あいうえおって伝えたくて
「君にとってはとても悲しいお知らせになるかもしれないのだけど…
いつかは分かることなら早いうちに知らせたほうが良いだろうと―」
「先生、やっぱり私はまだ早すぎるんじゃないかと思います」
「御崎君、事前に話し合っていたじゃないか…
それを今になってどうして…」
「だってこの子、私が今日様子を見に来たときに布団に包まって震えてて…
やっぱり『あの時の事』が」
は、はあ…
何やら切迫した雰囲気で話されているが保健所送り以外なら気に病むことも無いわけだが。
「だが、しかし…
仕方あるまい、一つ質問させてもらってもいいかな?『三鉢八生』さん。
君は…あのときのことを……一体何処まで覚えているかな?」
――??
それはひょっとして『この子』(いや、今は僕のことか?)の名前か?
あの時と言われましても…
おじいさんに撃ち殺されて、おじいさんに可愛がられて、おじいさんに・・・
――???
なんかおかしい気がするがとりあえずあの時って何のことでしょうか。
そうやって小首をかしげていた為か、やがて様子を窺っていた推定上司の方はいぶかしむ視線を向け、
それはやがて何かの結論に至ったかのように目を見開き、言った。
「まさか?!
・・・やはり低酸素状態において昏睡状態に陥ったせいで記憶が?」
記憶が、と申されればこの状況を誰かに説明して頂きたい位には今の状況が分からなさ過ぎますし
記憶喪失といっても違いは無いがそもそもこの子の本来の意識ではないですし。
とりあえずなんと申し上げてよいか全く見当が付かないため沈黙を保っていると勝手に話が進んで言った。
「ううむ・・・
御崎君、軽いテストを行おうと思うから診察室までお願いできるかな?」
「分かりました、先生・・・」
そういって推定お医者様は病室を後にし、推定看護師である御崎さんは備え付けの車椅子を展開する。
「は~い、ちょっと動くけど頑張ろうね~。」
僕に微笑みかけて車椅子に座れるよう介助してくれるのでとりあえず車椅子に座るべく立ち上がろうとしてみる。
しかし最近の若者は貧弱であるな。
それはそれは、まるで生まれたての小熊のようにプルプル震えて足に力が入らないでやんの。
僕が現役時代は、それはそれは素晴らしき4足歩行で森を疾走していたものだ。
結局、殆ど御崎看護師にまかせっきりになってしまい、何とか着座に成功する。
「うん、頑張ったね。ありがとう。」
いえいえ、殆ど何もしてませんから。
などと返答しても良かったが如何せん、下手をすると十年来は人と話した記憶が無いため気恥ずかしく
そのまま黙って俯いてしまう。
「―ッ」
無視したことが悪かったのだろうか?
彼女は痛みに耐え忍ぶように軽くうめいた後、車椅子に跨る僕の後ろから抱擁してくる。
「よしよし、もう怖くないからね~」
あ、うん。
まるで子供を寝かしつけるような声色と手つきで後ろからそっと語り、撫でられて気恥ずかしさの余りやはり沈黙してしまう。
久々の人間生活初日、前途多難である。
■
「う~ん、そうだな・・・
ああ、今私が手に持っているものが分かるかい?」
――でぃすいずあペンで、ございます。
「・・・次だ
自分の名前、ちゃんと言えるかな?」
――みつばち・・・やよいちゃんだったかな?
「う~ん・・・」
またしても唸ったまま硬直する白衣のオッサン。
何かマズったか?
「先生、もしかして言葉も思い出せないんじゃ・・・」
――な、なぬ?!
御崎氏は何やらとんでもない誤解を賜っておいでですぞ?
「ううむ、何か喋ってもらえないことには次のステップには進めないなぁ」
――またまた、ご冗談を
先程から愛くるしくも痛々しい僕のおっかなびっくりの返答はお気に召さなかったのかな?
はい、あいうえお!あいうえお!!
「望み薄だけれど書き取りをしてもらうのはどうだろうか?」
――あ、無視ですか。そうですか。
久々に世間の冷たい風に当てられて、ぼくちん挫けそうです。
そうやって混乱している間に御崎氏より先程のペンを手渡され、握ってみる。
ところで今重大なことに気が付いたのだけれど・・・
や ば い 、肉 球 が な い ?!
というか手が細い指が細い。
すげぇ、グーチョキパーが出来るぞ!?
ああ、この懐かしき感動を誰に伝えたらよいものか。
「先生、やっぱり」
「やはりエピソード記憶だけでなく意味記憶の方も…」
僕の感動を他所に2人が勝手に話を進めているが後回しだ。
ああ、そうだった。
今僕が手に握っているものは懐かしき筆記用具、ボールペン。
握るのは何年ぶりだろうか?
というか正しい持ち方が思い出せないのだが?
人差し指と親指でつまむんだっけ?違うな?
「おお、もしや・・・」
「そのまま、頑張って!」
5本あるから全部で、違うか?
ああ、そういえば突き立てたらいけない中指を使うんだったな。
こんなに指を動かしたのは久しぶりすぎて動かし方が分からなくなりそうだ。
・・・よし、それっぽく握れたな。
「な、何か書いてごらん!」
そういって医師がメモ帳を差し向けてくるので応じることにする。
無駄なお絵かきやらいらない冗句を書き連ねてみたかったが如何せん腕がしんどいので簡単に一言
『ご は ん』
■
どうやら僕は長い間昏睡状態だったらしく、食事は回復食としてシンプルにプレーンヨーグルトがもてなされた。
いやはや、全く持って食事とは素晴らしいものです。
なんと申し上げたらよろしいのでしょうか?
甘酸っぱいのか苦いのか渋いのか、とにかくあの頃の素材の味100%オンリーだった頃とはうって変わって複雑な味。
感無量にて咽び泣きそうな勢いで口の中の味の宝庫を咀嚼していると、御崎氏より話しかけられた。
「ふふふ、おいしい?」
―― ええ、もちろん!
口惜しくも嚥下し終えてそう告げると、やはり暗い表情に変わり、こう告げる。
「ねえ、どうして私とお話してくれないのかな?
やっぱりあんまり話したくないのかな?」
―― まさかまさか。
保健所に連れて行かれそうだと思っていたときは…ああ、此方の話です。
とにかく久々に誰かと話せるのは喜ばしいことです。
「・・・はぁ~、やっぱりダメか~。
ねぇ、何で文字でなら答えてくれたの?やっぱりお腹が減ってたから?」
…どういうことだ?
先程から話がかみ合っていないように思える。
まさか、こちらの声が聞こえていないのか?
「それよりも折角目覚めてくれたのに・・・あ~
親御さんになんて説明しよう。」
いや、違うか?
聞こえてないというより届いていない?
もっと言えば言葉になっていない??
いやいやいや、まてまて。
だって現にちゃんと喋ったじゃ、あれ?
どうやって声って出すんだっけ?
ふと、視線を横に向けると、車椅子に座る痩せぎすな少女と隣に座る綺麗な女性の姿。
どうやら視線の先は姿見となっており、そこには懐かしき文明の利器、かがみらー。
とりあえずそちらに向かって『あいうえお』って言ってみる。
・・・言ってみる。
口がぜんぜん動いてないじゃないか!!
なんというコトだ。
まさか今まで喋っていたつもりが唯の思考の一部だったのか?
凄い間抜けな話だな、それは。
はい、もう一度!
先ずは口を空けて!大きな声で『あ い う え お !!』
バット ナシング ハプンド!!
『あ い う え お !!』
ぼくは もういちど おおきなこえで となえた
しかし なにも おこらなかった。
なん…だと……
つまり、こういうコトか?
― わすれた こえの だしかた