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書架

作者: 中谷 仁

 

 女の睫毛は長く、下向きで作り物のようにつやつやとしていた。それに縁どられた瞳はどこまでも黒く、白目のふちはまるで少女のように澄んで青みがかってさえいる。女は手にした本の頁を捲りながら、いやですよそんなに見ちゃ、と言った。女の視線は変わらず、活字を舐め続けている。

 私が玩具を取り上げられた幼子のようにふてくされているのを、女はふふ、と口角を上げて小さく笑った。

「それならあなた、あなたも本をお読みになったらいいじゃありませんか。」

 女の提案で、部屋の書架に目を遣る。壁の一面を覆う、高い天井に届かんばかりの大きな本棚であった。名前はわからないが、堅い木材でつくられていることはぱっと見ただけでわかる代物だ。全体が品の好い深い色に塗装されている。ところどころに透かし彫りが入っているのがうつくしかった。そうして、古今東西のさまざまな本が隙間なく詰め込まれている。本来の書棚の使いかたをするだけでは入りきらないのか、時折本を並べた上へ積み重ねられているのまであった。大きさも色もとりどりのそれらは、まるで画材箱の中身のようにも見える。掌に収まるものから私にも抱えきれないもの、革張りの立派なもの、書名さえも読み取ることができないほど擦り切れた表紙のもの、全体が無地で何の本であるのかもわからないもの、鮮やかな画が表紙を飾っているもの、とにかくさまざまな本が、私にはわからぬ法則を以って並んでいた。本の大きさや色などはてんでばらばらだったけれど、私はそれがなんらかの意図によって並べられたものであることを確信する。それらは奇妙な均衡を保って、まるで美術館に飾られた作品群のようにうつくしく並んでいた。無数の本は、どれだけ視線を走らせたところで私にはすべてを認識できることなどないのではないだろうかと思われる。棚が何段あるのかも数えることは難しそうだった。上の段を見上げると、あまりの高さにくらりと目が眩む。

 いちばん下の段の左端に入れられていた本は幼い頃の私が好んで読んだとある絵本だった。椅子から立ち上がり、私が書架に歩み寄るのに女がちらりと視線をくれる。女の目が私を捉えると、傍をひとが通り抜けたときの風に似たふわりとした感じを覚えた。

 身を屈め、何十年ぶりかに見たその本を取り出す。全体的に淡い色使いの、なんということはない幼児向けの絵本だった。どうしてこれを好んでいたのか、いまとなっては思い出すことなどできない。ぱらぱらと捲ると、すっかり忘れていた景色が私の目の前に立ち現れた。丸で描かれた主人公が、仲間を求めて旅をするのだ。けれどもそれは、私の胸に懐かしいという心持ち以上のものを起こさせはしなかった。

 本をもとの場所に戻す。隣に並べてあったのは、同じく私が幼い頃によく開いた絵本だった。何冊かおいて、小学校へ入ったとき祖母に入学祝いとして与えられた本が並んでいる。日の当たる部屋にあったためか背表紙は日に焼けていた。

 ひとつ上の段には、中学の図書室で読んだのがなぜだか奇妙に記憶に残っている本。挿絵のおどろおどろしさと物語の不条理さがあいまって、開いたことを後悔したものだ。その次には当時私が好きだった女の子に勧められ一晩で読み終えた長い小説が並んでいる。

 お好きでしょう。女がそう言って笑ったのが振り返らずともわかった。棚に並んだ本はたしかに、どれも私が開いたことのある本ばかりだ。だがなかには読んでいるうちに不快な気分になり、二度と開こうとは思わなかった本も入っていた。いままで私が読んだ本がすべて入っているのだろうか。

 立ち上がって目線の位置にある棚を覗くと、まだ私が若者と呼ばれる年齢だった頃に読んだ本が並んでいた。異国で書かれた物語、古い歴史を語るもの、画家の絵を収めたもの。古本屋に通って目につくものを手当たり次第に読んでいた頃の記憶が甦る。本はぎっちりと隙間なく詰め込まれていたが、背表紙に触れれば、まるで私の意思に応えるようになんの抵抗もなく取り出された。

 何冊か目の留まったものを棚から出してはぱらぱらと頁を捲る。とある本を開いたときには、同級生の女から貰った手紙がはらりと落ちた。懐かしい。いつからここにあったのだろう。

 棚は上へいけばいくほど、なかの本を読んだときの私の年齢が上がるようになっているらしかった。見上げればだんだんと趣味が固まってゆくのがわかって面白い。本は私の思考回路そのものだった。ずっと上を見上げているうち、だんだんと首が痛み目が霞んでくる。無理な姿勢のためか、血が巡っていないときのように頭がくらくらとし始めた。あまりに膨大な量の本だ。私はこんなに本を読んできたのだろうか。ならば私の思考回路も、そう捨てたものではないかもしれない。これだけのものを取り込んできたのだから。

 ふと、一番上の右端の本が何であるのか気になった。棚はこれまで左から右へ、下から上へ、私が読んできた順に本が並んでいる。横倒しにして置かれた本はおそらく、私が頁を最後まで捲ることのなかった本たちだろう。その法則通りにゆけば、棚の一番上の段の右端の本は、私がさいごに読んだ本のはずだった。だが天井に届かんばかりの高さの本棚の、最上段に手が届くはずもない。見渡せど梯子はおろか踏み台さえも見当たらなかった。女がくすくすと笑う。

「あなたの本棚なんですから、出そうと思えば出せるはずですよ。」

 女のことばには不思議と説得力があった。天井、否、何段目かはわからない最上段に向けて手を伸ばす。はたして、右のほうから一冊の本が私の手をめがけてゆっくりと落ちてきた。その本が私の手に触れるか触れないかのうち、本棚から次の本が落ちてくる。擦り切れた文庫本だった。続いて、学生時代に使った辞書。立派な装丁の全集。何だかよく思い出すことのできない怪しげな本。友人から勧められた小説。美術館で手に入れた図録。ページが千切れるまで開いた絵本。本棚から、本という本が飛び出そうとしていた。一番下の段も、私の腰のあたりの段も、私の頭の位置の段も、うんと高いところの段も、次々に本が飛び出していってだんだんとその隙間が広がっていっている。私の目線と同じくらいのところにある棚の本が、隙間に耐えかねてずずぅ、と横に倒れた。そうこうするうちにも本はどんどんと棚から出てゆく。飛び出した本たちは私の身体すれすれのところを通り、いまや部屋中を勢いよく飛び回り始めていた。本の頁がバサバサと鳥の翼のような音を立てる。実際、本たちは鳥のように頁をはためかせて飛んでいるのだった。私の目の前を、高校の頃三日三晩かけて読み終えた長い小説が飛んでゆく。手を伸ばそうとすると、本は私の手をするりと抜けていってしまった。諦めて棚に目を遣ると、もうほとんどその中身を失ってしまっている。どうやらもう立っている本はないようだった。倒れている本が起き上がり、これまでの本たちと同じようにバサバサと部屋のなかを飛び回り始める。本の立てる音はもはや私の耳を劈かんばかりになっていた。やがて本はびゅうびゅうと凄い勢いを立てて狂ったように旋回を始め、そのせいか、とうとう頁が本から飛び出してゆく。棚からはもう、大方の本が出ていってしまった。部屋では本が飛び交いながらその中身をばら撒いている。いつのまにか、部屋から女の姿が消えていた。飛びまわる本のせいか、さきほど女が本を読んでいたテーブルも椅子も、部屋の壁さえも見ることができない。いつのまにか、目の前にあるはずの本棚さえそれがほんとうにそこにあるのかわからなくなっていた。

 ばらばらになっても羽ばたき続ける本たちに、私だけが、そこに立っていた。



 

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