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昔の話を、俺はまだ夢に見る。
武の過去話を含んだ武と千尋の話。
独立していますが付き合ってる前提になってます。
「う……く……」
あの夢だった。まさか、こんな日に襲われるとは思っていなかった。過去の映像を何度でも繰り返し、自分をたたき落とす、あの夢。普段は固く閉ざしている扉が開き、恐怖がひょっこりと、顔を出す。よう、元気にしてたか?
隣では神月千尋が、気持ちよさそうに寝息を立てている。両親はいつも通り出払っており、姉が友達の家に泊まってくると言い出した上、次の日が休みだったので、小野坂武はこの日、千尋を泊まりに誘っていた。最初は渋っていた千尋も最終的には了解してくれ、今に至っている。
胸を押さえ、息をする。それだけのことさえできなくなりそうになって、恐怖が増した。視界がぼやけ、いつものように涙があふれる。唇をかみしめ、武は嗚咽が漏れそうになるのをどうにか抑えた。平和に眠っている千尋を起こしたくなかったし、こんなに弱っている姿を、千尋にはあまり見られたくなかった。
「ぐ……う……」
こんなに弱いところを、知られたくない。知られて、しまったら――
恐怖がまた増え、武はベッドの中で悶えた。やってきた恐怖がとっとと帰ってくれることだけを祈りながら。
苦しげな咽び泣きが聞こえて、千尋は目を覚ました。部屋の中はまだ暗く、夜中であることを悟る。ぼんやりした頭で嗚咽の出所を考えて――眠気が一気に吹き飛んだ。
隣に目を移す。そこでは武が、だらだらと涙を流しながら、胸を押さえ、苦しげに嗚咽していた。全身がぶるぶる震えている。
「ちょ、タケっ! 大丈夫か? どうしたんだよ一体」
武は答えない。ただ、すがるような目で千尋を見ている。その目に宿る、見たことのない色――恐怖。
「何があった?」
「ちぃ……起こして……ごめ……」
「そんなのはどうでもいい! 大丈夫なのかって聞いてるんだ!」
「だいじょ……ぶ……では……ない、かな……ごめん……」
武の手に触れる。その指先は異様に冷えていて、千尋は不安になった。何か健康上問題が――
「ごめ……ちぃ……お願い……いい?」
「な、なんだ? 俺ができることならなんでも……」
言い終わる前に抱きつかれた。いや、それはもはや、しがみつくと言った方がいい力の強さだった。武は千尋の胸に顔を埋め、慟哭していた。体が震えている。千尋は自分の腕を、静かに武の背中へ回した。
「これで……大丈夫か?」
「ちぃ……ちぃ……ありがと……ごめん……もうちょっとでいいから、このまま……」
千尋は言われたとおり、しばらくそうしていた。武が震えながら、苦しげに息をするのを、心配そうに聞きながら。
千尋がそばにいてくれてよかった、と、その腕の中で武は思った。いつもよりずっとあっさりと、恐怖が引き下がっていく。温かい。ここは安全だ。安心していい、と武は自分に言い聞かせて、呼吸を沈める。夢の残滓がすう、と消え、ようやく現実が戻ってきた。
「……タケ」
呼ばれた。事情を聞かれるのかと思うと、また恐怖が戻ってきそうになり、思わず千尋のシャツの裾を掴んでしまう。
「大丈夫か?」
「え? ああ……もう平気だよ。何、離れたいなら……」
「いや、そういうわけじゃない。こうしてる方が暖かいし……落ち着く」
ふふふ、と思わず笑いを漏らしながらも、武は自分の指先が、かなりこわばっていることを感じていた。まだ恐怖は、完全に去りきっていない。
「……ちぃ、ごめんね。起こした上にみっともないとこ見せちゃって」
きゅう、と、いつもより優しく抱きしめられる。こんな時にまで気を遣うなというつもりらしい。
「しかし……どうしたんだ? 怖い夢でも見たか? ……って、聞いてまずいなら別に……」
「まあ、そうだね……怖い夢……だよ」
時折発作のように襲ってくる、過去の映像。目を覚ませば、恐怖がすぐそばに寄り添ってきて、後はもう、彼が疲れて去っていくのを待つことしかできない。普段は冷淡に見せている自分の、唯一ある――疵。
「昔の……話なんだけどさ。俺ね、とても人間不信だったの」
「な、なんだそれは……」
「ガキでしょ? でもまあ、親はそのころからあんな風に外飛び回ってる事が多くてあんまり家庭を顧みてくれなかったし、姉さんの気持ちなんてわからなかった頃だから……しかも俺、この性格でしょ? もう嫌われる嫌われる。だから基本的に、他人なんてのは信用してなかったんだよね。もちろん、今はそうでもないけど」
千尋は黙って、武の話を聞いている。武はその千尋の胸へ顔を埋めながら、話し続ける。こうしていないと、また、怖くなってしまいそうになる。
「でも、俺にもそれなりに好きなやつってのはいてさ。そんときはまあ女の子だったわけだけど。で、その子とは付き合ってた。彼女も結構難しい性格だったから、俺たち、似た境遇にいたんだよね。だからまあ、恥ずかしい話かなりべったりだった」
お互いに、お互いしか信用していないのではないかと思うぐらい、自分たちはそばにいた。そばにいたと、思っていた。
「でもまあ、人間は変わるでしょ? 俺と彼女は変わる時期がずれちゃって、うまくいかなった。彼女は……浮気したんだ。しかも俺、彼女が浮気してるとこ、ばっちり見ちゃったんだよね」
校舎裏。人気のないそこで、彼女は見知らぬ男と一緒にいた。抱き合う、その影。
「それだけならまだしもさ……俺ね、彼女がその浮気相手に、俺は冷たくて何考えてるかわからない、最近怖くなってきた、って話してるのまで、聞いた」
千尋のシャツを掴む手に、思わず力がこもってしまう。ほとんど誰も信じない代わりに、信じた人間への依存はかなり強い方だった。だから、裏切られた瞬間に、全てが瓦解した。
「浮気ももちろんだけど……彼女だけはそういうこと、言わないって信じてたからね……つらかった。でも俺は……諦めた。こっちから別れたよ。でもそれ以来、夢を見るようになった」
何度も繰り返す、あの場面。そして、恐怖が帰ってくる。まるで古い友達のような顔をして。
「目が覚めると怖くて仕方ないんだ……最近は自分の妄想まで付け足されててさ」
「妄想……?」
「夢の最後にさ、急に場面が転換するんだよ。で、俺はちぃに……言われるんだ。お前にはうんざりしたって」
喉が引きつった。指先がかすかに震え、情けなくて泣きたくなる。昔ほど人間不信ではない。でも、それほど信じているわけでもないから、信用している人間はそう多くない。その中でも、千尋に嫌われることは本当に、他の何をさしおいても――怖かった。
そのときだ。千尋が急に、抱きしめる腕の力を強めた。震える体を、千尋が強く、抱く。
「ど、どしたの、ちぃ……」
「俺が……俺がタケに、うんざりだなんて言うはずないだろ。今のタケは昔のタケじゃないし、俺だって……その子とは違う」
しばらく呆けたあと――武はおもわず、笑ってしまった。なんて優しいんだろう、この男は。最後まで立ち去ることを渋っていた恐怖が、舌打ちをして去っていく。もう、大丈夫。
「あとな、タケ」
「ん? 何?」
「次から、ああなったら電話してこい。そばに行って抱きしめるのは無理だけど……誰か居る方が、いいと思う」
武はまた、笑った。なぜかこの言葉だけで、もう夢を見ない気がした。千尋の腕に抱かれながら、武は静かに、目を閉じた。きっと眠れる。夢も見ずに。
武は私の中でこういう人、という最たる例。
でも実は、この作品の中で作者本人一番気に入ってるのは武です(