青い影
いつしか、部屋の隅で打ちひしがれて泣いていた僕に、変化が起こった。
いや、正確に言えば、僕の「影」に、だ。
僕の涙が落ちたところから、僕の影が、深い青に変色して、広がっていった。
『辛いの?』
青くなった僕の影が、喋った。
驚きはしたけど、僕は黙って頷いた。
『少しだけ、代わってあげようか?』
影は、そう続けた。
『それなら、辛い時間を乗り越えられる』
変わる、とは、僕と影である君が、ということだろうか。
意味が分からない。
でも――影が話をしているくらいだ。それが不可能ではないのかもしれない。
僕は、黙って頷いた。
僕の意識が戻ったのは、翌日の朝だった。
昨日は、あの青い影が、僕として過ごしてくれたらしい。
周りの人が言うに、昨日の僕の評判はすこぶる良かったみたいだ。辛かった原因も、取り除いてくれていた。
何だったかな、人間関係か、大人数相手の発表か、何かは忘れたけど。何にせよ、万事がうまくいっていた。
良かった。
僕は素直に、そう思った。
足元に目を落としても、影は真っ黒で、もう喋りもしなかったけれど。
何ヶ月かして、僕はまた泣いていた。
すると、涙が影に落ちて、また青色になった影が、語りかけてきた。
『平気?』
平気じゃないよ、と僕が返すと。
『また、少し、代わってあげようか?』
影はやっぱりそう言った。
僕は数秒黙ったけど、結局は静かに頷いた。
そんなことが、何度か続いた。
結果はいつも変わらない。影の言葉に頷いた後は、全部がうまくいって、次の日の朝には、僕は僕に戻る。
辛いことがある時には、そうやって乗り切って、僕はぼんやりと毎日を生きていた。
でも、ある時僕に、怖いけれど、自分で立ち向かいたいと思うことがやってきた。
これは、あの影には任せられない、任せたくないと思うときが。
頑張ろうと、自分で色々と思考を巡らせているとき、気づいた。
僕は空っぽだった。
今まで、辛いとき、怖いときには、あの影に代わってもらい続けていた。そうやって生きてきた僕の中には、経験、いや自信、というんだろうか。そういったものが、何もなかったんだ。
僕は空っぽだった。
そう実感すると、今までのどんなときよりも、辛くて、怖くなってしまった。
部屋で一人震えて、涙も出た。
『代わってあげるよ』
青くなった影が、いつものようにそう語りかけた。
その言葉を聞いた瞬間、僕は気持ちが心底ホッとしていくことが分かった。
頷いて、影に全てを任せて、僕は。
……僕は?
僕は、涙を拭って、首を横に振った。
『何でなの?』
影は、食い下がるようにそう訊いてきた。
勝手だけど今回は、自分でやるって決めたんだ。
『辛いよ? 怖いよ?』
それでも、僕がやりたいんだ。
『後悔、するかもしれないよ』
うん。
『……そう』
影は呟くと、元の黒い影へと戻っていった。
自分で行動した僕は、失敗してしまった。
今までで一番泣きそうだったけど、このときだけは泣かなかった。
やっぱり、何もうまくいかなかった。
でもしばらくしたら、これで良かったと思えるようになっていた。
後悔は、しなかった。
しかし、習性というか習慣というか、僕の本質は変わらないのかもしれない。
やがて辛いことがあって、僕はまた部屋の隅で打ちひしがれて泣いていた。
涙が落ちたところから、影が深い青色へと変色していった。
『辛いの?』
影が喋った。
僕は頷いた。
『少しだけ、代わってあげようか?』
その言葉に、僕は首を横に振った。
『なんで? 大丈夫なの?』
うん。
今まで本当にありがとう。僕は自分自身で、生きていくよ。
『そう、決めたの?』
うん。
『そうかぁ……残念、だな』
影の青色が、徐々に薄まっていった。
『本当に、残念だよ。もう少しで、完全に入れ替わることができたのに』
恐ろしい声でそう呟いて、影はもう喋らなくなった。
大人になってから、僕はあのときのことが何より怖くなる。
あのまま、影に頼り続けていたら、どうなっていたのだろう。
あの青い影は、何だったんだろう。
あれ以来、涙を落としても影は喋らない。
とある日の夕暮れ。
前から何人かの子供達が走ってきて、僕とすれ違った。
そのとき、子供の一人が、僕の影を踏んづけた瞬間。憑き物が取れたかのように、身体が軽くなったような感覚がした。
何だ?
僕にも、僕の影にも、何の変化もない。
でも、さっきとは何かが違う。
振り返ると、夕日に向かって元気に走っていく子供達の後ろ姿が見える。
一人の子供の影が、一瞬だけ青く変色して見えたのは、絶対に気のせいだったと思う。
僕はあの影のことを、大事なことに気づかせてくれたきっかけだと、考えることにした。
自分で行動しなければ何も変わらないし、変えられない。辛いことから逃げる、楽な逃げ道の先には、いつまでも辛いことが待っているだけなのかもしれない。
僕は辛くても、打ちひしがれても、泣いたとしても、自分自身で前に進むと決めた。
僕はまだケツは青いガキのままだけど、それが正しい道のりなんだろう。
今では、そう思える。
そんなフィクションのテレビドラマを、とある親子が暖かなリビングで観ていた。
タイトルは、「青い影」。
「怖くなかったか?」
お父さんの方が、自分に体重を任せて座っている子供にそう訊いた。
「んんー、微妙。ホラーっていってたけど、どの辺がホラーだった?」
「そりゃあ、あの青い影のことだろ。甘え続けてたら、乗っ取られるってことだなぁ。お父さん、ちょい怖かったけどな」
「ほおー」
お父さんは、和也君の頭をよしよしと撫でた。
「和也は偉いじゃないかー。怖がらずにちゃんと観て。いつもは泣いて逃げ出すのになぁ」
今日のお前は何だか頼もしい、とお父さんは付け加える。
和也君は、お父さんの方を振り向いてにっこりと笑った。テレビからの光のせいで、その顔には影ができている。
青い影が。