初恋にさよなら
どうぞよろしくお願いします。
「シーラ!」
マルス様が私を呼んだ。
私は振り返る。
ここはこの市場の大通り。私は食材の買い出しのため歩いていた。
立ち止まり振り返る私に手を振って近づいてきたのはマルス様だ。
マルス様、この街を治めている領主様の長男でいらっしゃる。
黒髪で黒い瞳。お母様がロリャ族の方だから。
長男でいらっしゃるけれど、たぶん、家は継がれない。
ロリャ族、流浪の民族と言われる人々。
マルス様の母はロリャ族の有力部族のお嬢様だったそうだ。それで祭りでこの街に来て領主様と恋に落ちたのだそう。
すでに正室の奥様がいらしたけどまだ子がいず、お母様の黒髪と黒い瞳を受け継いだマルス様が生まれてから、2年後、正室である正夫人が男児を産んだ。だから、その次男であるアーサー様が後継ぎと言われている。誰かがはっきり言ったわけではないが、暗黙の了解って奴。
アーサー様は正夫人の緑の瞳と領主の金髪を受け継いだ由緒正しい次男ってことだ。
マルス様のお母様はマルス様が10歳の時に御病気で亡くなられたそう。
「シーラ! 買い物?」
マルス様がにっこり微笑んで私に話し掛けた。
「はい、食材を買いに。マルス様は?」
「ああ、市場を見回りにね」
後ろからマルス様の従者のカインが現れた。
「マルス様、急に走らないで下さいよ。
ああ、シーラ、こんにちは。いつもマルス様がすまない」
「なんだ、そのすまないって?」
「だって、いつも見かけると話し掛けに行くでしょう!?」
カインはマルス様より少し年上の従者で、私の兄の友人だ。ちょっと不器用だけどやさしい人という印象。
カインは黒髪だ。だから、マルス様の従者に選ばれたのだろうと兄が言っていた。
黒髪自体は珍しくない。ただ、黒髪と黒い瞳が重なるとたちまちそれはロリャ族の血だと認識されてしまう。
「荷物が重そうだ。手伝うよ」
マルス様が私の手の葉物野菜の包みに手をかけて抱き取ろうとする。
「え、大丈夫です! お仕事中でしょ?」
市場の見回り中のはず。
強引に野菜を抱き取ったマルス様がいたずらっぽく微笑む。
「重い荷物を抱えて歩く女の子を助けるのも、仕事じゃないかな?」
「そうですね。シーラ、こっちも持つよ」
カインが私の手提げまで持ってくれる。
うう、大丈夫なのにっ!
でも、マルス様とこうやってお話しできて一緒にしばらくいられるのは、うれしい。
「もう買い物ないのか?」とカインが言って。
「はい、もう帰るだけです」
「では、工房まで送るよ」
マルス様がそう言って、前を歩き出す。私は慌てて歩いてついて行く。
カインが知った顔で「隣に並んでおしゃべりして差し上げろ」と言う。
私は頷いて……、少し顔が赤くなってるかもしれないと思いながらも「マルス様、その葉物野菜はロバートさんのところの畑で採れたもので、スープの仕上げに入れると緑がとてもきれいなんですよ。火入れが短ければシャキシャキ感が残るし……」と話し掛けた。
私はこの街の鍛冶屋の娘だ。
鍛冶屋は武器や農具、それに建材なども作成するから、商人というより職人として重宝されるというか尊敬されるというか、まあ、街のまとめ役みたいなことをしていて、領主様とも親しい。
兄は鍛冶屋を継ぐために頑張っている。母は一昨年、流行り病で亡くなってしまい、私が家や店の帳簿のことなどを引き受けて、家事をしている。兄がお嫁さんを貰えば、今度は私がどこかに嫁ぐという話になるのだろう。
私はマルス様に恋をしている。初恋。
私はマルス様の弟にあたるアーサー様と同い年だ。それで、アーサー様の同い年の少年少女が定期的に集められて領主様の屋敷に呼ばれていたんだけど、その時、マルス様に出会って、なんてやさしそうな男の子なんだろうと思った。ちょうどその時って、マルス様のお母様がたぶん病気で伏せれられていた時期だったのかもしれない。
アーサー様は兄であるマルス様を無視するみたいにしてて……。心が痛んだ。そんなこともあったのか、私はついマルス様の姿を探してしまい、そして遠くから見つめるようになった。
幼馴染のカインが従者をしていることもあり、マルス様と話をするようになり……。
家族に無視されるという辛い目に合っているのに、なんてやさしくふんわり微笑むんだろう。そう思ったら、好きになってた。
アーサー様は私とマルス様が親しくしているのに気がつくと、私とマルス様が話をするのを邪魔してくるようになった。
なんだろう、私達は自分のために集められた少年少女だから、という気持ちなのか。
一度言われたことがある『シーラは私のものだろう』と。
ああ、この人は人をそういう目で見る人なのだと思って、その時からアーサー様には心を許していない。領主の息子という意味で敬いはするが、個人的な関りは持たないようにしている。
「ありがとうございます」
工房の前で荷物を受け取ろうとするが「台所まで運ぶよ」とマルス様に言われ、お言葉に甘えることにする。
工房の裏口に回り、裏庭を通り台所の勝手口を開けると、カインとマルス様はテーブルの上に荷物を置いてくれた。
「すごく楽ちんでした。ありがとうございます。
お茶でも……」
そう言いかけた私に「仕事だからね。市場に戻るよ。シーラのおしゃべり、楽しかった」とマルス様はふんわり笑って裏口から出て行く。カインも「またな!」と言って後を追って行った。
私は戸口から「ありがとうございます!」ともう一度大きな声でお礼を言った。
「アーサー様に婚約の話が持ち上がっているそうだよ」
夕食時に兄のグエルが言った。
「へえ、どこかの貴族令嬢かしら?」
正夫人は中央の貴族の……、確か子爵令嬢だったと聞いたことがある。
領主様も貴族だけど、騎士爵っていう一番下? こういう言い方はあまり良くない気がするけど、まあ、スタートはそうだったけど領主としてもうまくやっていて、見込まれて子爵令嬢を正夫人に迎えたことで男爵になったと聞いた。
「そんなことより、グエル兄さんにいい人はいないの?
いつまで私、店と家のことやればいいのよ」
「そんなことって! アーサー様とお前、親しいだろ?
気にならないのか?」
「……なんで?
幼馴染になるように定期的に屋敷に行かされてただけじゃない。
まあ、そこそこ友人関係があるとは言えるかもしれないけど……」
「そこそこな友人?」
「うん、あまり関わり合いになりたくないから、そこまで?」
「……アーサー様の話とは違うな?」
「アーサー様の話?」
「……いや、こっちの話」
なんだ?
私は首を傾げた。
「マルス様が好きなのか?」
急にグエル兄さんが言うからびっくりして啜っていたスープを吹き出してしまった。
「な、なに!?」
「……そうか、そうなのか。わかったよ」
ナニガワカッタトイウンジャ?
グエル兄さんがため息をついた。
「俺、マーサと付き合い始めたから」
「マーサって、あのマーサ!?
いいじゃん! マーサなら大歓迎!」
商店の娘さんだ。とてもいい人。小間物商店を市場に出してるけど、石炭や炭などの燃料問屋もしている。それでグエル兄さんと親しくなったのか!
「いいのか? 俺が結婚したら……、シーラの結婚話も加速するぞ」
「うん……、それは覚悟してる」
私は微かな胸の痛みとともに頷いた。
だって、仕方がないことだもの。
アーサー様が領主様の後を継いで、そうしたら、マルス様は家をこの領地を出られるかもしれない。
でも、そのほうがいいような気もする。
アーサー様と正夫人のマルス様への関わり方……、関わってもいない、か。
使用人への方がよほどやさしい。変に身内だと思うとよけいに厳しく、意地悪になるのか……。
「お父さんはまだ工房?」
「ああ、アーサー様の新しい剣を頼まれたそうだよ」
「成人の儀に向けてかな?」
「そうだろう。きっと」
アーサー様と同い年の私も2ヶ月後、新年を迎えたら成人の儀だ。
マルス様の時は剣を新調するなんて話はなかったな……、心がちくっとした。その時はさびしかっただろう。そして今度は、悲しく思われたかもしれない。
新年を迎えて、私は成人の儀で身につけるドレスを縫い上げた。
白いドレス。
まあ白い服なら何でもいいんだけど。
女性はドレス、男性は式服ってのが一般的だ。
そして成人の儀を迎えた後、それを好きな色に染めて、一張羅とするのだ。
そんなにお裁縫得意な方ではないけど、何とか完成した。
シンプルなドレス。
こんなに長いスカート丈の服を着るのは初めてでそれも楽しみ。
父と兄のグエルが白い靴は頼んでくれていて、もう手元に届いてる。
私は靴とドレスを試着してみた。
うん、いい感じ。
ドレスの裾をたくし上げて、工房へ行ってみる。
父と兄と弟子のサムとエランがいた。
「どう? ドレス縫い上がったの!
なかなか上手にできたでしょ!」
父と兄は驚いた表情をした後、褒めてくれた。サムとエランも褒めてくれたけど、なんかちょっとわざとらしい。
「もうお嬢さんも大人ですね……」
エランが意味深に言って、その場が変な沈黙になる。
その沈黙を振り払うようにグエル兄さんが明るい声で言った。
「若い頃の母さんに似てるね」
「ああ、そうだな」
私は母譲りのちょっとくすんだ金髪に明るい青い瞳だ。父は茶色の髪に青い瞳。兄は見事に父の髪色と瞳を受け継いでいる。
「きれいにできているよ。シーラ。
これならどこに嫁に出しても大丈夫そうだな」
父がうれしいんだけど寂しさを滲ませるようにして言った。
成人の儀がある日。
私は白いドレスに白い靴を履いた。マーサが我が家に来てくれて、少し化粧してくれて、花で作った髪飾りを付けてくれた。
父は母のペンダントを私にくれた。
「ここまで健康に大きくなってくれて、本当にありがとう」
父が私を見て言う。
「お父さん、私をここまで育ててくれてありがとうございます」
父と兄とマーサ、そしてサムとエランも見送ってくれた。
近所の同い年の子達と教会へ行く。
アーサー様はもちろん、マルス様やカインも領主様の御家族としていらしてたから、私はうれしくなる。だって、せっかくきれいにしたんだもん。マルス様に見てもらいたかったし。
教会でひとりずつ、教会簿に成人を迎えた意味を示す血判を押す。左薬指の先を針でついて血判を押すのだけれど、地味に痛い。
それが終わり、私達は教会を出て、ほっとした。
アーサー様が「みんな屋敷に来い! 私の祝いの席が用意されてる。みんな私と同い年で良かったな!」と偉そうに言った。
男の子達は歓声を上げ、あ、もう男性達は、か。
女性達はふふふっと笑った。
まあ、運がいいとも言えるか。
屋敷に行けば、マルス様とカインと話もできるかも。そう思うと、私の心も弾んだ。
領主の屋敷に行くと、大広間に料理が並べられたテーブルやらが端の方にあり……。
戸惑っているとアーサー様が来て言った。
「王都ではこうやって、みんなで立ち話をしながら食事や飲み物を楽しむそうだ。
パーティーとか言うそうだぞ」
へー。立って食べるなんて、市場の屋台飯と同じじゃん。
領主様と正夫人が挨拶をして「アーサーとこれからも仲良く、支えて欲しい」というようなこともみんなに話した。
まあ領民としてはね。支えるしかないよね。
「シーラ!」
アーサー様に呼ばれた。
うれしそうな顔で腰の剣に手を……。
「あ、父が作らせて頂いた剣ですね。
お似合いです」
私は店番の時のように微笑んで言った。
剣は父が、鞘と装飾は兄と私が作った。
「この装飾部分はシーラの手も入っていると聞いたが」
「はい、私と兄で作りました。
私、鍛冶まではできませんが、母から彫金などを習っていたので。
小さな金属の装飾品なら作成することができます」
そうなのだ。母は金属を使った装飾品を作る職人でもあった。だから、私も……、いざとなったら、うちの鍛冶屋でその職人として働けないかとも思っている。
「綺麗だな」
私は頷いた。
「はい、アーサー様の明るい金髪のイメージで装飾を考えましたから。
金色が鞘の赤色に綺麗に映えて、豪華な装飾になりました」
「……装飾が?」
「はい、ここ! 細かい金の細工、結構苦労したんですよ!」
思わず剣の鞘の一部分を示しながら力説してしまった。
アーサー様が笑った。
「シーラが綺麗だと褒めたんだが」
「はい?
あ、それは、ありがとうございます」
お世辞とはいえ褒められるのは今日ぐらいしかないだろうし。
一応お礼を伝える。
その時、正夫人がこちらに来て「あなたがシーラね」と声を掛けられた。
私は礼の姿勢を取った。そのまま、許すと言われるまで顔は上げたらいけないと聞いている。
「顔を上げなさい。許すわ」
私は姿勢を正した。
「ふむ、磨けばそれなりに光りそうな子ね。あなたは母親似なの?」
「はい、母の髪色と瞳の色を受け継ぎました。父は茶色の髪に青い瞳です」
「黒は混じっていないと……」
その言葉に侮蔑が込められていて……、マルス様はいつもこんなことを言われているのかと心が痛くなった。
「そうね。いいでしょう……」
何が?
私は正夫人の言葉の意味がわからず、首を傾げた。
アーサー様がうれしそうな表情をして私を見る。
「では、シーラを私の侍女に!」
「ええ、いいですよ。承知しました」
え?
侍女?
私は戸惑って、周囲を見回す。
ナニガオコッテイルンダ?
「じゃあ、鍛冶屋の工房の方には先触れを出しておく。
明日から、屋敷に入り、私に仕えるように」
アーサー様の言葉が理解できずにつるつる滑る。
ヤシキニハイリ、ワタシニツカエル……。
「え、私は鍛冶屋の工房と家の手伝いがっ!」
「必要なら、人を雇えるように家の方にも資金を出そうぞ」
正夫人が言って、私がまだ理解できていないのを見ながら「では、アーサー、挨拶を」とアーサー様と立ち去ってしまった。
な、何?
私はそのうち、兄が結婚が決まってから、どこかへ、父が見つけてきた縁談でどこかの商家にでも嫁ぐのではなかったのか!?
明日!?
侍女……。侍女って……。
使用人ということだ。屋敷に仕える使用人。
あ、でも、屋敷にいたら、マルス様やカインと会える確率が高くなる。
でも、気になることもあった。
アーサー様に仕える侍女ってこと。
身の回りをお世話する係ってことだよね。男性だから従者がいるのに。
その……メイドではなく、侍女……、成人したら……、そういう……ことがあるとは聞いている。
成人した日に侍女にって言われたこと。それに、アーサー様に結婚の話が持ち上がっていること。
つまり、そういう練習台に選ばれたということじゃないかな!?
両親の髪と瞳の色を聞かれたのも、もしかして子どもができるようなことだからかもしれない……。
すうっと周囲の音と光が小さくなった。
ああ、父は……、なんて返事をするのだろう。いや、『承知しました』以外には言えないだろう。
「シーラ? シーラ!?」
名を呼ばれ、肩を揺すられて我に返る。たちまち音と景色が戻ってきた。
カインだ。カインが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「カイン……」
「どうした、顔色悪かったぞ。貧血か?」
「あ、いや……。
えっと……、カインはマルス様付きの従者だよね?」
「おう。それが? もう知ってるだろ?」
「マルス様には侍女はいる?」
「……侍女はいない。それが何か?」
「えっと、今、明日からアーサー様の侍女になるように言われて……」
「……アーサー様の? 侍女?」
「何が何やら……。父には正式に連絡を入れたとかで……」
「成人の儀の後の侍女選定。つまり、そういうことか……」
「そういうことって!?
やはり、普通の使用人じゃないってこと?」
カインが痛ましそうな表情で頷いた。
それで、私は悟った。いわゆる、アーサー様の夜のお相手で、練習台になるということだ。
それから、どうやって過ごしていたかおぼろげな記憶しかない。みんなが話す言葉が遠くに聞こえて、みんなが笑っているというだけで私も笑い顔を作った。
ああ、こんなところで店番で鍛えた外面がいい面が……。
これじゃ、アーサー様は私が喜んでいると思いそうだ。
カインから聞いたマルス様もそう思うかも……。
この命令からは逃れられないにしろ、マルス様だけには自分の気持ちを伝えたかったな……。
家に帰ると父と兄が暗い顔をしていた。
ああ、父として兄として、娘が、妹が、権力者の日陰者になるということを悲しんでくれてるんだ。
それだけで、私は少しほっとした。
「シーラ、男爵家から正式な申し入れがあった。
お前をアーサー様の侍女にすると。
お前はそれで……」
いいのか?
たぶん、父の言葉の続きはそうだろう。
でも、いいのか? と聞かれても……。
『いやだ』でも結果は変わらない。
私が家出をしたら……、何かお咎めがあるだろうし、結局は従うしかない。
「……仕方ないでしょう。領主様の命令ですもの」
私は静かに言った。
父は頷いた。
兄は力なく項垂れた。
その日の晩、エランが私の部屋を訪ねてきた。私は慌ててドアの外に出て対応する。
「何?」
「……俺と逃げませんか?」
「逃げる? なんで?」
「お嬢さんはアーサー様の慰み者になんて、なりたくないでしょう?」
「……確かに、嫌だという気持ちはあるけれど、いずれ受け入れると決めました。
私のことを心配してくれたのなら、ありがとう。
これからも、父と兄をお願いします」
私は話しているうちに気持ちが落ち着いてきて、にっこり微笑んだ。
「じゃあ、俺と夫婦になりませんか?」
「は?」
「今夜、ことを成せば……」
「え?」
私は考えた。エランのことは好きでも嫌いでもない。アーサー様も同じだ。
もし、エランの提案に乗ったら、今、私はしたくないことしてそれに縛られ、そして父というか、この家にお咎めがあるかもしれない。
私は首を振った。
「ごめんなさい。
私は誰にも私を渡したくない」
「でも、このままだと、明日!」
「それはまだわからないでしょ」
私は笑った。
「ごめんなさい。
私は誰のものでもない時間を、ぎりぎりまで保ちたいのです」
夜が明けた。
マルス様への気持ちも整理がついた。
手紙を書いたのだ。それに自分が作った飾り紐を入れた。ブレスレットにしてもいいし、服の留め具にしてもいい。
兄に頼んでカインからマルス様に渡してもらおう。
これで自分の気持ちが伝えられるんだと思うと、なんだか、怖い気持ちとさびしい気持ちとちょっとだけうれしい気持ちがした。
私はその手紙を兄に託した。
「無駄なことかもしれないけれど、自分の気持ちを、初恋をどうしても伝えたいと思ったの。
マルス様には迷惑かもしれないけれど、もう終わる気持ちだけど、これまでありがとうございますって書いてある。カインからマルス様に渡してもらって」
グエンはしっかり頷いて受け取ってくれた。
私は安心した。
これで、もうどうなろうが、なるようにしかならない。
迎えに来てくれた領主館の執事と一緒に馬車に乗り込む。
「シーラ、すまない」
父が泣いた。
「何で泣くの!
大丈夫だから。仕事に行くだけだよ。
近くだから、お休みの時に帰って来られるよ」
「若様付の侍女にはお休みはありません」
執事が冷たい声で言った。
「侍女には街に出る自由は与えられておりません。
若様が一緒にということなら、許可が下りるかもしれませんが」
父が必死に食い下がる。
「私とグエルが会いに行くのは?」
「それなら、正式に訪問を申し込めば叶うと思いますよ」
この時の執事の声は少し優しさを感じられた。
領主館に到着すると、アーサー様が待ち構えていて、部屋に連れて行かれる。
「この部屋だ」
入って、ずいぶん女性らしい部屋だなと思う。
「気に入った?」
「気に入るも何も、アーサー様のお部屋でしょう。
私はどこに控えていればいいのでしょうか?」
「……ここはシーラの部屋だよ」
私は見回してため息をつく。
「使用人は上の階の部屋を相部屋で使うと聞いています。
そこで、使用人の服に着替えたいのですが」
「……そんなに使用人として働きたいの?」
「はい。使用人として働きに来たのですから。
まず、メイド見習いとして行儀作法を見習いたいと思います」
「そんな行儀作法なんて……」
途中から一緒になったメイド長が頷いて「では一人前のメイドになるまではこちらで預かりますわ」と言ってくれた。
「シーラ、こちらへ」
アーサー様がぽかんとされているが、私は素早くメイド長について部屋を出た。
「あなた、普通のとぼけた女の子じゃないわね」
「はい、よく言われます」
「ふふっ、いいんじゃない。行儀作法を身につけたいっていいわけなら、しばらく奥様も怒ったりしないと思う」
屋根裏に近い部屋。ふたり部屋だった。正夫人付きのメイドと一緒。ミアという名前。彼女とメイド長について、メイド見習いとして私はスタートすることになった。
メイド長と執事が上手く正夫人に話しをしてくれたみたい。
シーラは行儀作法やマナーを身につけてから、アーサー様にお仕えしたいそうですって。で、それが認められた。しばらく、私はこの館の使用人として働ける。ずっと行儀作法が身につかない振りもすることができるけど、それは……やめておこう。真面目に学んでいる。
アーサー様の婚約者が決まった。
王都の方の子爵令嬢で、まだ12歳だとか。
アーサー様は18歳だから6歳差か。
結婚までは長そうだな。
この婚約でアーサー様と正夫人、そして領主である男爵様は王都の方に行かれることが多くなった。
アーサー様が不在ということは、私になんもできないということで、安心するー。
マルス様が領主代行みたいな感じで屋敷の中にいることが多くなる。
廊下で出会って、立ち止まり礼をして通り過ぎるのを待つ時、左手首に私の飾り紐をブレスレットにしてくれているのが見えた。
伝わったんだ……。そう思ったら、ちょっと目頭が熱くなった。
うん、これで思い残すことはないな。
久しぶりに正夫人とアーサー様が戻ってきた。
ミアから聞いた話だと、アーサー様が王都で悪い友達とつるんでしまって、正夫人が御冠だとか。
確かに歪んだ口元の笑顔に軽薄な感じがするような……。
正夫人に呼ばれて部屋に行くと「今夜、アーサーと寝なさい」と単刀直入に言われてびっくりする。
「え……」
「なに、そういう教育は受けているんでしょ?」
「……受けてませんけど。私はメイド見習いで……」
「ああ、もういいわ!
もう、あの子、王都で悪い友達に悪い遊びを教えられてしまって。
いつでも相手になる女性がいれば、もうあんな店に入り浸ることもなくなるでしょう。
そうね、少しぐらい初心な方が商売女と違ってそそるかもしれないわ」
なんつー。やっぱり、私は最初から生贄だったんだ。
もう話しをしたくなくて一礼して、下がった。
ああ、むかむかする。初心な振りして、急所を蹴とばしてやろうか!
まあ、ここまで引き伸ばしたのは、よく頑張ったかな。自分を褒めよう。
庭に出て空を見上げて深呼吸した。
マルス様とカインが庭の向こうを歩いている。
私に気づいたふたりが立ち止まった。
私は最後の気持ちを込めて、ふたりに丁寧に礼をした。メイドとしての礼じゃない。いわゆる女性としての、未婚の女性としての礼だ。
それで、ふたりにはわかったみたいだ。
私は寂しげに微笑んでから、屋敷の中に入った。
最後に、きれいな身体の私で、マルス様に挨拶できて良かった。
夜、私はメイド達に風呂に入れられ、ネグリジェとかいうワンピースみたいなパジャマを着せられた。
パジャマではいけないのか!?
ネグリジェは薄いので、そのうえにこれまたガウンという大きめな上着を羽織る。
ガウン、物語で王様が着てたりするけど、王様は下にネグリジェではなかった気がする。
母の形見のペンダントだけは身につけるのを許してもらえた。
前に私の部屋と言われた部屋にいるようにと申し伝えられる。
2階の部屋。
バルコニーのある窓があり、そこから庭を見下ろす。
木もあるし、つたって逃げられそうだし、飛び降りても行けそう。
うう、まだそんなことを考えてしまうなんて、覚悟が足りない。
部屋のドアの向こうで何やら音がする。ああ、これまでか……。
「シーラ!」
バルコニーの手すりに声とともに手が伸びてきて私は叫び声を上げそうになり、口を手で押さえた。
だって、声はマルス様だったから。
「マルス様……。
ダメ、こんなところ見られたら……」
「一緒に逃げてくれませんか?」
昔と同じふんわりした笑顔のマルス様。
夜の闇の中で黒い髪に黒い瞳が綺麗に部屋の明かりを反射して煌く。
花嫁を攫いに来た魔王様!?
そうか、夢か。これは夢なのか!?
夢ならいいか!
「はい! 逃げます!」
マルス様はちょっと驚いたように目を見開いてから笑った。
「私、花嫁じゃなくて、侍女ですみません」
「……私にとっては唯一の花嫁だよ。シーラは」
わあ、なんて素敵な夢だろう。
夢っていうか、私もう死んで天国に来ちゃったとか?
うれしくて涙が零れた。
「ほら、行くよ」
マルス様が私に自分の首に手を回して抱きつくように指示する。
私は素直にそうした。だって夢だもん。何したっていいじゃん。
マルス様が手すりの向こう側へ慎重に身体を出して、ゆっくりと手すりを伝いながら身体を下ろしていく。下から手が出てきて、私は抱き留められた。
「よっ、シーラ!
素直でよろしい。もっとごねるかと思ったんだけどな」
「カイン!
え、すご、登場人物いっぱいだな、この夢」
「夢!?」
カインとマルス様が見合って、笑い出した。
「おっと、いけない。
本当にシーラのおしゃべりはかわいくて面白い」
マルス様が楽しそうに呟いて。
あれ、歩こうとして足裏が痛い。
裸足だからだ。
あれ、夢なのに……。
私が裸足で痛くて歩けないのに気づいたマルス様がさっと横抱きに抱きかかえてくれた。
……夢じゃない!?
「夢じゃないの!?」
「夢じゃないよ。
シーラ、お待たせ。シーラが懸命に時間を稼いでくれてる間に、私もシーラを攫う準備ができた。
婚約者がいる手前、アーサーも正夫人もシーラをおおっぴらに探すことはできないし、グエンやおじさんを罰することもできないよ。大丈夫。よく頑張ったね」
「お父さんも兄さんも大丈夫?」
「うん、大丈夫」
マルス様の言葉なら信用できる。
カインもね。
5年後、風の噂にアーサー様が子爵令嬢に婚約を白紙に戻されたと聞いた。
どうやら、ある病気でもう子どもも望めないらしい。領主様は行方不明の長男の行方を探し始めたとか。
これからどうするかはマルスに一任している。
夢じゃなく、逃げてきたのは本当のことだった。
男爵領から、さらに辺境の方に隣の公爵領地に入ると、ロリャ族で定住を始めている人達の街があって、私達はそこへ逃げこんだ。
マルスは母方の姓を名乗り、私と結婚した。
そして、カインとマルスはそこで地区警備隊の仕事をし、仕事ぶりが認められて公爵家の直属の騎士として、この街の治安を守る長になった。
私は家を守りながら、アクセサリーや小物の装飾職人を始めた。
カインも結婚し近くに家を構えた。主従から、同僚で、ご近所さんになったわけだ。
ふたりきりの家になってすぐに三人の家になり、そして今は四人の家になった。
兄と父も何度か会いに来てくれている。
あんなに何度もこれで思い残すことはない、とか、覚悟を決めたとか言っておきながら、結局、初恋にさよならできなかった私。
マルスにそう話したら、マルスにも言われた。
「シーラがアーサーの侍女にってなった時、私も初恋のシーラを諦めなくてはいけないのかと……。
あの時は、まだ、そこまで準備ができてなくて。
私も、諦めたけど、諦めきれなかった。
もし、アーサーとそういうことになっても、シーラを攫うつもりで準備だけは続けてた。
シーラがいろいろ理由をつけて、アーサーに身体を許さないようにしてたのも……、すごくうれしかった。そうか、私のためにそうしてくれてたのかと思ったけど、そんな何度も何度も諦めることを積み上げていたんだね……」
「お互いに初恋にさよならを言っていながら、できてなかったんですね」
私とマルスは顔を見合わせて笑った。
そのふんわりとした笑顔、だめ、ずるい!
私はいまだに初恋の彼に恋してる。そしてこれはとてもラッキーなことで幸せなことだと知っている。
読んで下さり、ありがとうございます。
最初の構想はもっと昔の昼ドラみたいな話だったんですよ。(長編連載中なのに、なにやってんだ!)
書いてたら、シーラののほほんとした明るさにほのぼのしちゃって、あんまりかわいそうな目に合わせたくないなあとなって、180度路線変更。こんな感じになりました。
どうでしょうか?
楽しんでいただけたらうれしいです。




