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考えていたこと

作者: のなめ
掲載日:2026/05/02

私たちは「自由意志」を持っているとされる。この自由意志を備えた行為主体こそが、近代的な人間像の根幹である。しかし、この概念には拭いがたい謎が潜んでいる。結論から言えば、私はその不可解さゆえに、自由意志は存在しないという立場をとる。

自由意志の定義不可能性

まず、「自由」とは何かという問題がある。私は、世界に物理的に作用する形式において、自由は定義不可能であると考える。一般に、あらゆる事象にはそれに先立つ「先行事象」が存在し、両者は因果律によって結ばれている。事象の成立が因果律によって完全に説明される「決定論的」な状況下では、全ての出来事は先行事象によって一意に規定されており、自由が介在する余地はない。では、非決定論的なケース、すなわち先行事象のみでは事象の成立を必要十分に説明できない場合はどうか。このとき、先行事象によって決定されない領域に自由を求めるという立場を考えることができる。まず、その要素がなお先行事象の影響下にある場合については、それは不完全な決定にすぎない。量子力学的な不確定性のように、先行事象が結果の確率分布のみを規定する場合がこれにあたる。このような場合、確かに先行事象は事象を一意に説明しない。しかし、個々の結果は依然として主体の統御を超えた蓋然性の問題となり、そこに自由を見出すことは困難である。先行事象が事象に影響を与える場合、決定論的でも統計的でもない仕方は想定できないように思える。次に、事象が先行事象から完全に独立している場合を考えることができるが、それは先行事象と相関を持たない完全にランダムな擾乱に帰着する。このような無秩序を自由と呼ぶことは、概念的な意味を持ち得ない。以上の検討から、世界への作用は「決定論的な連鎖」か「統計的なランダム」のいずれかでしかありえず、物理的記述の枠内において「自由な作用」を定義することは不可能であると結論づけられる。ただし、感覚としての自由、すなわち「自由であるという実感」までを否定するものではない。

近代的人間像の崩壊と責任の再構築

自由意志が否定されるならば、それを前提として構築されてきた「自由主体=近代的人間」というモデルもまた崩壊する。これは直ちに、近代的な「責任」概念の再検討を迫るものである。近代における責任は、「人間は自由意志を持つ主体であり、ある行為を『することも、しないことも』選びえたはずだ」という前提、すなわち代替可能性に依拠している。私たちの規範や法体系も、この主体性を基準として行為の是非を判断し、責任を帰属させてきた。しかし、責任や罪といった概念そのものは近代以前から存在し、社会秩序の維持という機能を担ってきた。近代においてこれらが自由意志と強く結びつけられた結果、本来は機能的・制度的に運用されていた責任概念の一部が、かえって適切に働かなくなっている可能性がある。この歪みは、いわゆる自己責任論に対する批判や、気候変動や差別といった構造的問題をめぐる責任の所在の不明確さに、典型的に現れている。

ここで近代という時代を強調したのは、自由意志が重要視されるようになったのは近代以降だからである。中世までは、人間の罪は神の名の下に裁かれていた。しかし科学の発展により神の存在に疑義が呈されると、人間の責任の根拠は不安定になった。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で「神がいないならすべては許されるのか」という問うた。これに対し、近代は「神に代わる超越性」として自由意志を据えることで回答した。超越性とは、それ自身以外のいかなる存在によっても規定されない性質のことだ。この超越性は、責任の根拠にとどまらず、あらゆる価値の源泉として機能してきた。ドストエフスキーやキェルケゴールらキリスト教的実存主義者は、確固たる価値の根拠を求めてキリスト教へと回帰した。対してニーチェは、神という超越性を否定。既存のあらゆる価値を無化する態度を「ニヒリズム」と呼び、そこから新たな価値を積極的に仮象する構えを「能動的ニヒリズム」として肯定した。 しかし、これは結局のところ、超越性の源泉を「神」から「自由意志」へと置換したに過ぎない。この構造は、後続するサルトルらの実存主義においても同様である。もし自由意志という存在そのものが虚構であるならば、近代的な責任概念も、これら実存主義的な価値観も、すべてその存立基盤を失い無効化されることになる。

私は価値について明確な処方箋を持っていない。価値とは、特定の行為への動機づけとして機能する「絶対的な立場(超越性)」を要求する装置だからだ。ポストモダン思想がすべてを相対化した結果、代替案を示せずに行き詰まっているのは、価値が本質的に必要とする「超越性」を解体してしまったからだろう。 同様の問題は責任概念にも当てはまる。責任や罪といった概念は、社会秩序の維持という重要な機能を担ってきた以上、それらを単純に放棄することはできない。しかし前述のとおり、自由意志のみに依拠する近代的な責任概念は、すでに機能不全を露呈しつつある。そこで私は、この困難を部分的に解消する手掛かりとして、責任を「応答可能性(responsiveness)」として捉え直す視点に注目している。ここでいう応答可能性とは、過去の行為に対する遡及的な非難の根拠ではなく、与えられた状況や理由に対して将来どのように応答しうるかという、前向きの能力に関わる概念である。この転換によって、責任は「本来は別様に行為できたはずだ」という形而上学的前提から切り離され、「いま与えられている条件のもとで、どのように振る舞いを調整しうるか」という実践的な問題として再定式化される。この枠組みは、いわゆる自己責任論の問題点を是正する手掛かりとなる。自己責任論は、個人の現在の状態を過去の選択に還元し、その選択が自由であったという前提のもとに責任を帰属させる。しかし応答可能性の観点からすれば、問題となるのは過去の選択の自由性ではなく、現在の状況においてどのような改善や調整が可能かである。これにより、責任の焦点は非難から支援や制度設計へと移行する。また、気候危機や差別のような構造的問題においても、この視点は有効である。これらの問題は特定の個人の自由な選択に還元できないため、従来の責任概念では帰責が困難であった。しかし応答可能性に基づけば、個人・集団・制度それぞれが、現状に対してどのように応答しうるかという観点から責任を分配できる。すなわち責任は「誰が悪いか」を問うものから、「誰がどのように関与しうるか」を問うものへと再編されるのである。このように、応答可能性としての責任は、自由意志を前提とする従来の責任概念の限界を回避しつつ、その社会的機能を維持・再編するための有力な枠組みとなりうる。

意識の言語性と汎心論

次に、自由意志から「意識」へと視点を移す。 私は、あらゆる物理現象には何らかの心的な要素が対応しているという「汎心論」の立場をとる。意識のあり方は、対応する物理現象の構造によって規定される。これはユクスキュルの「環世界」の概念に近い。ユクスキュルが提唱した環世界(Umwelt)とは、すべての生物はそれぞれの種が持つ感覚器官と作用器官を通じて構築される、「固有の主観的な世界」を生きているという概念である。この概念の核心は、生物にとっての世界は、その個体が持つ「身体的装置」によって取捨選択された意味の体系であるという点にある。たとえば、有名なダニの例を挙げれば、彼らにとっての世界を構成するのは「光への感受性」「哺乳類の体温」「酪酸の匂い」といった限定的な指標のみである。それ以外の風景や音響は、彼らの世界にはそもそも存在しない。この環世界の概念は、意識が物理的な身体構造や神経系に規定されるという考えに基づく。ユクスキュル自身はこれを生物に限定したが、この「主体の構造が世界の現れ方を決定する」という論理を無生物や物理現象全般にまで拡張すれば、それは汎心論となる。

人間の意識が特殊であるのは、人間という動物の身体性に加え、何よりも「言語」を操る能力に由来する。理性や論理は、人間に固有の超越的能力というよりも、むしろ言語構造そのものに内在する性質である。たとえば三段論法が自明に思われるのは、私たちの言語がそのような推論形式を自然に許容するよう組織されているからだ。同様に、自己を対象化する「自己言及性」や、無限の数概念を扱う「再帰性」も、言語的能力の帰結であり、人間の意識はこれらの能力に対応するかたちで成立している。こうした性質を言語が備えているのは、言語が単なる記号操作の体系ではなく、現実の活動を媒介する過程で、世界のあり方に適合するよう洗練されてきたからである。

ウィトゲンシュタインが提唱した言語ゲームの概念によれば、言葉の使用は特定の規則に従う活動の一部であり、その「生の形式」から切り離して理解することはできない。人間が物理世界の中で行為し認識する存在であり、その生の形式自体が物理世界に規定されている以上、言語がこの世界に対して妥当な記述や推測を与えうるのは、むしろ当然の帰結である。さらに、「生の形式」は経済的下部構造によって唯物論的に規定されると考えられる。すなわち、資本主義社会とは、資本主義的な生産様式および交換様式が人々の生の形式を形づくる、一種の言語ゲームとして理解することができる。この観点に立てば、近代に特有とされる多くの概念も、資本主義という言語ゲームの内部で生成されたものとして把握されるだろう。先に考察した自由意志の概念や、いわゆる自己責任論などは、その代表的な例と位置づけることができる。このような見方は、柄谷行人の交換様式論とも接続しうる。柄谷は、交換様式が特有の観念的力を生み出すことを論じているが、これは交換様式が特定の意味秩序や思考様式、すなわち言語ゲームを形成する過程として読み替えることができる。同様に、ブルデューのハビトゥス論も、社会的実践のなかで内面化された傾向性が行為や認識を方向づける点で、生の形式や言語ゲームの形成を説明する理論として位置づけられる。

随伴説と現象報告のパラドックス

では、意識は物理世界に作用するのか。これは極めて困難な問題である。私は、意識は物理的状態に付随するだけの「随伴現象」であるという説を有力視しているが、ここには二つの大きな壁がある。 一つは「哲学的ゾンビ」の問題だ。意識が物理世界に影響を与えないなら、意識を持たずとも外見上は人間と全く同じに振る舞う存在が論理的に可能になってしまう。 もう一つは、より深刻な「現象報告のパラドックス」である。意識が物理世界に干渉できない(因果的閉鎖性)とするならば、なぜ物理的存在である私たちの口やペンが、「私は意識を持っている」などと物理的に記述できているのか。このパラドックスは、意識が言語的性質を持つことである程度説明できるかもしれないが、そうすると今度は「哲学的ゾンビもまた、自身の意識について議論できてしまう」という事態を招く。私たちが語る「意識」と、ゾンビが語る「意識」に差異がないのだとしたら、私たちが信じているこの主観的な手応えは何なのか、その手応えと私たちの語る「意識」を対応付けるものはなにか。意識の存在や物理現象との対応を単に強弁するだけでは、もはやこの迷宮を抜け出すことはできない。

「物理世界の因果的閉鎖性」を前提に置くならば、意識と時空間の関係について示唆に富む考察が可能となる。まず、物理的な身体に対し、意識の「空間的所在地」を特定することは困難である。一方、時間に関しては、意識は物理的現象の生起に対して遅延して現れることが可能だ。では、逆に意識が物理事象に先んじることはあり得るだろうか。物理的現実が確定する前に意識が先行することは一見不合理に思えるが、物理世界の因果的閉鎖性を徹底するならば、そもそも特定の時点に「特権的な存在論的地位」を与える必然性がないことに気づく。これは意識についても同様である。時間の非対称性を規定する物理法則としてエントロピー増大の法則があるが、記憶の形成がこのプロセスに依存しているとするならば、主体はエントロピーが増大する方向にしか事象を経験し得ない。私たちが「時間の流れ」を実感するのは、単に過去の記憶を有し、未来の記憶を有していないという非対称性に由来する。この事実は、物理世界と意識のいずれにおいても、あらゆる時点が等しく「存在」しているというブロック宇宙的な仮説を強く支持するものである。

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