魔法の歯科医
春の穏やかな陽気の中、優しい声が部屋に響く。
「木村さん、もういいですよ」
そう言ったのは、綾野という20代の歯科医で、椅子を起こす。
エプロンを取ってあげると、
「ありがとうございました」
と礼を言われる。
綾野は「またおこしください」と言うと、もう1人の歯科医である星野という青年が会計を担う。
「ありがとうございました」
星野が言うと、綾野も声をかける。
木村の足取りは軽く、重たいものが片付いたような、リラックスした状態で出ていくのだった。
「はー!! 午前中は終わり」
綾野が首を左右に動かしながら、星野のところへやって来る。
ここスタークリニックは、2人の歯科医しかおらず、小さな規模だが、人気のあるクリニックだった。
星野も20代であり、優しい先生だと言われていた。
「ご飯にしよう、綾野」
「そうだな」
2人は奥へ引っ込むと、弁当を広げる。
2人とも独身だが、卵焼きにウィンナーといった、ちゃんとした弁当と呼べるものが入っているのだった。
「いただきます」
2人は早速、弁当を食べ始める。
唯一、肩の力が抜けるランチタイム。
2人はブラインドから入る光に照らされながら、仲良く食べ進めていく。
ー2人きりのほうがいい。
綾野は大人数で行動するよりも、小規模のほうが気楽だった。
先程まで鋭かった目つきは、優しいものとなり、星野に話しかける。
「今日は天気がいいから、午後も混むのかな?」
「そうだな…。来たら来たで、頑張ろうぜ。患者さんに、ここは素晴らしいと言われるようなクリニックを目指そう」
「おう」
綾野は短く答えると、お茶を口にする。
人前でご飯を食べるのは嫌なのだが、星野と一緒の時は大丈夫だった。
ーそれだけ、星野のことを信頼しているってことだ。
素の綾野を知っているのは、星野だけだと確信している。
だから弁当をつつきつつ、他愛もない話をしていく。
「もうクリニックを始めて2年か。早いな」
「そうだな。でも真面目にやってきた分、患者さんが増えているんだから、胸を張っていいと思う」
「そうだな。初めは訳が分からなくて、力みすぎたけれど、真面目にやっていれば評判も広がるということだ」
2人は顔を見合わせると、にやりと笑う。
「今はどう? 慣れた?」
「うーん、そうだな。慣れたには慣れたけれど、気は抜けないな。そういう時こそ、初心を思い出さないと」
星野はそう言うと、空になった弁当箱をしまう。
「ご馳走様。さて、フロスをやるか」
給湯室の蛇口の近くに置いたフロスを手に取ると、付いているボタンを押す。
すると独りでに動き出し、星野に言ってくる。
「口を開けてください」
綾野も弁当を片付けつつ、星野の行動を見つめる。
彼は指示通り、口を開くと、フロスが勝手に動いていく。
まるで歯科医が直にやっているように、動きはなめらかで、歯と歯の間を綺麗にしていく。
「下の歯は終了しました。次は上の歯です」
柔らかな女性の声に、星野はもう少し大きく口を開く。
するとまた自動的に動いて、歯と歯の間に入っていく。
そう、これは魔法のフロスなのだった。
患者は一切、手を触れることなく、歯間掃除をしてもらえるという便利グッズだった。
ーいちいち、自分でやらなくていいから、楽だよな。
ちゃんと力加減もわかっているし、歯肉を傷つけることがない。
綾野は立ち上がると、星野の隣に行く。
「俺もフロス、やろっと」
もう1本置かれたフロスを手に取ると、ボタンを押す。
後は口を開けているだけで良かった。
「よし、フロス、終わり」
星野が嬉しそうに言うと、ボタンを押し、フロスは静かなものとなる。
綾野はフロスの最中で、ちらりと星野を見つめる。
次は歯ブラシに手を取ったので、少し頬を緩める。
フロスは星野から、歯ブラシは綾野があげたもので、もちろん魔法のグッズだった。
手元のマイクに口を近づけると、星野が言う。
「歯を磨いて」
「畏まりました」
今回も女性の声が響き、星野は口を開く。
すると歯ブラシが勝手に動き、星野の歯を磨いていく。
まるで母親が磨いてくれるような、そんな安心感があるようで、星野はじっとしているだけだった。
「俺も歯ブラシ、使う」
フロスを片付けると、歯みがき粉を少量つけ、星野と同じように命令する。
「歯を磨いて、丁寧に」
「畏まりました」
魔法の歯ブラシは、口を開いた綾野の歯を優しく磨いていく。
電動歯ブラシとほ違い、自分の手を使うことがないので、便利だった。
ただし、フロスも歯ブラシも、2人の秘密だった。
ー教えて欲しいと言われても、困るし。俺と星野の秘密だ。
秘密という言葉に何故かどきりとし、綾野は横目で星野を見る。
もうすぐ終わりのようで、気楽に鼻歌を歌っている。
思わず微笑みそうになると、歯ブラシに言われる。
「もう少し口を開けてください」
「はいはい」
歯みがきに集中することにし、綺麗に磨いてもらう。
「ーよし、終わり」
星野はそう言うと、歯ブラシを掴み、話しかける。
「歯みがきは終了。お疲れ様」
すると歯ブラシは動きを止め、大仕事を終わりにしたように、くたりと星野の手の中に入る。
彼はそれをフロスの隣に置き、口をゆすぐ。
綾野は爽やかな香りが漂っていくのを感じ、鼻をすっと流れていくのだった。
「口を閉じてください」
「はい」
前歯を磨かれ、綾野は腰に手を当てる。
魔法のグッズのお陰で、虫歯はゼロだった。
しかし油断はできない。
ー歯周病は見えない病気だからな。静かに進行していくし。
スケーリングという治療が必要となるのだが、綾野と星野は2人でやり合っていた。
ー俺は人に恵まれている。
孤独だったのが、いつの間にか、少しずつ人が増えていくのだった。
患者もそうで、人間、真剣に付き合えば、助けてくれる人が増えるものだと、重々しく受け止める。
歯ブラシのされるままになっていると、最後の歯みがきが終わった。
「ありがとう」
歯ブラシを掴んで、口をゆすぐと、綾野は星野に歯を見せる。
「どう?」
「さすが魔法のグッズ。綺麗なピンクの歯肉だ」
「OK」
2人は笑い合うと、伸びをする。
ご飯を食べたお陰で、身体が暖かくなったことで、外から差し込む光が強くなった気がして、まるで日光浴しているようだった。
「午後も頑張ろうぜ」
「おう」
2人は拳と拳を重ね合わせると、まだ診療時間には早いので、ソファに座るのだった。
ー午後はどんな患者が来るのかな?
最近はモンスターペイシェントとか、色々と言われており、荒んだ社会だと思わなくもないが、人と人が分かり合うのは、大体、6割くらいだと思い知る。
ー本心を出せるのは、星野の前だけ。重たい人間と思われたくないし。
次々と治療して、新しい人間と触れ合っていく。
まさに天職だと、綾野は思っていた。
「ふわあ。ちょっと横になる」
星野がソファに倒れたので、綾野はくすりと笑う。
「俺も身体を楽にしよっと」
2人は無防備な状態となると、午後に向けて、力をためていくのだった。




