第十週:トラウマ
責任問題云々は別として、決して軽い話題ではないことが、縁サンの雰囲気で知れた。
「綱紀は俺のほかに、この家の住人に会ったことはあるか?」
「えっと…」
訊かれて改めて考えてみると、ないかもしれない。
近所のひとには、直接会ったことはないにしろ、出勤時とかゴミ出しとかそういう姿を見かけたことはある。
そういえば、この間縁サンの家を訪ねたときも、電気が点いているのにチャイムを鳴らしても誰も出てきてくれなかった。
…じゃあ、縁サンのご両親は…。
「いや、死んでないし。まず滅多に帰ってこないだけ」
オレの表情を読んだ縁サンがヒラヒラと手を振った。
それならどうして訊くのか、とのオレの表情の問いに、縁サンは記憶を掘り返すような少し遠くを見るような瞳で話し出した。
縁サンの両親は国際線のパイロットと客室乗務員をしていて、一年のほとんどを空の上と外国との往復で過ごしていた。
縁サンが幼い頃から忙しかった両親の代わりに、おばあさんが面倒を見てくれていたそうなんだけれど、縁サンが七歳のある雨の日、急におばあさんが倒れた。
人見知りの激しい(らしい)縁サンが必死に近所のひとに助けを求めて、救急車でおばあさんと一緒に病院に行った。
病院の待合室で無事を祈る縁サンに追い打ちをかけるように、テレビで飛行機の胴体着陸事故のニュースが流れたのだ。
「両親が一緒に乗った飛行機だったんだ。黒い雲で覆われた空に炎が舞う光景を見て、目の前が真っ暗になった」
そうしてもたらされたおばあさんの訃報に、自分はひとりになってしまったのだという絶望感が全身を支配した。
人間、あまりに恐ろしかったり哀しかったりすると泣けなくなるもんなんだ、と縁サンは肩を竦めて苦笑する。
ニュースで流れた飛行機が炎上する場面の前に、両親は避難していて無事だったが、検査入院などで帰国したのは、おばあさんの葬儀が一通り終わったあとだった。
両親の無事を知ることでようやく安堵した縁サンは、箍が外れたように泣き続けたそうだけど、胸の奥と記憶に刻まれた恐怖はトラウマとなって残ってしまう。
「雨の日になると、なにかに追い立てられるような感覚が怖くて暴れてた。自分ではその理由を全く認識してなかった」
子供のころはその行動は物に当たるだけで留まっていたが、成長するにつれてその対象がひとへと移行していった。
理由もなくいじめはしない。それは彼の中にある善き部分が止めている。
だから、ワザと喧嘩を仕向けられるように仕掛けた。
「不良だろうが、ヤクザだろうが関係なく喧嘩してたな」
そうして中学三年の春休み、事件が起こった。
いつものように、必要ない喧嘩を買ってボロボロになるまで拳を振るっていた縁サンに、ナイフが襲ったんだ。
避けきれずに受けた刃は、場所が首元だっただけに大惨事となった。
「記憶はないんだが、ゴロツキの屍がゴロゴロ転がってるなかで、血まみれで笑ってたってさ」
面白い話だろ?と同意を求められても、笑えるワケないじゃないか。
「そのときの傷痕がコレ」
縁サンたグイッとタートルを下げると、思わずうっと呻きそうなくらいに引き攣った痕が現れた。
あと何ミリかで即死だったというその傷痕は、縁サンの肌が白くて滑らかなだけに男の勲章だというには惨く映る。
「…なんで綱紀が泣くんだ」
「え…」
グイッと拳で目元を拭うと、手の甲が濡れていた。
「どうして…?」
一度気づいてしまえば、ぱたぱたと涙が零れ落ちるのを止められない。
おかしいな、泣き虫じゃないはずなのに。
「それは、俺が聞きたい」
拭っても拭っても止まらない涙を手では受けきれなくなったオレを、縁サンは抱き寄せることで自分の肩で受け止めてくれた。
いまはただ、あたたかいこのひとがこうして生きていてくれたことが嬉しかった。
あくまで架空の物語ですので、実際の事件・事故とは一切関係ございません…。