば、安否不明者が湖に沈んでいる可能性はない、ということなんです。あなたが懸念していることのひとつは解消されましたか?」
「ありがとうございます、フォーレスさん。あなたは本当に鋭いひとです」
レトは弱々しく礼を言った。
フォーレスは腰に手を当てると、レトと同じように湖面を見つめた。
「あの子について、責任を感じているんですか?」
「感じているのは自己嫌悪です」レトは小声で答えた。
「なるほど、ね……」
フォーレスはうなずくと、再びレトに顔を向けた。
「あなたと一緒に仕事をする前は、あなたについていろいろなことを聞きました。大部分はでまかせの悪口でした。でも、あなたのことを嫌うひとたちがいる理由は、今わかりましたよ」
レトはフォーレスの顔を見つめた。
「あなたは傲慢なんです。あの子を救えなかったことに悔しがっているのは、あなただけじゃない。それに、あなたはこれまでに、どれだけ命の危機にさらされている人びとを救えたって言うんですか?」
フォーレスは言うだけ言い終えると、向きを変えて立ち去った。レトは呆然と立ち尽くしていた。しかし、レトはまだ何も行動に移すことができない。無力感に苛まれながら、再び湖面に目を向けるだけである。レトの背後では、アルキオネが1本の木の梢に留まっていた。彼女はひと声も発することなく、ただレトの背中を見つめている。
「ずいぶんひとに好かれとるのう、君は」
すぐかたわらから声が飛んできた。レトが振り向くと、すぐ隣でパジェット教授がしゃがんで湖面を見つめている。
「好かれていますか、僕は?」
「誰もがあんたを気遣っている。中には手厳しいことを口にする者もいたが、どうでもいい相手に、ひとは何も言わんものだよ。まして、憲兵が他人を叱ったりはせん」
「よくわからないです。僕は他人のことにあまり気が回らないから……」
「本当にそうなら、あの娘さんは君をあんなに慕ったりはせんと思うがね」
教授はあごひげをしごくように撫で始めた。
「君は安否不明者の存在に気付くと、我を忘れたように行動した。失敗したという気持ちもあったのだろうが、何よりも生存者の発見を優先すべく行動した。ひとの本質は、とっさの行動で現れるものだよ。君は優しい男だ。ただ、誰にでもわかるような優しさではないかもしれんがね」
教授はそう言うと、「よいしょっと」と言いながら立ち上がった。
「さて、君はこの事件を調べに来た探偵だったね。そろそろ仕事に戻るべきじゃないかね? それとも、反省の時間はまだ足りんかね?」
レトはその言葉で我に返ったように顔を上げた。
「君に協力する約束はまだ果たせておらん。この辺りを一緒に回ってみんかね?」
教授はそう言うと、つまんでいる物を持ち上げて見せた。教授がつまんでいるのは、一羽の小鳥だった。種類はわからないが、この辺りでよく見かける焦げ茶色の鳥だ。
「教授、それは?」
「村を囲んでいる林で見つけたのだよ。見ての通り、胴の部分が爆ぜておる。死骸の新しさから見て、村に異変があったときに、この鳥も死んだようじゃ。異変は、この鳥だけではないぞ。君もよく辺りに神経を向けてみたまえ」
教授がぐるりと横へ一回転するように腕を回した。
「この山は静かすぎると思わんかね? 小鳥のさえずりすら聞こえぬ。聞こえるのは風の音ばかり。確かに村人は全員命を落としたが、なによりも山全体に生命を認められるものが感じられん。完全にこの山は沈黙している」
レトは驚いたように辺りを見渡した。言われた通り、ときおり流れる風が木々を揺らす音しか聞こえてこない。本来であれば聞こえるはずの、鳥のさえずる声がない。この山には、まるで生き物の気配が感じられない。
「君は、この事件が村だけで起こったものと考えておらんかね? しかし、この小鳥を見てもわかるように、この異変は山全体で起きたと考えるべきではないかね?」
レトは教授に視線を戻した。「おっしゃるとおりです。これは狭い範囲で考えるべきことではありませんね」
「ほう」
教授はレトを横目で見ながらニヤリと笑った。
……こいつ、もう自分を取り戻したか。
「教授がこれまで研究されてきた魔法の中で、人間や動物だけを選んで攻撃する魔法はございますか? 建物の中に隠れたものも確実に仕留めるような」
「ふうむ、即答はできんがの。君はこの事件が何らかの魔法攻撃によるものと考えているのかね?」
「自然現象による事故の可能性も考えています。ですが、人為的なものも同様に考えなければなりません」
「そりゃ、そうじゃな。なら、考えてみよう」
教授は自分のあごを撫でながら答えた。
「例えば、毒の霧を発生させる魔法であれば、建物のわずかな隙間にも侵入して標的を倒す。それなら、あの村のように建物には損傷を与えずに生き物だけを殺せる。しかし」
教授は手にしている鳥を再び持ち上げてみせた。
「この鳥のように胴が爆ぜることにはならんだろう。さきほど村人の遺体も見て回ったが、いくつかの遺体にも同じ現象が起きていた」
「同じ現象?」
「身体のところどころが破裂したようになっていたのだ。多くは腹部だな。背中がやられた者もいた。その場合、遺体はうつぶせで倒れていたそうだが」
「身体を破裂させる魔法ですか?」
レトは目を見張った。
「そうではないな、たぶん。身体の一部が破裂する現象は、その魔法による直接的なものではなく、魔法を受けたことによって結果的に生じたものだ。氷結魔法を受けると、魔法を受けた部分が凍傷になることがある。それを例に考えればいい。氷結魔法は相手を凍らせる魔法で、凍傷をつけるのが目的の魔法ではない」
「遺体の損傷状況は、使用された魔法の効果を直接的に表しているのではないと?」
「そう考えんと、今見えている事実だけで真相がつかめる気がせんわい」
教授は村のほうを向き直った。少し離れたところにメアリーが立っていた。教授がレトに話しかけたときから、そこに立っていたらしい。彼女はふたりの会話の邪魔をしないよう、控えて立っていたのだ。
「ハント君。ワシはレト君としばらく周囲を歩いてみる。さきほどの魔法使いのお嬢さんと憲兵に、ワシがしばらく探偵を借りていると伝えてもらえんかね」
「わかりました、先生」
メアリーは向きを変えると、村のほうへ去っていった。
「さてと」
教授はレトの肩に手を置いた。
「行くとするかね」




