ふたりぼっちのセレナーデ
僕は君を、守りたいだけだ。
二年生コンビのBL要素含みの作品です。
本編の「沈没船と音楽隊」あたりを読んでおかないと前提がわからない仕様です。
遠雷が低く響いていた。この調子ならそのうち雷が近づき、そして――雨が降る。その前に帰らなければいけないことはわかっていたが、帰る気にもなれない、と、前野隼はうつむいたまま、深くため息をついた。
きし、とブランコが揺れる。その音は明らかに隼の年齢が、体の大きさが、その乗り物に合っていないことを物語っていた。ただそれだけのことなのに、涙が落ちそうになって、隼は慌てて空を仰ぎ見る。
「じゃあ……前野、お前出ろ」
そのセリフは、本来なら誇って良いはずだった。しかし、隼にとってそれは、死刑宣告と変わらない。監督が自分たち一年生の才能を認めてくれることは決して嫌なことではないが、だからといって、他の才能ある二年生がないがしろにされていいはずなどないのだ。
ざわつく二年生が、隼には公開処刑を見物に来た怒れる民衆に見えた。立ち上がり、グラウンドを踏む。断れば、おそらく次に累が及ぶのは蓮だ。中学の時のことが蘇る。監督命令に逆らって、今後を危うくするのも怖かったが、隼が一番に気にしたのは、自分の選手生命ではなく蓮だった。蓮が、この諍いの中心になることを、隼はどうしても避けたかったのだ。
蓮は自分より、ずっと目立つ。容姿がいい分、余計に。そうなれば彼はまた、その才能とは関係のないところで、心ない言葉を浴びせかけられることになるだろう。そうなるくらいなら、自分が憎まれる方がまだマシだった。自分のような目立たない選手なら、悪口を言われ、嫌われたとしてもたかが知れている。
隼の両親は、今でこそ普通の夫婦だが、隼が幼い頃はケンカばかりしていた。当時、父の仕事はあまりうまくいっておらず、また、母もなかなか二人目が出来ずにイライラしていた。二人ともどちらかと言えば気性の荒い人間で、二人のケンカは壮絶だった。台所で、怒号と皿が飛び交い、彼らがお互いを罵り合う間、隼はいつも、自分の部屋で布団をかぶって震えていた。怖かった。純粋に怒りそのものが恐怖の対象になっていた部分もあったが、幼い隼が何よりも恐れていたのは、二人が争いの果てにお互い出ていってしまい、自分がひとりぼっちになることだった。
隼はよい子になろうと努力した。褒められることを、期待されることを、必死でこなそうとした。そうすれば二人は笑う。少なくとも、隼が原因でケンカになることはない。隼は必死で二人をつなぎ止めようとした。一人は怖かったのだ。
幼少期のトラウマ、というと少し大げさだが、以来隼は、人の怒りを極端におそれるようになった。争いが起こりそうになれば、自ら引いた。今度のことだってそうだ。断って、争いが拡大することを、隼は何よりも怖くて、嫌だった。
ぱつ、と大きなしずくが隼の肩を打った。続いて、頭。しずくはみるみるうちに増え、いつしかバケツをひっくり返したような大雨になった。雨が、隼の癖のある髪を、白いシャツを、制服のズボンを、何もかもを濡らしていく。それでも隼は、その場から動かなかった。
二つもエラーが付いた。震える手はいつものようにボールをつかんではくれず、恐怖で萎えた足は、思い通りに自分を運んでくれなかった。ベンチで待つ、冷たい目、目、目、目。試合が終わってから、隼はすぐに着替えて部室を出た。誰とも目を合わせなかった。いつもなら、一緒にゆっくり着替えて、一緒に帰る蓮や総二朗、冬馬とも。慰められたり、監督の悪口を言ったりすれば、多少は気も楽になったのかもしれない。しかし隼はそれよりも、人が目の前で、自分が原因の争いをする姿を見たくなかったのだ。
二年生は、当然自分の悪口を言うだろう。おとなしい冬馬ならともかく、その場にもし、蓮や総二朗が居合わせたら? 彼らは二年生など恐れていない。蓮など、聞こえるように皮肉の一つでも浴びせるかもしれない。そうすれば、対立はよりいっそう際だつことになる。そんなことが目の前で行われるなんて、耐えられなかった。
雨が冷たく体中にしみていた。頬を伝うしずくは生温くて塩辛く、隼は悔しさに唇を噛んだ。どうしてこんな事を恐れる? どうして、怖がることしかできない?
「隼!」
聞き慣れた声に、隼は驚いて顔を上げた。公園の入り口。そこに、同じようにびしょぬれの蓮がいた。いつも髪を結っているゴムはどこかで落としたか、切れ飛んでしまったらしく、濡れた長い髪が肩にまとわりついていた。
「蓮……ちゃん」
「話はあと。とりあえず雨宿りだ」
蓮は隼に駆け寄ると、隼の腕をとってブランコから立たせ、走り出した。公園には雨宿りができるような場所はなく、ここから一番近いのは学校の部室だった。
蓮に腕を掴まれ、つんのめるように走りながら――足は蓮の方が速いのだ――隼は涙が後ろへ流れていくのを感じていた。にじんだ視界には、蓮の後ろ姿しか映らない。
やがて二人は部室に辿り着いた。もう、誰も残っていない。蓮は鍵を取りだし――部室の鍵は、忘れ物用に一本、ドアの前の植木鉢に隠してある――二人は部室に滑り込んだ。蓮がため息と一緒に、部屋の真ん中に置かれたベンチに腰を下ろす。隼もそれに続き、隣に座った。
「ひっどい雨だな……まあ、大人しく待ってれば止むと思う。通り雨だろうし……」
「蓮ちゃん、なんで……?」
蓮が隼を見た。その目はいつか――蓮がショートへのコンバートを言い渡された日、彼が見せた目によく似ていた。
「隼が誰とも目合わさずに帰ったから。いつもだったら四人で帰るのに……で、心配になって携帯かけても出ないし、家にかけたらまだ帰ってないって言うしさ。おまけに雨まで降ってきて……それで、あそこかなと思って探しに来たんだ。昔から、なんかあるとあそこの公園って、行動パターンが決まってるね、隼って」
蓮はそう言い、見つかって良かった、と笑った。見ると蓮は制服のままだった。毛先からしずくがぽたぽたと落ちている。着替えもせず、傘も差さずに自分を捜しに来てくれた。そのことが少し、隼は申し訳なかった。
「ごめんね、蓮ちゃん……こんなびしょぬれになっちゃって」
「いいよ、濡れるぐらい。俺、風邪はひかない方だし。隼こそ大丈夫? 昔からすぐ風邪ひくじゃん」
大丈夫だよ、本当にごめん、と隼がそう言ってから、しばらく沈黙が続いた。磨りガラスのむこうで雷光がひらめき、重苦しい雷鳴が地の底から響くように聞こえてくる。
先に口を開いたのは蓮だった。
「隼……今日のことなら、気にしない方がいい。悪いのはあの監督で、隼じゃない。そのぐらい、先輩達だってわかって……」
「そういうことじゃないよ。ごめんね、心配かけて……オレは平気だから」
膝の上に置かれた隼の左手に、蓮の右手が触れた。震えているのがみっともなくて、隼は手を引っ込めようとした。が、それを蓮が静かに掴み、離さなかった。
「平気じゃ……ないよね? なんで俺にまで嘘つこうとするの?」
蓮のまっすぐな目に射すくめられて、隼は何も言えなかった。言えない。弱い自分が、こんなに強くうつくしい蓮を守りたいだなんて。しかもそれが、恐怖に絡め取られて戦うことも出来ない自分には、自分を傷つけることでしか成り立たないなんて。
「昔、俺に信じろって言ってくれたのは隼だよね? 俺のことは……信じてくれないの?」
「そ、そんなこと……!」
「じゃあ、どうして?」
たえられなかった。自分を見つめる、まっすぐな目。強い瞳。隼はますますうつむいてしまった。その目にすら、怯えている自分がいる。見透かさないで欲しい、こんな風に弱い自分を。
信じろなどと、偉そうなことを言った。しかし、本当の自分は信じられるほどの度量を持たない。ただの、臆病者。それを見抜かれるのが、怖くて。
自分の名前を呼びかけた蓮を遮って、隼は小さな声でぽつりと言った。
「……ほっといて……よ」
「え?」
「もう、オレの事はほっといてよ……蓮ちゃんには……蓮ちゃんにはわかんないよ!」
磨りガラスの向こう、ひときわ明るい雷光が瞬き、二人を照らす。ほぼ同時に、世界を壊すような、雷音。
蓮が握ったままだった隼の手を、一層強く握りしめた。痛いほどに自分の手を握るその手が、自分と同じように震えていることに、隼はその時初めて気付いた。
「ほっとけるわけ……ないじゃん」
蓮の言葉の意味を尋ねる前に、左手を引っ張られた。声を上げる前に、唇が触れていた。驚いてもがく隼を、蓮の左手が捕まえて離さない。右手はもちろん、隼の左手を握ったままだ。
「んん……!」
色気もなにもない、無理矢理なキス。受け止めるだけで精一杯だ。隼の右手は空を掻き、どうしようもなくなって、蓮の背中に回された。濡れたシャツを掴む、互いの手。体は冷えているのに、触れている唇だけが妙に熱を持っていた。
唇が離れると同時に、蓮が右手をほどいた。しかしその腕は、すぐに左手と同じように、隼を捕まえる。
「ほっとけるなら……探しになんか行かないし、こんなこともしない。わかんないのは隼の方だろ……俺は……」
「わかってる……ごめん、蓮ちゃん……ごめん」
久しぶりに聞く蓮の涙声が、全てを物語っていた。お互いを守りたくて、守れなくて。すがって泣きたくて、でも素直になれなくて。お互いが――好きだから。哀しいくらいふたりぼっちだ。どこへも、行けない。
濡れたシャツごしに体温を分け合いながら、二人の時間は静かに流れていく。波打つ鼓動が耳元で聞こえて、隼はそこに、自分と同じ気持ちがあることを感じる。
「蓮ちゃん……ありがと、ね。迎えに来てくれて。もう、ほんとに大丈夫だから」
隼がそう言っても、蓮は無言のまま、腕を解こうとしない。沈黙の抗議。案外子どもっぽい幼馴染みの胸に顔を埋めて、隼は静かに、目を閉じた。
この二人の関係がものすごーく好きで、おもわず公式二次創作してしまった。後悔はしていない。