一話 魔法名家・ロシウス家
兄上の拳が僕を打った。
「ぐっ……!」
「貴様、恥ずかしいとは思わないのか‼」
兄上――ヨハンの形相は鬼のようで、今にも火を噴きそうだった。
兄上の怒りの理由は至極簡単だ。あらゆるモンスターはⅠ~Ⅹまでの危険度で区分けされているが、今日の依頼で僕が危険度たったのⅡのモンスター相手に惨敗したからだ。しかもそれは一度目ではない。
「セシル、いいかよく聞け……」
屋敷の床を踏み鳴らしながら兄上が近付いてくる。
そして僕の灰色がかった髪を掴んで無理矢理立たせた。
「兄上……痛……ぃ!」
「黙れ! 今の当主はこの私だ、『父上』と呼べと何度も言ったはずだ!」
そしてまた平手が飛んだ。
頬に火であぶられるような痛みが走る。
「我々ロシウス家は代々魔法の名家……貴様の父も、その父も、その父も偉大な魔術師だった! それなのに貴様は……」
兄上は僕を引っ張って、玄関の大きな扉の前に突き出した。
「ぐあっ……」
「貴様のような無能は我がロシウス家には不要だ、去れ」
尻餅をついた僕を見下ろす視線は、冷たい。
そこに母上が走って来る。
「もうやめてヨハン! 昔は二人でよく遊んでたじゃないの……!」
思わず涙が溢れそうになった。こんな僕でも、母上は庇ってくれた。
まだ僕は誰かに想われていた。それが知れただけで十分に思えた。
「母上、退いてください。今の当主は私です。父は海岸沿いの洞窟で亡くなったのです。その無能をどうしようと私の勝手でしょう」
「ヨハン……!」
「いいよ、母上……。兄上の言う通りだ。僕なんかがここにいたって、迷惑になるだけだよ」
僕は立ち上がって扉に手を掛けた。
振り返ると、母上が目に涙を溜めてこっちに手を伸ばしている。
「セシル……」
帰って来て。そう言いたいのは痛いほど分かった。
でも――
「じゃあね、母上。またどこかで」
僕は笑顔で踏み出した。
これでよかったんだ。
僕は母上が泣き崩れる音と嗚咽を背中に聞きながら歩いた。
――
―― ――
僕はセシル・ロシウス。魔術師だ。
僕の生まれた家はロシウス家と言って、先祖代々偉大な魔術師の家系だった。
兄上のヨハン・ロシウスも例に漏れず優秀な魔力量と詠唱速度・精度を兼ね備えた魔術師。
『魔術師協会』が制定しているクラスは通常、下はFから上はAまで。しかし特例として、特に強力な魔術師には二つ名と共にSクラスが与えられる場合もある。兄上はそのSクラスだった。一方の僕はと言うと……Eクラスだ。
Fクラスは学校に通う魔術師見習いのためのクラスだから、僕は実質最低位の魔術師と言える。
「はあ……これからどうしよう……」
僕は途方に暮れていた。
ハイクラスの魔術師は協会から援助を受けられるが、僕みたいなのには一銭も出さない。それでもここまで生きて来られたのは、ロシウスの家が持つネームバリューのお陰に他ならない。
コネとツテでどうにか簡単な依頼をこなしてきたのだ。
それさえ失った僕は、さながら羽をもがれた鳥の雛のようだ。
「せめて友達でもいれば……」
なんて、夜の町を歩きながら呟いた。
これでも昔は成績が良かった。同級生の誰よりも早く魔法が使えるようになったし、それで皆に尊敬されていた。
でもそこまでだった。
何年時が経とうとも、僕はそこから一歩も進んでいなかった。使える魔法と言えば初歩術式の『火花』や『発光』くらい。強いて言えば、回復魔法の『処置』が少し珍しいくらいか。他には……視力くらいしか取り柄はない。
未だに僕の時間は止まったままだ。
そんな時、前から三人組のパーティが歩いて来るのが見えた。
パーティと言うのは簡単に言えば徒党で、一般的には五人までで結成できる。あるパーティがモンスターを倒したり依頼をこなしたりすると、その報酬は全員に平等に配られる。『魔術師協会』はじめ、多数の協会によってそれが取り決められていた。
「……おっ、あそこにいるのはセシル坊ちゃんじゃねぇか?」
パーティの先頭に立つ、体格の良い男が言った。……彼は、かつて僕の親友だった男だ。
「やあ、ロッツ。これからモンスター狩り?」
彼は腰に太い剣を下げていた。それが、彼の役割が『剣闘士』であることの証左だ。
剣闘士も魔術師と同様に、クラス分けや見習いが通う学校がある。その学校を卒業すると、晴れてそのロールを名乗れるのだ。
確かロッツは首席で卒業したと言っていた気がする。僕と同い年だが、そのクラスはBだ。
その後ろにいた少し小柄な男が――それでも僕よりは大きいけど――にやにやと笑う。
「ロッツ、こいつが例のアレか?」
「ああ、そうだぜシュロ。お前も試しにやってみたらどうだ?」
「そうだなァ……」
シュロと呼ばれた小柄な男がじりじりと近づいて来る。
「な……なに?」
「いや俺な……ロッツに聞いたんだよ……」
次の瞬間、僕は天を仰いで倒れていた。
「ハハハハハッ‼ な、言った通りだろ!」
「アッハハハハハァ‼ こりゃ傑作だな! まさか『自動障壁』も持ってない魔術師とはなァ‼」
足元の方から二人の声が聞こえて来る。
『自動障壁』は魔術師なら自然に発現する能力で、身体的に貧弱なことが多い魔術師本体を自動で守ってくれるバリアのようなものだ。即死するような攻撃を防ぎきることはできないが、少しでもこれがあれば、まさか足払いを掛けられただけで無様に倒れたりはしないだろう。
……夜空の星が滲んで見えた。
「ちょっと二人とも、やめなよ」
彼らの後ろから女性の声が聞こえた。パーティの最後の一人だ。全身を覆う白い服は恐らく『癒術師』のものだろう。
「なんだよリネッサ、このお坊ちゃまを庇うのか?」
ロッツが口を尖らせる。リネッサと呼ばれた彼女は僕に手を差し伸べる。
「大丈夫?」
「あ、ありがとう……」
僕はその手を取って立ち上がろうとした。
するとリネッサは口の中で何かを言い、そして僕の全身に骨という骨が砕けたような激痛が走った。
「あああぁぁっ――‼」
視界が白くスパークする。その向こうでリネッサは笑っていた。
「一回試してみたかったのよね~『痛覚逆流』! 最近二人の骨折治したばっかりだから相当痛いんじゃないっ?」
「治した傷の痛みを与える魔法……ハハハッ‼ お前いつの間にこんな魔法使えるようになったんだよ!」
「最近よ~。ロッツが面白い奴がいるって言うから、そのコに使ってやろうと思ったの!」
「流石は稀代の天才癒術師! このシュロも驚いたねぇ!」
痛みにのたうち回る僕を尻目に、三人は笑いながら通り過ぎていく。
あの三人、多分今この町で最も勢いのあるパーティだろう。リーダーは首席剣闘士のロッツだし、リネッサは天才と呼ばれていた。それにシュロという男も、装備や身のこなしから見るにかなり手練れの『狩人』だろう。同年代の中では間違いなく最強。それに引き換え僕は――。
「ああ……あっ……」
痛みが消えてきた。何とか立ち上がれそうだ。
「こ……こんなこと……」
よくあることじゃないか。僕は心の中で言った。
馬鹿にされ、軽蔑され、殴られ、蹴られ、魔法も撃たれる。……今日のはかなり痛かったが、よくあることだ。
立ち上がって僕は歩き始める。行く当てはない。
そうして少し歩いていると、海沿いの道に出た。水平線の向こうに見える月はひたすらに静かだ。
砂浜に座って僕は夜空を見ていた。澄んだ空気は僕を過去の記憶の中へと誘う。
『セシル、すごいぞ! もう魔法が使えるようになったのか! さすがはボクの弟だな!』
兄上の声。
『セシル、将来は二人で世界中のモンスターを倒そうぜ!』
ロッツの声。
『大丈夫よセシル、もう少しすればあなたも魔法が上手くなるわ』
母上の声。
『セシル、また駄目だったのか……。いや、魔法の成長速度に個人差があるのは研究結果からも明らかだ。ボクも手伝うから、一歩ずつ進んでいこう』
兄上の顔。
『お前学校でビリなんだってな。……いや、なんでもないぜ。それより、俺この後用事あるから。じゃあな』
ロッツの目。
『卒業おめでとう……。ここから頑張れば、いつでもみんなに追いつけるからね』
母上の微笑み。
それらが思い起こされては通り過ぎる。後に残ったのは悔しさと不甲斐なさ。そして、これまでの人生が何のためにあったのかという悲しみだけだった。
「くそっ……くそっ!」
僕は砂を殴る。拳は痛んだが、心に比べれば掠り傷にもならない痛みだ。
堪えきれなかった涙が砂を濡らした。